赤塚ギャグの合奏者たち
コミックパーク
赤塚不二夫漫画大全集
第1回 五十嵐 隆夫さん
第2回 武居 俊樹さん
第3回 北見けんいちさん

天才バカボン
「天才バカボン」1〜21巻
「元祖天才バカボン」
「最新版平成天才バカボン」
「天才バカボンのおやじ」
などのシリーズも発売中
第1回 五十嵐 隆夫さん

五十嵐さん
1947年生まれ。66年講談社に入社し、67年『天才バカボン』の初代担当となる。「月刊少年マガジン」編集長を経て、86年から「週刊少年マガジン」編集長を11年務める。現在は講談社常務取締役。
第1回は『天才バカボン』を連載開始からご担当された元「週刊少年マガジン」記者の五十嵐隆夫さんです。作中でも「イガラシ記者」として登場する五十嵐さんに、担当時代のエピソードを語っていただきました。

--- 早速ですが、赤塚先生の担当になられた経緯からお聞かせください。

五十嵐: 昭和41年(1966年)講談社に入社して、配属先がすぐ「週刊少年マガジン」編集部でした。実は翌年赤塚不二夫先生の新連載が始まることは編集長との間で決まっていたんです(注1)。それで、配属して1年後にあなたが担当、ということになった。これは私の想像ですが、赤塚先生なら大丈夫だから、担当にまだマンガの知識がなくても、締め切りに間に合うように原稿をもらってくればいいという判断だったと思うんです。

(注1) 『天才バカボン』は1967年「週刊少年マガジン」15号から連載開始。マガジンの内田編集長の強い要望で実現したと言われている。連載にあたり編集部が20以上の企画案を見せたところ、赤塚不二夫は「すべてを取り入れた作品をつくる」と約束し『天才バカボン』を発表。
おそ松くん
「おそ松くん」1〜34巻
五十嵐: もう私は驚きましたよ。当時赤塚先生というのは時代の寵児でした。ライバル誌の『おそ松くん』が大人気で(注2)、テレビでも黒柳徹子さんと「まんが海賊クイズ」でレギュラーをやっていて知ってましたから。ただ、私自身は、どちらかというと『ハリスの旋風』(ちばてつや)や『巨人の星』(原作:梶原一騎 画:川崎のぼる)、とりわけシリアスなものが好きでしたから、ストーリーマンガを担当したいなと思っていました。

(注2) おそ松くん』(「週刊少年サンデー」1962年16号〜)は爆発的ヒットとなり、「シェー」のポーズが大流行した。
五十嵐: 担当になって半年ぐらいは、あまり相手にされませんでした。後でわかったんですが、赤塚先生の場合は担当者に、読者が望むものをぶつけて欲しい、また自分たちのギャグが一般的にどうなのか、モニター的な部分も含めてものさしになってもらいたかったそうです。さらに言えば、自分の作品をよく理解して愛してもらうためにも、ただ単に原稿とりだけではだめだということですね。後に「アイデア会議」(注3)に出られるようになって、赤塚作品というのは、編集者とアシスタント、そして赤塚先生の相当な才能をもってできていくんだなということがわかりました。

(注3) スタッフ・編集者とともに集団でギャグやストーリーのアイデアを出しあう会議。出たアイデアを赤塚がまとめ、原稿の形にしていく制作スタイルをとった。2〜3時間で終わることもあれば、長時間に及ぶこともあったという。
五十嵐: 最初の半年間は、できあがった原稿を見てフキダシを確認する程度でした。一度失敗したのは、おまわりさんが町の人を立ちションで捕まえて、無罪放免するときに「おしっこしてたからシッコー猶予だ」と。でもこちらはギャグがわからないから「執行」を漢字にしちゃった。これはこっぴどく怒られました。

赤塚先生の話によると、その半年間、私に意地悪をしてどういう反応をするかを試していたそうです(笑)。たとえば、暑い日に当時の事務所(注4)に汗だくだくになりながら行くと、「待ってたよ」と先生が冷蔵庫から冷たい牛乳を出してくれました。ご丁寧にビンのビニールをむいて、ポーンとフタを抜いてくれて。暑い中だし、わざわざ先生からいただいて嬉しいわけですよ。グーッと飲んだら、それが作画に使うホワイト絵の具を溶かしたものだった(笑)。
(注4) 当時は新宿駅から徒歩15分ほどの十二社に「スタジオ・ゼロ」があり、赤塚不二夫のほか、藤子不二雄やつのだじろうが同じフロアに事務所を構えていた。
五十嵐: 匂いとかはわかんないんですよ。でも途中で気づいてウワッとなった。そのときどうやって怒りを表すか。我慢しちゃうか、「困りますよ」ってアッサリと返すか。私の場合は感情的に「どういうことですか先生!!」と、もちろん先生を尊敬した言い方でですが、ナマの言葉で答えたんです。

