最終話 「ふたり」
六百四十五



 「検査結果はオールグリーン。精神汚染の兆候もなし。完全なる健康優良児ね」
 
 カルテをめくりながら、リツコは淡々と告げた。
 
 
 
 真っ白な壁に囲まれた病室で、アスカはスツールに座って小さくなっていた。
 
 リツコは胸ポケットから赤ペンを取り出し、カルテに幾つか書き込みをしている。
 
 サインペンの、キュッキュッという筆跡の音だけが、静寂な空間に存在する音の全てだ。
 
 
 
 アスカは、息を殺していた。
 
 
 
 自分から、音を発する勇気が無かった。
 
 ただ、サインペンの乾いた音に、神経を集中させることしか、出来なかった。
 
 リツコは無言で数枚の書類に書き込みを終えると、それをもう一度、上から下まで見直してから、くるりと回してアスカに差し出した。
 
 アスカは、膝の上で硬く握っていた手を慌てて伸ばして、それを受け取る。
 
 
 
 カルテの控えを受け取ったまま、どうしていいか分からず、アスカは固まってしまう。
 
 リツコは壁の時計を見上げて、事も無さげに告げた。
 
 「ま……今日一日は、ここで安静にしていて頂戴。数値上は健康でも、疲労は溜まってるでしょうしね」
 
 そう言うと、そのまま髪の毛を掻き上げてきびすを返し、病室から出て行こうとする。
 
 アスカは、慌ててその背中に声を掛けた。
 
 
 
 「あ……あの、リツコ」
 
 呼び止められて、リツコは首だけ振り向く。
 
 「なに?」
 
 
 
 「その……」
 
 見つめられて、アスカは思わず目を伏せた。
 
 もごもご、と唇だけが動き、言葉は声にならない。
 
 リツコは、じっと……何も言わずに、アスカの口から、言葉が零れるのを、待っている。
 
 アスカはそのまま、落ち着き無く視線を漂わせ……そして、上目遣いにリツコを見上げた。
 
 恐る恐る、といった風情で口を開く。
 
 「……あ……の、」
 
 「………」
 
 「……お……怒らないの?」
 
 
 
 リツコは、アスカの瞳を見た。
 
 アスカは、思わず首を縮めて、目をぎゅっと閉じる。
 
 言ってしまった。
 
 でも、聞かずにおれなかった。
 
 
 
 数秒の間を空けて……
 
 ……リツコが、溜息をつく。
 
 それを耳にして、びくっ、とアスカが身を硬くした。
 
 
 
 「アスカ、あなたね……」
 
 その、口調に。
 
 暖かさが、含まれているような気がして、アスカは顔を伏せたまま、思わず目を開いた。
 
 視界に入るリツコのつま先。
 
 ただそのつま先を見つめるしかないアスカの頭上に、リツコの言葉が続く。
 
 「……あなた、なにか、怒られるようなこと、したの?」
 
 
 
 アスカが、顔を上げた。
 
 
 
 リツコは、苦笑とも取れる表情で、口元を上げて微笑んでいた。
 
 「……だ……って、」
 
 アスカが、掠れた声で、呟いた。
 
 「……わたし……もう、少しで……世界を……」
 
 「そんなもの」
 
 アスカの言葉尻に被せて、リツコが言う。
 
 「あなたが悪いんじゃないわよ。そんなこと思ってる人なんて、誰もいない」
 
 
 
 呆然とするアスカに、リツコは肩を竦めて見せた。
 
 「まぁ……もしも、アスカが悪いんだとすれば……それ以上に、私たち、大人がみんな悪いのよ。あなた以上にね」
 
 「そん……」
 
 そんなことは無い、と言いかけたアスカの顔の前に、リツコは手を広げて続きを制する。
 
 首を振って見せてから、少しだけ両肩を上げて笑った。
 
 「ま、そうね……組織っていうものは、責任をどこかに求めなければいけないわ。そういう意味では、もしかしたら、2〜3日の禁固くらいにはなるかもしれないわね。……でもきっと、そのときには、ミサトや私も、それ以上の禁固になるわよ」
 
 そう言って、リツコはウインクをして見せた。
 
 ぎょっ、とするアスカ。
 
 そのリアクションに、リツコは少し表情を硬くした。
 
 「……なに?」
 
 ぼそ、と尋ねるリツコに、アスカは口を半開きにしたまま、困惑の表情を浮かべる。
 
 「……ウインク?」
 
 「なによ」
 
 「……へたくそ」
 
 「しょうがないでしょ」
 
 少しだけ頬を染めて、リツコはそっぽを向いた。
 
 「ウインクなんて、したことないんだから……」
 
 
 
 リツコが出て行って、病室には、アスカだけが残された。
 
 
 
 病室は八畳ほどの広さで、四方を囲む壁のうちの一面だけが窓になっている。
 
 調度品は、部屋の中央に据えられたベッドと、壁際の小さな棚、2脚のスツールしかない。
 
 窓は嵌め殺しで、開けることは出来ない。
 
 安静、と言われても……リツコがたった今、太鼓判を押したように、体はいたって健康で、何の不調も感じない。
 
 手持ち無沙汰になったアスカは、壁際の棚の開き戸を開けたが、中には何も入っていない。
 
 アスカはそのまま、窓に歩み寄って、その外を見た。
 
 
 
 病室は、ジオフロント内部に面している。
 
 本来だったら、目の前には、広大な森と、地底湖。それと、全天を覆うドームが広がっていたはずだ。
 
 だが、今そこは、まるで怪物が無造作に地面を薙ぎ払い、口から炎を吐いたかのように……地は捲れ、木々は炭となり、ドームは解けて青空が落ちてきそうなほどだった。
 
 
 
 分かっている。
 
 これを、自分がやったという、事実に。
 
 
 
 アスカは、小さく下唇を噛んだ。
 
 ふと、指先の触れていたガラスを見ると、そのガラスにも何箇所か、細かいヒビが入っているのに気付く。
 
 「………」
 
 眉根を寄せて、目を閉じる。
 
 深く、息。
 
 
 
 自動ドアの音がして、アスカは振り返った。
 
 
 
 部屋に入ってきた、紅い瞳の少女。
 
 「アスカ」
 
 少女に呼ばれて、アスカは思わず、身を固くした。
 
 レイは緩やかに、病室の中に入ってくる。
 
 彼女の背後で、ドアが閉まる。
 
 
 
 「アスカ……寝ていなくて、いいの?」
 
 レイが、声を掛ける。
 
 アスカは、ぎこちなく微笑んだ。
 
 「いや、うん……検査して貰ったけど、健康そのものだって」
 
 「そう、……よかった」
 
 レイが、柔らかく、微笑む。
 
 
 
 レイはベッドの横まで歩み寄って、アスカを手招きした。
 
 アスカは、一瞬の躊躇の後、おず……と足を踏み出す。
 
 そうして、レイの隣に来たアスカは、促されるままに、そのへりに腰を下ろした。
 
 横に、レイも腰掛ける。
 
 
 
 二人の間に、沈黙が流れた。
 
 
 
 アスカは、唾を飲み込んだ。
 
 謝らなければ、と、思う。
 
 自分のしでかしたことの大きさを、受け入れなければいけない。
 
 膝の上に置いた掌に、汗をかいているのを感じる。
 
 代わりに、喉はからからに乾いていた。
 
 貼りつく声帯を叱咤して、アスカは、唇を開いた。
 
 
 
 だが、先に声を発したのは、レイだった。
 
 「……ごめんなさい」
 
 その言葉に、アスカは驚いた表情でレイを見た。
 
 レイも、アスカを見る。
 
 視線が、触れ合う。
 
 
 
 「……ごめんなさい、アスカ。……あなたを、苦しめてしまったこと」
 
 「……レイ」
 
 アスカは、慌てたように首を振った。
 
 「そんな……」
 
 そんな。
 
 そんなこと、ない。
 
 
 
 「悪いのは……私よ。そうでしょう? レイが謝ることなんて……」
 
 「いいえ。アスカを追い詰めてしまったのは、私と、碇君だもの」
 
 「………」
 
 「ごめんなさい。……全部、話す」
 
 「……レイ」
 
 「……聞いてくれる? アスカ」
 
 「そ……」
 
 言葉が出ない。
 
 「私たちに……アスカに隠すことなんて、何も無い。
 
 アスカは、大事な……かけがえのない、友達だもの」
 
 
 
 アスカは、目を見開いて、レイの顔を見ていた。
 
 レイも、じっと、アスカを見つめている。
 
 
 
 そうして。
 
 
 
 ……アスカの目から、一粒、涙が零れ落ちた。
 
 
 
 「アスカ……」
 
 「……分かってる」
 
 レイの声に、掠れたアスカの言葉が、重なる。
 
 震える……しかし、温かな、声音。
 
 「分かってる……分かってるよ、レイ」
 
 もう一粒……涙が、頬を伝う。
 
 「……分かってる……のに……」
 
 涙を零しながら、微笑んだ。
 
 
 
 「分かって……る……のに、……アタシが、一人で、……勝手に、落ち込んだんだ。
 
 勝手に……落ち込んで、暴走して……世界を、危険に晒した。
 
 ……全部、アタシのせいだよ」
 
 
 
 「そんなこと、ない」
 
 レイが強い口調で否定する。
 
 アスカは首を振った。
 
 涙は、止まらない。
 
 次の言葉が継げないレイの手を、アスカが握る。
 
 「アスカ……」
 
 「でも……」
 
 声が、震える。
 
 「でも……さ。レイ……ねぇ……聞いて。お願い」
 
 「……アスカ……?」
 
 「アタシ……さ」
 
 「………」
 
 手に、力が籠る。
 
 微笑みが、歪んだ。
 
 「アタ……シ、さ……ちょっと、だけ、嬉しいんだ」
 
 
 
 自分は、いま、どんな顔をしているだろう。
 
 どんな、醜い顔を……しているだろうか。
 
 
 
 でも、話さずには、おれなかった。
 
 レイと、シンジに、聞いてほしかった。
 
 自分の、この……例えようもない、醜い気持ちを。
 
 知って、欲しかった。
 
 
 
 「……非道いヤツ、でしょ……?」
 
 濡れる頬を、拭わない。
 
 自分を、隠さない。
 
 レイは、じっと、アスカの目を、見つめる。
 
 その視線から、逃げない。
 
 
 
 「非道い……よね。それでも……
 
 ……アタシは、嬉しいんだ……
 
 ……だって……
 
 ……マ……
 
 ママ……に……会え……た……か、ら……」
 
 
 
 最後まで、力強く言い切ることができなかった。
 
 嗚咽が、喉の奥からせり上がる。
 
 思わず閉じた目から、ぼろぼろと涙が零れる。
 
 顔を伏せ、蹲るように背中を丸めて、握ったレイの手を額に押し付けた。
 
 肩が、背中が震える。
 
 嗚咽が、次から次へと、アスカを襲った。
 
 
 
 そうだ。
 
 
 
 「非道い……ヤツ……でしょ……アタシ。
 
 ねぇ……レイ……知ってる?
 
