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第143回 『ポケモン』第1、2話放映
アニメ版『ポケモン』のテーマの一つにゲーム版『ポケモン』に登場したスティーブン・キング原作の映画「スタンド・バイ・ミー」のテーマをそのまま持ち込むことにした。
「スタンド・バイ・ミー」は、生涯2度見るべき映画と言われていている傑作で、ご覧になった方も多いと思う。
どこかにあると言われている伝説の死体を捜して、ささやかな旅に出る数人の少年たちの姿を描いている。
ミステリーでもホラーでもない。
根も葉もない言い伝えを信じる少年達の旅は、大人から見るとたあいがないが、少年にとっては大冒険である。
その少年たちのある時期の冒険を、大人になった彼らが、あらためてしみじみと懐かしむという形で描かれている映画なのだ。
テーマは少年時代の誰もが持っている、一時期の根拠の薄い冒険心と友情とその時代への懐かしさである。
その映画の最も印象的なシーンが、線路の上を少年達が歩いて行く場面なのだ。
僕は子供達が体験する懐かしい冒険の一時期を描くのがポケモンの世界だと思った。
毎回、その懐かしさをアニメで持続させるため、ほとんどの話数に大人の悪役のロケット団のムサシとコジロウとニャース(どうやらニャースも大人のようである)が、月日を経ても、歳を取らず大人の悪役として登場する。
子どもにとって大人は悪役である。
思いどおりにしたいことをいつも邪魔をする。
だが、そんな子供もいつか大人になる。
人間だれしも、ピーターパンのように、大人になりたくないと思う時期がある。
だから、アニメ版のサトシは歳をとらない。
そして、ドジで間抜けな大人を馬鹿にしたいと思う。
だが、現実にはそんな大人はいない。
そんなドジで間抜けな大人を年老いる事もなく演じ続けてくれるのがロケット団なのである。
それは、大人の目から見ても同じだ。
懐かしい子供の頃を思うとき、ロケット団の存在は、子供の頃、内心馬鹿にしていた大人たちを思い出させ、子供時代のノスタルジーをかきたてられるのだ。
おそらくサトシにとって、『ポケモン』の空想の冒険世界に旅立ったのは、少年期のほんの一瞬なのかもしれない。
子供が最も冒険心に満ち溢れていた一瞬だ。
その世界では、ロケット団以外の大人も、子供から見た大人しか出てこない。
登場する大人は、協力者か、ロケット団以外の悪役は類型的な子どもの考える悪役である。
子供が憧れるような大人は、ほとんど出てこない。
アニメ世界の警官はいつでもジュンサーという名前で登場するし、ポケモンセンターの女医はジョーイという名前でしか登場しない。
この人たちは登場するたびに、その土地土地で違う人間のはずなのだが、名前も変わらず年齢も違わない。
様々な人がアニメに登場するが、誰も歳を取らない。
ただし、ポケモンだけが進化という名で成長していく。
『ポケモン』の世界では、ポケモンだけ時間が経っていくのである。
アニメ版『ポケモン』の視聴者は、歳を取る。
しかし、アニメ版『ポケモン』の世界は歳を取らない。
つまり僕は、『ポケモン』の世界を、サトシ(ひいては視聴者)の少年時代へのノスタルジーにしたかったのである。
『ポケモン』の世界には、ポケモンしか出てこない。
サトシの中の空想の『ポケモン』世界なのだから、当然である。
ポケモンは、想像されたものであり、実物の動物ではない。
ゲームの操作のやり方次第で、プレーヤーの思いどおりになる。
手間はかかるが、プレーヤーに逆らったり、実際に死んでしまうこともない。
失敗してもリセットが可能である。
そして、事と次第によっては友達になってくれる。
動物のペットでも、まして人間でも、現代の子供たちの間ではこうはいかないだろう。
ポケモンが生き物だとしたら、これほど思いどおりになる生き物はない。
