■恋夢■
−1−


    1

 「あのビルの展望台に行こうよ!」
 君は、あのビルを指さしてそう言い、手袋を外した右手を差し出した。
 ぼくは何がなんだか分からなかったけれど、その差し出された君の右手を取って握った。
 そして、君とぼくは、街の中を駆け出した。
 それが、始まりだった。

 淡いパステルカラーの、ふしぎな世界のアンバーなコンクリートジャングル。
 夕暮れ時。
 葉の落ちた紅葉樹の並木の煉瓦歩道。
 そんな歩道ですれ違う人は多くない。
 車道にはクルマやバス。真中には芝生が植え込まれている路面電車のレール。
 帰宅時間だからか、少し混雑しているようだ。
 ここは、まるで「現実の世界」と変わりがなかったけれど、「何か」が決定的に違っている気がする。
 そんな「世界」でぼくは、君と出逢った。突然に。何の前触れもなく。
 季節は冬、……たぶん。
 君もぼくも、コートを着ていたから。
 君は、その暖かそうな白いコートを着て、ベージュ色のミニスカート、黒いタイツに膝下までのヒールの低い茶色いブーツで下は着飾り、襟元には赤色をメインにしたチェックのマフラー、手には淡い青色の指先のない手袋をしていた。指先がキラキラ輝いている。髪は肩に届くか届かないくらいの長さで、風になびいている。目は大きめで、茶色の瞳。小さくて、魅かれる笑顔。背はぼくより少し……、一五センチくらい、低い。
 君は、そんな女のコ。
 ぼくは、紺色のダッフルコートに黒いスリムジーンズ、それに黒色でハイカットのキャンバス地のスニーカー。手袋も黒色だった。全体的に黒っぽい中、マフラーだけが唯一白っぽい色で、目立っていた。
 かっこうはよくはないけど、悪くもないように思う。
 君とぼくは、パステルカラーの街を駆け抜けた。
 途中で握っていた手を放して、点り始めた街路灯の柱にに隠れたり、車止めを飛んで跨いだり、街路樹の枝に触ろうとして飛び跳ねたり、花壇の縁を平均台に見立ててバランスを取りながら歩いたり、それで倒れそうになると抱き止めたり……。
 いろいろとはしゃぎ回って、ビルのエントランスにたどり着いた。
 回転ドアも遊び道具。わざとまるまる一周してみたり、狭いスペースに二人で入ってみたり、もう一度二人で入るのかなぁなんて思ってると、一人にさせられたり、悔しいから、また一周りしたり……。
 ドアボーイが立っていたらきっと怒られたと思うけど、いなかったので、心行くまで遊んだ。
 どうにかこうにかエントランスを抜けた君とぼくは、次にエレベーターホールを探した。
 電球色の間接照明で少し薄暗く、人気のないエントランスホールに、君とぼくの笑い声が響き渡る。
 ホールの柱に隠れたり、エレベーターホールかなと思って行ったスペースには公衆電話が並んでいておかしかったり(仮に、掛けたらどこにつながるのだろう?)。
 そして、ようやく見つけたエレベーターホール。
 しんと静まり返った間接照明のホールで、ワゴンは六つ用意されていた。ホールからは、窓を通して中庭の庭園が見える。
 君が呼出しボタンを押す。もしかしたら反応がないのではと思ったが、その透過光は当たり前のように光った。しばらくして、静かに到着のチャイムが鳴り、その扉が開く。ガラス張りの透明でアンバーな照明のワゴンは、ガラス越しに外が見渡せる。
 さっそく乗り込む。君が最上階のボタンを押す。
 ワゴンは、扉が閉まると、ぐんぐん加速を続けた。
 窓から見える小さな明かりの粒がひしめきあう街並みが、どんどん足下から離れていく。ホントに足下が見える分、ちょっと恐い。
 それを察知したのか、君はぼくの手を握ってきた。
 「高いところが嫌いなの? 恐い?」
 君は、笑顔で訊いてきた。
 ちょっとね。
 「だけど、もう少し空に近付こ」
 君は「ねっ?」というように、首を傾げて微笑んだ。
 ワゴンは少しずつスピードを緩め、やがて止まり、扉を開けた。止まった時は、まるで宙に浮かんでいるような感じがした。もはや視線を下に向けることはできない。
 展望室は、大部分の照明を落としていて薄暗く、ほとんど外と同化している。人気はない。
 恐る恐る窓辺に近寄った。
 ガラス越しに、小さな明かりの粒がひしめきあう、イルミネーションジャングルが、拡がっていた。
 まっすぐ伸びた道路が心地よい。
 君とぼくは、ただ何も話さず、しばらくその光景を見つめていた。
 空はトワイライト。もうすぐ日が暮れる。
 「……もうそろそろ帰らないと」
 君は、つまらなさそうにつぶやいた。
 だったら、ここにこのままいればいいんじゃないの?
 「そういうわけには、いかないのよね……、規則だから」
 規則……?
 「そっ、規則、そういうのは、どこの世界にもあるものだけれど」
 ……、ねっ、そういえば君の名前は? 教えちゃいけないっていう規則があるの?
 「あっ、そういえば、まだだったね、えーっとですね、……改めまして、カナって言います」
 えっと、ぼくは、ヨウト、です。
 「あはは……、なんかヘン」
 君とぼくは、笑い合った。
 ……また、逢えるよね。
 笑いを堪えて話を続ける。
 「ええ、もちろんよ、またここで逢いましょう」
 いつ逢える?
 「逢いたい時が、逢える時よ」
 カナは、「ねっ」というように首を傾げて微笑んだ。


