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パリは“不可能がない街”なんじゃないかなって思います。

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  岸田周三 - 「カンテサンス」シェフ -
1974年愛知県生まれ。93年、三重県志摩観光ホテル「ラ・メール」でフランス料理のキャリアをスタートさせ、96年東京都渋谷区のレストラン「カーエム」へ。自らの店を持つ夢を抱き、2000年に渡仏。フランス各地の一ツ星から三ツ星までのレストランで修業し、帰国後の06年5月、白金台にレストラン「カンテサンス」をオープン。食通たちをうならせる独創的な料理で話題の若きカリスマである。
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自分が最も感銘を受けたのがカーエムで、「働かせて下さい!」と食べに行ったその場でお願いしたんです。(岸田)

僕は岸田さんの料理を頂いて、あなたの料理に感動しました。そもそも、はじめに仕事をするぞと決めてからの、第一歩は、どういうことをされたんですか?

最初、調理師学校を卒業して、三重県にある志摩観光ホテルのラ・メールいうレストランに入りました。その中に、高橋さんというすごく尊敬してるシェフがいたんです。

有名なレストランですよね?

そうですね。うまく就職できたのは、運が良かったんですよ。

その後は?

その後は、東京に移りました。というのも、高橋さんの料理は素晴らしかったんですが、三重県の特産物を使った料理で、それ以外のものをあまり使わない方だったんです。僕は三重県でそのまま骨を埋めるつもりはなかったので、ちょっと心配になってきたんです。

そっか(笑)。

やはり日本のフランス料理は東京がすごく華やかなので「東京はどんなことやっているんだろう?」と思って、休みを使って東京に食べ歩きに行くようになったんです。20歳ぐらいの時だったんですが、やはり今まで自分が見たことないような料理がたくさんあって、「すごいな」と思いましたね。それで「一度東京で働くべきなのかな」と思ったんです。

東京に出てきたのは何歳だったんですか?

22歳でしたね。4年ほど志摩観光で働いて、一通りのセクションを回って、次のステップと考えたときに、やはり東京かなと強く感じましたね。

なるほど。東京に出てこられて、勤めたのが恵比寿のカーエム。これもまた名店ですよね?

いろんな店を回ったんですけど、自分が最も感銘を受けたのがこの店だったんです。「尊敬できる人の店で働きたい!」という気持ちがあったので「働かせて下さい!」と、食べに行ったその場でお願いしたんです。

ほんとに(笑)?

ピンと来たんですよね。その店に行ったときに「ここだ!」と思って。でも「ちょっと今、人は足りてるから」と断られてしまったんです。それから2回くらい電話をしたら「2ヶ月後に人の空きが出来るから面接をしてあげる」と言われたので、志摩観光ホテルへは2ヶ月後に辞めますとお願いしました。東京に行くときは部屋が決まる前に、引っ越し屋さんに荷物を預けて「住所を覚えてないので明日電話します」とお願いして、荷物を全部引き払って行きました。もう絶対入る気でいましたね。

すごいですね(笑)。

カーエムからOKもらって「いつから来れる?」と聞かれたので「すぐに行けます」と話をして、面接が終わったすぐ後に不動産屋さんに行って「即入居できる部屋探して下さい!」と頼んだんです。

すごい(笑)。いろいろなことが前倒しなんだ。自分で信じたら、もう絶対行けると思っていたんですね。不安はなかったですか?

あまりなかったですね。

22歳ですもんね、ないですよね(笑)。

そうですね。即入居の部屋が決まって、引っ越し屋さんに電話して「思い出しました。住所ここです」と言って、すぐに働き始めました。

すごいエピソードだ(笑)。


ランジスの市場は世界一と言われてるんです。(岸田)

30歳になったら、シェフになる目標をちゃんと設定して、27歳で初めて訪れたパリ。どうやってレストランを選んで、門を叩いていかれたんですか?

その日に泊まるホテルも決めないで行った人間なので、もちろん紹介状とかはないですよ。仕事におけることや、語学の勉強も少しはしたので、あとは誠意があればなんとかなるという漠然とした自信はありましたね。

行ってみて、まずはまた食べ歩いたんですか(笑)?

