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第146回 アニメ『ポケモン』で僕にできる事は?
打ち入りのパーティでは、出席したスタッフやキャストの人達が、パーティの司会者によって、出席者みんなに紹介され、簡単な挨拶をするのが恒例である。
僕も、脚本家の方達の代表として、出席者の方達の前で『ポケモン』の脚本家としての心構えのようなものを喋る事になった。
だいたい人前で話すのを苦手とするのが物書きの常だから、こんな時は言葉少なく謙虚に「よろしくお願いします」程度の事を言って、さっさと引っ込む人が多いのだが、僕はそんな時は、言わなくてもいい事まで口走ってしまう。
要するに出たがり言いたがりのタイプなのだ。
ともかく、相手がどんな人でもどんなに大勢でも、僕は不思議に気持ちが動揺したり上がる事がないのだ。
そして、ついつい言いたい事を言ってしまう。
もともと書きたいと思うものしか書けないし、おまけに、人前でそんな態度だから、若い頃は、生意気な奴だと思われた事も多かっただろう、と今は思う。
ある監督やプロデューサーから「首藤さんは頑固だけれどユニークなものを書くから……」と直接言われた事もあるが、「頑固」という言い方には「???」だった。
僕は自分だけのものに固執するわけではなく、むしろ、いいと思う他人のアイディアは、自分のシリーズ構成する作品にはなんでもかんでも取り入れてしまう性格である。
自分が言いたい事を言ってしまうぶん、他の人の言いたい事も言わせて、それを聞く耳も持つべきだと思っている。
僕がシリーズ構成した作品では、プロの脚本家の方でも、通常は書く事がない、その脚本家の本音というか、その人の本当に書きたい脚本ができてしまう事があると言われている。
事実、魅力のある個性的な脚本が書けると見込んだ方には、最初の打ち合わせで脚本についての意見を打診するぐらいで、後は「好きに書いてください」で、それ以外は何も言わない。できてきた脚本に僕が手を加える事もない。監督の意見は当然尊重するが、そんな方達の脚本は、一稿が即決定稿になる場合がほとんどだった。
けれど、僕が相手に対して言いたい事を言ってしまう事も確かで、若い頃は「生意気」と呼ばれていたのが、僕が歳を取るにつれ「頑固」と呼ばれるようになったのだと、僕自身は思う事にしている。
で、若い頃の僕は、何事に対しても、物おじするという事がなかった。
今は、遠慮という事を憶え、相手に対して言う言葉に気を遣うようになったが、それは、いい歳をしたおじさんが、言いたい放題を言って若い人から煙たがられたくないからであって、本質は変わっていないようだ。
余談だが、アニメ雑誌「アニメージュ」がアニメグランプリのイベントを日本武道館でやっていた時があり、その舞台で僕1人にスポットライトが当てられて僕が脚本を書いたアニメ作品について挨拶をした事がある。
その時も事前に喋る内容を考えずに、ぶっつけ本番、その場で思いついた事をアドリブで喋った。
今以上にアニメブームの盛んな頃で、日本武道館を埋め尽くしたアニメフアンの前で、自分にだけスポットライトが当てられて、その場で思いついた勝手な事を喋るのが、僕には一瞬快感に感じる時さえあり、「物書きが、出たがりになってはいかんなあ」と反省し、以後、舞台挨拶などはできるだけ避けるようになった。
子供向けにしろ舞台ミュージカルなどを書いていると、作家の僕が初日や千秋楽の舞台で挨拶する事がたまにあるのだ。
それらの舞台ミュージカルは、主催や協賛が大きかったので、各都市の大型の劇場で上演され、観客の動員数も多かった。
東京の舞台でいえば、厚生年金ホール、日比谷公会堂クラスである。
そんな大舞台の上に立たされても、僕は平気だった。
舞台の上で、スポットライトを当てられたり、人の目を集めると、アドレナリンが噴出するタイプの人間がいる。
まして、それが、何が起こるか分からないぶっつけ本番となると、なかなかにスリリングで、ますますアドレナリンが出てくる。
そして、一度そんな経験すると、それが止められなくなるのである。
映画やTVで売れている俳優で、舞台に出たがる人が多いが、それは、カットやシーンで自分の芝居が中断される事もなく、自分の存在感を生身の観客の反応で感じられる、舞台の快感がたまらないタイプの人なのだろう。
もっとも、そういうタイプの人こそが、役者としての資質に富んでいると言えるかもしれない。
演技というものは、観客がいてこそ価値のあるものだからだ。
舞台の上での快感に比べれば、視聴率や観客動員などという数字は本当はどうでもいい。
批評や評判も、よければそれに越した事はないが、悪くても実はあまり気にならない。
役者と○○○は、一度やったらやめられないと、古くから言われるが、舞台に立つのが快感というタイプの人はかなり大勢いるのだ。
舞台依存症、スポットライト依存症、ライブ依存症と呼んでもいいかもしれない。
