【動画】広電100年/復興見守った被爆電車、今日も走る=小玉重隆撮影 |
【山村哲史】午前5時半、記者は広島市中区の広島電鉄本社の横にある千田車庫を訪ねた。次々と車両が街に繰り出す。車体に「651」とある1両を見つけた。
67年前の8月6日、爆心地の南約700メートルで被爆。爆風で飛ばされて脱線し、黒こげになった「被爆電車」だ。
当時被爆した電車のうち2両は今も現役なのだ。
「651」は翌年3月に走行を再開し、毎朝数時間、主に広島港―広電西広島間を通勤・通学の市民らを乗せて走り続けている。
「元気に走りよるのは、うれしいような。でも、この車内に乗っていた人がおるんかと思うと悲しくなりますよね」。この日の運転士は糸原貞実さん(51)。車両の扉も窓枠も床もすべて木製。ギシギシと全身を震わせて動き出す。速度計はない。感覚を頼りに、最速40キロで街を行く。
午前6時45分、広島港。江田島市の和田弘子さん(59)が乗り込んできた。職場の建設会社に向かう途中。父親(84)は電車に乗っていて被爆したという。「今も現役でがんばっている電車を見ると、私も頑張っていかなきゃと思う」
午前7時。車内は制服姿の生徒でいっぱいに。テレビ番組の話題で盛り上がっていた3人組の1人、中学1年生の田中萌子さん(13)は「最近学校で被爆電車について教わった。大事に乗らないと、と思った」。
午前9時10分、車庫に戻った。もう1両の現役被爆電車「652」も並ぶ。
その一角に数少なくなった木製車両の修理を手がける「木工組」の作業場がある。床が木製の車両は10両ほどあるが、内装のほぼ全てが木でできているのは今や被爆電車ぐらいという。
木製の窓枠や扉は雨などで腐りやすく、組長の朝原博文さん(49)が指でなぞって状態を確かめる。交換する場合は、年月を経て微妙に一つ一つサイズが違ってきている窓に合わせて、手作業で窓枠を削るのだという。朝原さんは「木製電車があっての職場。残してもらえるなら、定年まで精いっぱい愛情を注ぎたい」と話した。
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