そうですね。

東京出て来たときと全く変わらないんだ(笑)。

全く同じです。実際に自分が行ってみて「働きたいと思うところで働こう」と思ってました。料理人なら三ツ星の店で働くことを考えると思うんですけども、いきなりそういう訳にはいかないですよね。誰でも入れるところではないし、紹介状もなかったので、入れるところから入ってスキルアップできればなと思っていました。

なるほど。

三ツ星はもちろん様々なところで働いてみたかったので、ブラッセリーと呼ばれる居酒屋みたいなところは、とっかかりとしてはいいかなと思っていました。いろいろなところを食べ歩いたんですけども、パリ10区にあるシェ・ミシェルが素直に美味しいと思える店だったので、そこで食べ終わったあとに「働かせて下さい!」とお願いしたんです。

また東京の時と同じだ (笑)。どんな反応でした?

びっくりしていましたね。「いつから?」と聞かれたので「すぐにでも」と言ったら入れちゃったんです。結構運が良いんですね。本当に小さな店だったんですけども、あっちも繁盛していて人手が足りなかったのもあって「今日の夜から」と言われたんですよ。

ははは(笑)。岸田さんの話を聞いていると心強くなってきますね。「若者こうやって生きて行け!」という感じです。

あまりお薦めはしないですけどね(笑)。そのシェ・ミシェルはブルターニュ出身のシェフで、自分の地方を愛していて、すごく特徴が出ていたのも決め手ですね。

クレープなんかを焼いていたんですね。買い出しも一緒に行かれていたんですか?

2日に1回、ランジスという大きな市場があって、車を飛ばして、朝の4時とかに行っていました。

日本とはずいぶんマーケットの雰囲気は違うんですか?

大きいです、世界で一番大きな規模とも言われてるんです。車じゃないとまわりきれないですね。シェフはお願いすればなんでもやらしてくれる方だったので、私が冷たいものを、彼が温かいものを担当していたんですけども、僕が「温かいのもやりたい」と言うと「今日から交代しよう」と何でもやらせてくれる人でしたね。東京ではそんなことはありえなかったです。

普通はパリでもそうでしょうけども、料理はかなり縦の社会がきっちりしていますよね?

そういう意味では、やりたければ何でもやらせてくれたので、すごく運が良かったなと思いますね。


僕が修行した当時、ミシュラン・ガイドの星は店に付けられるトータルの価値観だったんです。(岸田)

その後、半年して、星付きの店に移られたんですか?

ブラッセリーもすごく面白かったんですけども「星付きの店も見てみたい」と思って、星付きの店に手紙を書いたんですね。その中で手応えのあった店があって、働いて欲しと返事がきたので、入ることができました。

ここである事実に驚いたと伺いましたが?

考え方の違いなんでしょうけども、この店は一ツ星の店なんだから、今まで働いたシェ・ミシェルよりも遥かに素晴らしい料理が出るだろうと思っていたんです。でも、僕は、シェ・ミシェルの方が素直に美味しいと思えたんです。

なるほど。

星が増えれば増える程、料理が素晴らしくなるわけではなくて、店に付けられるトータルの価値観なんです。今はそういうのも変わってきたんですけども、僕が修行した当時は、きらびやかな装飾や内装、サービスも含めての星なので、料理だけ見るとシェ・ミシェルの方が好きだったんです。ミシュラン・ガイドはそういう採点方法なんだなとすごく感じましたね。

その星付きのレストランに不満を持ち始めたころに、三ツ星のレストランで働くチャンスがきたとか?

もう少し上で働きたいなと思ったときに、南仏のモンペリエという街にある三ツ星レストラン、ジャルダン・デ・サンスで働ける話がきたんです。ただ地方だったので、なかなか連絡が取れなくて、いつから働けるのかがわからなかったんです。

ついに来たという感じですね。

ただ今の店の人にも迷惑をかけるわけにはいかなかったので、辞める時期をシェフに言って辞めたんですけども、ジャルダン・デ・サンスで働けるのが、それから約2ヶ月後くらいになってしまったんです。その間遊んでいるわけにはいかないので、それから2ヶ月間くらい働ける場所を探していたときに、パリの二ツ星で研修みたいな感じで働ける店を見つけたんです。

本当にうまくいきましたね。

そういう意味では運良くステップアップできたなと思います。

パリを離れて南仏の三ツ星レストランで働くわけですけども、どうでした?

