1 二番機 [2012/11/21(水) 20:36:08]
海と空との間には、何もない
それなら
生と死との間には、何があるだろう
ただ、それだけの事なのに
2 二番機 [2012/11/21(水) 20:37:08]
真夜中に目が覚めた。恐ろしい夢を見たからだ。
自分の呼吸。鼓動。顔の汗。長い周期で揺れる船室。丸い窓枠から白い月の明かり。戻った現実。包む安心。同時に儚さ。虚ろみ。乾いた眼。闇。静寂。
ベッドから降りて、立ち上がる。顔を洗いに行く。口をゆすぐ。
鼓動は既に収まっていた。ドアを開けて、外へ出る。
3 二番機 [2012/11/21(水) 20:37:30]
デッキを歩く。死んだように静かな海。船も泊まったように動かない。平たい海原。
手すりから身を乗り出す。深遠なる黒い海面に。広がっていく筋。船が進んでいる証。星は見えなくて、空には薄雲にぼんやり隠れた月だけ。光を断片的に反射する海。
後ろを振り返る。誰もいない。デッキにも。ここは総舵室からは死角になる。
条件は揃っている。それは簡単な事だった。今すぐにでも、それは実行できる。
4 二番機 [2012/11/21(水) 20:40:06]
ただ、その前に。
ポケットに煙草とライターがあったので、取り出して、火を灯した。吐き出した煙は子供の夢みたいに空へ昇り、夢みたいに消えた。吸いがらを海に投げ捨てる。吸いがらもまた、音もなく海に取り込まれた。これが最終定理で、抗えぬ運命。そこに到達するまでの時間は重要ではない。原因だって重要ではない。
本当に?
でも、生物の本能として、
怖がっている自分もまた、確かにここにいる。
何故?
理性は本能に勝る筈ではないか。
それなのに。
いや、だからこそか。
船に少し近い水面に現れた、波頭。
ちがう、数秒経っても消えない。何か海に浮かんでいる。微かに見える影。直線的な何か。天使ではない。ぼんやり映った金属。ガラスの中。人影。
「船を止めろ」
近くの声伝管を探し、叫んだ。
「緊急停止、遭難者を発見した。緊急停止」
海に浮かぶそれは、撃ち落とされた戦闘機だった。
5 二番機 [2012/11/21(水) 20:40:34]
***
躰はまだリズムを覚えていた。空の上でのダンスを。
海水は腰の中りまで忍び込んでいた。もう何時間海に浮かんでいるのだろう。いつの間にか夜になる。朝までは、この重い飛行機は浮かんでいないだろう。心地よい疲労と揺れる海波、それらがキーになって、いつしか朦朧とした意識の海に沈んでいた。
再生されるダンスの欠片。右、左、右、急旋回。敵はどこだ? 再度ループ。上昇。スロットル・ハイ。ラダーを右に。トリガに掛ける右手。風を斬る翼の音。追いつく。さらに旋回。敵の機体に吸い込まれるような幻覚。反転。フラップを下げる。敵に追いつく、もう少し。敵が上昇と減速。幻覚ではなかった。擦られそうな程近くを通り過ぎる。撃てなかった。最大のミス。でも、構わず旋回。後ろを取られた。
撃たれる。
右翼に被弾。油圧が下がる。
操縦が出来ない。みるみる落ちてゆく、煙を上げながら、高度計だけはしっかり仕事をしていた。落ちる、落ちる。最後に見たもの。あれは、海面?
