最近、ロシア、韓国、中国、米国…と長い歴史的な付き合いかある国々と日本との関係の現状を思うと、ため息が出るばかりです。戦後60年かけて少しずつ前進させてきたはずのものが、わずか数年でどんどん後退し、元の木阿弥どころかさらに悪化・劣化していく。歴史を、冷厳な事実からではなく自分勝手な自己都合と加害者・被害者意識からゆがめ、しかもそれを倫理・道徳で厚化粧してパリパリに固め、身動きとれなくなっていく。しかしまあ、それも国民意識とその選択がなせることなら是非もないと。
とまあ、日々ニュースに接しながらそんなことを思っていて、ある文章を思い出したので紹介します。とてもとても有名な名著といわれる古典の一節なので、まともな政治家や官僚らなら一度は読んだことがあるはずですが、全くその戒めは実践されていないなあと、改めて思いました。少し長くなりますが引用します。
《ある男性の愛情がA女からB女に移った時、件の男性が、A女は自分の愛情に値しなかった、彼女は自分を失望させたとか、その他、似たような「理由」をいろいろ挙げてひそかに自己弁護したくなるといったケースは珍しくない。
彼がA女を愛していず、A女がそれを耐え忍ばねばならぬ、というのは確かにありのままの運命である。
ところが、その男がこのような運命に加えて、卑怯にもこれを「正当性」で上塗りし、自分の正しさを主張したり、彼女に現実の不幸だけでなくその不幸の責任まで転嫁しようとするのは、騎士道の精神に反する。恋の鞘当てに勝った男が、やつは俺より下らぬ男であったに違いない、でなければ敗けるわけがないなどとうそぶく場合もそうである。
戦争が済んだ後でその勝利者が、自分の方が正しかったから勝ったのだと、品位を欠いた独善さでぬけぬけと主張する場合ももちろん同じである。(中略)
同じことは戦敗者の場合にもあることで、男らしく峻厳な態度をとる者なら――戦争が社会構造によって起こったというのに――戦後になって「責任者」を追及するなどという愚痴っぽいことはせず、敵に向かってこう言うであろう。
「われわれは戦いに敗れ、君たちは勝った。さあ決着はついた。一方では戦争の原因となった実質的な利害のことを考え、他方ではとりわけ戦勝者に負わされた将来に対する責任――これが肝心な点――にかんがみ、ここでどういう結論を出すべきか、いっしょに話し合おうではないか」と。
これ以外の言い方はすべて品位を欠き、禍根を残す。国民は利害の侵害は許しても、名誉の侵害、中でも説教じみた独善による名誉の侵害だけは断じて許さない。
戦争の終結によって少なくとも戦争の道義的な埋葬は済んだはずなのに、数十年後、新しい文書が公開されるたびに、品位のない悲鳴や憎悪や憤激が再燃して来る。(中略)
政治家にとって大切なのは将来と将来に対する責任である。ところが「倫理」はこれについて苦慮する代わりに、解決不可能だから政治的にも不毛な過去の責任問題の追及に明け暮れる。政治的な罪とは――もしそんなものがあるとすれば――こういう態度のことである。
しかもその際、勝者は――道義的にも物質的にも――最大限の利益を得ようとし、他方、敗者にも、罪の懺悔を利用して有利な状勢を買い取ろうという魂胆があるから、こういうはなはだ物質的な利害関心によって問題全体が不可避的に歪曲化されるという事実までが、そこでは見逃されてしまう。「卑俗」とはまさにこういう態度をこそ指す言葉で、それは「倫理」が「独善」の手段として利用されたことの結果である。》
…これは1919年1月の講演録ですから、今から90年以上前ということになりますね。しかし、いま、われわれの眼前で展開されている事態にそっくりそのまま当てはまるように思います。私はこのブログで何度も書いてきましたが、人間なんていつの時代も変わらないし、国際関係もそうそう進歩したり、改善されたりするものではないようです。
ただ、少し違うかなと思うのは、わが国の場合は、「説教じみた独善による名誉の侵害」を心底もっともだと受け止め、ありがたがる人が一定数、いるようだということです。日本が周囲から虐げられるほど、もっともっとやってくれと煽る日本人、それどころか自ら火を付けて回る人たちも少なくないようですし。
ここで引用した「職業としての政治」を著したマックス・ヴェーバーが暮らした第1次大戦後のドイツは、そうではなかったのでしょうか。いや、程度の差こそあれ、似たような傾向があったから、こういう講演を行ったのでしょうね。…民主党の代表選でどちらが勝っても、こういう事態がこれからいい方向に進むようには思えないのが残念です。
by kinny
新潮45掲載の朝日社友の記事に…