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第191回 『ルギア』男? 女? そんなの関係ない
休載していたからお忘れの方もいるかもしれないが、『ポケモン』映画2作目の「X(後にルギアと名づけられる)爆誕」のXの性別の話である。
Xは地球に生命を生み出したといわれる深層海流のシンボルともいえるポケモンだった。
実は映画専用のポケモンとして考えた僕自身が、性別までは深く気にしないで設定していた。
ただ、生命を生み出したシンボル的なポケモンだっただけに、母性的な性格をイメージはしていた。
「Xはオスかメスか? 声を男にするか女にするか?」
プロット(あらすじ)を検討する会議で、御前様がいきなり、その問題を持ち出してきた。
『ポケモン』映画の2作目は、暗くて重い1作目の『ミュウツーの逆襲』とは違うアクションアドベンチャーを目指すことは会議前に了解済みだった。
しかし、まだ、プロットの段階である。
Xが人間の言葉を話すかどうかも僕は決めていなかった。
できることなら、人間の言葉など喋らない生命の絶対的母性として表現できたらいいと僕は思っていた。
ポケモンと人間しかいない世界観の中で、生命の絶対的母性であるXが人間の言葉を喋るのは変だとすら思っていた。
ミュウツーは人間によって生み出されたというか、作り出されたポケモンである。
だから、人間の言葉を喋る。
だが、Xは地球の生命誕生の象徴である。
オスだ、メスだ、ポケモンだ、人間だ……を超越している存在のはずである。
Xが何かを語らなければならないとしたら、脚本の流れでXが何かをしゃべらなければならない必要性が出てきたときに限定するつもりだった。
そして、できることならそんな台詞を必要としない脚本を書きたいと思っていた。
Xがべらべらと人間の言葉を喋りだしたら、それは、この作品のテーマを語ることになる。
脚本に登場する主役がテーマを喋りだしたら、それは、その作品にとっては説明台詞になってしまう。
テーマが台詞になって出てきたら、それはもう脚本の台詞ではなくメッセージであり、メッセージを台詞で言うなら、それはもう脚本の台詞ではなく演説にすぎない。
観客にテーマを演説で聞かせるなら、その映画にストーリーもドラマも登場人物のキャラクターもアクションもいらなくなる。
テーマが露骨に出てくる台詞のある脚本は、もう脚本ではなく演説原稿でしかない。
『ミュウツーの逆襲』にもテーマを語る台詞がないわけではない。
主人公のサトシが「なぜここにいるんだろう」とつぶやいた時に、カスミがさりげなく答える台詞「さあね、いるんだからいるんじゃない」である。
自己存在などということは言わないし生きていることが大事なんだとも言わないが、「いるんだからいるんじゃない」でも言いすぎな気が書いた僕自身している。
だからこの台詞は、『ミュウツーの逆襲』の主人公であるミュウツーもサトシも言わない。
脇役であるカスミにさりげなく言わせた。
あくまでさりげなくである。
テーマが台詞で出てくる脚本は、その台詞以外のすべてをぶち壊す。
それまでにどんなに苦労し構成したストーリーも、考え抜いた台詞も、魅力的に作ったキャラクターも台なしにしてしまう。
余談に近く思えるかもしれないが、チャップリンの「独裁者」という喜劇映画がある。
名作と言われているから、脚本に興味のある方は見ておくべき映画の一つだろう。
この映画、ラストに延々と続く主人公の演説が圧巻だといわれている。
主役のチャップリンは演説で作品のテーマを露骨に訴え続ける。
その演説は確かに迫力がある。観客の多くはその演説に胸を打たれるのだろう。歴史に残る傑作といわれる由縁である。
しかし、その演説シーンは、そのシーンまでに苦労して積み上げてきた他の名シーンを全部ぶち壊してもいる。
この映画はチャップリンにとって初めて台詞をしゃべったトーキー映画だった。
それまでの、チャップリンの映画は、台詞が音になって出ない無声映画だったのだ。
で、台詞を喋るとなったら、とことん、テーマを喋りまくった。
