2011/12/24
「君が代とカルタゴの平和」
東大出の孤独な秀才が天を仰いで嘆いた。あのバカたちはどうして私の前に集まらないのか。私には分からない。その時どうなるのか。カラスが飛んできて開けた口に糞をたれ<あほう,あほう>と鳴いて飛び去るだけである。この風景は,いつでも,どこでも永遠に変わることがない。
Ω祖型とは何か
伝統数秘学批判
ポツダム宣言無視ということでよろしかったでしょうか
戦前は(明治)憲法を「不磨の大典」と呼び物神化した。戦後も平和憲法、憲法9条を絶対化してきた側面があって、それが現在の精神的な従属状況となっている。戦後の平和論は、一種の国体論に化している。憲法9条さえ守っていれば平和国家、平和の守り手であるというふうな自己欺まんに陥っているような気がする。
原文
昭和26年9月8日、日米講和条約が結ばれ国際社会に復帰し、独立したのちも、占領下でアメリカから押し付けられた憲法を、いいはいい、悪いは悪いと検討することもなく、聖域化して今日までに至っている怠慢と無関係ではないものに、かつて戦前派の私達が体の奥底に共通してあった日本精神が切(きれ)かかっている事態があります。
戦後五十年有余年、日本はアメリカの圧倒的影響をうけてきました、そのこと自体は決して悪い事ではありません。経済的に成長して豊かになろうというエネルギーは、確かにアメリカの影響を受けた賜物だからです。
いつの世にもいわれる「今時の若いものは」とは言いたくありません。しかし表面的風俗的にアメリカを真似るだけでなく、精神的にも無自覚に染まってしまったのではないか。ーー最近の若い世代を見たり話したりして、心の拠りどころを持たない根無し草になっていると感じるのは、私が老いて来たせいなのでしょうか。
―― 根無し草とは、
規範も礼節も道徳も持たない、人間を人間として成長させる根っこを持たない人間のことです。規範や礼節や道徳は人間を支える誇りになります。それを持たない根無し草は枯れるしかない。
事実、最近の事件や現象にはそれが端的に表れています。人を人とも思わないような、生命に対してなんの感覚も持ち合わせていないような、簡単にわが子を殺し、父や母を殺し、何の関係もない子供を殺してしまうような事件の頻発はその典型でしょう。
外に立って空を仰いで、まぶしい日の光を感じたとき、緑の木々を吹き抜ける風に包まれたとき、何とはなしにありがたい気持ちになり、畏れ慎むような心に染まって、思わず手を合わせて拝んでしまうことはないでしょうか。
これこそが日本精神の根拠なのです。
そこから、日本ならではの規範が生まれ、礼節が整えられ、道徳が形成されていったのだと思います。こういう感性を蘇らせ、若い世代に受け渡していかなければならない。そうでなければ日本は危ない、私は心底そう思っています。
切れかかっている日本精神がここで切れてしまったら、日本人を日本人たらしめるものはなくなってしまう。そうなったら、ボーダーレス化、国際化が進展する地球社会で日本は存在していけなくなるでしょう。が、まだ遅くはない。ーーそう思いたいのです。
諸外国から戦争中のことを持ちだされると、そのことへの十分な認識や自覚もないままに、咄嗟に後ろめたい思いに囚われて唯々諾々と詫びることしかしない政治家たちの有様と無関係ではない。
「日の丸」を掲げ「君が代」を歌うとなると、なにかとんでもない悪いことをするような感じになり、たちまち拒否反応を示してしまう雰囲気と無関係ではない。
愛国心という言葉を聴いただけで古いとかカッコ悪いとかいう感じかたをしてしまう心のあり方とも無関係ではない。ーーそれは切れかかっている日本精神への絆です。
今の日本人を呪縛している精神的「カルタゴの平和」を克服することが大切でしょう。そこから、日本人を日本人たらしめる感性を蘇らせ、日本精神を体得していく道筋がみえてくる。
―― 世界史を学んでいる皆さんはご存知の事と思いますが、
「カルタゴの平和」について簡単にお話しておきます。
カルタゴは、商業貿易を得意とするフェニキア人の植民地で、紀元前2世紀頃大いに繁栄した。その繁栄ぶりはいまの経済大国日本の比ではない。世界中の金銀をかき集めた大金持ちの国、と思えばいいでしょう。カルタゴは地中海の海上権を掌握する勢いを持っていた。
このカルタゴとローマの間で、シチリア島の支配をめぐって争いが生じたのがきっかけとなり戦争になった。――ポエニ戦争です。
ポエニ戦争は紀元前264年から紀元前146年に亘って3回戦われた。