あと、試し具合のわかるエピソードとしてはこれが一番でしょうね。もらった『天才バカボン』の原稿を見たら、パパとママが濃厚なベッドシーンを、単にキスとかではなくて、パパが誘ってママがもじもじっとして、体までからんじゃったのが原稿の途中に入ってきてる。
実はこれ、正しい原稿が下に描いてあって、上に6コマぐらいノリで貼り付けてあったんです。それをはがせばちゃんと原稿になってるけど、紙の重なるスキマをわからないようにしてあった。

いやー、私は怒りましたよ。「持って帰れない」と。先生は演技ですから「この場面にこれがなければ今回のギャグはみんなに伝わらないんだ。わかんなかった?」と作品論をぶちかますわけです。私も理屈っぽく「じゃ最後のオチとどんな関連があるんですか? それより、こんなもの小中学生を読者とした雑誌に載せられない。父兄がどうとか、編集長がどうとかじゃなく、俺は絶対に載せない、本当に先生が載せたいんだったら、二人で話し合いましょう」と言いました。他の人が「まあまあ」と中に入ったりして、一時間ぐらいそんな状態。みなさんの演技はなかなかのもので、そんな暇があるなら原稿を描けばいいじゃないかと後で思いましたけど(笑)。

で、先生が「悪かった。実はこうなんだよ」ってネタを明かしてくれた。「だけど、おまえのことはよくわかった」と。頼りない編集者だったら「多分ダメだと思いますけど上司に相談します」って持って帰るかもしれない。自分のすべきことを忘れて人に託そうとしたりせず、私がこの雑誌に載せて読者が喜ぶはずがないと明快に答えたと。

でも、そんなこと言われたって、こっちは怒りがおさまらないわけですよ(笑)。そしたら先生がお詫びに今夜飲みに行こう、と初めて誘ってくれた。飲みに行ってサンデー担当の武居さんも一緒で、そのときになんとなくメンバーになったかな、という気がしました(注5)
(注5) イタズラがあった具体的な掲載号は不明。「どの巻だったかは忘れましたね。連載半年後ぐらいで、ハジメちゃんはもう産まれてました」とのこと。
レッツラゴン
「レッツラゴン」1〜12巻
五十嵐: それから「五十嵐、アイデア会議に入ってみるか」と誘われました。でも初めはなかなか(アイデアは)出ないですよ。リズムもあるし、先にしゃべっちゃう人もいるし、スピードが追いつかない。でも自分はアイデアに加わっていけるという喜びがあった。そのあたりから、ギャグマンガというのがだんだんわかってきた。

ただ、私はリアリティのあるストーリーマンガが好きだというところからマンガを読み始めている。たとえば「サンデー」の『レッツラゴン』(注6)はシュールなんですよ。今見てもシュールだけど、当時はもっとシュール。場面展開やキャラクターを含めて、ギャグ自体が飛びすぎて大人のギャグになってる。先生は『レッツラゴン』に対して面白いと言ってましたけど、私自身はあまり好きなマンガではなかった。
(注6) レッツラゴン』(「週刊少年サンデー」1971年35号〜)は赤塚作品の中でも特に前衛的でアナーキーな作品。
五十嵐: ギャグが進化する中で、自分たちだけがわかって読者をおいてきぼりにするものはイヤだと思っていた。だから、アイデア会議でストーリーをつくるとき、あまり飛んでる話は「五十嵐どうだ?」と聞かれたとき「ううん」と首を横に振っていました。

当時の私は『天才バカボン』が赤塚不二夫の代表作になって欲しかった。始まったころは『おそ松くん』がダンゼンの人気で、「傑作」のレッテルがない中での積み重ねでしたから。
そして結果的にですが、赤塚不二夫といえば「バカボンのパパ」が、たとえば今でもコマーシャルに使われていることからしても、「バカボンが代表作になってくれたな」という思いがありますね。

ところが、私と赤塚先生の中にフラストレーションとしてあったのは、『天才バカボン』の人気は不動の3位なんです。当時(1968年ごろ)の「マガジン」には『巨人の星』と『あしたのジョー』(原作:朝森高雄 画:ちばてつや)が1位と2位を争っていて、今回の『バカボン』はどんなに出来栄えがいいと思っても、やっぱり3位なんだ。

