実用軍刀身 (6)
群水刀
Practical Guntō's blade (6) Gunsui-tō
誤解を招く「従来の群水刀の解説」
群水刀の資料が少なく、「刀剣美術」 (財団法人日本美術刀剣保存協会昭和46年9月10日発行)の中に某御仁が寄稿した「群水刀と兼友一門」が
確認出来る位だった。今回、群水鋼の開発者と群水刀の作刀と検証に関わった当事者の一次資料が発見された。
前述の一次資料と「刀剣美術」掲載の記事を比較してその隔たりは余りに大きかった。
この筆者は兼友一門の刀匠の紹介が中心で、群水鋼の開発経緯、栗原彦三郎の関わり、群水鋼の最終製作会社名、群水刀が如何な
るものかも全く知らない事がほぼ判明した。彼が掲載した群水鋼の成分表示も一次資料と違う。
「江戸城は誰が造った」という質問に「徳川家康」又は「大工」という二つの答えがあるという笑い話しがある。この筆者は「大工が造った」という
視点で書いているようだ。恐らく群水刀を見た事もなかっただろうし、群水刀の実態を知ろうともしなかったようだ。
群水鋼の開発目的、群水鋼が熟成する経緯はこの筆者が述べるものとは全く違う。又、日本刀用の群水鋼は鍛錬の必要が無い鋼であった
のに、一人の刀匠が群水鋼を使って鍛錬刀の模索をしていると記述している。これには矛盾がある。
栗原昭秀が関与する前なら、鋼の試作の段階でその可能性は無きにしも非ずだが、記述文からはそうでは無い。
群水刀の製品作刀をした兼友一門の刀匠名に参考となるものがあるものの、群水刀に関して一次資料とは天地の差がある。
この筆者の日本刀の捉え方は、美術刀剣界の妄想をその儘絵に描いたようなものである。素延べ刀というだけで無条件に拒否反応する。
これは下等動物の条件反射と同じようなもので、そこには何の思考の余地もない。美術刀剣界には概ねこうした人間が多い。
今こそ栗原昭秀の実践検証の姿勢が必要ではなかろうか。以下、誤解を招くその掲載文の要点のみ記述した。
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『刀剣鋼材の不足を補う為、昭和16年、群馬水電褐エ町発電所にて、千葉県鴨川海岸の砂鉄を電気精錬し、これを用いて刀を鍛える研
究が開始された。群馬電力葛燗発電所勤務で独学で刀剣鍛錬の技を会得していた高橋定平(後の継政=笠間一貫斎繁継門) が原町発電
所々長の依頼により、電気精錬された「群水鋼」を以て余暇を利用して刀を鍛えた。
昭和17年第7回新作刀展覧会に於いてこの刀が入選。群水鋼に依る作刀が可能な事が実証された。
高橋定平は会社を辞し、郷里の長尾北牧に帰り群水刀の鍛錬に専念した。
群馬水電は群水鋼の量産を企図。群馬県七日市に鍛錬所を設け、県下に名声を馳せていた龍眠斎兼友
(松永龍眠斎兼行門人、本名
桐淵又一) と門人を招聘。群水刀の研究にあたらせた。群馬水電の略称を取り、銘に「群水」の二文字を切った。
高橋定平も参画したが2ヶ月で兼友と袂(たもと)を分かち常盤町に鍛刀所を設け独立し群水刀から手を引いた。
群水鋼は量産され、七日市の鍛錬所の他、県外の鍛錬所にも供給されて軍刀が造られた。
昭和18年11月、陸軍軍刀展覧会に特殊鋼刀の部に群水刀兼国銘
(兼友作と云われる) が出品される。
兼友と門人は群水鋼に依る鍛錬刀を目指していたが、拡大する需要に供給が追いつかず、機械ハンマー、グラインダー導入等の作刀簡略
化が計られ、更に、最終的には無垢鍛えの刀を作った。試し斬りで刀が折れ群水刀が兼友の命取りとなった。』
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一枚鍛えは駄目だと云う根拠の無い前提でこの文は書かれている。美術刀剣界の資料は眉に唾して読む必要がある。