三ツ星は本当にチームとして完成されていて、宿泊施設まで付いているオーベルージュでした。ある意味テーマパークみたいなものですね。ここまでやってこその三ツ星なんだなと、強く感じましたね。

食事だけではなくて、そのあとのホスピタリティがあって、周りの景色から街の雰囲気から全てが1つのエンタテイメントなんですね。

今年から考え方が少し変わって、お皿の上だけで全て判断するようになりましたけども、当時のミシュラン・ガイドはそのような考え方だったんですよね。

なるほど。

でも、自分の働きたい店はどういう店かと考えたんですけども「僕には全てが見える小規模な店があっているんじゃないのかな」と思ったんですね。そこで、パリにあるアストランスという店で働きたいなというのを思ったんです。

実際にそこで働けたんですか?

お願いに行ったのはオープンして1年も経っていなかったと思うんですけども「今は満席でポストはないよ」と断られてしまいました。それから何度もお願いをしていたら、運良く2ヶ月だけ研修をさせてもらえるチャンスがきたんです。「この2ヶ月間に認めてもらって正社員になりたい」と思って、一生懸命働いたら運良く入れちゃったんですよね。やってみるもんだなと思いましたね(笑)。


アストランスのパスカルは、今までの料理人とは物の考え方が違っていました。 (岸田)

色々な店で働いて来たと思いますが、下働きをした仲間でも、その人によって料理への“熱”は違いましたか?

全然違いますね。下働きには大事な仕事は振ってくれないので、仕事をこなしているだけの人と、上を目指している人間とに確実に分かれるんですよね。上を目指している人間は与えられた仕事をしたら自分から仕事を取りにいくんですね。「その仕事、僕やっていいですか?」と。それに対して嫌がる人はいないですし、見方が変わっていきますよね。実際に見られ方が変わってきたのも感じましたし。

でもはじめはやっぱり皿洗いからでしょう?最終的にはどういう事をしたんですか?

研修2ヶ月後の正社員にしてもらってから魚を担当させてもらい、次に肉を担当してから2番手シェフにあたるスー・シェフにまで上り詰めました。

すごいですねぇ。その間は一心不乱でしたか?

どうやったら認めてもらえるかだけを考えていました。でもシェフが従業員の事を愛してくれる方だったので、こちらのモチベーションは下がりませんでしたね。ずっと職場にいて、料理の話をずっとされる、料理を愛している人でしたね。

そのシェフがパスカル・バルボさん。この人の影響は大きいですか?

そうですね。僕の人生にもの凄い影響を与えてくれた方ですね。本当に尊敬している方です。

具体的に何がそれまでとは違ったんですか?

彼は「素材と火の入れ方と味付けが一番大事なんだ」と言っていました。素材を大切にするのは当たり前のことなんですけども、どこまで徹底的に追究できるかなんですよ。素材を大事にするのは高いものを買うという次元ではなくて、どう扱って、いい状態でどれだけお客様に提供できるかだと信じて、それを徹底的に考える人だったんですね。

なるほど。

彼は毎週市場に行くと素材の生産者とずっと話をしているんですよ。大事にするというのは、そういう事から始まると思いますね。今までの料理人とは物の考え方が違っていました。

そんなバルボさんの料理に大きく影響を受けて帰国し“カンテサンス”をオープン、念願のシェフになるわけですが、全部で何年掛かりましたか?

13〜14年掛かっています。ずっとやりたかった夢がようやく叶ったので、それは凄く嬉しかったし、楽しいですね。

だからこそ、朝の9時から夜の1時までずっと厨房にいるわけだ。他の事をする時間なんてないよね。

そうですね。今はそういう時期なのかなと思ってますね。


オフの日は、本屋のおじいさんとよくタロットカードを使ったゲームをしていました。(岸田)

南仏含めてフランス修行の5年間、オフはどう過ごされたんですか?