 ア……アタ……アタ……シ……」
 
 アタシ、と繰り返して、言葉がもつれる。
 
 声がうまく出ない。
 
 レイは、どんな表情をしているだろう。
 
 とても恐ろしくて、顔が上げられない。
 
 ただ、額につけたレイの手から伝わる温もりに縋って。
 
 必死に……
 
 ……言わなければ、ならないことを……
 
 必死に、口に、する。
 
 
 
 「アタ……ア、アタ、アタシ……
 
 ……な……
 
 な、渚……カヲル……を……殺したんだ」
 
 
 
 言った。
 
 
 
 言ってしまった。
 
 
 
 ……だって……自分の犯した罪は、決して消えはしないのだから。
 
 
 
 「アタ……アタシ、が……
 
 勝手に、自分の……思い込みで。
 
 先走って、殺したんだ……アイツを。
 
 
 
 アイツは……もう、帰って……来ない。
 
 だって……アタシが……こ、殺したんだから。
 
 
 
 でも……
 
 ……でも。
 
 でも、でも、でも……でもさ。
 
 
 
 ア、アタシ、アタシ……
 
 ……こんな、こんな非道いこと、
 
 取り返しの、付かないこと、した、のに。
 
 
 
 でも。
 
 アタシ、ママに、会った。
 
 ママ……
 
 ママ、ママ。
 
 ママに……会っちゃった。
 
 会っちゃったんだよ……!
 
 
 
 アタシ、どうすればいい……?
 
 
 
 悲しいんだ。
 
 渚を、殺して。
 
 凄く……すごく、哀しくて、情けなくて、張り裂けそうなの。
 
 
 
 でも……
 
 
 
 ……嬉しいんだよ……!
 
 
 
 ママに……
 
 ……ママに、会えて、
 
 嬉しいんだよ……!!
 
 
 
 渚を殺した、こんなに非道いヤツ、なのに、
 
 それなのに、
 
 う、嬉しいんだ……ッ!!
 
 
 
 どう……どう、すれば、いいの……?
 
 
 
 アタシ……どうすればいいの……よ……ぉ……ッ!!」
 
 
 
 アスカは、背中を丸めて泣いていた。
 
 レイの手を、両手でぎゅっと握りしめて……。
 
 その、握られたレイの手が、アスカの涙で濡れる。
 
 嗚咽だけが反響する病室で、その震える小さな背中を、レイはただ、抱き締めることしかできなかった。



六百四十六



 アスカが、小さく鼻をすする音が、夕闇の迫った病室に、小さく響く。
 
 
 
 オレンジ色の光が、病室の奥まで伸びて、二人を照らしている。
 
 ジオフロントの天井が完全に融解してしまったために、窓の外を見れば、燃えるような夕焼けを直接望むことができた。
 
 あれから、何時間、経っただろうか?
 
 アスカは、レイの腕の中で、ずっと泣き続けていた。
 
 レイは、その背中を、ただ抱きしめ続けていた。
 
 そうしてようやく、その腕の中で、アスカは落ち着きを取り戻したようだった。
 
 
 
 ずっと蹲る姿勢だったアスカは、耳の奥で骨が軋む音を感じながら、身体を上げた。
 
 自分の両手が、レイの手を握り続けていたことに、今更ながらに気付く。
 
 ゆっくりとその手を開くと、レイの真っ白な手には、アスカが握り続けた跡が、赤く残っていた。
 
 
 
 「……ごめん。取り乱した、ね」
 
 アスカは呟いて、顔を上げた。
 
 何時間も泣く、なんて、前にいつしたのか思い出せないくらい、久し振りのことだった。
 
 「あはは……アタシ、ひどい顔?」
 
 目を擦りながら、アスカが言う。
 
 レイは、微笑んで、小さく首を振った。
 
 「ううん」
 
 「目ぇ、真っ赤でしょ」
 
 「ウサギみたい」
 
 「あはは、そんなカワイイもんじゃ、ないでしょ」
 
 瞼を腫らしながら、アスカも笑う。
 
 
 
 一時期……目の前の少女にだけは負けたくない、と、思った時もあったな……と、アスカは思った。
 
 そんな少女の腕の中で、子供のように何時間も、泣くなんて。
 
 その当時の自分が見たら、なんて思うだろう?
 
 もちろん……同い年の少女の前で泣くという行為に、単純な気恥ずかしさは、ある。
 
 でも、それは。
 
 
 
 悔しさや、情けなさとは無縁の……言うなれば、いま二人を包む夕焼けの美しさのような。
 
 そんな、柔らかな想い、だった。
 
 
 
 アスカは、もう一度だけ鼻をすすると、掌で涙の跡を乱暴に擦り、口を開いた。
 
 「……シンジは?」
 
 アスカの言葉に、レイは、少しだけ表情を曇らせる。
 
 「まだ……L.C.L.に溶けたまま。いま、赤木博士やマヤさんが、サルベージ計画を立ててるわ」
 
 
 
 初号機に、どんな力が働いたのか。
 
 ともかく、巨大なレイの両掌に包まれた初号機は、すぐにシンクロ率を400%超まで高めて、そのままパイロットであるシンジはL.C.L.に溶けてしまった。
 
 シンクロ率が高まった理由は何だったのか?
 
 あくまで仮説ではあるが、それは初号機側からの働きかけであったとの説が、かろうじて、他の意見に比べて僅かながら有力な説だ。
 
 
 
 レイとの邂逅によって、シンジが意識を失ったことは、トウジの報告で分かっている。
 
 その結果、コントロールを失った初号機を落とさないために、鈴原トウジが代わりに操縦桿を握った。
 
 しかし、もともと初号機とのシンクロは、碇シンジと結ばれていたのだ。いくらチルドレンとは言え、自分のパーソナルデータに換装もしていない、ましてシンジとの対応性が抜きんでて高い初号機を、ただ操縦席にいたというだけでコントロールできるなら苦労はしない。
 
 しかし、鈴原トウジは、低いながらも確かにシンクロして見せ、最後に地上に安全に着地して機能停止するまで、なんとかコントロールに成功した。テストでの機動実験すら成功したことのないトウジには、驚異的なことだ。
 
 その事実を説明するためには、トウジ側の強烈な意志の力だけではなく、初号機からのサポートもあったと考えるのが合理的だ。
 
 初号機が、敢えて……トウジとのシンクロを積極的に行い、パイロットからのコントロールを失うことを避けた、としか考えられない。
 
 
 
 その、副産物として、もともとシンクロしていた初号機パイロットである碇シンジとのシンクロ率が、異常なまでに跳ね上がったのではないか、というのが技術部の出した結論だった。
 
 エヴァとパイロットのシンクロについてはまだ不明な点は多く、これで説明が付いているのか、疑問符も多く残る。
 
 だが、ともかく初号機と鈴原トウジがシンクロに成功したこと……その状態で碇シンジとのシンクロは失われていなかったこと……シンクロ率400%超という異常値でありながら初号機が暴走しなかったこと……。
 
 それらの事実を合わせて考察すると、このあたりを落とし所として、むりやり結論付けるしかなかった。
 
 
 
 結果、シンジはL.C.L.に溶けてしまった。
 
 目の前にいたシンジが溶けてしまったのを目の当たりにして、トウジはかなりのショックを受けたようだが、それでもその動揺の中、初号機のコントロールを最後まで失わず、ギリギリ着地まできちんと成功して見せた。
 
 トウジの活躍は、今回の騒動での陰の殊勲と言えた。
 
 
 
 「……そう……心配ね」
 
 アスカが、小さな声で呟く。
 
 「うん……」
 
 レイは頷くが、しかし、その表情に悲壮感はない。
 
 アスカはそんなレイを見て、少しだけ眉を上げた。
 
 「……そのわりに……レイ、心配そうじゃないわね」
 
 「そう……? そんなことない、心配よ、……とても」
 
 「そうだろうけど……何ていうか……落ち着いてる」
 
 
 
 レイは、静かに瞼を閉じた。
 
 「……信じてる、から」
 
 
 
 その言葉は、アスカの胸の中に、すぽん……と、収まった。
 
 予想していた通りの、言葉。
 
 アスカは腕組みをすると、肩を竦めて見せた。
 
 「ふぅん……でも、そんな、割り切れるもん?」
 
 
 
 分かってる。
 
 これから、レイが言う答えも、ちゃんと分かってる。
 
 そうして、レイは、アスカの思う通りの言葉を、口にする。
 
 
 
 「だって……碇君は、絶対に帰ってくるもの。
 
 それ以上に、信じられることなんて、ないもの」
 
 
 
 レイは、本当に強い、と、アスカは静かに思う。
 
 そう……今なら、分かる。
 
 本当の、強さ。
 
 本当の、絆……。
 
 
 
 レイを、
 
 そしてシンジを取り巻く、
 
 本当の、強さ。
 
 
 
 「レイは……強いね」
 
 アスカの言葉に、レイは、小さく首を振った。
 
 「でも、心配なのは本当」
 
 「そりゃ、そうでしょ。どれだけ信じてたって、それとこれとは別だもん。シンジが帰ってくるかどうかの瀬戸際で、心配してないって言ったら、そんときはアタシがアンタを殴るわ」
 
 アスカが微笑んでそう言い、一瞬きょとんとした表情を見せたレイも、遅れて微笑み返した。
 
 
 
 アスカは、ベッドから立ち上がって、腰を伸ばした。
 
 ぼきぼき、と、背中が鳴る。
 
 そのまま脇の筋肉を伸ばしながら、アスカは呟いた。
 
 「まぁ……さ。アタシも、少し、分かる気がする」
 
 アスカは、くるりとレイの方に向き直る。
 
 「実を言えば……さ。アタシも、心配はしてるけど……帰ってこない、なんて、思ってないの。そんなこと、あり得ると思えないもの」
 
 アスカの言葉に、レイも、柔らかく頷いた。



六百四十七



 2日後、初号機のサルベージ計画が実行されることとなった。
 
 使徒との戦いは終わったものの、使徒戦に勝るとも劣らない緊張感が、本部全体を包んでいるのが分かる。
 
 朝から慌ただしく走り回る職員たちを尻目に、レイ、アスカ、トウジの三人は、ケイジの隅に固まって立っていた。
 
 
 
 初号機の頸椎の中に、何本ものケーブルが差し込まれている。
 
 うねうねと蛇のように這うケーブルの隙間で、リツコが簡易テーブルに設置されたパソコンのモニタを覗き込んでいる。
 
 やがて、駆け寄ったミサトと言葉を交わしてから、腰を伸ばして右手を上げた。
 
 「サルベージ計画、スタート」
 
 
 
 アスカが、自分の体を、両手で抱えるように抱いた。
 
 「ちょっと、怖いな……」
 
 アスカの呟きを耳にして、レイがその顔を覗き込む。
 
 「アスカ……大丈夫。碇君は、必ず帰ってくるわ」
 
 アスカを元気づけようとして言ったそのセリフに、しかしアスカは、小さく首を振った。
 
 
 
 「そうじゃ、ないの」
 
 言って、哀しく微笑んだ。
 
 「帰ってきたシンジが……アタシのこと、なんて言うか、怖いの」
 
 
 