先生には常に人気投票の順位は教えていたけど、担当も含め、マンガ家はトップをとって風を切って歩きたい。そういう状態が続いていました。そんな中、赤塚不二夫は『天才バカボン』を「週刊少年サンデー」へ持って行ってしまうんですよ(注7)。
(注7) 1969年に『天才バカボン』は移籍のため「週刊少年マガジン」で連載終了後、「週刊少年サンデー」で開始される(1969年35号〜)。移籍の申し出を「マガジン」の内田編集長は即時に許可したという。具体的な状況は『赤塚不二夫のことを書いたのだ!』(武居俊樹 著)に詳しい。
 
もーれつア太郎
「もーれつア太郎」1〜9巻+別巻
--- 移籍を告げられた五十嵐さんの心境はいかかでしたか。

五十嵐: いやー、とんでもないと思ったよ。ただ、小学館の武居さんからはプランを話されたわけ。当時、「サンデー」に連載中の『もーれつア太郎』に加えて『天才バカボン』、そして『おそ松くん』もリバイバルして毎週3本掲載する、巻頭でカラーを常につけて「赤塚不二夫ギャグ劇場」をやりたいと。先生はずーっと人気トップを走りたい。……わかるんだよその気持ちが。

でも腹立ちましたよ。バカ言ってんじゃないよと。そりゃ、才能があるのは先生だよ。でも一緒になって(作品の)手助けをしただろうと。
まったく自分を全否定されるような気がしました。編集長や同僚にも冗談じゃないって怒った。

だけど、やるだけのことをやって、天下をとって作品のクオリティを高めていくっていう先生のギャグマンガへの情熱を知っていただけに、心の本当の片隅のところで「わかる」っていう部分はあった。もちろんこっちだって仕事だから、応援するつもりはないですよ。だけど、別れた女性に未練があるのと同じように、「あいつにもいいところはあるんだ」っていう気持ちの部分はあった。

その後、いろいろあって、『バカボン』のテレビアニメ化のとき(1971年)に「マガジン」にもどってくる(注8)。バカボンのパパやバカボン、レレレのおじさん、ウナギイヌとかすべて、一時の流行ものじゃない強いキャラクター性があったからだと思う。

(注8) 移籍した「サンデー」では、『もーれつア太郎』のニャロメ人気で『天才バカボン』の影は薄くなり、半年後に『バカボン』は終了。その後「週刊ぼくらマガジン」に復帰し「週刊少年マガジン」本誌で再連載される(1971年27号〜)。
五十嵐: 当時私はさいとう・たかをさんやちばてつやさんを担当していて、赤塚先生担当に戻ったけど、そのときはもうギャグに苦手意識はなかった。でも、当時の赤塚先生は絶好調と言える時期ではなく、以前にはあった天才と思えるギャグのキレが感じられなかった。

そこで赤塚先生に調子を出してもらうためにやったのが、「○○編」という形の番外編。パパとママの恋愛編とか生い立ち編とか浦島太郎編とか、劇画編とか(注9)。『天才バカボン』に潜在的にたまっていた力、過去の遺産みたいものを吐き出させることによって調子づけさせようと思った。
(注9) 番外編シリーズは『天才バカボン』9巻10巻に収録
五十嵐: これが当たったんですよ。約3ヵ月くらいかな、その間、スズズッと人気が上がっていってね。元の3位へもどった。自分でイメージして企画したものだから、人気が出て嬉しかった。先生も調子が出てきて「五十嵐もういっちょ上げようよ」という意欲が出てきた。そしてしばらくバカボンは続くんですよ。

 
--- その後『バカボン』には実験的な作品もたくさんありますね。

五十嵐: そうそう、実物大マンガの巻とか、あちこちのページに飛んで読まされる巻とか、途中で「ナシ」というコマが出てくる巻とか、左手で描いた巻とか、そのころ、だんだん悪ノリしてくるんですよ(14巻に収録)。天邪鬼というか傍若無人というか、人を食った感じというか、もうしめたもんだと思った。それでまた調子が出て、結局3〜4年続くのかな。
 
--- 担当者の違いが作品に与える影響は大きいのでしょうか。

五十嵐: 赤塚先生は性格的に「サンデー」の武居さんのほうが近い。私の印象で言うと、どちらかといえば、武居さんは破天荒で型破りなタイプで、性格的にも熱情派。私はなんというか、少しマジメな部分があって先生と違う。やっぱり、マンガ制作でも武居さんは先生と一緒に盛り上がっていく感じ。そのころ『レッツラゴン』ではシュールな部分まで行こうとする勢いがあるけど、『バカボン』では理解できる範囲のところでとどめていますね。