     2

 ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ……。
 ……電子音のアラーム……。
 起床時間らしい。寝惚け眼で壁の時計を見る。
 針は七時三〇分を示している。
 ……さっきの女のコ−カナって言ってたっけ−。何だか手に、そのコの感触が残っているような気がする、確実に。彼女の手は温かく、柔らかかった……。
 うーん……、……朝だ……。……背伸びぃー……。

 十二月十四日。土曜日。
 カーテン越しなのに、朝日が眩しい。
 今日は期末試験予備日。けれど、追試験とは無縁なので、実質的に休み。クラスメイトの殆どは、予備校とか進学塾に通っているけど、それも無縁。ぼくにとっては、正真正銘の休みだ。もう少し寝てようかと思ったけど、せっかく起きたんだから、起きますか。
 体温が逃げないようにさっさと着替えて、階下のリビングに行く。
 リビングの入り口のドアを開けると、ピザが顔をびっくりさせていた。ごめん、ごめん、おどかせて。
 ピザは、家の飼い猫で、姉が秋に会社の人にもらってきた二歳のオスだ。ちなみに雑種。家にやってきた早々、ピザを盗み食いしたので、ぼくがそう名付けた。
 リビングは暖房が利いていて心地よかった。
 「おっ、今日は休みだってな?」
 父さんが既に起きていて、ソファで新聞を読んでいた。
 うん。
 「休みにしては、起きるのが早いな」
 習慣みたいなものだから。
 キッチンに行って、自分のカップに作り置きのコーヒーを注ぐ。薄いアメリカン。
 それに、十時に待ち合わせがあるから。
 「母さんが、フレンチトーストを作っておいたぞ、たぶんレンジの中だ」
 ん、あった。
 トースト二枚。早速温める。二分くらいかな。
 冷蔵庫の中をあさる。サラダ発見。この入れ物にある卵は、ゆで卵……? ドレッシングは……、と。
 母さんは?
 「自治会の掃除、今日は公園の掃除だそうだ、八時半頃には帰ってくる」
 ふーん、お姉ちゃんは?
 「昨日から帰ってないはずだけど、明日の夕方帰ってくるって」
 そっ、か……、……そういえば、父さんが休みの日に家にいるって、久々だね。
 「そうだな」
 がさりと新聞をめくった。
 ぼくはTVのリモコンを探す。新聞広告の下にない? んっ、あった。
 TV、つけていい?
 「いいぞ」
 って、つけても面白そうなの、ないじゃん。まっ、報道番組でいっか。
 TVでは、最近になって話題になっている芸能人夫婦の離婚騒動を報じていた。普段なら下らないことなんだけれど、実は、友だちのヨッシーの両親の騒ぎなので、少し気になる。
 チンっとレンジ。トーストの載ったプレートを取り出す。あっちっち。
 いっただきまーす。
 キッチンからTVを見ながら食べる。
 「たばこ、吸っていいか?」
 父さんはたばこの箱を持って、キッチンの換気扇の下に来た。ついでにピザもついてきた。
 ここ以外での喫煙は厳禁と、一昨年引っ越してきた際に母さんが決めたのだ。灰皿はそのそばにしかない。
 マッチで火を付けた。
 「父さんな、仕事で来週から海外に行くことになった」
 思わず食べる口が止まる。
 海外って、どこ?
 「シンガポール」
 煙を吐いた。
 いつから?
 「来週の金曜日からだ」
 どれくらいの間?
 とりあえず食べ続ける。一枚目のトーストを食べ終える。サラダにフォークを付ける。
 「分からない、向こうでプラントが順調に動くまでだ」
 煙はふわふわと漂った挙げ句、換気扇の中に吸い込まれていった。
 ずいぶん掛かりそうだね。
 「ま、それでも正月ぐらいは帰ってくるつもりだが」
 コーヒーの入ったカップに口を吐ける。
 母さんやお姉ちゃんには話したの?
 煙草に口を吐けて、大きく吸い、煙を吐き出した。
 「まだだ」
 どうして?
 二枚目のトースト。
 「まずは男同士の話だ」
 コーヒーを飲む。
 そっか。
 煙草をもみ消した。
 「受験で大変だろうが、家のこと、少しは頼むぞ」
 うん、父さんも気を付けてね。
 トーストを残ったコーヒーで飲み流す。
 「受験、頑張れよ、ヨウトならできる」
 ピザも僕を励ますかのように鳴いた。