 トウジとレイが、無言でアスカの顔を見つめる。
 
 アスカは二人を交互に見て、また視線を落とした。
 
 
 
 「アタシは……サードインパクトを起こして、世界を……人類を、もう少しで破滅させるところだった。
 
 みんなは、アタシのこと誰も責めないし、怒らなかったけど……それは、事実。
 
 それに……
 
 ……アタシは、渚を、殺した。
 
 この手で、殺したんだ。
 
 今更……悔やんでも、悔やんでも……もう、戻ってこない。
 
 あいつは、もういない」
 
 「アスカ……」
 
 「……それを、思うと……ね。
 
 シンジが、アタシのことを何て言うのか……やっぱり、怖い」
 
 
 
 「碇君は、アスカを責めたりしないわ」
 
 レイが、呟く。
 
 アスカはその言葉に微笑んで、また顔を伏せた。
 
 「そう……かもね。でも……
 
 ……責めないかもしれないから……怖いのかも、しれない」
 
 
 
 キーボードを叩くマヤが、緊張を孕んだ声音で報告する。
 
 「自我境界パルス、接続完了」
 
 「了解」
 
 背中からリツコが応える。
 
 モニタには、幾何学的な模様が一定の間隔でグルグルと回転している図が描かれている。
 
 「第一信号を送ります」
 
 「エヴァ、信号を受信。拒絶反応なし」
 
 マコトとシゲルが淡々と報告する。
 
 失敗は、許されない。
 
 人類の未来がどうとか、あるいは世界を救った功労者がどうとか、そういう意味ではなく……碇シンジという一人の子供を救うために、職員全員の心は集中していた。
 
 「続いて、第二、第三信号、送信」
 
 「デストルドー認められません」
 
 「了解。対象をステージ2へ移行」
 
 着々と、チェックリストが埋められていく。
 
 順調と思われた、その時。
 
 
 
 「生命反応……え?」
 
 報告の途中で、マヤの言葉が途切れた。
 
 リツコが視線を向ける。
 
 「どうしたの」
 
 「……おかしいです! 生命反応、もう一つ捕えました」
 
 「え?」
 
 「生命反応、二つあります!」
 
 マヤの叫びに、ミサトが駆け寄った。
 
 「二つ!? どういうこと!?」
 
 「分離停止!」
 
 リツコが叫ぶ。
 
 「現状維持! 状況解析最優先! 急いで!」
 
 「だ……駄目です! 止まりません!」
 
 マヤが悲痛な声で叫ぶ。
 
 
 
 離れた所に立っていたレイたちは、急速に慌ただしくなった状況に、不安そうに視線を彷徨わせた。
 
 「な……なんや? なんか、アクシデントっぽいけど……」
 
 「行ってみましょう」
 
 レイは短くそう言うと、素早く歩き出す。
 
 アスカとトウジも、慌ててその後を追う。
 
 
 
 三人はリツコたちの所に駆け寄ったが、緊張感がその場を満たしていて、声を掛けることができない。
 
 「干渉中止! タンジェントグラフを逆転! 加算数値をゼロに戻して」
 
 リツコの命令にオペレータたちはキーボードを叩くが、シゲルが険しい表情を見せる。
 
 「ダメです、状況進行します。ATフィールド固定。コントロールできません!」
 
 「輪郭形成! モニタアウト。止まりません!」
 
 「くっ……こうなったら……もう、進めてしまうしかないわ」
 
 リツコが眉間にしわを寄せて呟いた。
 
 「サルベージ、ステージ3!」
 
 「容量オーバーです! プラグ、強制排出! 阻止できません!」
 
 
 
 ガシャン! という金属音と共に、初号機の頸椎から、勢いよくプラグが射出された。
 
 その場の全員が、驚いてそれを見上げる。
 
 数本のケーブルを有線で直接繋いだエントリープラグは、空中で踊り、しかしそのケーブルに引きとめられて失速し、落下してきた。
 
 「きゃっ!!」
 
 「うあッ!」
 
 激しい音を立てて、プラグがタラップの上に落下する。引きずられる形となったケーブル群がその場を薙ぎ、職員たちは頭を抱えて蹲った。
 
 ノートパソコンや簡易机が薙ぎ払われて宙を舞ったが、幸いなことに人的被害は無いようだ。
 
 うねりを上げたケーブルが接続を解除されて冷却湖に落ち、水柱が上がる。
 
 その後、遅れて落ちた細いケーブルが水面を叩く音が響き、やがてその場には静寂が舞い降りる。
 
 
 
 タラップの上に横たわる、エントリープラグ。
 
 その、プラグのハッチが、空気の排出音を響かせて勢いよくオープンした。
 
 
 
 ハッチからL.C.L.が外に噴き出し、その場にいた面々の服を濡らした。
 
 呆然と、誰も動くことができない。
 
 噴き出したL.C.L.と一緒に、もんどりうつように人影が二つ、飛び出し、タラップの上に転がった。
 
 
 
 ひしゃげたタラップの上に、L.C.L.の浅い水溜り。
 
 誰も、何も、言わない。
 
 静寂。
 
 
 
 碇シンジが、L.C.L.の水溜りの中に、倒れているのが見える。
 
 頬を浸すように、顔を床につけて、横たわっている。
 
 その瞼が揺れて、シンジがゆっくりと、目を開ける。
 
 
 
 横に、同じように、横たわっている、少年。
 
 その、少年も、ゆっくりと、目を開く。
 
 
 
 二人は、お互いの姿を確認して……
 
 ……そして、柔らかく、微笑みあった。
 
 
 
 「今まで……」
 
 シンジが、小さな声で、呟く。
 
 「……ずっと……ずっと、僕と一緒にいてくれたんだね。
 
 
 
 ありがとう……
 
 ……カヲル君」
 
 
 
 シンジの言葉に、カヲルはもう一度微笑み。
 
 ……そして床に手をついて、ゆっくりと体を起こした。
 
 L.C.L.が髪の毛から流れ落ち、銀色の美しい髪の毛が、その額に張り付く。
 
 「……変な言い方だね、シンジくん」
 
 上体を起こして、カヲルは呟く。
 
 「なんだか、お別れを言われているみたいだよ。
 
 これから、また始まるんだ。
 
 今後ともよろしく……が、この場では適切じゃないかな」
 
 
 
 その、言葉の最後は、しかしカヲルの口から発せられることは無かった。
 
 言い終わるよりも早く、弾丸のような勢いで赤い髪の少女が抱きついたからだ。
 
 
 
 L.C.L.の水溜りに、飛沫を上げて二人は倒れ込む。
 
 アスカの服が、その水を吸って、みるみる赤色になっていく。
 
 
 
 カヲルの頭を両腕で抱え込んだまま、アスカの背中は震えていた。
 
 カヲルの髪を濡らしているのは、L.C.L.だけではなかった。
 
 嗚咽。
 
 皆が注視する中、その場にはただ、掠れたアスカの嗚咽のみが反響していた。
 
 
 
 「……ご……ご……めん……なさ……い……。
 
 ごめん……なさい……
 
 ごめ……ん……なさ……い……
 
 ……ごめん……な……さい……」
 
 
 
 嗚咽の隙間から、アスカの声が漏れる。
 
 全員、何も言わずに、ただ口を噤んで、その言葉を聞いていた。
 
 アスカに頭を抱き締められたまま、カヲルはもう一度床に手をついて、上半身を起こした。
 
 自然と、アスカがカヲルの膝の上で、向い合せに跨っているような体勢となった。
 
 カヲルは、自らの首筋に鼻先をうずめて泣いている少女の頭を、軽くぽんぽん、と掌で叩いた。
 
 
 
 「別に、謝られるようなことは、何も無い。
 
 僕は、ここにいる。
 
 それで、充分じゃないか?」
 
 
 
 カヲルの言葉に、アスカは、おずおずと顔を離した。
 
 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、カヲルの顔を見る。
 
 「……で……も……」
 
 カヲルは、掌でアスカの頬に触れ、穏やかに微笑んだ。
 
 
 
 「言っただろう?
 
 僕は、君の決断を、尊重すると。
 
 
 
 その結果として、僕は、今ここにいる。
 
 君も、こうして、ここにいる。
 
 そして、誰もいま、困っていない。
 
 
 
 それで、いいだろう?」
 
 
 
 その言葉は、まるで高原を吹き抜ける風のように、アスカの髪を揺らした。
 
 
 
 アスカは、
 
 目を見開いて、
 
 カヲルの頬笑みを見つめる。
 
 
 
 なんと、
 
 いう
 
 言葉だろう……!
 
 
 
 アスカの肩に乗っていた、重く苦しい枷が、突き抜けた青空の下で砕け散った。
 
 全身を洗い流す雨が、彼女の心の隙間に染み込んでいく。
 
 この感覚を、覚えている。
 
 これは、二度目。
 
 あの、公園で、シンジの言葉に感動した時と、同じ。
 
 
 
 こんな自分を、確かに救ってくれる。
 
 こんな自分を、確かに信じてくれる。
 
 そんな、言葉……!
 
 
 
 涙で頬が濡れ、
 
 L.C.L.に浸かって髪の毛も洋服もぐしゃぐしゃ。
 
 しかし、アスカは笑った。
 
 微笑みが、体の奥から込み上がってきて、抑えられなかった。
 
 
 
 涙は、止まらない。
 
 でも、その涙は、嫌いじゃなかった。
 
 傍から見て、どんなみっともない格好をしているだろう?
 
 でも、いい。
 
 いいんだ。
 
 だって……
 
 ……こんなに、嬉しいんだから……!
 