子供にとっても、いや、大人にとっても『ポケモン』は理想的な生き物だと言える。
ところで実物の動物は、『ポケモン』の世界では絶滅していて、言い伝えとしてしか出てこない。
そのことについては、僕はアニメ版『ポケモン』の小説の中で簡単に述べている。
いつの間にか普通の動物はいなくなっているのだ。
ただ、残念なことに実在の動物そっくりのものが画面に出てくるときがあるが、それは、実物の形そっくりのポケモンだと思っていただきたい。
実際は、作画の方の勘違いなのだが……。
サトシの出てこない、人間の出てこない『ポケモン』のストーリーもあるが、『ポケモン』が登場するかぎり、その世界のどこかにサトシは存在するのである。
画面に映ってはいなくても、そこはサトシの『ポケモン』の世界なのだ。
そしてなにより僕が気を遣ったのは、新しいポケモンとの出会いを目立つようにする事だった。
確かにジム戦や、その他にもポケモン同士の戦いがあるのだが、各話の全体では、戦いが印象深くならないようにした。
むしろ、新しいポケモンとの出会いや、ピカチュウの登場、相変わらずのロケット団の失敗ぶりが目立つように心がけた。
歳を取らないサトシやレギュラーが出ることによって、ノスタルジーが前面に出る冒険ものにしたかったのである。
『ポケモン』に出てくる戦いは、基本的にサトシが直接手を下すことのない代理戦争である。
それが目立つ作品にはしたくなかった。
むしろ、全体から見てバトルは目立たないようにしたかった。
だが、これは僕個人の意見に過ぎず、『ポケモン』の見せ場はバトルシーンで、「できるだけ派手に演出して見せろ」という意見も強かった。
脚本家の方の中にも「バトルシーンになると燃えて書ける」という方もいた。
確かにポケモンバトルはクライマックスシーンではあるが、それでも僕は、このアニメは、バトルより全体の印象としてノスタルジーが漂ってほしかった。
つまり、このアニメは、思い出の空想の中のポケモン世界の冒険なのである。
主人公のサトシより年齢の若い視聴者にとっても、たとえそれが自分の未来の世界の冒険でも、昔見たような空想の世界の冒険だと感じられるようにしたかった。
各話すべてにそんな感じが漂っていなければ失敗かもしれない、とさえ思った。
『ポケモン』を観る人すべてに、どこか懐かしさを感じてほしかったのだ。
そんなテーマを外さないようにして、主な登場人物と構成を立て、プロットを提出した。
主人公の一行は、最終的に3人組になり、一種のロードムービーにして、ほぼ1年半でゲームの最後まで終えるように予定していた。
つまり、ゲームに登場する151匹を、1年半で全部網羅することにしたのだ。
最上位のポケモンリーグに出場するまでに、いくつものジムを回って出場資格になる8つのバッジを集めなければならないのだが、それはゲームの順序どおりにした。
3人組はサトシから始まり、順番にカスミ・タケシが増えて3人組になるのだが、さらに、モンスターボールに入りたがらないピカチュウが最初から同行する。
実は最初のお供は、ゲームでは、オーキド博士の研究所で3匹のポケモンの中からフシギダネ、ヒトカゲ、ゼニガメのうち1匹を選べるのだが、そのどれかを選ぶとゲームのプレーヤーにとって不公平になるので、あえてピカチュウをお供にすることにした。
このピカチュウ、最初は人に慣れず、モンスターボールにも入りたがらない。
そして、普通ならば進化してライチュウになるのだが、それを拒絶している。
あくまで、ピカチュウのままでいつまでもいたい不思議なポケモンなのだ。
いつまでも自己を失いたくないのだ。
「自己を見失うな」という事も、このアニメのテーマにしたかった。
ピカチュウは、サトシとは仲間であっても、サトシの所有物にはなりたくないのである。
このポケモンが選ばれたのは、投票で最も人気があったからである。