 父さんは、その方面では大変な技術者で、代理が立てられない仕事をしている。「早く後継者を育てていかないと」といつもぼやいているけど、仕事に追われて育てているヒマがないのが現状らしい。
 以前は、代理が何人かいたけれど、十年ほど前に航空機事故に遭ってしまい、たまたま家族の用事で乗り合わせなかった父さんだけが難を逃れた。だから、仕事は残った一人に集中する。
 それ以来、父さんは飛行機に乗りたがらないのは言うまでもない。そのため最近まで国内の仕事ばかりをやっていたが、会社が大体的に海外事業に進出したため、そうは言ってられなくなり、今年の夏辺りから海外出張が増えた。
 休みの日は家にいるのが当たり前だった家が淋しく感じられるようになったけど、今ではいくぶんそれに慣れてきた。
 「休みが減ったなぁ」
 父さんのそんな愚痴が最近増えた。それに、疲れているのが、ぼくの眼からでも分かる。
 けれど、父さんが海外に行くこと決まったので、国内にも技術者を残す必要があるということで、後継者の育成が始まった。「ようやく落ち着けるかな?」と言った父さんの顔は久々に緩んでいた。

 午前十時半になる二十分前。駅前の広場を見下ろすドーナツショップ。
 今日は、見下ろしているその広場で十時半に「ドーナツ組」が集まってから近くの図書館に行って、受験試験の共同追い込み勉強をすることになっている。来週、ひーちゃんとミッキーが、推薦入試を受けに行く。ミッキーは他にもいくつか受けているから大丈夫なんて言っていたけど、ハルは初めての受験。それで念入りのために、一緒に勉強することになったのだ。
 にしても、外で待つには余りにも寒い時期。やっぱりぬくぬくとしたところで時間を潰したい。アイテムは雑誌と参考書、それからおかわり自由のコーヒー。
 「ドーナツ組」とは、ぼくたちの仲間のことで、よく学校近くのこのドーナツショップに集まるので、マイが名付けた。
 そのマイが、ぼくの次に店にやってきた。考えることが同じみたい。
 「あれっ、もう来てたの?」
 どーしたの? いつも時間ギリギリに来るのに。
 「いーじゃない、たまに早く来たって」
 まぁ、そうだけど。
 マイは、コートを脱いで、椅子の背もたれに掛けた。
 「ヨウトっていつも早く来てるんだね」
 そだね、たいてい一番だね。
 「どうして早く来るの?」
 遅れたくないから、じゃないの?
 「誰かさんに聞かせてあげたいね、その言葉」
 例えば誰?
 「分かってるくせに」
 そう言うマイだって、いつも遅刻ギリギリじゃない。
 「そーでした……、……ココア、買ってくるね」
 マイは、バッグの中から財布を出して、カウンターへ行った。
 ドーナツ組の遅刻癖は、いつもながらひどい。遅れてくるのが当たり前といった感じがあって、早く来るのは損ということは明白である。しかも遅れてきても誰も怒らないから、遅刻癖は一向に治る気配がない。……でも、いずれ治るでしょ。
 案の定、今日も集まりが悪い。
 五分ぐらい前に着くのは、まぁ、納得。ひーちゃんやミッキーのことだ。
 約束の時間ちょうどに来るのもよしとして。ヨッシーだ。それから、遅れても五分くらいなのも、まぁ、わかるとして。キミちゃんだ。だけど、どーして一番近くに家があるはずのマッキーが三〇分以上も遅れるわけ?
 しかたないので、今のところ最後に来たキミちゃんが、図書館の下見に行ってくれた。と言うより、罰ゲームの一環で、行かせた、に近いんだけど。
 ところが、マッキーが来るまでに、図書館の下見に行ったキミちゃんが戻ってきた。どーして……、どーしてマッキーはこんなにも遅れる?
 で、図書館の偵察報告。
 「ダメ、どこの席も空いてなかった」
 「やっぱ、シーズンなんだな」
 どーする? どこでベンキョーしようか?
 報告会が一転して検討会に変わる。
 「学校は使えるかなぁ?」
 「追試験だけど、いくつかの教室は空いてんじゃないの?」
 「図書室は?」
 「あっ、本の整理だとかで立入禁止だよ」
 それ以前に、学校は今日は三時で閉門じゃなかったっけ。
 「そうでした……」
 「……誰かの家を借りる?」
 「それじゃあ、あたしのところでしようか、一番近くだからいいでしょ」
 「と言うよりかは、遅れてきたバツだな」
 「決定、マッキーのところで追い込み勉強」
 「はーい、移動、移動」
 「撤収、撤収」
 「えーっ、少しぐらい食べさせてくれたっていいじゃない」
 「遅れてきたあんたが悪い!」