 
 
 カヲルは、そんなアスカの表情を見て、微笑んだ。
 
 「いい、笑顔をするね」
 
 「……そ……そう?」
 
 照れて赤くなるアスカの脇に手を入れて、カヲルは彼女の体を持ち上げて自分の上からどかし、すぐ横に座らせた。
 
 水溜りにしゃがむような体勢になったアスカの横で、カヲルは腰を伸ばして立ち上がる。
 
 「でも、笑ってくれて、よかったよ」
 
 満面の、笑みで。
 
 ちょうど、腰のあたりが、アスカの顔くらいの、高さで。
 
 
 
 「へ……」
 
 
 
 「ん? どうした?」
 
 カヲルが、屈託なく笑う。
 
 アスカは、ぷるぷると肩を震わせて、俯く。
 
 
 
 下を向くアスカの顔は、真っ赤だ。
 
 その、拳が、握られ……
 
 
 
 「……なんか着なさいよ、バカッ!!」
 
 
 
 その鉄拳が、カヲルの股間にクリーンヒットしたのだった。
 
 
 
六百四十八



 二人に対してすぐに行われた簡易検査では、健康上の問題は特に無いとされたものの、念のために精密検査は行うこととなり、シンジとカヲルはベッドを並べて病室に収容されていた。
 
 股間を抱えて悶絶して蹲るという、非常に珍しい姿を見せたカヲルも、幸いにもいろんな意味で後遺症などは無かったようだ。
 
 先ほどまでリツコとマヤが二人の脳波チェックなどをしていたのだが、いまはそれも終わり二人だけが残されていた。
 
 
 
 「……初号機の中にいたのは、碇ユイではなくて、彼女のコピーだったんだよ」
 
 ベッドの上で上半身を起こしていたカヲルが、言う。
 
 同じような姿勢で座るシンジが、カヲルの顔を見返した。
 
 
 
 「コピー?」
 
 「そう。11年前の初号機接触実験で、碇ユイは、死んだんだ。碇ゲンドウも、赤木リツコも、他のスタッフも……誰もが、碇ユイの魂がコアに移植されたものと勘違いした。
 
 でも、実際には、違う。あそこにあったのはコピーであり、性格をなぞったプログラムでしか、無い」
 
 
 
 シンジの脳裏に、今の説明を彷彿とさせるエピソードが思い出された。
 
 ……参号機の、機動実験。
 
 あの時は、バルディエルによる浸食があり、本来の機動実験は行われなかったに等しかった。そのために今まで忘れていたが……確か、あの時、参号機のコアにはトウジの妹であるミドリのパーソナルデータがコピーされていたと、あとで加持から聞いていた。
 
 ミドリの命を危険に晒さなくても、プログラムによる人格のコピーで、エヴァのコアは起動できる。
 
 それは、その証左だったはずだ。
 
 そしてその技術は、決して近年になって確立したものではない。なぜなら、既に、MAGIに赤木ナオコの人格がコピーされているからだ。
 
 
 
 「技術責任者である赤木リツコ博士が気が付かなかったのは、接触実験の根幹を築いたのが赤木ナオコだったからだ。
 
 状況だけを見れば、碇ユイの肉体からは精神が消え、初号機のコアには精神がある。それは、魂が移動したかのように見えただろう。だが、実際には、コアへの人格のコピーと、被験者の死亡という二つの事象が、同時に発生したにすぎない」
 
 「………」
 
 「零号機も、そうだよ」
 
 カヲルが続ける。
 
 「零号機のコアにいるのは、アダム本体じゃない。それは、分かっているよね?」
 
 そうだ、とシンジは思う。
 
 アダム本体が、ゲンドウの手の甲にいるのを、シンジはこの目で見ている。
 
 零号機のコアの中にいるのがアダム本体だとしたら、あのアダムは偽物ということになってしまうではないか。
 
 「零号機の中にいたのも、アダムのパーソナルデータをコピーしたプログラムに、過ぎないんだよ」
 
 カヲルが、穏やかに告げる。
 
 
 
 「そう……だったんだ」
 
 シンジは、小さな声で、呟いた。
 
 
 
 幼い頃の、朧げな、記憶。
 
 ユイに連れられて、機動実験を見学したあの日、目の前で起こった、事故。
 
 ……あの時、母は死んだと聞かされ、長い間それを信じていた。そして前回の人生で、母は初号機の中にいると考えを改め……そして今回、また再び、最初の認識に立ちかえった。
 
 状況は何も変わっていない……それなのに、母の死に、二回立ち会ったような喪失感が、ある。
 
 
 
 あの時、ユイは、なぜ自分を実験棟へ連れて行ったのだろう。
 
 ユイは、あの機動実験を推進していた中心技術者の一人だ。実験失敗によって自らが死ぬ可能性は、十分に予見できていたはず。
 
 その可能性がありながら、敢えて自分をその場に立ち会わせた理由は、何だったのだろうか。
 
 当人の命が失われて久しい今となっては、もうその裡は知りようもない。
 
 
 
 ……ゲンドウは、碇ユイがコアの中にいると、信じていた。
 
 だからこそ、その魂と再び邂逅するために生きていた筈だ。
 
 既にこの世に碇ユイがいない、と知っていたら、物語は違うストーリーを描いていただろうか。
 
 
 
 ゲンドウは、碇ユイの意志で、再び時間を逆行した、と言っていた。
 
 それは、コピーされた碇ユイの意思だったのだろうか?
 
 そもそも、本物の碇ユイと、コピーである碇ユイに、違いがあると言えるのか。
 
 全てが同じなら、同じものなのではないのか。
 
 ……だが、その考え方には、違和感を覚える。
 
 なぜなら、どうしたって……一つの命は、その連続性を失って、この世界から確かに消えていたのだから。
 
 全く同じものがこの世に存在していたとしても、それは「そっくりな何か」であって、同じものではない。
 
 綾波レイが、たった一人しか存在しないのと、同じように。
 
 
 
 碇ゲンドウが時間を逆行してきたのは、まぎれもない事実。
 
 そして、彼の言葉を信じるならば、その因果を導いたのは、ユイだ。
 
 プログラムであるコピーのユイに、その力があるとは、信じ難い。
 
 いや、この世の万物に、そんな力があるとは思い難いのも事実なのだが……。
 
 
 
 ユイは、機動実験で死んで、神となったのだろうか?
 
 もはや、それをシンジが知る術は、無い。
 
 シンジは目を瞑り……そして、開く。
 
 カヲルの顔を、見た。
 
 
 
 「じゃあ……弐号機も……?」
 
 シンジの疑問は、当然だ。零号機も初号機も参号機もコピーだというのならば、弐号機も同じだと考えるのは、自然な流れだろう。
 
 しかし、カヲルは、首を振った。
 
 シンジは眉を上げる。
 
 「……違うの?」
 
 「よく思い出してみるといい。
 
 初号機も、零号機も、何度か暴走しているよね」
 
 「うん……」
 
 「弐号機は? 一度も、暴走したことが無い」
 
 「……そう……だね……。言われてみれば……」
 
 
 
 そう、確かに、弐号機は、ただの一度も暴走していない。
 
 前回の最後……量産機の群れに蹂躙された時など、暴走してもいいようなシチュエーションだったはずだが、それでも弐号機は、アスカのコントロール下にあり、アスカを助け続けた。
 
 言われるまで、この違いには気が付かなかった。
 
 
 
 「それを、零号機と初号機が不安定で、弐号機が正式タイプだからと言ってしまうのは、簡単なことだ。
 
 でも、実際のところは、違う。
 
 弐号機だけの、他の機体との完全なる、違い……。
 
 ……それは、弐号機だけが、本物の魂を持っている、ということだよ」
 
 
 
 「……本物の……」
 
 
 
 「惣流・キョウコ・ツェペリン……惣流さんの母親の魂さ。
 
 彼女は弐号機接触実験の結果、廃人のようになってしまった。
 
 でも、それは、魂が弐号機の方に移ってしまったからだ。抜け殻になってしまったんだね。
 
 おかげで……惣流さんは、母親に拒絶されたと思ってトラウマになり、苦労したみたいだけど……あれは、もう、彼女の母親じゃあなかった。
 
 彼女の母親は、エヴァの中に、いつでもちゃんと、いたんだ」
 
 
 
 「そうか……」
 
 シンジが、噛み締めるように、呟く。
 
 「……そうだったんだ」
 
 ……アスカの言う、弐号機こそが最強という言葉も、間違いではなかった。
 
 それこそ、アスカにとっては、かけがえのない……
 
 ……他に代わりなど無い、本当に、世界最強の機体だったのだ。
 
 
 
 「じゃあ……最後に、サードインパクトを止めたのは……弐号機の中にいた、アスカのお母さん?」
 
 シンジの質問に、カヲルは肩を竦めて見せた。
 
 「そうだよ」
 
 そして、微笑む。
 
 
 
 「だって、母親ってものは……自分の子供が道を誤りそうになったら、諭して止めるものなんだろう?
 
 彼女が、あのまま惣流さんを放っておくはずがない。
 
 だって……
 
 母親なんだからね」



六百四十九



 本部の展望デッキで、リツコとミサトは並んでコーヒーを飲んでいた。
 
 
 
 ジオフロントを見渡す全面ガラスにはひびや割れが目立ち、床板も剥がれて足元が危なかったが、この場所は業務と基本的に関係が無いため、復旧は後回しだ。
 
 デッキ自体も現在は一時休業中だ。二人が飲んでいるコーヒーは、わざわざ数日前に、リツコが私物のコーヒーメーカーをこの場所に持ち込んだおかげで、ここで飲める唯一の代物だった。
 
 
 
 「ゼーレの部屋は、もぬけの殻だったそうよ」
 
 外を眺めながら言うリツコの言葉に、ミサトは驚いた表情を浮かべた。
 
 「逃げたってこと?」
 
 「さぁ……」
 
 言って、リツコはコーヒーをすする。
 
 
 
 「って言うか……場所、よく分かったわね。確認したの、誰よ」
 
 「今までは、情報がきっちり隠蔽されてたから、分からなかったけどね。家主がいなくなってしまえば、いろいろセキュリティにも問題が出てくるものよ。あとは、MAGIがあれば大丈夫……今回は、他のMAGIタイプも何基か使用したし」
 
 「ふぅん……で、え? だから、逃げたってこと?」
 
 「公式では、不明」
 
 「公式では……?」
 
 「服だの皮下機構だの、いろいろ残骸が散らばってたそうよ。だから、まぁ……溶けちゃったんじゃないの?」
 
 あっさりとそう告げるリツコに、ミサトは目をむく。
 
 「溶けちゃったって……」
 
 「自分たちだけは、補完計画に乗れたってこと、かしらね」
 
 
 
 とはいえ、彼らの計画とはまるで違う結末になった。
 
 補完計画とは、人類が溶け合い、境界をなくし、一つに混ざり合うこと。
 
 だが……人類は、溶けることなく、こうして踏み止まって生活をしている。
 
 
 
 彼らだけが、溶けたとして、それは、彼らの望んだ結末ではないだろう。
 
 ゼーレの老人だけが一つになっても、それは何にもならない。
 
 彼らの計画は、人類を巻き込まなくては成立しないのだ。
 
 
 
 だが、彼らは、溶けることを望んでしまった。
 
 それを妄執と、斬って捨てるのは、簡単なことだ。
 
 しかし……彼らだって、この結末はある程度、予想できていたのではないか?
 
 彼らの計画が、失敗と言っていい結末を迎えるにあたって……それでも、自分たちだけでも次のステージを目指そうとするそのありようは、滑稽だが笑えない。
 
 
 
 「リツコ……こんなこと、私に話して、いいの?」
 
 ミサトの言葉に、リツコは思考を現実に引き戻した。
 
 ミサトはカップのコーヒーをくゆらせながら、小さな声で、呟く。
 
 「私と、アンタじゃ……いろいろ、知ることのできる機密のレベルも、結構違うみたいだし、さ」
 
 
 
 「いまさら」
 
 言いながら、リツコはカップのコーヒーをすすった。
 
 「……隠し事も、謀り事も、当分ごめんね」
 
 
 
 コーヒーの茶色い水面に、自分の顔が揺らめいて映る。
 
 いま、自分は、どんな表情をしているだろうか?
 
