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小さな守護者 |
夏の日の夕暮れ、少年が泣きながら道を歩いていた。
少年の服は泥に汚れ、体のあちこちに擦り傷があった。
「う……ひぅっ……」
しゃくりあげながら目から零れる涙をこすり、手についた泥が頬にべっとりと広がる。
少年は足に靴を履いていなかった。
もうずっと裸足で歩いてきたため、少年の足の裏の皮は破れ、一歩歩くごとに血が滲んでいた。
「ぅう……痛いよぉ……」
家までの道のりはまだ遠く、この痛みに耐えてずっと歩いていかなければならないのかと思うと、絶望的な気持ちになってしまう。
ついに少年は道の端に座り込み、うずくまって泣き出してしまった。
「う……うぇぇ……なんで……なんで僕ばかり……」
道沿いには建物は無く、人の姿も無い。
青い稲の揺れる田んぼが広がり、所々に農家の作業小屋が建っているのが見えるだけだった。
カラスの鳴き声が聞こえる。
日は傾き、東の空はもう夜の色に染まっていた。
「宗治! 宗治〜!!」
道の先からの声に、少年は顔を上げた。
微かに残った夕日の光に照らされた道を、長髪の少女が駆けて来ていた。
「お姉ちゃん……」
少女を見て、少年は声を出した。
「お姉ちゃんっ!」
血の滲む足で立ち上がろうとするが、刺すような痛みに思わずよろめいてしまった。
少女は少年の声を聞いたとたんに走る速度をぐんと上げ、少年が倒れる前に抱きとめた。
「宗治! 大丈夫!?」
「お……お姉ちゃん……おねえ……うぇえ……」
「よしよし、泣かないの。お姉ちゃんが来たからね。もう大丈夫だから」
少女は少年の頭を撫でて、優しい声で言った。
「宗治、靴はどうしたの?」
「ケンジ君たちにとられて……隠されちゃった」
弟の言葉に、少女はきりきりと目を吊り上げた。
「あいつら……性懲りもなく人の弟をいじめくさって……!」
少女の片手には、その愛らしい外見とは不似合いな、やや長めの竹刀が握られていた。
「それで宗治、ケンジの糞ガキどもはどこに居るの?」
「え……たぶん、まだ神社の方に居ると思うけど……」
少女は自分の靴を脱いで、弟に履かせた。
「はい、これ履いて先に家に帰ってなさい」
「え……でも、お姉ちゃんは……?」
「私はこれから糞ガキどもと話をつけてこなきゃいけないからね」
「え、いや、お姉ちゃんは靴はどうするの……?」
ああ、と少女は微笑んだ。
「お姉ちゃんが剣道強いの知ってるでしょ? 足の裏も丈夫だから平気よ」
「で、でも……」
「大丈夫大丈夫。それじゃ、お母さん心配してるから、ちゃんと家に帰るのよ!」
言って、少女は竹刀を振り上げて妙な雄叫びを上げながら、スカートをはためかせて裸足のまま駆けて行ってしまった。
「お姉ちゃん……」
遠ざかる後姿を憧憬の眼差しで見つめ、少年は呟いた。
もう何年も前の、夏の日の出来事だった。
二学期の期末テストが終わると学校は半日の授業日程となり、生徒達は昼過ぎには帰っていく。
テストを終えての解放感と、あと数日で冬休みに入るという期待感が、校門を出る生徒達には自然笑顔にさせていた。
しかしこの時期、部活をやっている者たちは、むしろ練習時間が長くなって平時より辛かったりもする。
橘宗治も例外ではなく、その日も部活を終えて剣道場から出る頃には日はとっぷりと暮れていた。
「今日も疲れたね」
剣道場を出るところで、同級生の町田香織が背中を叩いてきた。
「ああ。部長、やる気出し過ぎだよな。何でまたテストが終わったとたんあんなに元気なんだ」
「ほら、テスト期間中は部活禁止だから……溜まってたんじゃないの? あの人根っからの剣道好きだし」
「まあなあ……確かに久しぶりに竹刀を握ることが出来て、ちょっと気持ちよかったけどさ」
街灯が夕闇の中で灯り、校門に至る道を転々と照らしている。
既に人のまばらな校内を、二人は会話を交わしながら歩いた。
「橘君はすごいねえ。私は久しぶりだと、あの板の間の冷たさで足がじんじんしちゃって……楽しむどころじゃなかったよ」