 仕方ないので、マッキーのためにいくつかのドーナツをテイクアウトで買った行くことにした。もちろんぼくたちの分も買う。全部で三〇個近くのドーナツ。ショーケースのドーナツがあっと言う間に減ってしまった。
 マッキーの家は本当に近くって、そのまま駅前から歩いて一〇分とかからなかった。つまり、マッキーは集合時間を完全に過ぎてから家を出ているということになる。確信犯だ。これは大問題。
 近くのコンビニで飲物とか、お昼ご飯の代わりになりそうなものを調達して、マッキーの家に向かった。
 玄関に入ると、十歳くらいのやたらと笑顔の男のコが迎えてくれた。
 「どうしてこんなに近いのに、毎回遅れるんだ?」
 玄関に入りかけていたひーちゃんがそう問いかけた時、ぼくは何となくその答えが見えたような気がした。ミッキーもそうだった。
 「マッキー、訊き辛いんだけど、このコ……」
 「そう、ちょっち知恵遅れでね……、でも、カワイイからさ、ついつい構いすぎちゃって」
 マッキーはそれほど気にしていない様な口調で応えた。
 「こんにちは、お名前は?」
 マイの優しいお姉さん的な話し掛け。
 「……」
 そのコは何かをしゃべりたがっている素振りを見せながらも、結局話せなせず、指をしゃぶっているだけだった。
 「初めて会った人には、なかなか話せないんだ、でも気にしないで、嫌ってるわけじゃないから」
 「今度会う時は、何か話してくれるかな?」
 「気に入ってくれればね、大丈夫よ、みんな気に入ってもらえるわ」
 「名前はなんて言うの?」
 「カズヤよ」
 みんなが玄関を上がると、マッキーは広い和室の客間に通してくれた。
 「ちょっと寒いけど我慢して、今エアコンつけるから」

 その部屋で簡単なお昼ごはんを食べてから、勉強を始めた。さすがにこの時期ともなると、大学入試のこともあるので、みんなまじめだ。
 「ねぇ、これ尊敬語だっけ? それとも謙譲語?」
 「話しかけている相手はどうなの?」
 「……、わかんない……」
 そこは確か帝じゃなかったっけ?
 「じゃあ謙譲語だ」
 片や数学。
 「……で、χに代入して……、……ほら、答えが出たじゃない」
 「……そっか、さっきと同じやり方かぁ」
 そっちは地理をやってる。
 「サウジアラビアは政策で食料の自給を目指してて、だから小麦の生産量が多いわけ、気候区とは一致しないから、気をつけたほうがいいよ」
 「サウジってさ、砂漠と石油だけかって思ってたから、何だか意外だね」
 「そこを突くのが、試験じゃないの?」
 「砂漠に小麦畑って、そんなマンガがあったような……」
 「ねぇ、ヨウト、ここの訳がわかんないんだけど……」
 突然英語。
 どれどれ……、これは、慣用句だから、覚えておいたほうがいいよ、……ってぼくも詳しく覚えていないから、はい、辞書。
 「……慣用句だけをまとめた本ってないかなぁ?」
 「いまさら覚えるの? 間に合わないよ」
 「そっかなぁ……」
 「ボクのこれ、貸したげよっか」
 「へぇ〜、ひーちゃんこんなのをやってるんだぁ、見掛けによらずすごいね」
 「……実は、買っただけでさ、殆ど見てないんだけどね」
 「そういうとこがひーちゃんらしいね」
 じゃあ、大学受験、しないの?
 「ゲームクリエイターの専門学校に行きたいんだけど、おふくろがダメっだってさ、だから受けるだけは受けるつもり」
 「それで推薦か」
 「手っ取り早いだろ? で、ダメだったら専門学校、もちろん推薦もダメ元なんだけどね」
 「推薦ってミッキーとひーちゃんだけ?」
 あと、キミちゃんのスポーツ推薦があったよね。
 「ごめん、あたしも推薦試験があるんですけど」
 「マイが推薦?」
 「……ヘン、かなぁ?」
 「どこ受けるの?」
 「音大、でも試験って言っても、筆記と実技があって、実技のほうがメインだから、結局はキミちゃんと同じ感じかな?」
 楽器は何?
 「ピアノだよ」
 「そうだ、せっかくだから何か弾いてみない、向こうの部屋にピアノがあるんだけど」
 「えっ、マッキーの家ってピアノがあるの?」
 「一応ね」
 「じゃあ、三時のおやつの時にね、勉強の手が少し止まちゃったから」
 うん。

 三時ちょっと過ぎ。
 「三時過ぎたから、おやつにしようよ」
 マッキーがそう言わなかったら、もしかしたら、ぼくたちはずっと勉強をしていたかもしれない。
 「……うわぁ〜、久々にこんなにベンキョーしたって感じ」
 ホントにたくさんやったね。
 「この参考書、三〇ページぐらい進んだかな?」
 「このままやってたら、『世界征服』も夢じゃなかったりして」
 「コンピュータのひーちゃんに、頭脳のヨウト、音楽のマイ、スポーツのキミちゃん、料理のミッキー、モデル体格のマッキー、アイドルのヨッシー、クリエイターのハル……、……ホントにできちゃいそうだね」
 「……『世界征服』ってその分野での人気者、って意味ね?」
 「そう」
 「できるかしら?」
 「夢は大きく持たなきゃ」
 「そしていつか叶うことを信じて、でしょ?」
 「ともかく、おやつおやつ」
 「それから、マイのピアノも、ね」
 「ねっ、ドーナツ、たくさんあるから、カズヤくんと一緒に食べようよ」

