2012-11-16
何故、わざわざ子どもを危険に晒すのか?
想像以上に、無介助分娩が浸透してますにて、厚労省へ電話したところ、「保育士の問題となると都道府県ごととなるので」と言われ、都庁へ連絡するように指示を受け、都庁へ。結果としては「園に勤務している保育士のものなら注意するか検討する」けれども、この場合だとやれることはない、ということでした。電話に出られた都庁の職員の男性は「助産師もいないで分娩する」ということについては「危険なことだと思いますけどね」というように、無介助分娩という言葉は知らなくても想像はできるという感じでした。
日本助産師会にも通報しました。日本助産師会の方はさすがにショックそうでして、「来週後半までには対応をどうするかを決める」ということでした。結果の連絡もくださるそうです。
昨日の記事へのコメントでも少し書きましたが、私は保育士という職業は「助産師」や「看護師」というのとは違うとはいえ、妊娠、出産をする年代の女性との接点は多い職業だとおもっていますので、まだ出産を望む方たちとの交流が当然、生じているはずです。そういった職業の方が無介助分娩に対して危機感を持てなかったというのは非常に残念ですし、やはり何か大きく間違った感覚が世に蔓延っていると感じてしまえてなりません。
望めるものならば、無介助分娩の危険性をマスコミが大きな声でしてくれるように助産師会や厚労省が働きかけ、そして、保育士という資格を持つ方たちの接点をおもえば教育にも周産期医療の問題を取り入れて欲しいです。
胎盤食の話にも似たものを感じます。「そんなこと、していいの?」とならず、「食べる人は勇気がある」とか、「凄い」とか、優越感や武勇伝を求めたりしているようで、こういうのが好きな自然万歳の方たちは、普段のお話の姿勢や口調は慈愛に満ちたように語りますが、実際には物凄い闘争心の塊なんですよね。少しでも人よりも変わったことをして、「凄い!」って言われたいんです。
行政の方は発言は自由だからというようなことを仰っていました。自由とは何かとおもうとそれぞれの解釈で変わってくるかと思いますが、無介助分娩や妊娠出産についての情報は「人の命」に関わる非常に大きなことです。自由ということで流して良い問題だとは思えないのです。
自分は平気だとおもったことが、簡単に誰かの子どもの命を奪う結果になってしまうこともあります。私はそれを経験しています。私が当時の助産師に出会うのに、ある方は熱心に私に「逆子でもあの人なら大丈夫だよ、凄い人なんだから」と勧めてきました。でもその方は、琴子が死んだとなったら周囲の人たちに、真っ先に「自分は悪くない」というようなことを言って歩いてくれたお蔭で、子どもが亡くなった事実を受け入れることすらできずにいた私たち夫婦に、わざわざ「人のせいにしちゃダメだよ」と言ってきた人もいます。こんなもんです。全部、「誰かの自由な発言」ですよね。そう、皆、簡単に言ってくれますよ、最初は都合良く。そして都合が悪くなると、「それでも選んだのはあなたなのだ」と。
発言は自分本位に変えられますが、変わらないのは死んだ人は死んだまま、ということ。人がなんて言おうとどうだって構わないのに、一番変わってほしい事実は決して変わりません。命はそれほどまでに現実だけに存在します。言葉は自由でも、命は自由ではないのです。
その自由に対して、都合よく資格のアピールが入ってきます。これは今回の方だけではありません。私は助産師の方の問題について何度か書いているとおもいますが、助産師という資格を使ってものを言われると、私たちはその資格が責任を持って言っていることなんだとおもってしまうのです。これはsuzanさん、ふぃっしゅさんが仰っていることと重なることでもあります。
今回の方をというより、このようにして無介助分娩が危険だとおもえない方が増えてきている気配が非常に問題だと思っています。それは多分、琴子を亡くす前の私も同じように「自分はしないけど、したい人はして構わない」程度にしか思えずにいた経験もあるので(当時、私の周辺でも無介助分娩の話は事実として存在していました)、危険におもえない人たちを容易く想像出来るのです。危険だとわかった今は「どうしてわからないの?」って思いますけど、「女性は産む力を持っている」から医療は要らないとか、「昔は畑で一人で産んでいた」とか、「助産師はただ見守るだけ」とか、出産を軽視する発言の中にいると危機感なんて持てませんから。子どもが死ぬのは滅多にないことで、「病院はお金儲けのために脅している」みたいなことで洗脳されているので、子どもが死んでしまうというリスクを説明しても、「たまたまそうなっただけの人の話をされてもなぁ」となってしまうのです。でも本当は、愛しくてたまらないはずのかけがえのない命を危険に晒し、自分のやりたいことを優先してしまうというこの恐ろしい思考こそが問題なのです。道路を歩くときも車に乗る時も、生活の中で子どもを守るための知識や情報はあるのに、世に産みだすときにはわざわざ危険に晒してしまっているのです。親としてすべき最善とは何か、というのが伝わらないのです。
無介助分娩の場合、経済的な問題も同時に考えるべきだというご意見があります。それは全く否定するつもりはありません。実際問題として、貧困を理由にした無介助分娩は聞きますし、自然万歳で凄いと言われたい方たちの中にも、2番目くらいの理由には「お金もかからないし」というのがあるとおもいます。ですから、ただ危ないと言っているだけではなく、こういった問題にも対応していくべきだともおもっています。