そして、映画としては、とことん、ぶち壊れた作品になった。
そのぶち壊れ方が凄すぎたので、名作といわれるようになったのだと僕は思う。
けれど僕は、台詞を喋るようになったチャップリンの映画が好きになれない。
なんだかおしつけがましいのである。
せっかくのテーマが、台詞のためにとってつけたようにしか見えないし聞こえない。
もっとひどいのが、黒澤明監督の「七人の侍」である。
有名なラストの台詞がある。
「また負け戦だったな。勝ったのはわれわれサムライではなく、百姓だ」というような意味の台詞をサムライの親分が言う。
余計なことである。ぶち壊しである。
壮絶なアクションのクライマックスまで、ほぼ完璧に盛り上げて、最後の台詞で作品全部をぶち壊す。
「七人の侍」のテーマは滅びゆくサムライの最後のきらめきへの挽歌だと思っていたら、百姓賛歌のようなきれいごとの台詞でお茶を濁す。
ウソをつくなである。
さんざん派手なアクション演出の冴えを見せて、「勝ったのは百姓だ」はないだろう。
サムライは黙って去ればいいのである。
台詞はこわい。
テーマを語るどころか、単なるきれいごとの台詞で作品をまとめ、観客に勘違いをさせる。いや、もしかしたら監督自身もその気になって勘違いしているのかもしれない。
巨匠といわれる方は、歳を召されると勘違いの度合いがひどくなる。
おもに台詞に、その傾向が強くなる。
ほかの作品にも「切れる刀は鞘に入っているものだ」などというのがあって、一瞬で相手をぶっ殺す大流血シーンを見せつけた後で、そんな事を言われても白けるだけである。
で、『ポケモン』映画の二作目に戻れば、X(後にルギア)は、何をしゃべればいいのだろう。
テーマは共存である。
「サンダー」「ファイアー」「フリーザー」という自然をつかさどるポケモンの共存のバランスが崩れることによって、世界がおかしくなってくる。
そこで、生命の誕生の象徴であるXが出てくるのである。
「みんな仲よくしなさいよ」などと言うだろうか?
そんな事を言われたって仲のよくない「サンダー」「ファイアー」「フリーザー」が大人しく言うことをきくとは思えない。
「てめえら、仲よくしないと承知しねえぞ!」
と、力ずくで喧嘩を止めさせても、Xがいなくなればまた喧嘩が始まるだろう。
つまり、説教するわけでもなく、力で押さえつけるわけでもなく、Xが世界に存在することで、人間もポケモンもその存在を必要とし、「サンダー」「ファイアー」「フリーザー」もXの存在を認め、それぞれがXの存在が必要だと思わなければ、喧嘩を止め共存などするはずがないのである。
そして、この世界が人間とポケモンで成り立っているならば、人間もまたその共存に参加しなければならない。
だから伝説が生まれる。
「世界の破滅の時、海の神X(生命の象徴ルギア)あらわれ、すぐれたるあやつり人(ポケモンと共存できる人間)とともに神々(自然をつかさどるポケモン)の怒り(喧嘩)静めん(止めさせる)」
つまり、Xの存在を見せるだけで、「サンダー」「ファイアー」「フリーザー」は喧嘩を止めなければ困るのである。
そしてXは、ポケモンとは別の生き物、人間にとっても生命の象徴でなければならない。
Xは生命の象徴であり、共存の象徴でもある。
しかし、そんなことなどどうでもいいエゴのかたまり(ジラルダン)が人間の中から現れ、共存を崩し始める。
世界がどうなっても自分のエゴを貫き通すジラルダンは、『ポケモン』映画2作目では最大の怪物なのである。
したがって、X(ルギア)と人間(サトシ)が戦わなければならないのは、ジラルダンという人間のエゴの怪物なのである。
つまり、伝説がテーマを語り、別にX(ルギア)は何も語らず、サトシとともに、自分の存在をコレクションの対象としか見ないジラルダンと戦えばいいのである。
さらに、『ミュウツーの逆襲』のカスミに近い台詞を言う人物も用意されている。
「あなたは、あるがままでいなさい……それが他と共存することなのです」
サトシのママは、これに近いことを言う。
となれば、X(ルギア)は、何も言うことはない。存在することに意味があるのだ。