 ピアノがあるという隣の部屋は、リビングだった。
 アップライトピアノが置かれていて、それが部屋を狭くしている感じだった。しかも、最近は使われていないようで、鍵盤のふたには鉄道模型の蒸気機関車が飾られている。
 「ちょっと待っててね、今、片付けるから」
 マッキーが丁寧にそれを片付け始めた。
 「これ、カズヤのなんだ」
 カズヤくんは、マイから手渡してもらったドーナツを、嬉しそうに食べている。
 「本物みたい、これ走るの?」
 「コードをつなげたらね、それに模型ならカズヤの部屋にたくさんあるわ、後で見せてって頼んでみたら?」
 「で、なんでこの家にピアノがあるわけ?」
 「マッキーは弾かないんでしょ?」
 「これでも、小さかった時、ピアノを習わされていたのよ、もうやめちゃったけど」
 「どうして?」
 「だって、マイのほうが上手なんだもん、中学の時、マイに会ってからそれを知って、ショックでさ、それでやめちゃったの」
 「マイのせいなわけ?」
 「……、そうね、確かに最初はそう思ってたけど、今は違うわ」
 「今はって……?」
 「その時にさ、追い抜いてやるって思わなかった自分が悪いんだなぁ、って、……はい、準備できたわ、……久々に開けるわね、このふた」
 「……音は合ってるの?」
 「一応、それでも毎年調弦してもらってるからね、大丈夫だと思うわ」
 「それでは、さっそく……」
 マイは椅子に座り、何も見ずに鍵盤へと手を進め、そして踊らせた。
 ショパンのノクターン。
 ぼくたちは黙って、聴き入った。
 聴き慣れているはずの曲なのに、マイが弾いたその調べは、気持ちの中にある落ち着かない何かが消えていく感じがした。

 「いつからだったか、音楽の先生に憧れてて、それで小学校の三年の時からずっとピアノをやってるの」
 「へぇ、とっくの前から将来について考えてたんだ」
 「僕はまだ、何にも考えてないような気がする、ただ、ゲームを作りたいっていうことは考えているけど」
 ぼくも、何がやりたいのか考えたことがない。
 「オレは、そのまんま、サッカー選手を目指す、それでワールドカップで得点王が夢だな」
 「幸せな家庭を築きたいとかいう夢はあるんだけど、どういう職業に就くか、就きたいかっていうのは考えたことがない」
 「大学受験でさ、どこの大学で何を学びたいかって言うのが見えてこないんだよね」
 「わたしもマイと同じで、先生になりたいから、大体こんな感じの大学に行けばいいのかなぁ、ってぐらいは考えてるけど」
 自分がやりたいことを考える以前に、自分に何ができるのかが分からない。
 「じゃあ、何が得意なの?」
 うーん何だろ?
 「それじゃあさ、いっそのこと、今決めちゃわない? 自分が何をやりたいかって、突拍子もないことでもいいからさ」
 うーん、何か人のためになるような職業、かな……?
 「まだ、漠然としてるけど……」
 ないよりはマシでしょ?
 「ヨッシーはどう?」
 「やってみたいと言えば……、デザイナーかな」
 「何のデザイナー?」
 「クルマ、レーシングカーとかじゃなくって、普通のクルマね」
 「マッキーは?」
 「うーん、あたしはなんだろ……? これでもずっと考えてたんだけど、全然考えが浮かんでこないの、中間テストが終わった時の進路面談で、やりたいことがないって言ったら先生に怒られちゃってさ……、でも、ホントに何も浮かんでこないの、仕方ないから、簡単に入れそうな大学を第一希望にしてきたんだけどね……、経済学部、でも何を勉強するところか、今もわかんないわ」
 「スタイルいいんだから、本気でモデルとか目指せばいいのに」
 「モデルって何だか晒し者みたいで、いい感じがしないんだけど」
 「マイは何なの? やっぱり音楽の先生でいいわけ、……って、カズヤくんとじゃれあってから……」
 気に入ってくれたみたいだね。
 「ドーナツで買収されたんだよ」
 「政治家への賄賂じゃないんだから……」
 「……あれっ? ロッキード事件の時は何だっけ?」
 「ピーナッツだろ」
 「そっか」
 「さすがハル」
 「将来は弁護士さんだもんね」
 「まだ夢だって、法律カンケーの仕事に就くには試験だらけなんだから、大学受験だけでひーひー言ってちゃ、ついていけないよ」
 大学受験は第一ステップ、ってところか。
 「そだね」
 「じゃあさ、そろそろ、その第一の勉強を始めよ、その先には夢が待ってるんだから」