2回目のときは、ハンニバル将軍率いるカルタゴ軍に攻め込まれ、古代ローマ帝国は存亡の危機に瀕したほどです。だが、結果は3回ともローマの勝利に終わった。
しかし、カルタゴは得意の商業貿易を武器に、先の2回の敗北から息を吹き返した。3回目の戦争でカルタゴに勝ったローマは、カルタゴがあるからローマの平和が脅かされると考えた。どうすればいいか。ーーカルタゴを根絶やしにするのが一番いい。
そしてローマはカルタゴを地上から徹底的に破壊し焼き尽くし、女性から子供にいたるまで皆殺しにして、カルタゴを地上から消してしまった。かくてローマの平和は築かれた。カルタゴを抹殺することのよって、ローマは平和を享受することが出来たのです。
―― 第二次大戦に勝ったアメリカは、この顰み(ひそみ)に習い、
日本に対して「カルタゴの平和」を目指したのです。
しかし、日本の一切を破壊し尽くし、日本人を皆殺しにする蛮行は、現代では不可能です。ーーでは、ではどうすればいいのか。
日本人の精神を破壊し、骨抜きにするのがいい、つまり、精神的「カルタゴの平和」です。その為にこそ東京裁判というショーは行われたのです。現在ではアメリカの良識はこれを事実と認めています。
アメリカは日本を占領するにあたり、日本国民に「戦争贖罪意識」を叩き込むために「ワー・ギルト・インフォメーション・プログラム」と呼ぶ綿密な手を打っていたのです。
私達戦中派と戦後生まれの方々との考えの違いは、その背景になる教育方法の違いによってでしょうか?、かなり断絶があります。しかしそれは仕方がない現象でしょう。
日教組が中心になっていた(あえて過去形で)占領軍が意図した「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(情報宣伝計画)」に沿った教育に汚染された、今、四〇代・五十代の人は、少年時代や青年時代はアメリカがすべてでした。ーーアメリカが憧れの国だったと思います。
情報宣伝計画とは?
アメリカのプロパガンダをベースにした太平洋戦争史観が戦後教育の中に持ち込まれ、日本はファシズム国家で、アジアの近隣諸国を侵した邪悪で残忍な国だったという史観が日本国民に刷り込まれました。
東京裁判によって日本を侵略国として決めつけたのは、日本をスケープゴートにすることによって、西洋のアジア支配を正当化し、欧米の植民地支配による
蹂躙の歴史を隠蔽しようとする意図があったのです。東京裁判でのオランダ代表判事レーリングは後の著書でこう述べています。
「日本は西洋諸国の植民地を解放した罪によって罰せられたが、その四半世紀も経たない1960年に、国連が、植民地を保有することを不法行為であると宣言し、その後、植民地の保有を犯罪として規定すらした。国連総会は民族自決のための闘争を奨励し、“自由の戦士”を合法化して、国連加盟国に支援するよう求めた」
だからといって、日支事変から大東亜戦争に至る一連の日本の行動が全て正しかったなどと強弁するつもりは毛頭ありません。多くの犠牲者を出す戦争は、どちらに非があろうと、どんな理由があろうと許される行為ではありません。
また中国ならびに韓国において、日本の侵略行為があったのは紛れもない事実です。自存自衛のためとはいえ、朝鮮を併合し満州国を創建した。そして軍部の勇み足を招き、中国に侵略して大陸を戦火に巻き込み、二百万人の中国人の命を奪っています。我々日本人は、過去の過ちは謙虚に認めるべきですし反省すべきです。
―― しかし、大東亜戦争(太平洋戦争)は
満州事変や日支事変とはキチンと区別して考えなければなりません。欧米の押し付けに屈し、大東亜戦争と中国や韓国での侵略行為を一緒にするのは間違いです。再度、明確にしておきたいのですが、中国や韓国には、軍部による侵略行為がありました。しかし、アメリカやイギリス、オランダ、フランスなどの連合国にたいしては、侵略行為は一切ありません。
中国や韓国に対しても、事実関係をよく調べもせず、ただ頭を下げていればいいのだという考え方で接するのも問題です。事実を認める時は潔く認める。この毅然とした態度がなければ、国際社会ではいつまでたっても認められませんし、尊敬もされません。ーー外交もうまくいくはずがありません。だいいち、中国や韓国に対しても失礼でしょう。
日本の伝統文化を語るとき、日本独特の万世一系の天皇家の存在と神道を避けて通ることはできませんが、ここでそれを述べますとまた大変長くなります。次の機会にゆっくりお話したいと思います。