才能のある人は、自分の表現を舞台で人目にさらして、仮にそれが評判が悪いとしても、その快感に満足できるからいいだろう。
自分の才能を客が理解できないのだと思う事ですむ。
が、他の面に才能があるのに、というか、早い話が舞台に立つ才能がないのに舞台依存症になった人は、悲劇である。
一生、売れる事もなく、それどころか小さな劇場に義理で来たような観客すら楽します事もできずに、それでも舞台から離れられない。
やがて舞台だったら、どんな舞台でもよくなってしまう。
女性の場合、そこが田舎の場末のストリップ劇場でもいい。
スポットライトが自分に当たり、客の視線を浴びる事ができれば、そこは晴れ舞台なのだ。
そんな人達を、僕はたくさん見てきた。
「才能がないから、止めろ」と言っても無駄である。
その人達は自分の生身の表現(演技)を人に見せられる場所が、なにより幸せなところなのである。
なんと、僕は、どうやらそのタイプの1人であるらしいのだ。
僕には、人の目の前で喋ったり何かをやる才能などまるでない。
けれど、場所を与えられると、アドレナリンのようなものが出てきて、ついついアドリブで、その場で思いついた事を喋ってしまうのだ。
もっとも、僕も40歳を超えると、出たがり気分も衰え、人前で何かやる事に快感を感じるような事も少なくなり、そもそも、そんな機会もなくなった。
だが、根っからの出たがり本能は、歳をとっても自分のどこかに潜んでいる。
余談が過ぎたようだ。
話を元に戻そう。
『ポケモン』の打ち入りのパーティの話である。
スタッフの紹介の順番が、シリーズ構成と脚本家に回ってきた。
で、出席者の皆さんの前に立った時、簡単な挨拶ですませるつもりが、僕の隠れていたアドレナリンが騒ぎ出したようで、アドリブでぺらぺら喋り出してしまった。
「ポケモンはゲームの中に現在151匹います。1匹……ポケモンを1匹と言うか、1頭と呼ぶか決まっていませんが……ともかく1匹につき、最低でもひとつは面白いエピソードができますから、単純に計算しても151話はできるわけでして……」
後で自分の言った事を自分でよく考えてみたら、151話という事は、1年52週として、予定の1年半どころか3年近く続ける自信はありますと、アニメ版『ポケモン』のシリーズ構成として、関係者の方達に宣言したようなものだった。
アニメ版『ポケモン』が10年以上続いている今なら、3年などという放映期間はどうという事はないが、『ポケモン』が始まったばかりの頃としては、えらく強気の発言である。
その時、関係者の方々はアニメ版『ポケモン』の1話と2話をすでに見ていたから、僕が書いた1話と2話のエピソードの出来が151話続けられる、と僕が保証したと思ったかもしれない。
僕としては……エライ事を言ってしまった……である。
すでに脚本は、2話の後もかなりの数ができ上がっていて、それぞれの出来は悪くないと思っていたが、僕が書いた脚本ではない。
しかも、他の脚本家の方達が書いたそれらの脚本に、僕がシリーズ構成した他の作品のようには口を挟むような事は、まるでしていない。
アニメ版『ポケモン』を直接制作する監督やプロデューサーの方達の意見は、充分、それぞれの脚本の決定稿に反映されていたと思うが、僕は、少し感想を言っただけである。
だが正直に言えば、どの脚本も、「僕が書いたら違うものになるだろうな」と、感じた脚本だった事は確かである。
しかし、僕がシリーズ構成として関わって決定稿になったものに、「僕が書いたら」と「たら」「れば」は卑怯である。
もともと、1、2話の事を考えれば、僕が1週間に1本、アニメ版『ポケモン』の決定稿になる脚本を書いていく事は、体力的、能力的にも無理な話である。
それに、仮に僕が書けたとしても、それが監督やプロデューサーの方達の納得する脚本になるかどうかの自信はない。
むしろ、問題続出の脚本になる危惧が大きい。
それなのに、あたかも自分が脚本を全部書くかのように自信満々で、151話までできると胸を張ったのである。
本来なら、自分で書いた脚本ならなおさらの事、自信ありげには言えないはずである。
自分でも「よく言うよ、首藤剛志ってシリーズ構成は……」と呆れた記憶がある。
その時の僕は、アニメ版『ポケモン』のシリーズ構成として、どういうスタンスで他の方達の脚本に関わっていったらいいかすら、はっきりした答えを持ってはいなかったのである。
ただ、挨拶で根拠のないデマカセを言った気もなかった。
その挨拶は、その場の僕のノリ……つまり、僕のアドレナリンの噴出が言わせたアドリブだったにせよ、その時、思った事を正直に口に出したには違いなかった。
スタッフの熱心さ、キャスト、それもロケット団の声の方達のやる気満々の様子を見せられた事も手伝ってか、アニメ版『ポケモン』は、151話ぐらいまではいけそうだと確信はしていたのである。
「ポケモン」のゲームを作った、いわば原作者とも呼べる人達は、そんな僕がアニメのシリーズ構成をする事をどう思っているのだろうか?