「ん……そうだな。俺の足の裏も頑丈になったもんだな」
「なんかやけに嬉しそうだね。変なの」
いかにもおかしそうに、香織は笑った。
「変かな?」
「うん。だって、足の裏が頑丈になっても、何があるわけでもないじゃない」
「いや、そうでもないよ。例えば……」
「例えば?」
「靴を失くしても生きていける」
「何よそれ?」
また香織が笑う。
宗治もつられて笑ってしまった。
宗治にとって香織は同性を含めた中でも特に親しい友人で、こうして何でもないことでも笑いあえる仲だった。
くだらない冗談を言い合っていると、気付いたら校門にたどり着いていた。
「あれ? 何か校門のところ、人が集まってるね」
香織が声を上げる。
校門の石壁の脇に、何人かの生徒が集まっていた。
先に剣道場を出た剣道部の仲間達で、彼らは宗治がやって来たのに気がつくと、手を振って呼びかけた。
「おい、橘、なんかお前を訪ねて来てる子がいるぞ」
「え? 俺を?」
行ってみるとそこには、長い黒髪に少し吊り目がちの少女が立っていた。
少女は背の丈は宗治の胸のあたりまでしかなく、一見すると小学生のように見えた。
美人、というよりは可愛い。成長すれば美人になるだろうという容姿であった。
「あ! 宗治! やっときたわね!」
少女は周りを囲む男子生徒の間から宗治の姿を見ようと、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「宗治! ちょっと、早く来なさい! 何か変なのに囲まれちゃって困ってるんだから」
少女の言葉に、周りに居た男子生徒たちが「ええ?」と声を上げた。
「ちょ、ちょっと、お嬢ちゃん、そりゃひどいよ。もう暗くなってるのに子供一人で居たら危ないと思ったから俺達は……」
「だから! お嬢ちゃんっていうのはやめなさいよ! 私はあんたたちより年上なんだからっ!」
「あー、わかった。わかったから。ほれ、橘、早いとこ妹さん引き取ってくれ」
呆れたように言って、男子生徒は少女の前からどいて、宗治の方へと道をあけた。
少女は安心したように息をついたが、宗治の隣に立つ香織に気付くとすぐにむっとした表情となり、宗治に走り寄って香織との間に身を割り込ませた。
そしてまるで宗治を守ろうとするかのように両手を広げ、厳しい目つきで香織を睨みつけた。
「あら……」
香織は自分を睨んでくる、胸元くらいまでの背丈の少女を見て、小さく微笑んだ。
「かわいい〜。橘君、妹さんいたんだ」
「い、いや、妹じゃなくて……」
宗治は慌てた様子で少女を見た。
「姉です……」
少女は小さく震えながら呟いた。
「姉です! 私は宗治の姉ですっ!!」
香織も、他の剣道部の仲間達も、皆一様に口をぽかんとあけて唖然としてしまった。
「え、ええと、橘?」
男子生徒の一人が宗治を見た。
「うん。俺の姉さんだよ」
少女の名は橘霧絵。
幼くは見えるが、紛れもなく橘宗治の姉だった。
「や、待て、でもその制服、栄応女子付属の小学校の制服……」
「付属小学じゃなくて高校の制服よ! デザインが似てるだけなの!」
「いや、でも……そうやって目に涙を溜めて言い返すあたり、子供にしか……」
やはり信じ難いといった風に呟く部活仲間を、宗治は慌てて止めようとする。
「お、おい、それ以上はやめとけ。姉さんは……」
が、もう遅かった。
霧絵は手近にあった植木の枝を折ると、目にも留まらぬ速さで男子生徒の鼻の穴に突っ込んだ。
「うごっ!」
男子生徒が声を上げた時には既に枝は引き抜かれ、次の生徒を標的にしていた。
さすがに剣道部員というだけあって今度の生徒は素早く反応してかわそうとしたが、その動きよりもさらに速く霧絵の手は伸び、先ほど彼女を囲んでいた男子生徒四人は四人とも瞬く間に鼻の穴に木の枝を突っ込まれてしまった。
「いた、いたたっ!」
「うお、きたねぇ!」
「は、鼻血が……」
各々声を上げ、鼻を押さえて地面にうずくまる。
霧絵はどうだとばかりにふんぞり返って、その様子を見下ろした。