巨悪は我々の心を養分として育つ
集団となって「悪さをする」のは、何も野次馬や暴徒化した群衆だけではない。会社でも国家でも、ある一定以上の規模になった組織は、容易に「悪」の巣喰う場所となる。
それはなぜか。それは人間が集団の中に、自分の醜い「悪」の顔を隠すことができるからである。「悪の顔」を隠すことができれば、われわれはもっと容易に悪を成すことができる。おそらくは、悪であると自覚せずに、その悪を成すことさえ可能である。人間の大部分は弱い。そして弱さの集合的発現こそが、将来われわれが代価を払うことになる(であろう)大規模の「悪の発露」たる戦争である。集団の陰に隠れて行われる、各人の「卑怯の合算」である戦争なのである。それによって生じるあらゆる破壊や殺戮は、それに関わるひとすべての共犯であるために、おそらくいかなる戦争も、その責任をきちんと追及することは不可能である。ましてや共犯関係にある者同士が互いを追及することなどあるはずがない。
ひとりひとりは、いかにも良心のありそうな人間であったとしても、悪いのは自分だけではないと信じる無責任、利益を自分に向けて抜け目なく最大限引き出そうとする利己主義、人の背中に隠れて小さな悪への誘惑に負ける意志薄弱という側面は、実は各自に潜む。ひとりひとりは一見「善良」ではあり得ても、集団というものは、こうした人間の最低の部分が、最大に「活かされる」場所なのだ。そして、人間の最低の部分の集合的な発現は、法的に違反しているものである必要はない。それら「悪」のほとんどは「合法的に」なされるのである。いかなる法も所詮人間が作りだした、われわれにとっての便宜のひとつのありかたにすぎないからである。
人間のこの狡賢さは、自分が被害者にならない限りにおいて、その帰属する集団を、暴力、嘘、盗み、といったあらゆる悪の行為に駆り立てる。いや、「駆り立てる」という言い方はひょっとすると正しくない。そういう行為を「許し」、密かに「見逃し」、悪の成就を、無言で「支持する」のだ。そしてあらゆる悪への牽制メカニズムの網の目をかいくぐって、最終的に悪はどこかで成就する。国家とは、そうした悪だけが表に発露される最低最悪の場のことである。われわれ小市民は、自分の利益のためにとても人を殺せないが、「国家」という乗り物を使ってなら、より大規模にそれを成し遂げることができる。より無自覚に。
嘘を付いて過去の悪行を認めない国家。
嘘を付いて他国から経済援助を引き出す国家。
嘘と知りながら大国の巨悪に「大義」を見出す小国。
嘘と知りながら国をまとめるだけのイデオロギーを以て、小国を支配するための大義とする大国。
あらゆる嘘や暴力が、歴史上あらゆる国家という国家によって堂々と実現されてきた。
支配されるわれわれの間では
人を殺せばそこには殺人の罪が生じる。
嘘を付いて他人の援助を受ければ、そこには詐欺の罪が生じる。
しかしいかなる隠れた狡猾も、明らかな罪科も、国家という巨大集団によって、より大規模に成されるや、それは「われわれの責任ではない」ということになる。実に、巨大な群衆としての「国家」とは、われわれ小市民にとって、便利な隠れ家である。日常の中に滑り込んでくる個人による殺人を、残虐であるとか非人間的な悪逆であると評し赦さない一方、われわれは、集団による組織的な殺人を「政策である」と呼ぶことができ、過去のそうした組織的かつ大量な殺人を「他に選択の余地がなかったこと」として情状酌量し、容易に忘却する。
年金制度や税の徴収のあり方など、何を見ても、人間としての考えられる限り“最低の在り方”を、政治家の判断や活動を通して、国家はわれわれに見本を示してくれている。しかし、実は、悪いのは政治家や官僚だけではない。「大きな集団」とは、小さな悪や小さな良心、その他諸々人間の行為や思いのすべてを濾し落として、内なる最大の巨悪だけをそのまま残して一番上に提示する、いわばザルのような仕組みのことなのである。このザルを以てしては、良心という人間のもう一つのちっぽけな真実の在り方を掬い上げるには、あまりに器としては大きすぎるのである。
何千年経ってもなくならない官僚組織の腐敗。一部の利益を代表するだけの、大局を決して見ることのない御用政治家の限界。個人の思いを無視した外交官僚たちの秘密の工作。どうして無くならないのか、われわれはいつも考える。しかし答が見つからない。そうした行いの正邪は、合法であるか非合法であるかという判断とはこの際関係がない。