残念な事に福永酔剣氏の「日本刀大百科事典」の中の群水刀の説明もこうした歪んだ資料が下敷きにされたようだ。
素延べ群水刀の軍に依る落錘試験の成績は別項に述べるが、極めて優秀だった。
落錘試験参照
銘: 上野住人龍眠斎兼友作 裏銘: 昭和12年8月吉日(樋付き) 丁子乱れ・群水刀以前の本鍛錬刀
銘: 上野住人兼宗作之 裏銘: 皇紀二千六百四年(昭和19年、刃長: 64.0p・反り: 1.5p) 本鍛錬刀
写真ご提供: 群馬県立歴史博物館
設楽様(同博物館所蔵)
素延べ刀・準日本刀
Sunobe-to & Semi-Japanese-Swords
茎に陸軍星刻印を持つ群水刀・兼友門下の太刀銘 継延 (笠間一貫斎繁継門、塚越継延・初銘兼春) 刀身
群水鋼の開発者に就いて(昭和17年10月、「日本刀及日本趣味」中外新論社編集員記。現代漢字仮名遣いに変換して要約を記す。以下同様。( )は筆者注)
宮口竹雄先生は、明治32年東京帝国大学電気工学科出身の技術家。名古屋電気鉄道葛Z師長を振り出しに、東京市街鉄道株ュ
電所長、横浜電気鉄道技師長、日本電燈葛Z術顧問、日本電気製鉄所取締役、揖斐川電力鰹務、東京電力叶齧ア兼技術部
長、東京電燈鰹務監査役を経て、最近迄群馬水電且ミ長であった電気界の重鎮である。
大正2年、海外視察の際、電気製鉄製鋼事業を研究し、大正3年日本電気製鉄所を起し、以来28年間その事業に没頭。
特に日本刀の研究を行い、群馬水電鰍フ社長になると、同社内に研究所を設け、第一に日本刀用の鋼の製作を開始した。
然し、同社が日本発送電鰍ノ吸収されたので、その研究所を分離して群水電化工業鰍創立してその事業を継承しつつある。
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群水鋼に就いて 宮口 竹雄
(昭和17年11月1日中外新論社発行「日本刀及日本趣味」より)
私は電気科出身で主として電燈電力会社に関係していた。大正2年に相模水電鰍フ機械買い付けに洋行した。その頃我が国は年間一
億円位の輸入超過で大変不景気だった。輸入の主たるものは肥料と鉄が半々だった。この二つを日本で生産すれば輸出入の調節ができ
ると考えた。鉄、特に電気製鉄の研究を思い立ち洋行のついでに主として英国でこれを調べ、英米の工場を見学して帰国した。
大正3年日本電気製鉄所を創立。大正7年揖斐川電力鰍ニ合併してからは専ら製鋼の仕事を受け持った。
日本で一番早く電気製鋼の事業を始めたのは信州の土橋氏で、次ぎは安来製鋼所、その次ぎが我社であった。
時恰(あたか)も第一次欧州大戦が始まり、鋼及び合金が好景気となったので鋼材及び特殊鋼の製造を先ず始めた。
然し、大小の爐で造った製品は少爐で造った製品の方が良いとの需要家の声でその理由が解らなくなった。鋼の本体を研究しなければ解
決不能と考え、特殊鋼でない鋼で尤も良鋼な鋼は日本刀である事から、この研究に入った。第一次欧州大戦終了後は不景気となり鋼の
製造販売を中止して専ら日本刀の研究を行った。一応の研究が終了した時、本職の電気関係が多忙となって暫くその儘となった。
群馬水電鰍フ社長となったのを契機に、原町発電所の隣地に研究所を設け、先ず日本刀用鋼の製作を始めた。
昨年(昭和16年)3月、上野で開催された新刀展覧会にその製品を出品して好評を得、以来漸(ようや)くその真価を認めらるに至った。
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群水鋼は何を持って良好かと云うと次の三点であると思う。
第一、製鋼用電気爐は普通エルー型を使用するが、我社は自ら発明して特許を取った宮口式電気爐を使用。エルー型は原料と電極が