 波紋を通してしか、見ることができないのは、心だって同じだ。
 
 
 
 「……碇司令も、死んでしまったしね」
 
 そう言って、リツコはカップに残ったコーヒーをあおった。
 
 カウンターに、タン! と、空になったカップを置く。
 
 
 
 「……リツコ」
 
 ミサトの声には応えず、リツコはスツールの低い背凭れに腰を預けて、小さく伸びをした。
 
 はぁ、とため息を漏らす。
 
 
 
 「……猫でも、飼おうかしら」



六百五十



 「はぁ〜……まさか、アンタが未来から来たとはねぇ……」
 
 アスカが、ため息とともに、言う。
 
 
 
 病院内の渡り廊下のちょうど中央に、観葉植物の鉢植えに挟まれた小さなベンチがあり、そこにアスカ、シンジ、レイの三人が並んで腰かけていた。
 
 廊下の両側は一面ガラス張りで、外には夜景が広がっている。
 
 昼間は見舞客や患者などもそれなりに多く、この渡り廊下も活気があるのだが、既に消灯も過ぎたこの時間では三人のほかの人影は無い。
 
 
 
 シンジが掻い摘んで説明した自らの出自に対しての、アスカの反応が先ほどの言葉だった。
 
 アスカはベンチに座ったまま、ぶらぶらと交互に足を揺らしている。
 
 
 
 「アスカ……あの……信じたの?」
 
 おずおず、シンジが尋ねた。
 
 その声音は、当惑している。
 
 ……アスカを呼び出して、この場で秘密を語るとき、シンジは非常に緊張していた。信じて貰えるかどうかも五分五分だと思っていたほどだ。
 
 それを、まるで夕食のメニューを確認したかのような、あっけない反応をされては、誰だって戸惑う。
 
 自分の言い方が悪くて、ちゃんと内容が伝わらなかったのではないか、と思ってしまうほどに。
 
 
 
 「信じるも信じないも、ないじゃん」
 
 アスカはシンジの顔を見て、言う。
 
 「結局さ……他に、それより説得力がある説明なんて、考えつかないもの。……それとも、ナニ? ウソなの?」
 
 「う、嘘じゃないよ」
 
 アスカに睨まれて、シンジは慌てて両手を振る。
 
 アスカは、つんと視線を逸らせた。
 
 「じゃ、いいじゃない、別に」
 
 
 
 シンジの言う通り、聞く人が聞けば、とても信じられない内容だった。
 
 未来から戻ってきて、もう一度やり直す……そんな荒唐無稽なこと、実際にはアスカだって、普通なら信じられない。
 
 いまだって、科学的・物理法則的には、絶対にあり得ないことだと、感じている。
 
 
 
 でも、それが何だ?
 
 
 
 シンジの言葉を聞いて、疑念は浮かばなかった。
 
 内容そのものよりも、「シンジが真実を述べている」と感じた、その事実が、自分にとっては最も信じられることだった。
 
 シンジは、本気で、本当に、未来から来たと告白している。
 
 だったら、それは真実なのだ。
 
 
 
 今まで秘密にしてきた心情も、理解できた。
 
 これから起こることを知っているという、事実。
 
 それが非常に危険なことだというのも分かるし……それに、今日の自分がシンジを信じることが出来ても、一週間前の自分も同じようにシンジの言葉を全て信じたかどうかなんて、誰にも分からない。
 
 
 
 「ごめんなさい……アスカ。秘密にしていて」
 
 レイが、静かな声で、呟いた。
 
 アスカは首を振る。
 
 「そんなの……ホントに、気にしないで」
 
 「アスカ……」
 
 「自分だったら、って思うと……アタシだって、秘密にしたかもね。それで、どうこう言う気は無いわ」
 
 それは、本心だ。
 
 
 
 窓の外では、サーチライトの明かりが煌々と闇を照らす。
 
 昼間は荒れ果て、打ち捨てられた大地に見えたジオフロントにも、夜になると復旧作業に当たる数多くの工事車両やクレーンの明かりが絶え間なく瞬いている。
 
 時間は、動いている。
 
 
 
 「……この先、どうなるの?」
 
 アスカの呟きに、シンジは、小さくかぶりを振った。
 
 「さぁ……もう、この先は、分からないよ、僕にも」
 
 「ふぅん……」
 
 シンジの答えに、アスカは小さく返事をする。
 
 
 
 そして、視線を、前に向けたまま。
 
 
 
 「ま……アンタは、レイと一緒に暮らすんでしょ? どーせ」
 
 アスカが、にやりとして、言い放った。
 
 
 
 「ん……なっ」
 
 シンジが、顔を真っ赤にして、思わず立ち上がった。
 
 そのまま、勢いで観葉植物の鉢を蹴ってしまい、倒れて土が零れ落ちる。
 
 「あ、わ、わっ」
 
 「ナニやってんのよ」
 
 床に散らばった土を慌てて集めるシンジの背中に、アスカの呆れた声がかかる。
 
 顔だけアスカの方に振り向きながら、シンジが頬を染めて抗議する。
 
 「ア、アスカが、急に変なこと言うからだろ!」
 
 「アンタねぇ……いい加減、耐性つけなさいよ。レイを見なさい、全然平静だから」
 
 アスカが親指でレイを示すと、レイはきょとんとした表情で二人を見返す。
 
 「……なにが?」
 
 「いや、だから……レイとシンジが、一緒に住むんでしょ? って話」
 
 「うん」
 
 即答。
 
 「………」
 
 「………」
 
 首を傾げる、レイ。
 
 
 
 「……何か、おかしなこと、言った?」
 
 「……いや、いい……アタシが悪かった」
 
 溜息をついて、アスカは立ち上がった。
 
 
 
 零れた土を拾い集めているシンジを横目に、アスカは髪の毛をガシガシと掻いた。
 
 「使徒はもう来ないし、チルドレンも、きっともう、お役御免よね……。
 
 この先、アタシたち、どうなるのかなぁ……ほんと……」



六百五十一



 「それ……痛くないの?」
 
 ミサトが、加持の手首を指差して言う。
 
 
 
 ミサトと並んで、ルノーのボンネットに腰を下ろしていた加持は、言われて、ポケットに突っ込んでいた右手を出した。
 
 手首から先は綺麗に無くなっていて、縫合後も見当たらない。まさに、初めからそこに手など無かったかのように、つるりと丸く途切れている。
 
 
 
 「痛みは、無い」
 
 加持は、顔の高さまでその手首を上げて笑う。
 
 「ま、利き腕だから、不便はいろいろあるけどな」
 
 
 
 小高い丘の上の駐車場で、ミサトと加持は、並んでルノーのボンネットに腰かけていた。
 
 ここに来るまでも、道路は何箇所かひび割れていたり崩落があったりしたが、それでも車一台分の余裕はあって、なんとかドライブに支障は無かった。
 
 別に、この場所に用があったわけでもなかったのだが、なんとなく二人で出掛けたくて、加持を誘ってここまで来たのだ。
 
 もっとも、呼び出しがあれば30分でジオフロントまで戻れる距離なのは変わらない。
 
 
 
 「……触ってみても、いい?」
 
 ミサトの言葉に、加持は肩を竦めた。
 
 「どうぞ、ご自由に」
 
 言われて、ミサトは手を伸ばして、手首の切断面に触れる。
 
 「わ……つっるつる」
 
 「自分でも、最初からここに手なんか無かったんじゃないか、って思うよ」
 
 加持も苦笑する。
 
 
 
 「あのヒゲ親父も、最後にとんでもないことしてくれたもんね」
 
 加持の手首を撫でながら、ミサトがぶつぶつと愚痴った。
 
 加持は眉を寄せて、肩を竦めてみせた。
 
 「まぁ……俺が、あそこに割って入らなけりゃよかったんだしな。こればっかりは時の運ってやつさ」
 
 「そんなの……私はその場にいなかったから分からないけど、間一髪だったんでしょ? 加持君が間に入ってくれなかったら、レイやシンちゃんはどうなってたか……」
 
 「いや……どうかな。あの場の判断が誤っていたとは全く思わんが、割って入らなくても何とかなった気がするよ」
 
 
 
 それは、結局のところ、すんでのところで食い止めたのが初号機だったからだ。
 
 自分がしたことは、一瞬の時間稼ぎに過ぎず、二人とも最後はゲンドウに追い詰められていた。それを救ったのは、初号機だ。
 
 加持が割って入らなければ、代わりにあのタイミングで初号機が助けてくれただけなのではないか、と思えてならない。
 
 
 
 初号機は、何故シンジを助けたのだろう?
 
 自分の知識では、初号機の中には、碇ユイの魂が入っていたはずだ。
 
 死ぬ間際のゲンドウの言葉を思い返す。何を言っているのか、ゲンドウとシンジにしか理解できていないような言葉も多々あったが、ともかく碇ユイはゲンドウの味方であるかのようなことを仄めかしていたはずだ。
 
 ゲンドウの思い違いか?
 
 それとも……
 
 (いずれにしても、真相は闇の中だ)
 
 遠くの山稜を眺めながら、加持は心の中で呟く。
 
 
 
 視線を感じて、加持はミサトに視線を向けた。
 
 黙っている加持を、ミサトはじっと見つめている。
 
 その心配そうな顔を見て、加持は苦笑した。
 
 
 
 「そんな顔するなよ。……まぁ、そうだな……この手じゃ、もう裏家業ってワケにもいかない。まぁスイカの世話くらいは片手だって出来るし、いっそ農家になるのもいいかもなぁ」
 
 大袈裟に伸びをしながら、吹っ切るように言う。
 
 
 
 その背中を、ミサトの掌が高らかな音を立てて叩いた。
 
 ぱぁん、という小気味のいい音が、吹く風を巻いて千切れる。
 
 
 
 「うぉっ」
 
 思わず腰を浮かせて、加持はルノーのボンネットから落ちる。
 
 二歩ほど勢いで前にのめってから立ち止まり、驚いた表情でミサトに振り返った。
 
 
 
 ミサトも、いつの間にかボンネットから降りていた。
 
 両足を踏みしめて、腰に手を当て、仁王立ちになりながら、加持を睨みつけている。
 
 
 
 「馬鹿言ってんじゃないわよ」
 
 ミサトは、その豊かな胸を反らして加持に言葉を叩きつけた。
 
 「これで、全部終わりだと思ってんの?
 
 ゼーレの残党どもや、第三国のNERV組織は、ここぞとばかりにNERV本部を狙ってくるわよ。
 
 人類の未来なんかより、保身と縄張り争いのほうにご執心って輩はいくらでもいるんだから。そんなの、加持君のほうが分かってるでしょ?」
 
 
 
 加持は、呆気にとられたような表情で、ミサトを見返す。
 
 風が吹き、ミサトの長い髪が乱れてなびいたが、その瞳の力は変わらない。
 
 
 
 「人間相手の戦いは、むしろ、これからが本番よ。
 
 楽隠居なんて、許されると思ってんの?
 