ゲームを作った人達にそれを僕から直接聞くのは、アニメの監督やプロデューサーの頭越しの行動を取る形になるので、やるべきではないという分別は、僕にもある。
せっかく、ゲームを作った方達が同じ会場にいるのに、意見を聞きたいなあと思いながらじりじりしていたら、なんとゲームを作ったメンバーの1人が僕に声をかけてくれた。
それも、こちらが驚く内容の言葉からはじまった。
「『ようこそようこ』気に入ってます。『ポケモン』も頑張ってください」
正確には記憶していないが、それに近い励ましの言葉だった。
僕は「はあ?」である。
「『ポケモン』のゲームを作っている人達の間でも、『ようこそようこ』は評判です」
そこに『アイドル天使 ようこそようこ』の作品名が出てきたのに僕は呆気にとられた。
いまさら言うまでもなく『アイドル天使ようこそようこ』という作品がアニメファンの一部に熱狂的な人気があるのは知っていたが、僕個人としては、あくまで一部の人の間から愛されただけのマイナーな作品だという気持ちでいた。
まさか「ポケモン」のゲームを作っている人達にまで、首藤剛志の名前つきで広まっているとは思わなかった。
その後、「ポケモン」のゲームを作っている責任者と呼べる方から、「ゲームを作っている人達の間で、『ようこそようこ』というアニメが評判なんですが、私は見ていないんで、ビデオがあったら見せてくれませんか」という要望まであった。
『ようこそようこ』全話をダビングしたビデオをお渡ししたら、なんとまるまる1日かけて全部見てくれたそうである。
その方の感想も、ダビングの画質はひどかったのに、内容についてはかなり好意的だった。
ようするに、ゲーム関係者の人達に、首藤剛志というシリーズ構成・脚本家は『アイドル天使 ようこそようこ』を書いた人という事で知られていたのである。
そして、『ポケモン』のシリーズ構成を、『ようこそようこ』のシリーズ構成・脚本家がやるという事で、アニメ版をかなり期待していてくれたようなのである。
さらに監督は『魔法のプリンセス ミンキーモモ』で僕とコンビのように言われている人でもある。
期待はますます高まっていたらしい。
そしてアニメ版の1話2話が完成し、その出来は、ゲームを作った方達の期待を裏切らないですんだようだった。
つまり原作サイドは、首藤剛志のシリーズ構成に満足してくれたらしい。
それも、『アイドル天使 ようこそようこ』があったからのようだ。
このコラムでも以前書いたが、『ようこそようこ』は、かなり普通のアニメとは変わった脚本の作り方をした。
ミュージカル風アニメという事以外にも、相当型破りな事をしたアニメ脚本だった。
それが原作サイドに許容されているのなら、『ポケモン』のシリーズ構成として僕がやる事も、見えてきた気がした。
『ポケモン』をミュージカル風にするというような事ではない。
『ポケモン』の中に、『ようこそようこ』の脚本のような破格なものをぶちこめばいいのである。
おそらく、『ようこそようこ』のような脚本は、『ポケモン』のために集められたプロの脚本家からは、型破りすぎて出てこないと思った。
プロの脚本家にとって、『ようこそようこ』のような脚本は、むしろ書いてはいけない部類の脚本である。
通常の脚本の常識を無視したようなところが多いからだ。
脚本の学校では決して教えないような、脚本作法である。
学校では、悪い見本と言われかねない脚本だ。
そんな脚本を書いてくれと頼んでも、『ポケモン』の脚本スケジュールどおり1ヶ月で、型破りな脚本は出来てこないだろう。
そんな効率の悪い脚本をプロの脚本家に頼むのは、その方達にとって迷惑ですらある。
だから、『ポケモン』のために集められた脚本家の方達には、僕は何も言わずにその方達流のプロの脚本をスケジュールどおりに、監督やプロデューサーの意見も入れた決定稿にしていただく。
そんな脚本群を『ポケモン』の脚本の基本ベースにして、その中にたまに型破りな脚本が紛れ込む。
では、プロの脚本家が書かないような、破格の脚本を誰が書いたらいいのか?
