記者の目:消え行く映画フィルム=勝田友巳(東京学芸部)
毎日新聞 2012年11月22日 01時19分
日本映画撮影監督協会長も務める兼松熙太郎(きたろう)さんは「『後でなんとでもなる』デジタル撮影で、現場が“緩む”」と心配する。「フィルム撮影では、現場での完璧さが求められる。その緊張感が薄れ、技術も低下するのでは」
問題はどちらが優れているかではなく、選択肢がなくなってしまうことだと思う。10月の東京国際映画祭で「フラッシュバックメモリーズ」が観客賞を受賞した松江哲明監督は、対象に密着する優れたドキュメンタリーを低予算で発表し続けている。デジタル技術がなければ不可能だ。一方、公開中の「北のカナリアたち」の壮大な利尻富士の美しさは、木村大作カメラマンのフィルムへのこだわりゆえだろう。素材や資質に応じて、作り手が選べる環境が、創造を助けるのではないか。
◇フィルム望む多くの映画人
多くの映画人はフィルムでの撮影を望みながら「撮れないよりは」とデジタルを手にする。富士もまた「需要は増えず、フィルムの品質維持と安定供給のための大量生産ができない。苦渋の決断」と言う。フィルム代圧縮という経済原理が、独り歩きしているようなのだ。そして一度なくなったら、取り返しがつかない。富士は「ラインを止め、技術者がいなくなれば再開は難しい」との見通し。米コダック社だけは、フィルム製造を当面続けるというが、同社は経営再建中だ。
「撮れる限りフィルムで」という崔洋一監督は、こうした現状を「映画の地盤沈下」と手厳しく批判する。「“デジタル神話”が先行している。安上がり、とフィルムをなくせば、5年後にもデジタルの欠陥が見つかって後悔するだろう」
デジタル化による緩みと妥協が積み重なって、気付いたら日本映画の質が落ちていた……なんていうヘタな結末は願い下げだ。映画界の奮起を期待しつつ、行く末を見守りたい。