「どう! 私を侮辱した罰よ! あんたたち全員、男同士で鼻間接キスしちゃったんだから! 粘膜べっとりよ! ざまあみなさいっ!」
「あちゃー」と宗治は頭を振った。
「……姉さんは、剣道三段なんだよ。というか段位とか抜きにして、めちゃめちゃ強いんだ」
「そ、そういえば、前に剣道雑誌で似た顔を見たような気がするわ……」
言葉を詰まらせる香織の方を、ぎぎぎ、とぎこちない首の動きで霧絵が向いた。
長い髪が風に不気味に揺れる。
ちょっと怖いかも、と香織は思った。
「あんた、言っておくけどね……」
「え、え、はい。何でしょう」
霧絵は拳をぎゅっと握って叫んだ。
「宗治は私の弟なんだからね! もしも変なことしたら許さないんだから! 宗治に手を出したら、姉の私があんたのことめっためったにしてやるからね!!」
「か……!」
香織は顔を紅潮させて、これまた瞬くような速さで霧絵に抱きついた。
「かわいいっ! 橘君のお姉さん、すごくかわいい〜!」
「ちょ、なっ! 何なのあんたはっ! というか胸でかっ!! なんだってのよこんちくしょー!!」
「お、おい、町田……」
宗治は暴れる霧絵を香織から引き剥がすと、ひょいとその小さな体を担ぎ上げた。
さすがに香織の鼻の穴に木の枝を突っ込ませるのは忍びないと思ったからだった。
「ま、まあそんなわけで、今日は俺姉さんと帰るから。それじゃ」
「宗治! あんた! なに人のこと担いでるのよ! 姉を米俵か何かみたいに扱うんじゃありません!!」
「はいはい。それで姉さん、今日は何しに来たの?」
「え? 今日はお母さんが居ないから一緒にお夕食の買い物に行こうと……」
「よし! 今行こう、すぐ行こう」
長居は無用とばかりに宗治は霧絵を肩に担いで走り出した。
「ちょっと! 降ろしなさい! 何なのこの扱いはっ! もっと姉を敬ぇえぇええええっ!!」
もがき、叫ぶ霧絵を抱えたままで、宗治はその場を去った。
「な、何だったんだ……?」
後には鼻血を流す男子生徒四人と、それを介抱する女子生徒が残された。
橘霧絵、十七歳。
あの夏の日から六年、彼女の外見は全く成長していなかった。
学校の帰りに買ってきた食材を居間に放り出すと、霧絵はそのままソファーに突っ伏して泣き出してしまった。
「あ、あの、姉さん? どうしたの?」
「どうしたもこうしたも無いわよっ!」
顔を上げて、キッと宗治を睨みつける。
頬は紅潮し、目尻には涙を溜めていた。
「宗治、あんた……お姉ちゃんのこと、お友達に話していなかったんでしょう!?」
「え、や、まあ……」
「どうしてよ!? どうしてお姉ちゃんのことを話してくれないの!?」
「どうしてって、機会が無い限りわざわざ話すことでもないし……」
「わざわざ話すことでしょう! 私なんて、学校で友達に毎日毎日宗治のことを話しているわよ!?」
霧絵は小さな拳を握って力説した。
「大好きなきょうだいのことなら、話したくて仕方なくなるのが普通でしょう!」
「い、いや、どうだろう」
「おまけにさっきの態度は何? お姉ちゃんをお友達から引き離すみたいに担いで逃げて……そんなにお姉ちゃんをお友達に紹介するのが嫌なの?」
「嫌とかじゃなくて、姉さんあの時暴れだしそうだったし……」
「ううん……やっぱり嫌なんだわ。お姉ちゃんがこんなだから、恥ずかしいと思ってるんでしょう……?」
霧絵の目にまたじんわりと涙が浮かび、ぽろぽろとこぼれた。
「お姉ちゃんがちっちゃいから……おっぱいも無いから……だから人に紹介するのが恥ずかしいんでしょう……」
確かに宗治は、人前で霧絵と接するのが恥ずかしくはあった。
しかしその恥ずかしさは、霧絵の外見よりも、その性格によるところが大きかった。
「いや、おっぱいとかは関係無しに、姉さんは……過保護だから」
「過保護……?」
「うん。姉さん、何かあるとすぐ見境無しに攻撃するんだもん。その辺がちょっと……人前に出しにくいというか……」
霧絵は俯いてぶるぶると震えた。
「過保護の何か悪いのよ……」