官僚組織自体は、合法的に組織された集団である。そして国会は(表向きには)合法的に選ばれた代議士達によって組織されているものである。しかし、仮に、ひとりひとりの官僚や政治家に「一般人の良心」というものがあったとしても、それは国家や行政の「行為」として具現化できない。たとえば、行政活動の必要に応じて、いったん金の流れというものが生じると、それが時代と共に意味を成さないものとなっても、その旧弊な「流れ」を温存したいひとりひとりの心が、その変革を許さない。それら利権を温存する方法が、如何にわれわれの法に適ったものであっても、そこには集団としての、あきらかな悪がある。官僚や政治家のひとりひとりが、その悪を見ようとせず、その悪を悪であると、心の弱さと曇りから認めることができない。したがって、たとえば、必要だとされたひとつの「金の流れ」という利権が、時代の変化や必要の有無に関わらず、いつまでも温存される。結果的に一般の納税者から合法的に金を巻き上げ続けるシステムだけが残される。だからいくら増税しても、これら金を吸い上げる者達が、そのシステムを諦めない以上、いくら民衆が金を稼ぎ出しても、彼ら悪徳官僚達の腹を十分に満たすことはできない。われわれは、毎日額に汗して働いて、そういう者達を養い続けている。しかし権力という言葉が、こうした「もてる者達」にとっての「保身」の意味でしかない以上、この状態を変えることは容易にはできない。もてる者達自信が自らの矛盾のために自壊するしかないのかもしれない。(しかしどのように?)
恐らく、社会的弱者に対する無視(内へ向かう暴力)も、戦争への道(外へこぼれ出す暴力)も、より強い巨悪への追従も、個人個人の狡さや弱さを足し合わせた、その集団の総意の結果なのだ。暗殺や小国政府の転覆など、明らかな非合法行為も、実はそうした「合法的に赦されている」一般民衆の弱さの合算したものの例に漏れないはずだ。
合法的に赦されたわれわれが、倫理的に明らかな非合法である戦争を作りだすのである。戦争を可能にする合法的な制度によって。
個人の中ならばしばしば認められる良心や寛容というものも、生き物の本来持っている一側面である。政治家とは、そうした人間の善良さが、巨大な国家という生き物の性質として表現されるための、類い希な創意工夫と、鉄のような意志と、実行力を兼ね備えた者でなければならない。そして、われわれは、われわれの個人の中に生きている良心の具現化を助けない人間を、政治家として選んではならないのである。
私が書くことは、おそらく巨悪への共犯という私の罪を何ら酌量しないだろう。ましてや、このままではこれから起こるかも知れないことを防ぐなんの助けにもならないだろう。私の心に奇跡が起こり、私がわれわれを押しつぶす巨大な車輪の前に身を投げ出したところで、この巨悪の大河の流れをもはや止めることはできないかもしれない。しかし最も効果的な身の投げ出し方を悟れば、それを実行するかも知れない。しかし、次善でさえないにも拘わらず、今の時点で、私が何を信じていたのかを隠さないことには、何らかの意味があってほしいと願わずにいられない。そしてこれを公共に向けて書いていたことが、私の今後の「扱われ方」に多少の影響を与えることはあるかもしれない。あるいは図らずも「身を投げ出す」第一歩に結びつくのかも知れない。
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投稿者:いもこ
tatsjin様
はじめまして。いつもブログ読ませていただいております。
私の知識は、様々な知識人の方々のブログから得た寄せ集めなので、聖書や詳しいことは正直漠然としか理解できません。
が、言っている意味は大まかに理解できます。
ハリウッド映画がフィクションなどではなかったことや、この世は人間の皮をかぶった悪魔とその悪魔に魂を売り渡した人間が支配していること。
小さな頃から、この世は矛盾だらけおかしなことだらけだと思っていたことの謎が次々と理解できます。
今さら気づいても遅いのでしょうか。
真実は身の毛もよだつことばかりですが、明日の命に関わることですし知らずにはいられません。tatsujin様を含め真実を熟知した方々の情報を読ませていただき、もっともっと理解を深めていきたいです。
真実を知りそれを広めてくれる人こそ、唯一の救世主だと思います。
これからもよろしくお願いします。