僕が書けばいいのである。
通常の他の方達の脚本も、パターンどおりロケット団が出てくるだろうし、ポケモン自体の存在もユニークだから、かなり他のアニメとは変わったものになるはずである。
もちろん、プロの方達の脚本も、それぞれのプロとしての個性があるから、決定稿になった脚本はそれなりにバラエティに富んでいる。
そこにさらに、思いっきり型破りの脚本が紛れ込む。
どんなふうに型破りの脚本が『ポケモン』に必要かは、その都度シリーズ構成の僕が考える。
そして、その脚本を書く事が、『ポケモン』のシリーズ構成である僕の存在価値になるような気がした。
アニメ版『ポケモン』の序盤は『ポケモン』の世界観とロケット団のキャラクターをうまく作る事ができれば、『ポケモン』のシリーズ構成としての僕は、いてもいなくてもいいような存在である。
通常、シリーズ構成がやらなければならない事をやってくれるプロデューサーの方達が、アニメ版『ポケモン』にはすでにいた。
そんなアニメ版『ポケモン』でのシリーズ構成の居場所を、僕に見つけさせてくれたのは、ゲームを作っている方達が『ようこそようこ』を気に入っているのを知ったからである。
アニメ制作サイドの不評が多少あっても、それを気にしないで脚本を書く事ができる。
なにしろ僕は原作サイドの支持を得ているのだから……ずいぶん手前勝手だが、そう思う事で、ずいぶん楽になった。
僕は意識的に、他の脚本家の方達が思いつかないだろう発想の『ポケモン』脚本ばかりを狙って書く事にした。
本来、シリーズ構成は、作品全体の王道を行く脚本を書き、作品展開上のポイントになるエピソードを書くものだが、僕の『ポケモン』でのシリーズ構成は違っていた。
『ポケモン』の脚本群の中で、異端児に見えるような脚本を書いて、作品の中に忍び込ませる事で、作品全体が、普通の子供向きのアニメに見えて、それでもなんだか他のアニメとは違う肌触りを感じさせる、『ポケモン』独特の空気を醸し出そうとしたのである。
『ポケモン』の打ち入りパーティは、関係者の顔見世というだけでなく、僕にとってはアニメ版『ポケモン』に関わる上で、重要な意味を持つパーティだった。
打ち入りパーティは、どんな作品にもあるものだが――もっとも、予算の都合でパーティの開かれない作品もある――作品に対する自分の立ち位置を決めたパーティは、僕にとって初めての経験だった。
僕は早速、アニメ版『ポケモン』としては型破りと思える脚本のプロットを書き始めた。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
ここのところ、自分のオリジナリティが大切だという話が続いているが、そう言い続けている首藤剛志の脚本は、本当にオリジナリティがあるのか?
これは、僕自身が自分に問い続けている事でもある。
人は、僕の書いた脚本を読んで、少なくとも変わった脚本だとは言ってくれる。
妙に癖のある脚本で、そんな僕の脚本を、首藤節の脚本と呼ぶ人もいる。
脚本家のタイトルロールを見なくても、僕が脚本を書いた作品は分かると言う人もいる。
いわゆる、首藤節というのがどういうものか、本人はあんまり自覚していないのだが、僕の脚本の真似をしても首藤節の亜流にすらならないらしい。
「首藤さんの真似をしようとしてもできないから、馬鹿馬鹿しいので止めた」と、僕に言った脚本家もいる。
首藤がシリーズ構成した作品の脚本を書くと、自分が書いたのに首藤の色がついたようで嫌だ……と思う脚本家もいるようだ。
最近のある作品――なぜか決定稿の脚本を無視したアニメ――で、でき上がりがあまりに支離滅裂なので、そのでき上がった作品のつじつまを合わせるだけのCD脚本を書いたら、プロデューサーから、首藤らしくない「手抜きの脚本だ」と言われる始末である。
そんな事を言うなら、アニメの完成品の脚本無視と支離滅裂さを何とかしろと言い返したいが、そもそも首藤節というものは、何なのだろうか? と思うのが先で、自分の脚本を読み返してみる事にした。
そもそも、このコラムを始めたのも、首藤剛志という物書きはどんなものを書いてきたかを自己確認してみたいという気持ちがあった。
ワープロやパソコンで書いた脚本は、1稿から決定稿まで残してあるし、原稿用紙に書いて印刷製本されたものは、ほとんど小田原の図書館に保管していただいて閲覧可能だ。