体が黄色いのが目立つから人気が高かったという意見もある。
さらにサトシは、やがて最初にプレーヤーの選べるヒトカゲ他の3匹を入れたモンスターボールを持つようになり、ゲームのそれぞれのプレーヤーに公平になるようにした。
サトシと視聴者には、サトシが持っているポケモン図鑑で、出会ったポケモンが何という名前なのか分かるようになっていた。
さらにレギュラーとしてロケット団を付け加えた。
ムサシとコジロウの名前と毎度の口上は僕がつけた。
ロケット団にも、ニャースというモンスターボールに入りたがらない、しかも言葉が喋れるポケモンがついているのだが、このポケモンを常時外に出したのは、ポケモン語を通訳させるためだった。
ニャースが選ばれたのは、愛嬌があって、しかも悪がしこそうなポケモンだったからだ。
このニャースもあくまで独自の個性を持っていて、ロケット団の2人の所有物ではなく、仲間でいるだけなのだ。
可哀想なことに、ロケット団の持つポケモンは、悪がしこそうで間の抜けたポケモンが選ばれた。
登場するポケモンの気持ちを知るためにも、ニャース、つまりロケット団の登場が必要になるわけである。
こんな話に、ゲストのポケモンが毎回加わるのが常だった。
ポケモントレーナーが持っているポケモンにも、それぞれ野生のポケモンがいて、そんなポケモンがゲストとして登場することもある。
これらの多くは、すでに出ていた議事録や僕が加わるようになってからの会議で出てきた話題の中から抜粋して、再構成したものだ。
例えばこんな具合である。
ポケモンをゲットした時の「ゲットだぜ」という言葉も、会議の中でいくつか出された候補の言葉の中から多数決で決められたものだった。
僕としてはゲットという言葉は物とか勝利とか点数とかを自分のものに手に入れる事で、生き物を手に入れる表現には使いたくなかったのだが、決まってしまったのではしょうがなかった。
「ゲットだぜ」のだぜも濁音がふたつ続くので使いにくい気がした。
「ポケモン、君に決めた」という言い方も多数決で決められた気がする。
その他にも会議から採用された僕以外の方の意見はいくつもある。
世界はポケモンと人間が共存している不思議な領域だ、というのも会議で決められたことだ。
そんな構成プロットをもとにして、第1回の脚本を2種類作った。割と平坦なものを1本と、山場押しのものを1本である。そして、提出したのは平板なものにした。1回のラストは、サトシとピカチュウが心を許しあう無二の親友になるまでである。
1回目の脚本には、苦情が出ることは分かっていた。
1回目の脚本で苦情の出そうなところも分かっていた。
その場の打ち合わせで、2本目のアイディアを持っていないと、到底、打ち合わせに対応できないと思ったからだ。
案の定いくつか苦情の点が出てきた。
その日、脚本の不満部分について、延々打ち合わせが続いた。
いろいろな方から、様々な意見が出たが、結論はいい案は出なかった。
いい案は出なかったが、この打ち合わせには、意味があったと思う。
『ポケモン』の制作関係者が、アニメ化第1回の脚本に意見をそれぞれ出しきって、それが実現できなくても、参加したという意識は持っていただけたと思うからだ。
何より、それぞれの方たちが脚本制作に関わって、「自分が脚本を作った一員だ」と思っていただけることで、今後のアニメ版『ポケモン』を制作するにあたって、共同意識のようなものを持てたと思う。
終電間際まで脚本打ち合わせが続き、みんな疲れ果てた頃、いきなり僕は思いついたように2本目のアイディアを持ち出した。
その場で思いついたわけではなく、前々から考えていてすでに2本目の脚本として書いてあったものだ。
脚本の問題点の1ヶ所だけは決定せず、家に持ち帰ることになった。
持ち帰った場所は主人公サトシのポケモンに対する思いが膨らんでいく点だが、その気持ちの高鳴りを夢の中の見せ場だけで追いかけた。