 アンタには、アンタにしかできないことが山程あるんだから、キリキリ働いてもらうわよ!」
 
 言い切って、ミサトは、ふんっと鼻を鳴らす。
 
 
 
 気が付くと、加持の口許に、笑みが浮かんでいた。
 
 腹の底から、笑いがこみ上げて来る気がした。
 
 そうだ……。
 
 
 
 この女は、こんな女だった。
 
 いつの間にか、お互い大人になってしまって、様々な場面で空気を読んだり身を引く技術を覚えたりしたものだが、学生時代の葛城ミサトは、人の言うことを聞かずに他人をどんどん自分のペースに巻き込むようなバイタリティに溢れていた。
 
 
 
 自分が愛したのは、そんなところも全部、ひっくるめてのことだったじゃないか。
 
 
 
 加持は、後頭部をがしがしと掻いた。
 
 「分かった?」
 
 ミサトの声に、加持は肩を竦めて見せる。
 
 「へいへい……分かったよ」
 
 苦笑しながら言うと、ミサトも笑って「よし」と応えた。
 
 
 
 その笑顔は、大人の笑顔で、ミサトが敢えて過去の自分を演じていることもよく分かった。
 
 そうだ、
 
 俺たちは大人で、
 
 でも、こどもを卒業することも出来ない。
 
 
 
 子供たちのように、自分に正直に。
 
 大人らしくずる賢く、でももう一歩、馬鹿になって生きていこう。
 
 
 
 それが、この女となら、出来る気がする。



六百五十二



 官制室に集められたチルドレンを前に、リツコは両手をポケットに突っ込んだまま、淡々と告示した。
 
 「……と、言うわけで……みんなはこのままNERVに残るもよし、一般の中学生に戻るもよし。それは、あなたたち自身の判断に、任せるわ」
 
 
 
 五人は、顔を見合わせた。
 
 そんなことを急に言われても、戸惑ってしまう。
 
 
 
 「あの」と、シンジが手を挙げる。
 
 「一般の中学生に戻るって……完全に、NERVとは何の関わりも無い、本当にただの中学生に戻るって事ですか?」
 
 リツコは視線をシンジにやると、思案するように顎を上に向けた。
 
 「いえ……そうね、警備は就けさせてもらうわ。あなたたちを狙ってる連中はゼロではないでしょうし……少なからず機密を知っているあなたたちが、どっかの誰かに捕まっちゃうのは、私たちとしても都合が悪いの。
 
 そういう意味では、本当の一般人に戻るのは無理ね。なんだかんだと定時連絡はさせてもらうし、警備は基本的に24時間体制だと考えてもらったほうがいいし」
 
 
 
 まぁ……それは、そうだろう。
 
 シンジたちとしても、急に放り出されるのは逆に怖い。
 
 腕組みをしたアスカが、別の質問をする。
 
 「じゃ、NERVに残るってのは? 使徒はもうこないんでしょ。残ってなにすんの」
 
 「基本的には、上級職員扱いね。今までのような危険給は出ないけれど、定給は出るし、職員施設も使っていい。
 
 まぁタダ飯を食わせるほど余裕もないし、あなたたちもそれは逆に嫌でしょう? なにか、事務仕事とか、研究の手伝いとか、他の職員の補佐的な仕事はしてもらうことになると思うけど。
 
 あとは……そうね、実験には引き続き協力をお願いすることになるわね。確かに戦いはもう終わったけれど、純粋な研究対象としてA.T.フィールドについてはまだまだ調べることが山程あるし、シンクロ率と精神の関連性も未解決なことが多い。このあたり、研究を進めれば医療分野への応用が利く気がするしね。
 
 エヴァだって、一応動く状態のが二機あるし、封印するわけにもいかないから。残るなら起動は出来るようにしておいてほしいし、そうなると起動実験は定期的に行ってもらわなきゃいけない。
 
 まぁ……これはお願いであって、強制はしないけれど」
 
 
 
 強制はしない、
 
 選択は任せる、
 
 そう言っておきながら、この情報量の差はどうか。
 
 どう考えても、リツコは子供たちに残ってもらいたいのだろうし、それを隠蔽する気もないようだ。
 
 
 
 とは言っても、この場で即答することはできない。
 
 子供たちは、腕を組んで考え込んでしまった。



六百五十三



 「……それで、結局、全員がNERVに残ることを決断してくれました」
 
 
 
 執務室でミサトの報告を聞いた冬月は、小さく頷いて見せた。
 
 だだ広い床面積の中央に、机がひとつ置かれただけの部屋は、かつて碇ゲンドウが総司令として使用していた執務室だ。
 
 あのころ、その机について座っていたゲンドウの傍らに、常に一定の距離を保って立ち続けていた男は、いま、その革張りのクッションに腰を下ろしている。
 
 
 
 とは言っても、明らかに居心地は悪そうだった。
 
 ミサトを部屋に招き入れた際にはその椅子に座っていた冬月も、すぐに立ち上がって歩き出してしまう。
 
 まるで、この部屋では立っているのが自分の役目だ、と言わんばかりだ。
 
 
 
 そんな冬月の様子に、表情は能面のように硬くしながらも、心の内側では吹き出しそうになっているミサトだ。
 
 
 
 執務机とミサトの立つ位置の、ちょうど真ん中辺りまで歩いてきた冬月は、立ち止まり……鼻の頭を掻いて、ミサトの方を向く。
 
 
 
 「しかし……いいのかね」
 
 「はい? 何でしょうか?」
 
 冬月の言葉に、ミサトが首を傾げる。
 
 冬月は困ったように眉を寄せた。
 
 「いや……君たちから見れば、私は碇と同類、いわば敵側の立場ではないかね。
 
 私自身、碇やゼーレの考えはある程度把握していながら、特にそれに抗したわけではない。
 
 もしも天秤が逆に傾いて人類補完計画が成功していたならば、私も世界に終焉に手を貸した罪人であろう。
 
 正直……いま、ここにこうして、NERV総司令としてこの席に座ることには、いささか抵抗があるのだがな」
 
 
 
 冬月の言葉は表面的なものではなく、おそらく本心だろう。
 
 彼はゲンドウやキールと違い、積極的に人類に仇なしたわけではなく、どちらかというと個人的な感情の果てに、流れに追随してきたに過ぎない。
 
 そういう意味ではゲンドウのように、死の淵においてなお「人類など滅びてもいいと思っている」というような、言ってしまえばブレない「芯」のような信念があるわけではなく、状況さえ許せば人類を滅亡させたくなどなかった、という思いもまた、嘘ではないのだ。
 
 だが、だからと言って、弁解や命乞いをするような性格ではない。そこは、自分自身の犯した罪とその贖罪について、誰よりも厳しく律することの出来る男だ。
 
 だからこそ、現在の状況……傍から見れば、まるで上司の死に伴って出世を果たしたような構図に、納得がいかない思いがあるに違いない。
 
 
 
 「君たちの決めた人事だ、私としては、従うよりないが、しかし……」
 
 なおも、苦しそうな声音で言葉を続ける冬月に、ミサトは笑った。
 
 
 
 「冬月司令」
 
 「……なにかね」
 
 「むしろ、司令はこれからが大変ですよ」
 
 
 
 ミサトの言葉に、冬月は少しだけ眉を上げた。
 
 ミサトは楽しそうに笑う。
 
 「使徒相手ならば、戦っていればよかった。これから、相手は人間であり、政治であり、世論です。
 
 罪の重さを考えられるのであれば、司令には正に、その椅子に偉そうに座っていただいて、さまざまな攻撃の矢面に立っていただかなければなりません。
 
 それこそが、司令の贖罪なのだと思います」
 
 
 
 ミサトの言葉に、冬月は苦笑した。
 
 「はは……そうかね」
 
 冬月はきびすを返すと、机の周りをぐるりと回って、革の椅子を引く。
 
 そこにゆっくりと腰を下ろすと、机の上に両肘を付いて、口元で指を合わせた。
 
 
 
 「では、せいぜい司令らしく振舞うとしよう」
 
 その冬月のポーズに、ミサトは苦笑した。
 
 「司令……なにも、格好を真似ることはないかと」
 
 「なに、私にはあの男のような風格が無いからな。まずは見た目から入らんことには」
 
 
 
 机の隅には、シンプルな写真立てがぽつんと置いてある。
 
 それは、幼い女の子の写真だった。



六百五十四



 「へぇぇ……それって、パイロットとは違うの?」
 
 自室のベッドの上に座って、ヒカリは膝の上に置いた大きなクッションに体重を預けながら、受話器の向こうに問い掛けた。
 
 時刻はすでに夜の十一時を回っており、普段の彼女ならば電話など控える時間帯だ。
 
 だが、ヒカリは高揚していた。電話口の向こうにいる少年は最近忙しかったし、自分もかなり深いシェルターに避難していて連絡の取れる状態ではなかった。ずいぶんと久し振りの会話であり、なんならこのまま夜を徹して話し続けてもいい、とさえ思える。
 
 
 
 『う〜ん、まぁ……ワイも詳しいことはよぅ分からんのやけど、公務員みたいなモンやないかな』
 
 少年の楽観的な口調に、ヒカリは吹き出してしまう。
 
 自分自身の待遇だ。ヒカリだったら、詳しいことを全部聞いて、三日三晩考えないととても決断できないし、気持ち悪くて仕方が無いだろう。
 
 それは慎重と言えば聞こえがいいが、硬直というか柔軟性に欠けるという自覚もあり、トウジのような身軽さはある意味頼もしくも思えるのだった。
 
 「よく、決められたね。一般人に戻ってもいい、って言われたんでしょ?」
 
 『ああ、う〜ん、いいんちょは戻って欲しかったか?』
 
 「えっ」
 
 虚を突かれて、咄嗟に言葉が出ない。
 
 
 
 少年……鈴原トウジに、一般人に戻って欲しかったかどうか。
 
 それはもしかしたら、考えるのを無意識に避けてきた問題かもしれない。
 
 
 
 それは彼自身の人生の進路であり、自分に口を挟む権利などない。
 
 賢しい顔をしてそう告げるのは簡単だが、それは本心ではない。
 
 実際にはどうだろう?
 
 自分でも、こうとはっきり、白黒別れる明快な結論は見出せない。
 
 だが……もちろん、トウジに自分と同じ、ごく普通の中学生に戻ってもらい、毎日待ち合わせて一緒に通学したり、夕焼けの中を一緒に帰宅したり。
 
 せいぜい喧嘩くらいのイベントしか起こらない、平和な恋人同士らしいことをしてみたい、という感情が無いなどとは、もちろん言えない。
 
 
 
 だが、それを即座に口に出来るほど、電話とは相手の顔が見えるツールではない。
 
 ヒカリが言葉を継げずに沈黙していると、それを単に応える気が無いと受け取ったらしいトウジが、そのまま自分で言葉を続けた。
 
 
 
 『なんで……て言うたら、まぁ、プライドっちゅうか……。
 
 ワイ、結局、何もせぇへんかったからな。
 
 このまま辞めたら、ホンマ、何のために決意してチルドレンになったんか、分からんから』
 
 
 
 その、ある意味屈託の無い意見に、ヒカリはお腹の中が、すっと落ち着く感じがした。
 
 そうだ……だいたい、悩んだって仕方が無い。
 
 トウジが、後悔しながら辞めたって、それはきっと、幸せな未来に繋がっているわけではないのだ。
 
 
 
 「うん……分かった」
 
 ヒカリは微笑んでそう言うと、すぐに、次に知りたかったことに話題を切り替えた。
 
 「……戦いはもう無いって事は、危険も、もう無いの?」
 
 『ま、ドンパチはもう無いみたいやな。実験とかは続くらしいから、なんか事故でもありゃぁ危険かも分からんけど、今までに比べたら、命の危険はもう無いっちゅうてもええんちゃうか?』
 
 言いながら、トウジだって詳しいことが分かっているわけではぜんっぜん無い。
 
 トウジの言葉をそのまま受け取ったヒカリは、「よかった」と、安堵のため息をつく。
 
 
 
 カチン、と、壁掛け時計の分針が真上を刻んだ。
 
 もう深夜の一時だ。話し始めてから、二時間以上経過している。
 
 なんだか、顔が見えないのに緊張することも無く、こんなにふわふわした気持ちでトウジと長電話が出来るのが、不思議な気分だった。
 
 
 
 『……ほんま、いままで心配かけてスマンかったな』
 
 
 
 トウジの言葉に、ぼーっとしていたヒカリは急速に現実に引き戻された。
 
 「えっ?」
 
 思わず、変な声で返事をしてしまう。
 
 今の自分の声を、返して戻して、と赤くなるヒカリの耳に、トウジの言葉が流れ込む。
 
 
 
 『これからは……その、……いいんちょに、心配かけんように、するから』
 
 
 
 じわっ、
 
 と、胸の奥に、温かなものが、広がる。
 
 
 
 「あっ……う、うん」
 
 火照った頬に掌を当てながら、ヒカリが応えた。
 
 電話でよかった。こんな真っ赤な顔を、見られたらどうしていいか分からなくなる。
 
 だが、トウジはいま、どんな顔をしているだろう?
 