接触してその部分が著しく高温となる。元来、鋼は高熱に接すると材質が不良になるのが定説である。宮口式電気爐は電極が材料
に接しない方式で材質を害する事が少ない。
第二、揖斐川(いびがわ)時代には原料として屑鉄を使用したが、近頃は砂鉄(筆者注:
鴨川海岸の砂鉄と思われる)より造った銑鉄又は純鉄を使う。
砂鉄より作った鉄はその性質が一定していて処女姓を有している。従って製品は昔より余程良好な成績を得た。
同じ砂鉄でも産地に依って相当変わるようであるが、未だ、産地別の刃味に及ぼす研究まではしていない。
第三、我社の技術者は皆、大正7年以前より従事した人間で24年以上の経験を持っている。従って、燐、硫黄等の不純物の除去や爐の
操業には熟練している。
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日本刀の製造の主たるもので最も大切な事は鍛錬であると云う。従って鍛錬刀でなければ日本刀に非ずと云う説が出るのも無理からぬとこ
ろであるが、それでは鍛錬とは一体何をする事であろうかと云うと
一、鋼中の鉱滓(こうさい)=鋼の屑ー
を除去する事
二、鋼の質を密にする事
が主なものであるが、今一つ大きな目的は含有瓦斯(元素)の除去にある。これは自分が気が付いた一大収穫だった。
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我社の製法に依ると、鋼は爐中で溶融状態にある時、既に鉱滓等の不純物は全て浮かんで鋼と分離される。又、瓦斯(元素)は爐内で
色々な方法で除去するが、これには熟練と頭が必要である。更に、鋼の質を密にする事は現今では焼入焼戻し等の作業で出來る。
従って群水鋼は従来の鍛錬法の目的は全て成し遂げている可鍛鋼であるから、例えグン延式※でも鍛錬したと同じになる筈である。
但し、軟らかい心金を硬い皮金に包むというやり方は、元来が可鍛鋼だから自由に出来る。 ※群馬水電の素延べ方式を指すと思われる
然し、栗原先生が10月号に言われているように「グン延」式の群水刀でも、鍛錬した刀でも同じ成績であると云う事からも(群水鋼は)充分に
鍛錬の目的は達成している事と思う。
筆者所見: 電気精錬に依って良鋼を造る研究は「群水鋼」の方が満鉄の「日下純鉄」より早くに始まっているようだ。
両社共に、輸入に頼っていた鉄の自給を目指した点は共通している。満鉄が国策に基づき、群水鋼は民間の着想に依る。
元々刀を造る為に開発されたものでは無かったが、結果として両者の鋼が刀に使われたと云う共通点が興味を惹く。
満鉄もそうだが、群水鋼の宮口社長も「刀の目的と造る手段」の本質を明快に理解していた。科学的な見地から当然ではあるが、「目的と手
段」を混同して本質も判らないのが刀剣界の大勢であった。宮口氏は日本刀の鍛錬とは如何なる意味かをここで明確に示している。
従来の「鍛錬」とは刀に最適な「鋼を造る為の人力に依る一つの物理的技法」にしか過ぎない。
この人力を電気精錬爐が肩代わりして、刀匠が苦労して造っていた鋼と同じ鋼を科学の力で造った。
製鋼手法が違っても、造られた鋼に差異が無ければ各々の鋼で造られた日本刀に差異があるはずがない。
この極めて単純な理屈が刀剣界には全く解っていない。
刀を造る為の「手段」を「目的」と勘違いしている事がその原因である。手段というものは必ず技術の進歩で変化するものである。
和鋼を使える鋼にする為の「物理的折り返し鍛錬」の技法は歴史上で無形文化財としての価値は確かにあるだろう。然し、それは「鋼を造る
技法」であって刀を造る技法ではない。科学技術が無かった時代には手に依る鍛錬しか良鋼を得る方法は無かったと云う丈の事である。
「刀用の良鋼を造る」為に、科学の進歩した時代に新たな技法が生まれるのは当然だった。