     3

 パステルカラーの世界。
 だいぶ陽が傾いているけれど、今日は日が沈むまではまだ時間がありそう。
 今日も、街中をカナと一緒に駆け回った。
 そして街の外れの丘の上。そこにある、まるで森のような広い公園で、カナとぼくは手摺を飛び越えたり、階段を飛び降りたり、降りつもった落ち葉を散らかしてみたり、木の枝にぶら下がったり。
 「ヨウトくん、この木、登れる?」
 カナは、大きな落葉樹に登り始めた。
 落っこちるよ。
 「大丈夫、こう見えてもあたし、小さかった頃は木登りが得意だったの」
 得意気に話すカナは、まるでリスのように、するすると木を登っていく。
 時々木が揺れると、枝に残った黄色い木の葉が舞い落ちてくる。
 ……カナ……、スカートの中、丸見えだぞ……。
 色は、……ナイショにしておこう。ともかく、丸見えです……。
 「何見てるのよ、えっち!」
 だって、心配で大丈夫かなぁって、下から見上げてると、それしか見えないだもん。
 「……それもそうね、……ねぇ、この木、二人登っても大丈夫かな?」
 やってみないとわかんない。
 「いつまでも下にいたら、スカートの中見られっぱなしじゃない? だから早くあたしのそばに来て欲しいんだけど」
 試してみる?
 ぼくは、早速幹に片足を掛けて、その木を登り始めた。ついでに、ワザと揺らしたりして。
 「やだぁ、揺らさないでぇ」
 カナは、本気かどうかは分からないけれど、少し泣きそうな声で訴えてきた。
 二人登っても大丈夫みたいだよ。
 「高いところ、苦手、なんでしょ、大丈夫?」
 たぶん、ね。
 カナはずいぶんと高いところまで登っている。それだけ丈夫で太い幹の樹だった。二人くらいならホントに支えられそう。でも、カナの所まで登れるかな?
 「思ったより平気そうね」
 でも、下を見たらと少し恐くなるね。
 「ダメよ、下を見たら……、って上も見ちゃダメだけど」
 どこを見れば……。
 もーすぐだよー。ほら、着いたぁ。
 カナが立っていたところは、ちょうど太い枝が二つに別れているところで、枝の間から街が見下ろせる。元々丘の上にあるので、木の上はなおさら高い。
 あの展望台の明かりがまっすぐ夕闇の空にに向かって伸びているのが浮かび上がって見える。
 「ねっ、綺麗でしょ、あの展望台からの景色も素敵だけど、ここのほうがもっと気に入ってるの」
 カナは、何度もここに来て登ってるわけ?
 「そう、お気に入りの場所だからね、あたしだけの秘密の場所よ」
 いいの、秘密の場所を教えちゃって?
 「今日からはヨウトくんとあたしの秘密の場所よ」
 カナは「ねっ」という感じで首を傾げて微笑んだ。


     4

 先週行われた高校生活最後の期末試験の結果発表。
 結果発表の日の昼休みに、学年上位二十名が職員室前の掲示板に張り出されるけど、ぼくはこの三年間一度も見に行ったことがない。見てきて知らせてくれるのはたいていヨッシーか、ミッキーだ。
 今日は二人とも行ったらしい。
 「ヨウト、お前、二番だったぞ」
 「あたしが一番、へっへー、勝ったね」
 何点差だった?
 「わたしが六五一点で、ヨウトが六四八点」
 じゃあ、三点差?
 「そういうことになるわな」
 えーっ、悔し〜い。マジでぇ……。だって前回はミッキーに一〇点以上の差を付けてたんだよ。
 「サヨナラ逆転ホームランってとこね」
 卒業式の首席、狙ってたのに……。
 ホントに悔しいので、実際に掲示板を見に行った。ヨッシーとミッキーも一緒に。
 「初めて見るな、上位者名簿って」
 「えっ、今まで一度も見たことがなかったの〜?」
 興味なかったし、載ってるって事は見なくてもわかるし。
 「いいよなぁ、成績上位者の余裕って」
 「あたしなんか、これに名前を載せるために頑張ってきたんだからね」
 恐れ入ります……。順位に興味がなくって、すみませんね。

 そんなこんなで、今日の放課後から二日ほどかけて、最後の進路相談が始まる。ぼくのクラスは、成績の順番がそのまま相談を受ける順番になる。学年一位は逃したものの、クラス一位はいただいた。ゆえに相談の順番は、ぼくが一番最初になる。
 「で、結局何校受けるんだ?」
 本命一つに、滑り止めで本番二つ、ですから三つ、ですね。
 「推薦は受けずに、本番で三校か……」
 はい。
 「……なぁ、なんか、こう……、不満を感じないか?」
 不満、ですか……、いえ、特に。
 「学年トップクラスの成績でそのレベルじゃあ、箔がつかんだろう」
 そうでしょうか? 自分の行きたい大学を選んだので、満足してますけど。もっとも、受かるかどうかはまだわかりませんが。
 「……普通はな、おまえみたいな成績を持つヤツは、センターを受けて、二次試験で国立のトップクラスを受けて、当然のように合格して、卒業前に外交官だとかキャリアの国家公務員試験を受けてだなぁ、合格して国家を背負って立つ、……そういう宿命みたいなものがあるんだよ、時期的に国立はもうムリだが、私立なら慶応とか早稲田にまだ間に合う、そういうところを受けてみる気はないかね?」
 公務員になる気は全くありませんけど。
 「……もっと有利に就職したいとは思わんか?」
 さぁ、今のところは何とも……。
 「じゃあ、何なんだ、この成績は?」
 勉強の結果です。満点を取る気で試験を受けているわけではありませんし、学年トップクラスを目指しているわけでもありません。周りから勉強しろと言われて勉強した結果が、この成績です。
 「……」
 ……ヘン……、でしょうか……?
 「……、いい、内申書にそう書いておく、今日はもういい、三校分の願書をやるから」
 じゃ、いただいていきます。
 「それから、志望校はその成績で十分だ、文句なく通る」
 では、失礼いたします。