 
--- 『バカボン』ではマンガ家と編集者というテーマの巻がいくつかありますね(注10)。先生から原稿をもらうまでのスケジュールというのはどのような感じだったのでしょうか。

五十嵐: 曜日は正確に忘れましたけど、週刊誌3〜4誌、サンデーの次にマガジン、そしてキングや週刊文春という順番。まず、様子を見に仕事場へ飲みに行く。そのときは前の雑誌の人が終わったあとで、バトンタッチの飲み。だいたい午前3時から4時まで飲んで、朝の9時〜10時ぐらいに起きて、会社には行かずに先生のところへ行く。

そこからいっしょにアイデア会議をやって、その日のうちに先生がネームとアタリ、アシスタントが後の絵を入れて原稿が終わる。その日は飲みに行かないで、翌日ゲラを届けに行って、来週のスケジュールを聞いて、飲みに行く。だから「マガジン」の仕事で3日間かかりますが、つきっきりではなかった。

当時、私は先生のほかにちばてつやさんなどの連載を1本、曜日が重ならないように担当して、あとは読み切りや新人の連載起こしなどで合計3本を担当。先生に特別時間がかかったわけではないですね。むしろ飲みが疲れたな(笑)。夜の10時11時から始まって朝の3時4時まで、しかも穏やかに飲んでるわけじゃなくて、踊ったりバカをやったりして体力も使うからね。


(注10) 帝国ホテルでの執筆を希望しアシスタントと豪遊して編集部をあわてさせる巻(13巻に収録)や、編集者が原稿をタクシーに紛失して描き直してもらう巻(14巻に収録)は、五十嵐さんの実話を元にしている。
 
--- 赤塚先生の担当をされて、ご自身が影響をうけた点はありますでしょうか。

五十嵐: 私が赤塚不二夫さんに学んだ最大のものというのは「マンガ家は天才じゃないと思う。天才もいるけど、全部がそうじゃない」という言葉です。

先生は「体調が悪いときもあれば、どうしても考えがまとまらないときもある。でも、読者は毎週毎週、最高のものを要求してくる。それが週刊誌だよ」と。「でも、無理なんだよ。コンスタントにおもしろいと思うものを出していくことは、どんなに才能のあるマンガ家でも難しい」。先生は、絶好調のときで週刊誌4誌と月刊誌をやってたけど、アイデア会議なるブレーンストーミングによる制作スタイルが必要だった。

私はその後、「月刊少年マガジン」の編集長を5年、「週刊少年マガジン」の編集長を11年、合計編集長を16年やりましたが、「マンガ家は天才じゃない」という言葉が、編集長になるときの大命題だったんです。

マンガ家の方の案がいつも絶好調のものとは限らないから、前もって編集部でも案を考える。いくつものチームをつくって、ストーリーに強い人、ギャグに強い人、野球が詳しい人、医療に詳しい人など得手不得手にあわせて担当する。チームの中で分業になっていて資料は徹底的に調べて、そういう人もアイデアに加わる。つまり担当は一人ではなく数人というスタイルを作ったわけです。はまりましたよ。「週刊少年マガジン」はスッスーッと伸びて、私が編集長になったとき150万部だったのが11年間で450万部にまでになった。

もちろん、マンガ家に相当力もあったことも事実です。その制作スタイルでも、作家のにおいが消えたり、作家の絵の良さが消えたりした場合は読者に受けません。読者が待ってるのは、作者の個性なり感性っていう世界ですから。チームでやる場合には「このマンガの売りはここだ!」「この人の特徴はこれだ!」っていうことを必ず捕まえておきなさいよと。

でも、「マガジン」がグングン伸ばすことができたのは、やっぱり先生の考えをお手本にしたからです。編集方針として、マンガ家にそんなに天才はいないんだよと。これは私が親しくした赤塚不二夫さんから肉声で聞いたものだから、私は真実だと思うよと。

「週刊少年マガジン」の部数が伸びて「週刊少年ジャンプ」を超えたとき、先生はとても喜んでくれました。講談社の役員になったときも、自宅でちょっとした宴会を開いてくれて「自分の担当で役員になったのはおまえしかいない(当時)。五十嵐よかったな」って肉親のようにおっしゃってくれて嬉しかったです。赤塚先生は私のマンガの師匠ですね。人生の師匠というと難しいところがあるけどね(笑)。
 
(2005年10月 講談社にて取材)
<参考文献>
・ 『アカツカNo.1』イーストプレス 2001年
・ 武居俊樹『赤塚不二夫のことを書いたのだ!』文藝春秋 2005年
次回のインタビューは元小学館の武居俊樹さんです。
 
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