解り易い例え話をすると、「正確で早い計算をするという目的」を実現する「手段」として昔はソロバンを使った。それがタイガー機械計算機にな
り、やがて電子計算機になった。
刀剣界は、ソロバンで得た答えのみが最高のもので、それ以外の手段で得た答えは邪道と言っている事と同じ事を刀で言っている。ソロバン以
外の手段は認めないという事だ。手段であるソロバンがいつの間にか「目的」に置き換わっている。
目的と手段の本質を理解していれば、効率良く目的を実現する手段の電算機を邪道と言う人がいるであろうか。
この刀剣界の「目的と手段」の履き違えを栗原彦三郎が実証して見せた。
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群水鋼刀は純日本刀也 栗原彦三郎
(
昭和17年10月1日中外新論社発行「日本刀及日本趣味」より )
群水鋼の製法や含有非鉄元素他の点に就いては鋼学知識の乏しい私が説明するより、群水鋼の発明者で我国の鉄鋼学の権威者である
宮口竹雄先生にその説明をお願いした。私は自分で実験した範囲で群水鋼の純日本刀である所以を明らかにしたい。
製作上の実験
私が群水鋼なるものを知ったのは一昨年(昭和15年)の春頃であった。私は元来が物好きで研究心が強い為、内外の種々の鋼で日本刀を
作って経験したが、その内でも最も嘱望したのは群水鋼であった。その為に、細心の注意を払って度々実験したが、初めに入手したものは沸
かすと崩れ易く、且つ鍛着力が弱く、度々鍛え割れが生じたので、その点を喧(やかま)しく矢崎専務と宮口先生に言った。
群水では私の言った事を受け入れて、何度か工夫を凝らしてその欠点の除去に努め、最近は崩れもせず鍛着の良好な鋼が出来た。
私は次の六種の方法で鍛造し、その機能を実験した。
(1) 全部を卸鋼として普通の積み沸かしを行い、10回折り返し鍛錬し、群水の弱炭鋼の心鉄をいれて
甲伏せ作りとした。
(2) 全部を水折し硬度の強い部分を半分卸鋼としあと半分をその儘として半々づつを積み沸かして6〜7
回折り返し鍛錬。群水の硬度極めて低い鋼を心鉄として捲り作りにした。
(3)
その儘8回折り返し鍛錬して同上の心鉄を入れて甲伏せ作りとした。
但し群水鋼が段々精巧となり崩れと不着の欠点が無くなりその儘鍛造し易くなった為である。
(4)
その儘4回折り返し鍛錬して同上の心鉄を入れて捲り作りにした。
但し群水にて既に5回折り返し鍛錬して製鋼していた為に鍛錬回数を減らしたものである。
(5)
群水鋼その儘にて折り返し鍛錬せず同上の心鉄を入れて単に甲伏せ作りとした。但し群水に
て充分に鍛錬を加えて製鋼している為、改めて鍛錬の必要を認めなかった為である。
(6)
鍛錬もせず心鉄も入れずその儘打延ばして火造りし無垢鍛えとして作った。
但し群水鋼が改良に改良を重ねて殆ど古備前刀聖の使用する香々美部の鏡鋼同然の性能を加
えて来た為である。
私は以上の方法で作った刀約50振りを中山博道先生や門人達に十二分に試験して貰い、都度に最高の成績を得た。
然し、私一人ならず、刀匠は殆ど全部が頑固で、心鉄を入れずその儘グンノベ同然に作る事には感服出来ず、私も最後まで心鉄を入れぬ刀は作らぬと頑張った。
然し、何十回の刃味試験、打ち切り試験、軍の落錘(らくすい)試験の結果、心鉄を入れた刀も入れない刀も同一の最上最好の成績を上げつつあるという事実に対して頑張りきれず、遂に私も心鉄を入れない刀を作って約30振りを試験し、好成績を得た。
以群水鋼
昭和十七年正月吉日
栗原出羽守武田四郎武継二十九代孫 奉納武田神社
日本刀學院長勳四等栗原昭秀
武田氏遠孫
同門弟武田氏遠孫幡野昭信 群水専務 矢崎守信
私が鍛造実験した群水鋼の性能