「ね、姉さん?」
「お姉ちゃんが弟を護るのは当たり前じゃないのよっ! 何も悪いことじゃないでしょー! 何でそれを嫌がるのよ、こんちくしょーっ!!」
霧絵はまたソファーに突っ伏して、それこそ子供のように泣き出してしまった。
「姉さん、ちょっと、落ち着いて……」
「落ち着いてられますか! 護って欲しくないってことは……もう……もう、お姉ちゃんなんかいらないってことでなんでしょ……? もう一緒に居られないってことなんでしょ……?」
「な、なんでそうなるんすか」
「だって……お姉ちゃんおっぱいもないし、女の子らしくないし……剣道しか取り柄が無いから……宗治を護って役に立つくらいしか居る意味がないもの……」
霧絵はわんわんと泣き、鼻を啜った。
「だから宗治が剣道をやることも共学に行くことも反対だったのにぃ……すっかりいじめられなくなって、巨乳にも慣れちゃって……だから嫌だったのにぃいい……」
「姉さん、頼むから落ち着いて……」
宗治は泣き叫ぶ霧絵を抱きしめて、小さな子をあやすように背中を撫でた。
「役に立つとかそんなの、別に必要ないだろ?」
「必要あるに……決まってるでしょ……ひぐっ……じゃないと……ずっと一緒に居られないじゃないのよぉ……」
「姉弟ってだけで十分だろ。そんなのは気にしなくていいんだよ。それを言うなら俺の方こそ全然姉さんの役に立ってないしさ」
霧絵の嗚咽が次第に収まっていく。
宗治の胸に顔を押し付けて、肩を小さく震わせるだけになっていた。
「俺にとって姉さんはそこに居るだけで意味があるんだよ。お互いただ居るだけで支え合うことになってると思うんだ。だから……これから先俺が姉さんに護ってもらう必要がなくなっても、ずっと一緒なのは変わらないよ」
「ぅう……本当……?」
霧絵は涙でくしゃくしゃになった顔を上げた。
「本当に……これからもずっとずっとお姉ちゃんと一緒に居てくれるの? 一生お姉ちゃんの傍に居てくれるの?」
「当たり前だろ。姉さんと俺は、ずっとずっと一緒だよ」
宗治の一言に霧絵は一気に顔を赤らめ、声を震わせた。
「お、お、お姉ちゃんがんばるわっ!」
「え?」
「頑張って、料理も上手くなる! 裁縫も頑張っちゃう! ついでにもっとたくさん食べて、宗治好みのムッチムチの体になるわ!」
霧絵は先ほど床に放り出した買い物袋を持ち上げ、キッチンに向かった。
「あ、あの、姉さん……」
「ん? なあに?」
「よくわからないけど、別に俺、巨乳とか好きじゃないからね」
霧絵はにこりと笑ってガッツポーズをとると、台所に消えた。
数日後は終業式だった。
さすがに部活も無く、部員達で適当に街に遊びに出ようかと相談しながら歩いていると、校門のところに人だかりが出来ていた。
「ねえ、橘君……あれ……」
香織に促されて見てみると、校門の脇には霧絵が立っていて、小学生と思って話しかけてくる女子生徒たちにぎゃぁぎゃぁと言い返していた。
「ね、姉さん……?」
「だよね、やっぱり」
剣道部男子部員達は、先日の記憶が鮮やかに蘇り、思わず足を止めてしまう。
霧絵のもとまで歩いていけたのは、宗治と香織の二人だけだった。
「あ! 宗治!」
宗治の姿を認めると、霧絵はぱっと顔を輝かせ、駆け寄ってきた。
そして、また香織と宗治の間に身を割り込ませるようにした。
「あ、あの、どうも。先日は失礼しました」
香織は萎縮しながら頭を下げた。
「妹さんなんて言ってしまって……その、お姉さん。私、町田香織といいます。橘君とは部活が同じで……」
「違います」
鋭く香織を睨みつけて、霧絵は言った。
「え?」
「妻です」
霧絵は頬を赤らめながら、胸の前で両の拳をぎゅっと握った。
「わ、私は、宗治の妻です!」
「ええ!?」
香織が何ぞこれといった表情で宗治を見る。
(何がなんだかわからないけど、どうしよう……)
宗治は姉の言葉に、ただ頭を押さえて呻くのみだった。
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