豪商のその後(昭和四十八年調べ)
屋号 |
氏名 |
倒産理由 |
解放後の生業 |
旧邸 |
大坂屋 吉右衛門 |
永田 |
農地解放 |
転居、東京在住、 |
一部高山郷土館 |
谷 屋 九兵衛(本家) |
日下部 |
農地解放 |
高山市長、 |
日下部民芸館 |
大坂屋 七左衛門(本家) |
森 |
農地解放 |
転居、小島町に醤油醸造業盛業 |
|
大坂屋 佐兵衛 |
森 |
大正時代整理 |
|
|
大坂屋 元三郎 |
小森 |
農地解放 |
転居、西之一色町 |
|
谷 屋 平兵衛 |
日下部 |
農地解放 |
下二之町にみやげ物店盛業 |
|
加賀屋 長右衛門 |
二木 |
農地解放 |
酒造業盛業 |
|
吉島屋 休兵衛 |
吉島 |
農地解放 |
|
吉島邸 |
川上屋 斉右衛門 |
川上 |
絶家 |
|
|
桐 山 堪兵衛 |
桐山 |
不明・転居 |
|
|
打保屋 市郎右衛門 |
平田 |
絶家 |
|
|
打保屋 忠次郎 |
平田 |
農地解放 |
酒造業と書店経営盛業 |
|
上野屋 清三郎 |
上野 |
農地解放・鉱山倒産 |
転居、元軍医少将 |
平田記念館 |
坂 屋 清六 |
柿下 |
農地解放 |
教師 |
|
老田屋 敬吉(大坂屋分家) |
老田 |
農地解放 |
酒造業盛業 |
|
上木屋 甚兵衛 |
上木 |
農地解放 |
転居 |
|
滑川屋 長五郎 |
坂田 |
製糸倒産 |
転居、安川通り在 |
|
谷 屋 彦三郎 |
日下部 |
製糸倒産 |
転居、静岡在住 |
|
山下屋 佐助 |
山下 |
製糸倒産 |
転居 |
|
吉野屋 仙十郎 |
伊東 |
不明・転居 |
|
|
ところが、戦後の農地解放は旦那衆から最後の拠りどころの「土地」を奪って、その基盤を根底
からくつがえしたのである。これは単なる経済的崩壊ということばかりでなく、まさに幾世紀にも
わたった不抜の階級制度の崩壊でもあった。昭和二十三年のことである。
こういう厳しい現実の中で、飛弾の旦那衆が生き残るための最も堅実な道は、谷屋の家訓にも
ある「場所宜しき処(良田)を買い整えるやう心掛ける事」であった。
しかしながら、豪商達が動かしていた商品のなかでも、木材は年々切りつくされ、又鉱山にしても
本来投機的なものであり、これに手を出して大打撃を受けた旦那衆は数知れないものであった。
又、明治以降に登場した製糸(生糸)にしても、これに手を出した旦那衆は勃興も早かったが没落
もあっという間であった。
高山の豪商は、明治維新で大名への貸付金が回収不能に陥り、大きな打撃を受けるが、それで
もゆうゆうと危機をを突破し、昭和初期の大恐慌でもびくともせず、伝統をほこってきた。
この一万七千円という金額は、この年の日本の輸出総額が三千七百万円だったことでもわかるよ
うに、当時日本の歳入の約三千五百分の一、個人の持ち金としては常識を超えた金額だったので
ある。しかし、この吉島家においても、高山町の『税金取立台帳』の明治四年石高調べを見ると上
位十数人の中の十六位の位置にあったのである。
明治十八年大坂朝日新聞に、岩城の国信夫郡高橋清七なるものがあまりにも金銭を湯水の如く
つかうので取調べをしたところ、同類二人で飛騨国高山二之新町の酒造業吉島休兵衛宅に忍び
こみ、土蔵を破り紙幣一万五千円と正金二千円を盗んだとの記事が出た。この記事中にある吉
島休兵衛は高山二之新町の豪商である。
旦那衆の崩壊