日 本 刀 用 鋼 分 析 表
溶解番号 |
C(炭素) |
Si(シリコン) |
Mn(マンガン) |
P(燐) |
S(硫黄) |
2353 |
0.72 |
0.17 |
0.26 |
0.011 |
0.013 |
2852 |
0.75 |
0.12 |
0.26 |
0.012 |
0.013 |
群水鋼は純日本産の砂鉄を原料として電力精錬したものである。我国で出来る特殊鋼中最上最良のものである。尤も、創始者たる宮口
先生が三十余年間も世界唯一の良鋼を作って国家に貢献したいと云う熱誠で研究に研究を重ねたもので、軍の落錘試験を常に意識して
作られた鋼である。私は実験上も古備前刀の鋼を彷彿(ほうふつ)とさせるものであると確信するに至った。
特に以下の点が注目される。
(イ) 鋼として最も銑気が少ない。
(ロ) 鉄の処女姓豊富で靱(じん=ねばり)性が強く折れにくい事は玉鋼以上である。
(ハ) 刀及び刃物に作ったら刃味は最も鋭利である。
(ニ) 冷水で建※淬(けんさい=焼きを入れる事)して適当な硬度となる。 ※正式漢字は「火偏に建」
(ホ) 建淬後の焼戻しが容易である。
(ヘ) 研磨の際、玉鋼刀より刃毀(こぼ)れ・刃捲(まく)れが少ない。
(ト) 研上げて白ケシ糠目(ぬかめ)なく、肌に潤いがあって刃は白く、外見が大変に上品である。
(チ) 含有非鉄元素僅かに千分の二以下で、坩堝(るつぼ)鋼と同然である。
研上げてみると、鋼の精美は天国※(
あまくに )、神息※( しんそく=奈良時代 )、古備前、古大和に近い。
※日本刀匠の祖と目され「小烏丸」の作者と言われる ※豊前国宇佐の名工。大同年間に名刀平城天皇の皇子の護身刀を作ったとわれる
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群水刀を純日本刀であるとする所以
日本刀の鍛造に古来三種の方法がある。
一、は坩堝(るつぼ)製等に依って鋼を精密にし、硬度・靱性を完全にし、折り返し鍛錬をせず専ら品位のみに専念して心鉄を入れずその儘作
刀したもの
これは直刀時代の天国・神息等の大和の最古刀、古備前刀、山城の最古刀、安綱直系の最古刀、舞草※の最古刀である。
時としては一文字、古青江、古い三條系統のものにもあるが、此の種の刀は千年を経ても刃味は鋭利、肌鋼は精美、些(いささ)かも機能
を減損していない特徴がある。 ※舞草=一関(北上川東岸)刀匠集団。この刀は「舞草刀」と呼ばれ日本刀の原点と言われる
二、は充分に鉄の処女性、鋼の靱性保持に注意して精鍛し、折れ曲がりの恐れがない鋼を作り心鉄を入れずに作ったもの
この方法の作刀には、末の直刀時代の刀、天国及び同時代の刀、古三條、古青江、一文字、古い舞草刀等に多く、その特長は八〜
九百年、若しくは千余年を経て、尚、軍用として使える機能を有している。
三、は入唐(中国の唐に渡った)の僧侶が彼の地で鉄の大量精練法を学んで来て、島根の船通山船通寺、伊豆の南禅寺、奥州の大原附近
等で盛んに伝道と製鉄の事業を行った。この時代には未だ銑(ずく)、ヒ(けら)、若しくは鋼、鉄等を細分していなかった。
その為に刀匠はその鉄を買って適当に自ら卸して適当な硬度の鋼を作って刀を鍛造した。
その後製鉄事業が民間に移り、鋼、銑、鉄を分類して売り出すようになった。玉鋼が出来るようになって刀匠は自ら卸鋼を作る困難な工
程を省く為に専ら玉鋼を使用するようになり、その為(注:
硬い為)に心鉄を入れて刀を作るようになったものである。
これが数百年間の習慣となって我々までが心鉄を入れなければ物足らない心持ちになってしまった。應永以降の備前刀や肥前刀の如き
は、僅(わず)かに二〜三百年足らずで既に肌鋼が摩滅し、心鉄が現れて美観を損ねる物が出るようになった。