僕は14区に住んでいたんですが、15区に古本市があってよく行きましたね。料理の本も勿論ですが、いろいろな本を物色しました。それとは別に、本屋のおじいさんが店が暇でよくゲームをしているので、そこに混じってゲームするのが楽しくて、よくタロットカードを使ったゲームをしてましたね。

のんびりしていますね。

友人のフランス人から教わったゲームで東洋人が知っていると、おじいさん達が「なんで知っているんだ!」と喜ぶので、やらしてもらっていました。フランスに溶け込んでいるようで凄く楽しかったです。

パリの面白さって一言で表すのは難しいですが、何ですか?

パリは“不可能がない街”なんじゃないかなってすごく思います。

不可能がない!?

住んでいて思ったのが、何でも何とかなっちゃうんですよね。伝手もなく飛び入りで「お願いします」と入っても「しょうがないなぁ」とOKが出ちゃうんですよね。例えば郵便局で営業時間を過ぎていても、誠意を持ってお願いしたら「じゃ、貸しなさい」とOKが出るんですよね。

いろいろなルールよりももっと大切な人の交わりみたいな事の方が優先されているんですね。

そうですね。そういう事は色んな所で感じましたね。パリのそういうところがすごく好きですね。


6技法や食材はフランスで、考え方は和食。それが日本人の僕がフランス料理を作る意味なのかなと思うんです。(岸田)

バルボさん、あるいはフランス時代のご友人の方々とかは、岸田さんの料理をもう既に食べてらっしゃるんですか?

たくさんの方が来てくれましたね。この前、パスカルが京都にフェアで呼ばれて来ていたので、そのとき一緒に東京まで行って食べにいくから予約をしてくれと話をもらったんです。

召し上がったんですか?

それがスケジュールがすごくタイトになってしまったので東京に行く時間がなくなってしまったみたいで「逆にお前が京都に来てくれ」と言われて3時間だけ京都に行ってきましたね。でもすごく楽しかったです。「今度は行くからよろしく」と。今もパスカルがとても応援してくれて、彼の店にカンテサンスのショップカードが置いてあるんです。それをいろいろな人に配ってるからどんどんアストランスのお客さんがうちに来てくれるんですよね。

それは本当に美しい師弟関係ですね。

本当にありがたい話ですね。

京都の話が少し出ましたけど、京都の和食も勉強されていますか?

やはり日本人ですから日本の根付いた文化にはすごく興味がありますが、直接その技法をフランス料理に転換することは出来ないと思うんです。なぜ彼らがこういう風に調理するのか、理由を知って理解して納得することがすごく大事なんだと思うんです。

手法よりも、哲学を学ぶ。岸田さんの料理を見ていると、高次元でいろいろなものが渦巻いている感じがしますね。まず一番深いところを知らないと出来ないんじゃないですかね。

僕は和食を勉強させてもらって思ったのは、フランス料理と日本料理の違いを考える中で、フランス料理はいろいろな食材を組み合わせることによって洗練された味わいを作っていく料理なんだなとすごく思ったんですね。逆に日本の料理は素材のいいところだけを取り出すような料理だと思うんです。だからすごくシンプルで完結してる料理だと思うんですね。

なるほど。

僕の料理は皿の上に乗る食材がすごく少ないんですね。出来れば2品、多くて3品ぐらいが限界と思っているんですけども、すごく少なくしてシンプルな料理を目指しているんです。技法や食材自体はフランスのものなんですけども、考え方は和食みたいにシンプルで、いいところだけを取り出すような料理を目指したいと思っているんです。それが日本人である僕がフランス料理を作る意味なのかなと思うんですね。

まさにそうですね。さて、最後に岸田さんにとっての旅は、どんな言葉になりますか?

やはり視野の拡大なのかなとすごく思うんですね。いろいろなところに行ってその街の人たちの考え方を知ると「ほんとに自分の視野が広がるな」と特にフランスに行ったときに思ったんです。全然違う考え方をしているけども、彼らなりにはちゃんと理論として正しいんですね。そうすると人間としてどんどん成長していくんじゃないかなと思いましたね。

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