しかしながら、この飛騨では旦那衆の奉仕によるものが多い。神社仏閣や屋台は勿論その他にも
いろいろある。例えば高山の中心地鍛冶橋を最初に寄付したのは大坂屋である。長淀村の橋も同
じである。又、谷屋は天保飢饉のとき、各村々に三千両を無利子で五か年貸し、嘉永の水害では
一千四百両を困窮者に施与している。このように大坂屋・谷屋等の旦那衆は儲けるのも儲けたが
それなりに民衆のためするべきこともしていたのである。
しかし、飛弾の豪商達が動かしていた金はあまりにも大きすぎる。これについてある旦那衆のひと
りはこんなことを言った。「大名貸し・他領貸しの利息が、産物の少ない飛弾の経済を補った」。谷
屋・打保屋が飛騨へ出てきた頃には大坂屋は既に大名貸し・他領貸しを始めていたのである。材
木や他のいかなる産業の儲けよりも大きく、外貨を飛騨へ持ち込む大名貸し・他領貸しでごっそり
儲けていたのである。
三木・金森の時代の飛騨では、いまだ斧を知らない千古の原始美林が山野をおおっていた。この
無尽蔵の森林資源と益田川・高原川の豊富な水量の急流は、木材川下げに最適の条件を備え、
金森を太らせ「木材大名金森長近」の異名が生まれた。その成功の秘密は御用商人による請負
方式であった。金森移封後、幕府も又同じく金森方式を踏襲した。これを請け負った御用商人の
筆頭である大坂屋もたんまり儲けたことはいうまでもない。
そこで大坂屋なるものが御用商人として三木・金森時代、天領時代を通じて何をしてきたか、つま
り大坂屋の果たした役割である。大坂屋の活躍は谷屋・打保屋が村を出たという寛文ごろよりずっ
と前の古い時代の話である。
天正年間(1573-92)以前に飛騨へ入ってきたという大坂屋の財力が、戦国騒乱を逃げてきた堺
の密輸商の財宝だとする想定は話としてはなかなか面白いが、ただ惜しむらくはそれを裏づける
資料はない。そういう中でしいてあげれば、屋号が大坂屋といったこと、古くから堺との往来が高
山にあったらしいこと、さらに高山の屋台に次のような密輸品伝承品が残っていることなどである。
恵比須台の大幕 オランダ古渡り葛錦
五台山の中段大幕 南蛮渡来の毛織に丸山応挙下絵の獅子牡丹刺繍
崑崗台中段大幕 南蛮渡来緋羅紗
鳩峯車の胴掛け(横幕) 中国明代の綴錦
いずれにしても、堺や長崎の貿易商となんらかのつながりのある者がこの高山にいたか、それと
も関係者をしっていたかのいずれかであろう。
幕末に入ってからは、谷屋・大坂屋のほかにも桐山屋・上木屋など大きな商人が続々現れてき
たが、それでもこの大坂屋の財力ははるかに引き離していた。
【大坂屋七左衛門】
高山にはこのほかに、金森以前からこの地にいた大坂屋という豪商がいる。郷土史家の話では
「大坂屋というものは、この高山では谷屋・打保屋なんかよりうんと大きかった。今は森・小森・永
田・老田などを名乗る数家に分かれているが、前身はよく分からない。私の聞いた範囲ではどこ
から来たのか三木氏の松倉城下に住み着いて、大坂屋を名乗り、三木氏の御用商人になり、松
倉城が落城すると、今度は新城主金森の御用商人になったらしい。堺の町人あたりとよほどの関
係があったらしく、盛んに行き来していたが、いづれにしてもあまりにも大きく謎につつまれている」
という。いづれにしても大坂屋は初めから高山一の政商であった。
一方、分家のほうも負けてはいなかった。特にめざましい発展をとげ一時は本家をしのいだのは