原稿用紙に書いた生原稿は、制作会社が脚本を印刷すると、どこかに捨ててしまったらしく残っていない――なにしろファクスもない時代だったから、生原稿は僕の手元にないのである。
今は手書きの生原稿の脚本家は少なく、パソコンのワープロで書き、メールで原稿を送る人も多いらしい。
脚本は脚本の打ち合わせと絵コンテを書く時だけに必要で、数冊あれば充分という事で、経費削減、決定稿の脚本を印刷せず、コピーで済ましてしまうアニメ会社もある。
そんな会社で印刷されて残る可能性があるのは、絵コンテを元にしたアフレコ台本だけである。
それすら、作品が完成したらゴミとして捨ててしまい、後で脚本が必要になり、僕のところに脚本はないかと問い合わせてきた制作会社もあった。
脚本が捨てられ消えてしまうのは、ドラマ、映画の世界でも同じらしく、過去の脚本を集めて残しておくアーカイブ(保管所)を作る事を日本脚本家連盟が脚本家に呼びかけている。
もっとも脚本の著作権すら完全に守られていない現状で、脚本自体を残しておくアーカイブを作るのは、かなり遠い道のりのような気がする。
それでも、しっかりした出版社の編集部の方に渡した小説の生原稿などは、校正した後、僕に戻してくれるので、そのうちの数本は、小田原の図書館に保管していただいてある。
で、自分で驚くのは、ごく初期の原稿は、鉛筆で書いて消しゴムで消した跡もあるものの、その後の原稿は、万年筆やサインペンで書いているのだ。
下書きを書いて原稿用紙に清書した覚えはない。
つまり、頭に浮かんだ事を、いきなり原稿用紙に書き込んでいるのである。
クライマックスに近づくにつれ、文字が雑になっている。
頭に浮かんだクライマックスを忘れないうちに、原稿用紙に書き込もうと焦っていたのがよく分かる。
そして、脚本の場合、ほとんど第1稿を決定稿にしている。
原稿を直した跡もない。
僕の記憶では、30分のアニメ脚本は、6、7時間で一気に書いていた。
途中で食事さえしていない。
煙草も吸っていない。
ただし、酒を飲みながら、一気に書いたものはある。
恥ずかしながら、原稿用紙にこぼした酒で滲んだ字やシミがついているのだ。
ウイスキーのボトル1本を机に置いて、原稿を書き上げた頃の事を思い出した。
いずれにしろ、今の僕では考えられない馬力である。
頭の中と原稿用紙の文字が直結しているようで、やたら元気である。
今と変わりがないのは、書く作業が嫌いだった事で、一刻も早く書き終えて、原稿用紙の前から離れたい気持ちがよく分かる原稿だ。
一口に言ってしまえば、全体的に乱暴な原稿である。
乱暴だが、吹っ飛ばして書いたスピード感のようなものはある。
ワープロを使いだした頃、やたら時間がかかるのでいらいらした覚えがある。
ワープロやパソコンは簡単に文章を直せるから、キーボードを打ちながら、文章や台詞を推敲してその都度書き直してしまい、原稿を書くのにかなり時間がかかるようになってしまったのだ。
で、自分の過去に書いた原稿を読んで、それぞれ面白い事は面白いが、今の僕ならこうは書かないとまず思った。
思い返してみれば、絶えず、僕は以前に書いた自分のものを、違うなと感じながら原稿を書いてきた気がする。
それでいながら、何を書いても抜け出せない、ある種の匂いが脚本にある事は確かだ。
その匂いが首藤節と呼べるかどうかは分からない。
けれど、その匂いを消そうとして、絶えずもがいていた事は自分でも分かる。
過去に書いたものは、今の自分の書くものとは違うのだ。
過去の自分が書いたものとは違うものを書こうとする意識、それを僕のオリジナリティと呼んでいいかどうかは分からないが、過去に書いてきたものを、「今の自分とは違うな」と思わなくなり、過去の自分が書いたものを真似するようになったら、その時は僕のオリジナリティがなくなった事を意味するような気がする。
そして、その時は、そう遠くないような予感もある。
その日が来る前に、自分の中に書こうと思っている予定のものがいくつかあり、僕が原案を作ったわけではないが、脚本化の依頼がある面白くなりそうな企画もあり、早く原稿にしなければと、気ばかりは結構焦っている今日この頃なのである。
つづく
■第147回へ続く
(08.04.30)
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編集・著作:
スタジオ雄
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