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以上三種の造法には皆一長一短があって直ちに優劣を断じる事は出来ないし、現在、刀剣界の諸大家諸先輩も目下研究中で誰も断定
を下されたものは無い。況(いわん)や私のような科学知識も無く造詣も極めて浅い者がみだりに是非を定めるべきではないが、私は前述の群水
鋼の性能・特長より推察し、且つ古来各種の造刀法があった事実に照らして、群水刀は純然たる日本刀であると断定し得る事を確信する
ものである。
最終に我社で作る日本刀用鋼の材質は大体次の通りの化学成分である。
分析以外に、砂鉄の有する処女姓がかなり製品に良い影響を与えている事を認めるものである。
茎に陸軍星刻印があるので、造兵廠の委託で作刀され、一旦造兵廠に納入。偕行社を通じて将校に販売された刀身と思われる。
将校用軍刀身は必ず軍に納入されるという事ではない。民間刀剣会社や民間刀匠から直接将校に販売されるケースが多い。の場合は当然、陸軍星を打刻する事は無い。
本刀身外装はこちら
筆者所感: 栗原彦三郎 (明治12年栃木県閑馬村生れ) は二代目稲垣将応、堀井胤明の門で「昭秀」の銘を持つ。
衆議院議員として政界でも活躍し、昭和の日本刀復活に尽力した最大の功労者。
「日本刀鍛練伝習所」(師範:笠間一貫斎繁継、東京市赤坂区氷川町) を、昭和16年には「日本刀学院」 (神奈川・座間) を設けた。
刀匠の育成を行い、門人から宮入昭平(人間国宝)、天田昭次(人間国宝)、秋元昭友などの名工を輩出した。
栗原の日本刀への情熱は並大抵のものでは無かった。
昭和12年、軍刀修理班を編成して自ら満洲に渡り、その途上、満鉄の懇請で初期満鉄刀の焼入を行っている。 満鉄刀参照
群水鋼の関わりも、自ら述べているように大変研究熱心な人物だった。
群水鋼が日本刀用の鋼として完成したのは、栗原の力が与って大きかった事が明白である。
栗原の偉大さは、自ら徹底して実践と実験から物事を見極めようとしたその姿勢にある。
栗原は6種類の造刀法で約50振りの刀を作った。
作刀実験の繰り返しの結果を反映して、電気精練の鋼の品質が理想の鋼に改善されていく様子がよく読み取れる。
栗原は「群水(電化工業)で折り返し鍛錬している」と述べているが、これは栗原の勘違いで、刀匠が折り返し鍛錬する事と同じ事を「電気精
爐」で行っているから、これは精練技法の改善を指す。
又、時の剣聖・中山博道と門人に依る何十回の刃味、打ち切り試験、軍の落錘(らくすい)試験の結果は「心鉄」を入れても入れなくても同
じであり、6種類の造刀法でも、素延べ刀も鍛錬刀も性能はほぼ同じだった。
電気爐で精製された群水鋼に折り返し鍛錬をしても全く意味が無い訳だが、従来の常識で折り返し鍛錬をし、心鉄を入れた刀を当たり前と
思って作ったという状況には笑えないものがある。新々刀の作刀概念が如何に根深く浸透していたかが良く解る。
実験の結果が出ても、尚、心鉄を入れない刀に承伏出来ないという栗原昭秀の心情は正直だ。
栗原が立派なのは、実験の結果を冷徹に受け止め、心鉄を入れない刀を30振りも作って、それを納得するまで検証した事だった。
栗原は古代刀から新刀までの造刀法に造詣が深く、洞察力と勘は鋭かった。古は一枚鍛えが普通だった。
栗原は、実験の結果と歴史上の造り込みの実態を総合して、一枚鍛えの群水刀の本質が日本刀であるという事を得心した。
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私も過去に群水刀を手にとって見たが、見事な刀身だった。機械鍛延でも綺麗な地肌ができる。
資料ご提供: K.森田様 中外新論社発行「日本刀及日本趣味」