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第148回 「ポケモンひっしょうマニュアル」
僕が、脚本会議に提出したアニメ版『ポケモン』の9話「ポケモンひっしょうマニュアル」は、放映が10年以上続いている今、他の話数のエピソードと、それほど変わっているとは思えないかもしれない。
しかし、アニメ版『ポケモン』の序盤に位置する話数のエピソードとしては、かなり異色なエピソードだった。
それまでのエピソードは、ゲームの『ポケモン』の中にあるものを膨らませるかたちで作られていた。
アニメ版は、それがゲームにはないエピソードに見えても、結局、ゲームの基本にはリンクしていたのである。
けれども、この9話にはゲームにはなかったものや、ゲームのプレー方法(ルールのようなもの)とは違うものが、登場している。
別に、ゲームにある「ポケモン」の基本に逆らうつもりはなかった。
だが、いつものアニメ『ポケモン』とは違う脚本を作ろうとしたら、ゲームの「ポケモン」にないものが紛れ込んでしまったのだ。
アニメ版『ポケモン』で描かれる世界が子供の空想した冒険世界だとしても、架空の世界だと割り切らずに、現実の子供たちのかかえる疑問を反映するものを入れたかった。
それが、架空の世界に、少しだけリアリティを持たせることになる。
『ポケモン』を見ている大人にも、「そう言えば、自分も子供のころ……」と、思い当たるようなリアリティが欲しかったのである。
全部のエピソードにリアリティが必要と言っているのではない。
ほんの少しでいいのである。
妙な言い方だが、デフォルメされたリアリティでもいい。
リアリティが少しだけあれば、どんなポケモンが出てきてどんなエピソードが展開されようと、「所詮アニメだ。子供向けだ、現実とはかけ離れた世界だ」で片づけられない、存在感のあるアニメになると思ったのだ。
で、主人公と同じ10歳頃の自分を思い出してみる。
大きな関心事のひとつは、学校だった。
先生だの生徒だの成績だの進学など、学校については、いろいろ思いがあるが、そもそも、学校で習うこと、教わること、覚えさせられるものに価値があるのかどうかが、少なくとも10歳の僕には疑問だったのだ。
もちろん、大人になった今は違う。
義務教育ぐらいの間は、もっと徹底的に勉強しておけばよかったと後悔している。……いまさら、遅いのは言うまでもないが。
しかし、子供の頃の僕は、そんなことは思いもしなかったから、学校でいろいろな友達と会えるのは楽しいが、学校で勉強することが、自分の役に立つのかどうかがとても疑問だった。
もっとも僕は、かなり変な子供だったのかもしれない。
当たり前とされている1+1=2すら、おかしいと思っていたのである。
現実には、1+1=2になることの方が少ない。
例えば、人間同士の場合である。
1人+1人=2人かもしれないが、大人+子供は2人と呼んでいいのか? 妊娠中の女性を1人と呼んでいいのか?
要するに、1の意味するものがはっきりしないと、1+1=2など成立しないのである。
1+1=2さえ成立しない算数を勉強してなんになるのか?
そんな役に立たないことばかり教える学校って変だなあ……と僕は思ったのである。
ついでに言うなら、国語にしてもそうである。日本語を習っても、外国人には通じないし、同じ日本人同士にしても、恥ずかしながら僕は、夏目漱石や芥川龍之介は原文を何とか読めるが、森鴎外は文章と漢字が古風というか……つまり、難しくて読めない。
同じように、今流行の携帯小説なるものなど、読めることはなんとか読めるが、その文章表現が簡略というか、おおざっぱすぎて、何を表現したいのかよく分からないことが多い。
それでも読める人には読めるらしく、それなりの感動を与えているらしい。
で、そんな人たちにとっては、携帯電話で表現できる文章より以上に複雑になる文――行間が狭くて、漢字が多く、一つの文章が何行も続く長いもの――は、読むのが面倒くさく敬遠されるのだそうである。
余談だが、出版不況(ごくわずかのベストセラーしか本が売れない状態)の昨今、作家に「携帯電話で読めるような文章の作品を書いてくれ」と頼む編集さんもいるらしい。
僕が子供の頃、学校で教えられた国語は、時代というより時間と呼んでいいほど短い間のうちに、どんどん変わっている。
わざわざ勉強する必要があるのか?
社会だって、僕が習った地図帳にはソ連があったが、今はない。ふたつあったドイツも今はひとつである。
理科もどんどん内容が変わっていく。
それを教える学校は、何なんだ?。
しかも、僕の子供の頃は勉強嫌いの子が多かったが、今は勉強好きの子が多いそうだ。
勉強し成績を上げることが子供自身の価値を上げると、子供たちが思うような時代になってきたらしい。
学校だけでは物足りなく、塾にまで自分から進んでいく。
でも、そこで教えられ勉強したことは、役に立つのか?