 「どうだった、進路面談?」
 「ボクは明日、出席番号順だから」
 「Bだってさ」
 「第一希望はギリギリ、……でも、別にこだわってるわけじゃないから、第二希望で満足」
 「第二希望はどこなの?」
 「みんなで受けるとこ」
 「推薦受けとけ、だってさ、まだ間に合うからって」
 「いいねぇ、成績の良い人は」
 「ボクも受けてみようかな」
 「やめとけよ、おまえの成績なんて潜水してるじゃないか。受験料がもったいない」
 「おまえは?」
 今のままで十分だって。もっと上を狙ってみたらどうかだってさ。
 「やっぱり、できる人は違うねぇ」
 「でも、正直なところ、どうして大学に行かなきゃならないのか、いまいちピンと来ないんだな」
 「オレは、サッカーの推薦枠で受かりそうだから、もうどうでもいいけどさ」
 「いいなぁ」
 「でも、ホントの受験を経験してみたいね、贅沢な願望かもしれないけどさ」
 「それも『受験』じゃないの?」
 「何か競争してるって感じじゃないんだよね、なんか、こう、手応えのある受験を経験してみたいんだ」
 「そういえばここに入った時も推薦だっけ」
 「そう、好きなことやって『ハイ、合格ですよ』って言われてもねぇ……、何か実感がさ……」
 「ヨウトだって好きな勉強で入ってきてると思うんだけど……」
 好きな勉強、ねぇ……。ピンと来ないな。
 「周りはベンキョーしなきゃ、いい成績取らなきゃって、頑張ってるのよ」
 はいはい。
 「『はい』は一回」
 はい。
 「マイって、先生みたい」
 「ヨウトのお姉ちゃんみたい」
 「……」
 ……。
 「なに、顔を真っ赤にしてんのよ?」
 「……別に、そんな……、ねぇ」
 どうしてこっちに振る?
 「あーぁ……、受験かぁ、早く楽になりてぇ……」
 「余計なことから解放されたいね」
 「全く」
 「ベンキョーもやだね」
 「あと一週間で冬休みじゃない、そしたら、ガッコーのベンキョーだけはなくなるわよ」
 「でも、なんかさ、D判定って『来ちゃダメですよぉ』って言われているみたいで、ちょっとカチンってこない?」
 「言えてる」
 「『ここは貴方の来る所ではないわ、来ちゃダメなの』って」
 「何それ、何の物まね?」
 「えっ? 先週やってたじゃない」
 「ごめん、まだビデオ見てない」
 「あっ、ベル……」
 「誰からぁ?」
 「あ、ちょっ、ちょっとやだぁ、やっ、見ないで」
 「ママからでしたぁ」
 「残念ね、愛しのシュンくんじゃなくって」
 「っもう……、で、ママはなんて?」
 「ツウチガキタって」
 「えっ、結果は?」
 「TELクダサイ、だってさ、それだけ」
 「電話するのならピッチ、貸そうか?」
 その時,突然教室の扉が開いた。
 「おまえたちなぁ、仲がいいのはわかるけど、そろそろ閉門時間だぞ、……ったく、夏にも屋上でこんなことがあったような気がすっけどなぁ」
 閉門前の見回り。今日の当番は体育の大宮先生。
 はぁーい、今帰りまーす。
 「きちんと机も片付けていくんだぞ」
 「はいはい」
 はいはい。
 「『はい』は一回でしょ」
 はい……。
 
 校門に向かいながら。
 「ねぇ、結果どうだって?」
 ミッキーの推薦入試の結果のこと。
 「ん、ちょっと待って、今電話してるから」
 キミちゃんのPHSを借りて連絡をとる。
 しばらく話が続いているみたい。僕たちは固唾を呑んで待つ。ミッキーは静かに電話を切った。
 「どうだった?」
 「……ぶいっ、ごーかくぅ」
 ミッキーは、笑顔で、誇らしげに右手のVサインをかざした。
 「やったね」
 「やったじゃん」
 「おめでとー」
 「ありがとー、これもきっとみんなのおかげよね、いろんなこと教わったもん」
 その代わり、ぼくらもミッキーからいろんなことを教わったし、あいこだよ。
 「ただ、私たちは決戦がまだで、結果もまだないだけのこと、いずれみんな『おめでとー』って言い合ってるわよ」
 「そうなるといいよね」
 「きっとなるって」
 そだね、じゃぁ、ここで、また明日ね。
 「気を付けてね」
 「ばいばーい」
 ぼくだけ帰る方向が違う。みんなはそのまま近くの駅前まで歩くけど、ぼくだけは横断歩道を渡ってバス停に向かう。