といったようなことは、実は僕が脚本を書くうちに分ってきたことである。
だが、プロットの段階では、Xが何かを喋るかもしれないと御前様は思ったのだろう。
僕も、Xが何かを喋るか喋らないか、脚本を書いてみなければ分らなかった。
で、Xを男の声にするか女の声にするか、プロットの段階で多数決で決めることになってしまった。
Xが喋るとしたら、女性だと僕は思っていた。
生命を生み出すのは母性だからだ。
それも、こころなごむような年配の母親……奈良岡朋子さんか市原悦子さん、森光子さん……その他、日本の母親的な声の方は多い。
しかし、多数決の結果は、わずかの差で男の声に決まってしまった。
『ポケモン』映画はアクションアドベンチャーのつもりである。
なにしろ爆誕である。
いつのまにか、「命をかけてかかってこい!」という宣伝文句までできていた。
題名と宣伝は、完全に派手な喧嘩腰のアニメに思える。
だが、ゲストの登場人物は、巫女役のフルーラをはじめ女性が多かった。
おまけにサトシのママまで登場する。
この上Xが女性の声だったら、アクションものとしては線の細い作品になったかもしれない。
僕としては、Xがオスならそれでもいいか……と軽く考えた。
Xは、どちらにしても、テーマになるような重要なことは言わないだろうし……。
事実、脚本ではたいしたことは言っていない。
「私は出てこないほうがいいのだが……」が、Xの主な台詞である。
戦いを傍観している仙人のような役回りのポケモン、ヤドキングのほうが、よほどうんちくのある台詞を言っている。
だが、脚本を書いていくうちに、Xは女性の声でなければまずいぞ……という気になってきた。
しかしその時は、Xの名前はルギアと決まり、キャラクターもオスのつもりでデザイン化されつつあり、声優も決まっていたようで、どうにもならなかった。
ちなみに完成した作品の試写が終わって、アニメーション監修の方が僕に言った。
「やっぱり、ルギアは女性の声の方がよかったね」
その時はもう後の祭りだった。脚本を書く上で、ルギアがオスであることは、プロットの時には想像できなかったほど、僕を苦しめた。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
僕の娘は、私立の女子中学に通っていて、アニメをほとんど見ない。
クラスで話題になるTV番組は、アニメよりも実写ドラマであるらしい。
映画も、ほとんどアニメは見ない。
それが、1ヶ月ほど前、珍しくクラスに評判になっているTVアニメがあると知らせてくれた。
「だいぶ前に終わったけれど、『けいおん!』は面白かったよ」
で、『けいおん!』とやらを見ましたよ。
面白いのでびっくりした。
一日で、全部見てしまった。
一見、どこにでもあるような学園音楽アニメなのだが、ちょっと変わった感覚なのだ。
今売り出しの細田氏や新海氏をはじめとする話題のアニメも見ていないわけではないが、感覚的にカルチャーショックのようなものを感じたことはない。
しかし、『けいおん!』は、軽いめまいを感じた。
妙に元気なのである。
気になってスタッフを見たら、女性が中心である。
実写映画も、最近、女性の監督の作品がなんだか元気である。
男性の監督は、実写もアニメも面白いものもあるが、それにしても淡々というかだらだらというか、本質的に元気じゃない。
アニメにしてもやたら動いているが、どこか不健康である。
先が見える暗さがある。
なんにしても、女性が元気なことは頼もしい。
しかし、制作状況は、実写もアニメも暗くなる一方のようだ。
せっかく元気な女性のクリエーターを泣かせるような状況に追い込むようなことになったら、「アニメは文化だ」は掛け声だけで終わってしまう。
アニメ女工哀史国日本などと呼ばれないように……。
昨日もアニメ脚本買取契約の話を聞いた。あらら……である。
つづく
■第192回へ続く
(09.07.22)
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