下二之町の谷屋平兵衛であった。全盛期は筏流しの材木、北陸からの上り塩などを扱い、大名
貸しでは打保屋と組んで最後まで派手にやった。もっともしまいにはこの大名貸しは大きく踏み
倒されて明治を迎える。この時、富山藩関係で踏み倒されたのは計一万一千両にのぼったとい
う。それでも谷屋日下部一族はびくともしなかった。
当時飛騨では他国から買い入れる商品は木綿、塩、米、肴類、茶、呉服、麦その他を加えて計
三万三千両であったと高山市史にしるされている。他国から買い入れた日用品の送金額より多
い谷屋の余剰資本は外に活路を見出さなくては消化しきれるものでないことがよくわかる。
谷屋九兵衛の家訓につぎのようなことが残っている。
一.店卸しに一万両を越えるときは、別家を出して配分すること。過分の身分となり、贅沢しては
相続もなりがたく、これをよく守って家業大事にすること。
一、水田が不足しているから、場所よろしきところ(良畑)を買い整えること。
これに基づいて、天明ころから次々と分家したのが、谷屋平兵衛・谷屋又兵衛・谷屋治兵衛・谷
屋彦三郎などである。それでも本家谷屋九兵衛は弘化四年の店卸しでは資産四万二千両にふ
くれあがっていた。
その利益は莫大なものであった。特に天明三年の飢饉の年には「諸商売不景気にもかかわら
ず北国米の利益多大にして当年も相応の利益あり」と谷屋の大福帳に記入されている
こういう大名貸しで注目すべきところは、江戸初期の大名貸しがほとんど無担保の例が多いの
に比べ、この谷屋・打保屋などの北国貸しはいつも米が抵当物件になっていたことである。これ
は貸し金というよりおそらく初めは米代の前わたし金という性格のものであったのに違いない。
恵比須台自慢の「越前宰相相下付の陣幕」や「右大臣藤原家郷卿下付の伊達柱」などもこの大
名貸しに関係深い商品であり、大名貸しの質草とみる人もある
このほか、打保屋に残る古文書を見ると、谷屋九兵衛・平兵衛・打保屋忠次郎の三家が天保十
年から嘉永五年まで十二年間に濃州郡上藩藩主青山大善に共同で貸し付けた金額は一万五
千百九十両に達している。
一目瞭然である。営業金額の半分以上が貸し付け分である。その六千両貸付の内訳は高山近
在に二千六十両で、残余は越中富山藩へのいわゆる大名貸しであった。初めは高山近在あい
ての小金貸しでだったものが、元手が大きくなってくると、必然的にそれでは消化しきれず、ここ
に生まれたものが他領貸しで、やがて「勝手元不如意の大名」への貸付が始まった。このほうが
金額も大きく、したがって利潤も大きかった。
この頃になると「店卸し一万両」を越えて、大坂屋に次ぐ豪商にのし上がっている。その営業品
目は二十余品目にわたっているが、しかしそれよりもっと大きな営業種目が実は金融業であっ
た。天明元年(1781)谷屋の店卸しは次のようなものである。
商品 二千百両
現金 二千三百両
田畑 一千二百両
貸付分 六千両
彼らはそれこそ、爪に火をともすような生活を重ねながら、元禄・享和・安永と徐々に実力を蓄え
こつこつぬけめなく基盤を築いていったのである。彼らが村を出てから百年ほど経った安永三年
(1774)、第二次大原騒動の真っ最中大原代官が高山の有力町人65人にご用金を命じているが、
谷屋は大坂屋とともに、最高額百両クラス七人の中に顔を並べるようになった。こうして谷屋の
経営が軌道に乗ってきたのは三代目谷屋九兵衛の代である。
当時の入質証文によると殆どは田畑のものであり、利息については記入されているものは少な