 「あんたに電話よ」
 帰ってからすぐの風呂上がり。お姉ちゃんから電話を受け取った。
 誰から?
 「ヨシイくんってコから」
 ん、ありがとう。
 「父さんからの電話を待ってるんだから、ムダ話はしないので早く切るのよ」
 はいはい。
 ヨッシーからか。保留を解除する。
 もしもーし、お電話代わりました。
 「お、風呂入ってたんだってな、悪いな変な時に電話しちまって、さっきのお前の姉さんか?」
 うん、ちょうど風呂から上がったところだから、構わないよ。でもハダカ。
 「じゃあ、湯冷めしないよう、早めに用件言っちまおう、あのな、さっき帰りに予備校の冬期講習募集のリーフレットもらってきたんだ、ヨウトも行くか?」
 はっ? どーゆーこと?
 「他のみんなは行こうって言ってるんだけど」
 ふーん。帰る時に話してたんだね。
 「そっ、おまえんとこ、FAXあったっけ?」
 あるよ。
 「じゃ、今からそっちに送るわ、その方が話は早い、番号は?」
 同じだよ、ちょっと待てて、今切り替えてくるから。
 「じゃ、一度切るぞ」
 うん。
 大急ぎでトランクスを履いてTシャツを着て、電話機本体のFAX設定をする。
 少し経ってから、呼び出し音が鳴った。それから紙が出てくる。
 駅前の予備校のリーフレット。『現役生直前講習会受付募集中』だって。
 再び呼び出し音。さっとFAX設定を戻して、受話器を取る。
 「届いた?」
 有無をも言わず会話を始めようとする。まずは相手を確かめろよ。よかったぁ、お姉ちゃんより早く取ってて。ドアの隙間から覗いたその視線が痛かった。
 うん、届いたよ。
 「行く気、ある?」
 今のところはちょっと……。父さんと母さんに聞いてみる。
 「自分で決めろよ……、じゃあさ、決まったら後で電話してくれ」
 うん、わかった。
 「湯冷めすんなよ」

 「そういえば、どうだったの、面談は?」
 バスタオルを抱えたままリビングに入ると、キッチンからエプロン姿の母親が顔を出した。
 ん……、まずまずだったよ、えっとね……、これ、成績表。
 面談の時に、先生から渡された成績表をソファにおいたカバンの中から取り出して見せた。
 成績表の右上には「大変よくできました」のスタンプが押してある。先生の遊びの一つだ。まずそれを見て、母親はびっくりした顔をする。それから、中身を確かめた。すると、さらにびっくりした顔をした。
 「ずいぶんと上がったじゃない」
 でも、得点率はやっと二年の最後の頃に戻ったって感じ。それと、志望大学はその成績で大丈夫だってさ。
 「あとは健康管理だけかしらね」
 母親は安心した声で言う。
 うん、だけどね……。
 さっきFAXで送られてきたリーフレットを見せた。
 いくら成績がよくても、そこの入試の傾向って知らないんだよね、それで、ここの予備校の冬期講習っていうのに行きたいんだ。
 少しばかり演技。
 「必要だと思うのなら行きなさい、でも、お父さんにも聞いておきなさいね」
 母親は難なく快諾。

 夕方七時を過ぎた辺りになると父さんが帰ってくる。
 それまで、食器を出したりして夕食の用意を手伝う。今日はぼくが当番なのだ。お姉ちゃんは、テーブルの上を拭いたり、食器を並べたり。今日は父さんと一緒に、お姉ちゃんの婚約者のコウスケさんも来るので、一人ぶん多い。それに父さんが明日から海外に出向するので、めでたいわけではないれど、少し豪勢にしようということになっている。
 七時になる十五分ほど前に、コウスケさんから電話があった。お姉ちゃんが、その電話に出た。
 なんて?
 「今、駅でお父さんと落ち合ったって、これからバスに乗るって言ってたから、帰ってくるのはもーすぐよ」
 「えっ、もう帰ってきちゃうの? いつもの時間に間に合うように作ってたから、間に合わないわ」
 七時ちょっと前。
 玄関の鍵が開く音がした。父さんとコウスケさんだ。
 お姉ちゃんが玄関に向かった。
 「おかえりなさーい、と、いらっしゃーい」
 「ただいま」
 「おじゃましまーす」
 いらっしゃい。
 ぼくはリビングのドアから顔を出して迎えた。
 「よっ、ヨウトくん、受験ベンキョー、頑張ってるか?」
 一応ね。でも今は母さんの手伝いにかかりっきり。
 「あらやだ、ホントにもう帰ってきちゃったの、早かったわね」
 「明日を控えて、少しぐらいは早めに帰れってさ、次長がね」
 「そうなの、夕飯の支度、もう少しかかるから、リビングで待ってくださいな」
 そんなわけで、三人はリビングのソファで寛ぐ。ぼくはキッチンで母さんの手伝い。
 ピザがお姉ちゃんの膝の上に飛び乗る。彼のお気に入りの場所だ。
 そうだ、受験勉強のことなんだけどね……。
 キッチンから顔を覗かせて、父さんに話しかける。
 「なんだ?」
 予備校に、行ってもいいかなあって……。
 「予備校? 何をしに?」
 ほら、どんなに成績が良くっても、あっ、これ期末試験の成績表なんだけど……、よくっても、行きたい大学の傾向とかってわかんないから、それを勉強しに、なんだけどね、これ、リーフレット。さっき友だちが送ってくれたんだけど。
 コウスケさんがキッチンのカウンターに置いた2枚の紙を取って見た。
 「へぇー、ヨウト君って、成績いいんだね、これだけの成績なら、文句ナシで通るんじゃないの?」
 「冬休み中もお友達と一緒にいたいだけよ」
 ……お姉ちゃん……。
 「……まっ、試験のことは父さんもよくはわからんが、必要だと自分が思うのなら行きな、その代わり、ムダにすんなよ」
 うん、わかってる。
 「母さんもいいと言ったのか?」
 うん、言ってくれた。
 「じゃ、頑張るんだぞ」


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