アニメ版『ポケモン』は、ポケモンという生き物と人間の関わりが中心の世界である。
この世界では、ポケモンに関わる仕事は、一種のステイタスである。
特に、ポケモンを操り戦わせるポケモントレーナーやポケモンマスターは、みんなのあこがれなのだ。
そんな存在になるために『ポケモン』について教える学校があってもいい。
でも、その学校で勉強することは、あくまで、学校で教えられる範囲内である。
実際に役に立つかどうかは分からない。
それは、『ポケモン』世界ではない、現実の我々の世界の学校と同じである。
学校の勉強が役に立つのか立たないのかは、子供の頃の僕のかかえる大きな疑問だった。
答えは今の大人の僕ではなく、子供の僕が感じたように書いた。
つまり、学校でポケモンのことをいくら勉強しても、それは現実のポケモンではないということである。
そして、このプロットには、「ポケモンは勉強じゃない」という副題をつけた。
で、そのプロットがいわゆる他の『ポケモン』パターンのものとどう違うか、文章で説明するより実物をお見せした方が早いと思う。
→ポケットモンスター(9話のプロット)
突然、です。ます。調になりますが……。
別にこのプロットは「えーだば創作術」の原稿枚数を稼ぐわけではありません。
アニメ脚本やアフレコ台本というものは読んだことのある方でも、プロットを読んだことのある方は少ないと思うので、参考に載せました。
もちろん、このプロットは僕流にすぎず、他の脚本家の方たちはそれぞれ、短いものや長いものやらいろいろな書き方があります。
僕のプロットとしては、かなり長いほうです。
僕は、普通プロットを書かず、大体の内容を口で説明して、直接脚本を書いてしまう場合が多いのですが、『ポケモン』では関わるプロデューサー格の人が多く、プロットの段階である程度方向を決めておかないと、脚本ができた後でまったく違う方向の意見が出て、脚本を大きく直すようなことになると、大変な手間になります。
そのため、『ポケモン』の脚本会議は、脚本家の方々が脚本を書く前に、まず脚本家のプロットを監督、プロデューサー、当時のシリーズ構成(つまり僕)、その他の関係者で検討してから、脚本を書き始めるのが常でした。
プロットと脚本は、大筋は同じでも、違うものです。
当然、脚本家によっては細部が……時には大幅に……違うものができ上がる時もあります。
このプロットでは、優等生代(ユートーセイヨ)のキャラクターが、脚本と違っています。
プロットでは悪役のように感じられるかもしれませんが、それはプロットとして対立関係を分かりやすくするためで、脚本上(セリフの表現等)は、もう少しキャラクターを彫りこんで、ソフトなキャラクターになっています。
このプロットは、意外にも、すぐに脚本のゴーサインが出ました。
スタッフも、通常の『ポケモン』と違うものを、期待していたのかもしれません。
どこが、普通のアニメ版『ポケモン』と違うかは、次回で……。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
オリジナリティのある人ほど、他の人のオリジナリティに気がつくものである。
だが、そんな人にもふたつのタイプがいて、全てを自分の個性で片づけ、周りを自分の個性で動かせると思ってしまうような人が監督なら……その人は脚本を自分で書くのが一番いい。
脚本構成力のある監督なら、それでいいのだ。
脚本家は必要ない。
だが、そんな人はめったにいない。
いたとしても、その人の最も才気あふれて体力のみなぎっている時期だけである。
そんな時期の人は、脚本どころか、製作から音楽から編集まで、何でもかんでもやってしまう。
実写の場合、主役になって出演してしまう場合もある。
喜劇のチャップリンなどその典型だし、ウディ・アレンなどという人もその1人だろう。
めったにない例をあげてもしょうがないか……。
で、オリジナリティのある人でも、もうひとつのタイプがいる。
他の人のオリジナリティが分かるから、そのオリジナリティを自分の中に引き入れて、自分の得意とするオリジナルな表現方法で作ったら、どんな化学変化を起こす作品になるだろうか? ――それを面白いと感じる人である。
そんな人は、自分にないものをそのまま自分なりに消化して、表現してしまおうとする。
受け取った脚本を、そのまま自分なりに監督し、絵コンテにし、その他の作業を経て、作品が完成した時、それぞれのパートで、それぞれの人たちの持つオリジナリティがしっかり表現されている奇跡が起こらないとは限らない。
仮に、それが脚本家であるあなたの期待していたでき上がりとは違うものであっても……ほとんどの場合が違っているだろうが……それでも、あなたの脚本は確かにその作品の中に生きている。
自分にないものを自分なりに表現したい――そう他の人に思わせるには、その脚本が他の人には書くことのできない、あなただけのオリジナリティのある脚本でなければならない。
あなた以外の誰にも書けないオリジナリティのある脚本こそが、監督のオリジナリティを刺激し、絵コンテその他のパートのオリジナリティをも喚起できるのである。
そして、結果的にだが、その作品には、少なくともあなたの書いた脚本にとって大切なセリフや情景は、残っているはずである。
他人のオリジナリティが分かる人は、そのオリジナリティを、自分なりに消化したいとは思うだろうが、変えようとはしない。
例えば、今あなたに大好きな恋人がいるとして、その人が変わっていくのを、あなたは望むだろうか……。あなたの手で、その人の性格や容姿を変えたいと思うだろうか?
おそらく、今のままでいい、今のままでいてほしいと思うだろう。
それが、その恋人の実体とは違う、あなたの勘違いであっても、その恋人にはそのままでいてほしいと思うはずである。
アニメを作る各パートにいる人たちにとって、そんな恋人のような脚本が書けたら、あなたは素晴らしい脚本家である。
その脚本には、あなただけのオリジナリティが光っている。
これはアニメ制作の現状に目をそむけた理想論にすぎないかもしれないが、気持ちだけは忘れたくないと思う。
つづく
■第149回へ続く
(08.05.14)
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