いが記入されていたものは二割五分になっていた。それより高利のものは違法として記入でき
なかった。いずれにしてもこういう高利の金というものはいったん借りたら返せない。こうして、高
山にはぞくぞく町人地主が誕生した。谷屋もその一つであった。
伝承では寛文年間(1661-73)に越中との国境に近い、稲もほとんど実らない僻山村の小鷹利郷
谷村から出てきた。同様に打保屋も谷村の隣の小鷹利郷打保村から出ている。近世江戸や大
坂の豪商がそうであったようにぼてふり(振り売り)行商の小商いを二代三代と続けてやっとわづ
かな小金が出来ると、彼らが一様に始めたのが金貸しで、これがなんの商いより割がよかった。
この当時の大名貸し・他領貸しの一例は高山市史によるとつぎのようなものである。
二大豪商
【谷屋九兵衛】
この天保三年から九年までの六年間は不作続きで、世に言う天保の大飢饉といわれた時期であ
る。米価は平年の四、五倍になり、「山中村々の窮民、乞食となって高山町へ入り来るもの千人
内外あり、飢寒にくるしみて倒死するもの相つぐ(「飛騨編年史要」天保七年の冬)という時期であ
る。このような時期に、というよりこのような時期だからこそというべきか、彼ら強きものは益々強
くなり、貧しきものは益々貧しくなっていったのである。
西暦 |
和暦 |
貸主 |
借主 |
世相 |
1778 |
安永七年 |
大坂屋七左衛門 |
(越中)八尾村他五か村 |
大原彦四郎眼病祈祷 |
1788 |
天明八年 |
大坂屋七左衛門 |
(越中)富田様他武家三名、八尾町人中他三町 |
第三次大原騒動 |
1810 |
文化七年 |
谷屋平兵衛
打保屋忠次郎 |
(越中)富山藩御家中(江戸へ出訴) |
|
1815 |
文化十二年 |
谷屋九兵衛
坂屋清三郎 |
(越中)富山藩勘定所千八百四十両
切手米 三千七百四十石引当(抵当) |
|
1834 |
天保五年 |
谷屋平兵衛
打保屋市郎右衛門 |
(加賀)加賀藩御百姓中(江戸へ出訴) |
天保の大飢饉 |
1835 |
天保六年 |
大坂屋七左衛門
大坂屋佐兵衛 |
(加賀)前田図書他四人 |
上木屋甚兵衛
上木屋甚四衛 |
(越中)新川郡二十か村百姓 |
上木屋甚兵衛
上木屋甚四衛 |
(信州)本洗馬村他六か村百姓(江戸へ出訴) |
1836 |
天保七年 |
打保屋市郎右衛門
谷屋平兵衛 |
富山加州領(江戸へ出訴、一年後返済) |
打保屋市郎右衛門
他四人 |
(越中)柿吉村他四十七か村ならびに東岩瀬 |
打保屋市郎右衛門 |
(越中)高岡藩田屋喜兵衛 |
1839 |
天保十年 |
坂屋清六 |
富山松平出雲出守御家中小塚主殿、
山田幾右衛門 |
|
加賀屋清三郎 |
富山藩御家中小塚主殿 |
|
1841 |
天保十二年 |
上木屋甚兵衛
上木屋甚四衛 |
(越中)新川郡秋吉村 |
|
元禄頃から明和・安永と貨幣経済発展の波に乗って次第に財力を蓄えてきた飛騨の豪商たちが
高山にも続々現れて、そんなあるものは大名に金を貸す「大名貸し」さえ始めていた。しかも大原
騒動、天保の大飢饉の時期にである。こういう時期に他国の大名にまで金を貸したいた人がこの
高山にいたことは驚くほかない。また、この表にはでていないが、谷屋九兵衛の天明元年(1781)
店卸しには、六千両の大名貸付金が記されている。これは北国米(北陸越中の米)を抵当にした
富山藩への大名貸しである。