 それは、ちょっと見てみたいと思う。
 
 
 
 こんなことで幸せになれるなんて、なんてお手軽なんだろうと思いつつも、だって幸せなんだからしょうがないじゃない、とにやけた顔で開き直る。
 
 かちり、と、分針がまた、目盛りひとつ分右に傾く。
 
 まだまだ、話したい。
 
 いつまでも、その呼吸を感じていたい、と、ヒカリは思った。



六百五十五



 陽炎が揺らぐアスファルトの上を、一台のタクシーが走っている。
 
 そのオレンジ色の車体はやがて、マンションの地下駐車場に滑り込んだ。
 
 
 
 停車したタクシーから、ボストンバッグを肩に担いだアスカがするりと降りる。
 
 清算もせずに走り去る車は、おそらくタクシーを偽装したNERVの専用車であろう。
 
 
 
 「ふぅ〜……ここに来るのもなんだか久し振りね」
 
 腰に手を当てて、アスカは駐車場の中を見回した。
 
 
 
 ここは、コンフォート17マンション……シンジ、アスカ、レイの三人が、先日まで暮らしていた、あのマンションだ。
 
 チルドレンの身の安全のために三人はジオフロントに転居していたが、このたび警戒レベルが下がったことで戻ることを許されたのだ。
 
 もともと、自宅には荷物の多くを残したままだったので、再びここに戻るのに、それほどの荷造りはいらない。
 
 だが、それでも幾らかある荷物をまとめて事前に発送しておいたアスカと違い、シンジとレイは直前までなんだかバタバタしていてまだ荷造りが終わっておらず、面倒になったアスカは一人で先行して帰宅した、というところだ。
 
 まぁ、どうせ一両日中には全員揃う。シンジやレイの傍にいてもすることはないし……それよりは、放っておいた自分の家の様子が気になって、すぐに帰宅したくなってしまったのだ。
 
 
 
 エレベータで11階に移動し、バッグを背負って自室を目指す。
 
 見ると、あらかじめ発送しておいたダンボール群が、共用廊下に積み上げられていた。
 
 アスカは舌打ちする。
 
 「なによ……家ん中に入れといてくれたっていいじゃない」
 
 ぶつぶつ言いながら自室の前に立つと、スカートのポケットに手を突っ込んで、カードキーを捜す。
 
 
 
 「カードキーは更新されたそうだよ」
 
 その声は、まるで風に乗る羽毛のような軽さで、アスカの耳に届いた。
 
 びきっ、と、アスカの体が固まる。
 
 
 
 ……廊下に積み上がった、ダンボール。
 
 その影から、渚カヲルが、微笑をたたえて姿を現した。
 
 
 
 がきがき、と、硬い動きでアスカが顔を上げる。
 
 頬の筋肉がぴくぴくと引きつっている。
 
 「……アンタ……なんで、ココに、いんのよ……」
 
 三白眼でカヲルを睨む。
 
 カヲルは片手にアスカのカードキーを掲げ、微笑んだ。
 
 「だから、カードキーが更新になったんだよ。そのキーじゃ開かないから、新しいの渡しといてくれって頼まれてね」
 
 
 
 ひらひらと指先で回すカードキーを、アスカは一瞬のジャブで奪い取った。
 
 「そりゃぁ、ありがとーございました!」
 
 言いながら、ピッとカードを認証エリアに当てる。
 
 がちゃん、と鍵が開く音がして、アスカはばんっとドアを開けると、そのまま中に飛び込んでドアを閉めた。
 
 即座に、再び鍵がかかる音がする。
 
 
 
 玄関で、アスカは荒い息で肩を揺らしていた。
 
 こめかみに血管が浮いている。
 
 「な……ぁんなのよ……アイツ!!」
 
 靴を乱暴に脱いで、どかどかと廊下に足を踏み入れる。
 
 「あー、帰宅早々、イヤなやつに会っちゃったわ!」
 
 ぶつぶつと呟きながら台所に入り、戸棚に置いてあったコップを取って蛇口を捻り、水を汲んで一気に煽った。
 
 
 
 がちゃん。
 
 
 
 玄関から、鍵の開いた音が聞こえた。
 
 
 
 「……!?」
 
 脳の隅っこで、嫌な予感がする。
 
 
 
 コップを流しに置いて、アスカはスカートの裾を翻しながら、バッと廊下に飛び出した。
 
 その、視線の先に、
 
 玄関のたたきに立つカヲルの姿。
 
 
 
 「んなっ……な、な、な……」
 
 ぱくぱくと口を動かすアスカに。
 
 そんなアスカの様子に、カヲルは不思議そうな表情で眉を上げる。
 
 「何を言ってるんだ?」
 
 「ア……アン、アン、アンタ……」
 
 「まぁ、いいや。それより」
 
 カヲルは親指でドアの外を指差す。
 
 「荷物、多そうだな。運び込むのを手伝おうか?」
 
 
 
 「……アンタ、ナニ勝手にカギ開けてんのよーーッ!!」
 
 
 
 びりびり、と空気を震わす叫びに、カヲルは思わず耳を塞ぐ。
 
 「声がでかいよ」
 
 「う・る・さ・いッ!!」
 
 肩をぶるぶると震わせながらアスカが地団駄を踏む。
 
 
 
 「アンタ、どうやってカギ開けたのよ!! アタシいま、ドア閉めてカギ掛けた筈よ!!」
 
 アスカがこめかみを震わせながら叫ぶと、カヲルはきょとんとした顔で彼女を見返した。
 
 「あれ? ……葛城二佐から聞いてないのかい?」
 
 「え? ……な、なにを?」
 
 頭の中を、嫌な予感が駆け巡っている。
 
 アスカは思わず眉根を寄せながら、低い声で尋ねた。
 
 カヲルは、手の中にある自分のカードをひらめかせる。
 
 
 
 「いや、ここ、僕のカードキーでも開くからさ。
 
 同じフロアに住むチルドレンは、みんな行き来できるようになってるんだろう?」
 
 
 
 「………」
 
 「………」
 
 
 
 「……ちょぉっと、待ったぁ〜〜ッ!!」
 
 
 
 「声がでかいよ」
 
 耳を押さえながら、カヲルが言う。
 
 アスカは二歩、後ずさり、思わず壁に手を突く。
 
 「つ、つっこみどころが満載なんだけど……」
 
 「ん? なにが?」
 
 「まず、え? アンタ、アタシの家に、自由に入れんの……?」
 
 「だから、そうだよ。同じフロアのチルドレンは、自由に行き来できるんだろう?」
 
 「ま、待った、待ったッ! ちょ、いま、ナニ? 聞き捨てならないっつうか、聞かなかったことにしたいっつうか、なんかそんなことを」
 
 「なに言ってるんだ? 落ち着けよ」
 
 「え? 同じフロア? ……え?」
 
 「……あぁ」
 
 合点したようにカヲルは呟くと、にっこりと微笑んだ。
 
 
 
 「僕も、隣に引っ越してきたよ。よろしく」
 
 
 
 思わず、アスカはその場にへたり込んでしまった。
 
 
 
 「な……な……なん……」
 
 「なんでって? だって、僕は自分の家が無いんだ。みんながここに住んでるんなら、僕もここでいいじゃないか、面倒もないし」
 
 「よ、よくない!」
 
 がばっと顔を上げて、カヲルの顔を睨みつける。
 
 「なにをそんなに気にしてるのか分からないな」
 
 心底、不思議そうな顔をして、カヲルがアスカを見返す。
 
 「だいたい……短い期間だったけど、ジオフロントでは同じフロアに部屋があっただろう。あれと同じじゃないか」
 
 「違ぁ〜うッ! あそこは、全員強制の社宅みたいなもんでしょう! もうっどこでも自由に住めるんだから、ここにくる必要ないじゃない! 第一、鈴原だってここに住むわけじゃないんだし!」
 
 「鈴原君は、もともと自宅があるじゃないか。それに、ここだってNERV所有のマンションなんだから、社宅みたいなものだろう。どこが違うのか分からないなぁ」
 
 カヲルは首を傾げる。
 
 
 
 アスカは両手を床について、がっくりとうな垂れてしまった。
 
 「はぁあぁ……記念すべき帰宅初日が、最悪の日に……」
 
 「酷いなぁ。そこまで言わなくてもいいだろう」
 
 特に堪えた様子も無く、カヲルが言う。
 
 
 
 「じゃ……じゃぁさ。ええ、もう、面倒くさいから、このマンションに来るのは、許してあげるわ」
 
 力無く右手を上げながら、アスカが提案する。
 
 「許すとか許さないとかじゃないんだけどなぁ」
 
 「う・る・さ・いッ。いいから、とにかく、もう相手にすんのが面倒だから、住むのは、その、イヤだけど、まぁ、いいけど。
 
 ……隣? 隣って言ってたわよね?
 