6 二番機 [2012/11/21(水) 20:41:39]
そこで目が覚めたのだ。
静寂。
おもむろに手を伸ばしてみても、目の前には海面もなく空もなく、ただ灰色の天井だけ。薄暗い部屋に、置かれたベッドの上だった。少なくとも天国ではない。
船室だ。以前こんな船に乗った事がある。でも、軍のものではなさそうだ。知らぬ間に救助されたようだ。
ドアが開き、白い制服の男が入ってきた。
「気分はどうですか?」
彼は笑みを浮かべながら言った。
「いえ、特に問題ありません」
上半身を起こながら答えた。
「それはよかった」
「あの……、この船は民間のものですか?」
「ええ、欧州に向かう貨物船です。通りがかりに、たまたま発見しました。連絡した所、明日の昼に貴方を迎えにくるそうですよ」
「色々すみません」
「いえ、当然の事です」
彼はまた笑った。
少し手首を動かしてみる。特に大きな怪我はないようだ。たぶん大丈夫。
何故か、助かったという安堵の気持ちは沸き上がってこない。少し辺りを見渡す。自分の為に彼らを手間取らせて申し訳ないと、そんな自分の思考を見つけた。何か出来ることはないだろうか。
7 二番機 [2012/11/21(水) 20:42:20]
「皿洗いくらいなら、出来ますが」
「は?」
彼は口を開けて瞬いたが、やがて息を漏らした。ジョークと認識したようだ。
静かな夜だ。海も眠り込んでいる。
「それにしても、よく見つけましたね」
まだ帰らないようなので、話題を切り出した。男は近くイスを引っ張ってきて座った。
「実は、私が見つけたんですよ」
目と目が合った。
「眠れなくて、デッキで夜風に当たってました。その時に見つけたのです。普段この海域はあまり静かではありません。波があったら発見でしませんでしたよ。あと月も。本当に幸いでしたね」
「まあ、そうですね……。ありがとうございます」
少し冴えない返事だった。運は良かった。その通りだと頭では理解しながらも、何かが引っかかる。
沈黙。染み渡る暗闇。
「信じてましたか?」
「え?」
「自分が助かると」
「さあ……、特に何も考えてなかったと思います」
「飛行機から身を投じようとは思いませんでしたか? 助かる確率はとても低いのに」
彼の穏やかな目が、次第に変わるような気がした。
「いえ、戦わなくて良くなったから、何もしませんでしたし、しようとも思いませんでした」
8 二番機 [2012/11/21(水) 20:43:07]
「解放されたと」
「解放?」
「戦いから解放されたと思ったから、ですか?」
「いえ、そんなことは一度も考えたことはありません」
どうしてこの男は、こんな質問をしてくるのだろう。何を知ろうとしてるのか。質問は抽象的だ。ただ、機密事項を探ろうといった動機はなさそうだった。それは理解できた。
「では、救出された事をどう思いますか?」
「素直に嬉しいです。感謝しています」
「何故ですか?」
「何故?」
「生き延びられたから?」
「もう一度、飛べるからです」
「ああ……」
彼は小さく口を開けた。そして、視線を変えた。窓を見たようだ。
黒い海と、真っ暗な空を。
空だ。
「空は……、きっと海の中みたいでしょうね」
海の中のことは知らない。
そこに戦いはないだろう。
しかし、似ているかもしれない。地上や海上よりは、ずっと。
「海は好きですか」
彼は尋ねた。
「嫌いではないですね」
彼は立ち上がって言った。
「海は、どんな物でも浄化します」
浄化、について思考を巡らした。
空は、何も浄化しない。
なにものも、そこには留まれない。空気以外は。
だから、少しも濁らない。
9 二番機 [2012/11/21(水) 20:43:54]
「よかったら、これをどうぞ」
「え?」
彼がポケットから取り出したのは、煙草のはいった箱とライターだった。
「私はもう使いませんので」
その意味は、その時は分からなかった。
でも、彼の好意に背くのは失礼かと思ったので、素直に受け取った。
彼は再び微笑んで、部屋から出ていった。
翌朝、迎えに来た飛行艇に乗り換えるため、貨物船から小さなボートに降りるときに、別の船員から聞いたのである。
あの男が既に、この船に乗っていないことを。
〜fin〜
10 二番機 [2012/11/21(水) 20:50:04]
ディープ・ウォータ
Deep Water
これもまた、向こうの世界の一欠片であり、
一つの可能性です。