 せめてそれはどうにかしてくんない?」
 
 「どうにかって?」
 
 カヲルの疑問に、アスカはカヲルを睨む。
 
 「……ここ、11階でしょ。あんた、1階に引っ越しなさいよ。同じマンションの中で、いっちばん遠い部屋に引越しなさいよ。うん、いいわね。それそれ、そうしよう! よーし、決まり!」
 
 「勝手に決めないでくれよ」
 
 乾いた笑いを見せるアスカに、カヲルは苦笑して頭を掻いた。
 
 
 
 「僕は、隣の部屋から、動く気は無いよ」
 
 飄々と言い放つカヲルに、アスカは噛み付く。
 
 「なんでよッ! アンタ、ストーカー!? 理由を言いなさい理由をッ!!」
 
 アスカの言葉に、カヲルは柔らかく微笑んで口を開く。
 
 「あれ? ……前にも、言っただろう?」
 
 
 
 「人間として、君に、興味がある。
 
 君という人間が、どんな未来を歩んでいくのか。
 
 それを、僕は見届ける。
 
 そのために、僕はこの先もずっと、君のそばにいる。
 
 それだけさ」
 
 
 
 アスカは、両目を見開いて固まってしまった。
 
 
 
 「あれ? ……惣流さん?」
 
 動かなくなってしまったアスカに、カヲルは、首を傾げる。
 
 靴を脱いで廊下にあがりこむと、アスカの顔の前で手を振って見せた。
 
 「あれ……? どうした? おーい」
 
 
 
 ……それは、物凄い変化だった。
 
 みるみるうちに……少女の真っ白な肌は、真っ赤に染まっていく。
 
 湯気の上がりそうなその様子に、カヲルはいぶかしげに眉を寄せた。
 
 「どうした? 熱でもあるのか?」
 
 言いながら、アスカの額に手を伸ばした。
 
 
 
 どっかん!
 
 と、激しい音を立ててカヲルが反対側の壁に激突した。
 
 片足を蹴り上げた姿勢のまま、アスカは真っ赤な顔でカヲルを睨む。
 
 「さっ、さっさっ、触るなッ!」
 
 腹を押さえて床にへたり込んだまま、カヲルは呆然とアスカを見ている。
 
 なぜ蹴られたのか、全く理解できていない。
 
 「な……?」
 
 「う、ううううううううううううううううるさいッ! うるさいうるさいうるさい、うるさいッ!!」
 
 
 
 「……声がでかいよ」
 
 キーーン、と反響する脳みそを抱えながら、顔を顰めてカヲルが呟く。
 
 アスカは相も変わらず頬を染めたまま、だん! と仁王立ちになって廊下を踏みしめた。
 
 「う・る・さ・いッつってんのよ! い、いいから、その……え、と……そ、そう! に、荷物を運ぶんなら運びなさいよ!!」
 
 「えぇ……なに、その飛躍」
 
 カヲルは困惑した表情を浮かべながら立ち上がる。
 
 「うっさいわね! なんなの、アタシの荷物運ばせてやるっつってんのよ!? 運ぶの!? 運ばないの!?」
 
 アスカが怒鳴る。
 
 
 
 カヲルは、目を瞑って笑い、肩を竦めた。
 
 「ほんと……君は、つくづく予想できないよ」
 
 「馬鹿にしてんの!?」
 
 「褒めてるんだよ」
 
 言いながら、靴につま先を突っ込む。
 
 「お姫様のために、働かせていただくよ。さぁ、どうすればいいんだ? 指示してくれ」
 
 
 
 カヲルの言葉に、アスカは思わず胸を反らせた。
 
 「よぉし、全部アタシが命令してやるから、キリキリ奴隷のように働きなさい! 終わったら、たぶんシンジの夕食が待ってるわよ!」
 
 
 
 その顔は、笑っていた。



六百五十六



 風が、レイの髪の毛を柔らかく揺らした。
 
 
 
 壊れかけた木のベンチに、シンジとレイは並んで腰を下ろしていた。
 
 背もたれに体重を預けると軋んで嫌な音を立てるが、それでも背を反らして上空を見上げる。
 
 紺碧の空に、白い雲が幾つか浮いている。その青は吸い込まれそうなほどに青く、ゆっくりと息を呑む。
 
 
 
 「やっぱり……穴の中より、空の下がいいね」
 
 「うん……」
 
 シンジは呟き、レイもそれに応える。
 
 
 
 今回のことで、案外一番よかったことは、ジオフロントの天井がそっくり抜けて、こうして陽の光が降り注ぐようになったことじゃないか、とシンジは思う。
 
 ジオフロントの閉鎖性は、穴倉に篭って暗躍するNERVの体質を端的に表していたような気がして、今考えれば息が詰まることもあった。
 
 空が見えれば、眩しいくらいに太陽の光が注ぐし、こうして前髪を揺らす風のにおいも感じる。
 
 それは、やっぱり光ファイバーが間接的に供給する陽の光とは違うし、機械が発生させる大気循環装置の風とは違うのだ。
 
 
 
 いつも腰を下ろしていたこの遊歩道脇のベンチも、以前は主に街灯の明かりの下だった。
 
 
 
 周りを見渡すと、このベンチがかつて遊歩道に設置されていたことを窺い知るのは難しい。
 
 地面はえぐれ、土塊が見渡す限りに散乱し、歩道の両脇に隙間なく植えられていた木々や植物は、業火に舐められて見る影も無い。
 
 ……だが、それでも。
 
 
 
 「すごいね」
 
 シンジが、足元を見下ろして言う。
 
 土の隙間から、小さな芽が顔を出しているのが見える。
 
 
 
 生命は、強い。
 
 それこそ、人間の力など、到底及ばぬほどに。
 
 それは世の理であり、神聖な力だ。
 
 
 
 二人の間に、風が吹き抜ける。
 
 
 
 穏やかな心で、ただ、黙って周囲を見渡している。
 
 この、愛すべき、世界を見渡している。
 
 
 
 ベンチに置いていた、シンジの手に、レイの指が触れた。
 
 
 
 シンジが視線を向けると、レイが、少しだけ赤い顔をして俯いていた。
 
 シンジは微笑むと、その指を解く。
 
 「あっ……」
 
 レイが、驚いたような……急に足場を外されたような不安な表情で、シンジを見る。
 
 
 
 シンジは、そのレイの手を、両手でしっかりと握り締めた。
 
 
 
 シンジは、レイの顔を、正面から見つめる。
 
 レイの頬に、ゆっくりと、朱が差し込む。
 
 
 
 シンジは穏やかな表情で、口を開く。
 
 
 
 「……綾波」
 
 「………」
 
 「……ありがとう」
 
 
 
 「え?」
 
 レイが、シンジの顔を見返した。
 
 シンジが微笑む。
 
 「……なにを言っているの……?」
 
 「お礼が、言いたいんだよ」
 
 シンジは、強くレイの手を握り締めながら、言う。
 
 
 
 「綾波がいて、本当によかった。
 
 本当に……。
 
 
 
 こんな、穏やかな未来を迎えることが出来て……本当に嬉しいんだ。
 
 綾波が……いてくれたから、頑張れた。
 
 そして、綾波が頑張ってくれたから、こうなったんだ。
 
 
 
 綾波が、こうして、僕の横にいて……
 
 ……こうやって、微笑んでいてくれる。
 
 
 
 こんなに幸せでいいのかな……って、思うよ」
 
 
 
 レイは、慌てたように首を振った。
 
 彼女の短い髪の毛が、頭の動きに合わせて左右に揺れる。
 
 「ううん、そんな……私こそ……碇君が横にいてくれて、碇君が一緒にいてくれて、幸せ」
 
 シンジの瞳を、見つめる。
 
 吸い込まれそうなほどに、真っ赤な、赤い色。
 
 
 
 この瞳の色を、血の色と評する声もあった。
 
 だが、どうだ。
 
 この赤は、見るものを虜にする、ルビーの美しさだ。
 
 そしてその美しさは、たった一人の少年だけに注がれる。
 
 
 
 「……私は、碇君がいなかったら、ずっと人形だった。
 
 私を人間にしてくれたのは、碇君。
 
 碇君がいなかったら、私は、こんな風に、あなたの横に並んで立つことも出来なかった。
 
 
 
 私のこの気持ちを……どう、伝えればいいのか、分からないけど……
 
 ……でも、伝わってほしいと、思う。
 
 この、気持ち。
 
 私のこの気持ち……
 
 ……こんなに、碇君を好きで、愛しているって気持ちを……!」
 
 
 
 シンジは、微笑む。
 
 「うん……分かってる。僕も、綾波を、愛してる」
 
 レイも、微笑む。
 
 「うん、愛してる、碇君」
 
 
 
 「ずっと……一緒に、いよう」
 
 「うん……ずっと……一緒に」
 
 
 
 シンジは両手を伸ばして、レイを抱き寄せた。
 
 レイは抵抗無く、そのまま吸い寄せられるように、シンジの腕の中に飛び込む。
 
 シンジはレイの髪の毛のにおいを。
 
 レイはシンジの髪の毛のにおいを。
 
 胸いっぱいに、吸い込む。
 
 
 
 そうして、風が、初夏のにおいを運んでくる。
 
 
 
 「……綾波は、これから、どうしたい?」
 
 レイの頭を抱きかかえて、シンジは、その鼻先をレイの首筋に埋めながら、呟く。
 
 「この先は、もう、どうなるのか、僕にも分からない……。僕も、綾波も、自分の足で歩いていくんだ。
 
 綾波は、どうしたい?」
 
 
 
 シンジの髪の毛に、同じように鼻先をうずめたレイが、小さな声で、呟いた。
 
 
 
 「……キス」
 
 
 
 「えっ」
 
 「……キス、したい」
 
 
 
 シンジは、固まってしまった。
 
 レイは頭を離すと、シンジの顔を至近距離で見つめる。
 
 
 
 「……ダメ?」
 
 
 
 真っ赤な顔で、シンジは汗を拭う。
 
 「い、いや……その」
 
 「ダメ?」
 
 「………」
 
 
 
 ごほん、とシンジは咳払いすると、ベンチから腰を浮かせて立ち上がった。
 
 レイも、立つ。
 
 
 
 真っ赤な顔のシンジと、
 
 頬を染めたレイ。
 
 
 
 おずおず、と、シンジが手を伸ばして、レイの肩を掴んだ。
 
 そのまま、レイの体を引き寄せる。
 
 
 
 潤んだ瞳が、至近距離で見詰め合う。
 
 
 
 唇が、触れる。
 
 
 
 前髪が、揺れた。
 
 
 
 ……しばしの時間を経て、再び、お互いの顔を離す。
 
 「……うふっ」
 
 レイが、はにかんだように笑った。
 
 
 
 レイとシンジは、どちらからとも無く手を繋ぐと、並んで本部棟に向かって歩き出した。
 
 
 
 「じゃ……じゃぁさ、次は、何をしたい?」
 
 「デート」
 
 「えっ」
 
 「……ダメ?」
 
 「い……いや、ダメじゃないけど……じゃ、じゃあ、次は?」
 
 「一緒に住みたい……」
 
 「えっ」
 
 「……ダメ?」
 
 「……い……いや、ダ、ダメじゃ、ないけど……」
 
 二人の声は、風の向こう側に消えていく。
 
 
 
 未来。
 
 それは、平等に、誰の前にも、広がっている。
 
 
 
 それが、明るい未来なのか、それとも暗い未来なのか。
 
 それは誰にも分からない。
 
 見えるのは僅か先の未来だけで、その先がどうなっていてどこに繋がっているのか、それは、誰にも分からない。
 
 
 
 だが、選択肢は、自分自身にある。
 
 
 
 どの未来がどこに繋がっているのか、それは誰にも分からなくても、
 
 目の前の分かれ道の、どちらを選ぶのか、それを決めるのは、自分自身なのだ。
 
 
 
 未来への道。
 
 
 
 それは、神が定めたレールでは、ないのだ。