見せ場だけなので気持ちの高揚が分かりにくいのだが、監督の了解を求めたところ、快く了解を得ることができた。
余りに気持が高揚したためにサトシはついつい寝過してしまい、オーキド研究所に遅刻してしまうのだが、意中のポケモンは他の3人に持っていかれてしまい、残っているのは扱いの難しいピカチュウだけだった。
サトシには選択肢がなかったのだ。
こんな具合に、無理矢理ドラマ上でサトシとピカチュウをくっつけたのである。
それはすでに2本目の本に書かれていたことだった。
さらに、カスミがサトシと旅を共にする理由も欲しかった。
知らないうちにサトシに自転車を壊され、その弁償をさせようというのが、カスミが今後サトシと同行する理由である。
ただどうしても、シリーズ全体の引きとして、伝説のポケモンと呼ばれるホウオウを1話目に見せたいという意見があったので、そのシーンを付け加えた。
2本目の本読みで監督の了解が出て、第1話の脚本が完成した。
脚本は印刷され、関係者に配布された。
やがて絵コンテが完成されたが、脚本どおりに作られていた。
脚本が印刷されて配布されていただけに、長さの関係で多少削られていたシーンがあったが、脚本にないシーンが付け加えられる事はなかった。
すぐに僕は第2話の脚本に取りかかった。
『ポケモン』の各話の打ち合わせは慎重に行われた。
まず、プロットの打ち合わせからゴーサインがでる。
実際のプロットには、2、3本作ってから、取っておきの物を1本提出する。
プロットの直しだけに2週間もかけたくないから、プロット会議はいつもベストのもので臨んだ。
さらに2話までにやっておきたかったのは、何より世界観の確立である。
行く先々に様々な野原があり、森があり、川があり、街があるということを見せ、そして、準レギュラーで、これからもしばしば出てくる人物を登場させようと思った。
旅の道連れになるタケシの登場はまだ先だが、どうしても、これからずっとピカチュウをつけ狙うロケット団のエピソードと、これから行く先々の街にあるポケモンセンターは描いておきたかった。
さらにポケモンセンターがポケモンの病院ということもあって、様々なポケモンも見せられる。
ポケモンバトルに使えそうにない弱いポケモンを見せるのにはよい機会である。
ポケモンセンターを登場させるために、第1話でピカチュウに決死の戦いをさせ、大怪我する事件を設定した、といってもいい。
そして重症を負って治療中のピカチュウの見せ場も欲しい。
さらに旅の道づれになるカスミも出しておきたい。
カスミがバトルの時に決め文句のように話す「世界の美少女、名はカスミ」の台詞も出しておきたい。
すでに1話でカスミは登場しているのだか、サトシと同行するきっかけになる事件も作っておきたかった。
……等々、やることはいくらもあった。
1、2話である程度決めておけば、それ以降を書く脚本家の方々がやりやすくなる。
そのためにかなり欲張った作りになった。
2話の脚本は、多少の手直しで、2稿で決定稿になった。
僕の場合、プロットを含めると3回ないし4回の本読みで決定稿になる場合が多いようだ。
最初の1稿目で決定稿になることはまずない。
それだけ決定稿になるまでに、いろいろな人の意見が加わるということなのだが、それが果していいことなのかどうかは分からない。
それぞれにそれなりのよさがあるような気がするからだ。
だから、書いた原稿は全部消さずに残しておいてある。
1、2話の絵コンテができ上がり、アフレコ台本が印刷された後に、主要なキャスティングがオーディションで選ばれた。
決まったキャスティングの中で僕の意見が通ったのはムサシの林原めぐみさんだけだった。
他のキャスティングは僕が決めた人ではなかったが、順当だったと思う。
アフレコの当日がやってきた。
アフレコのフイルムにはちゃんと絵がそろっていた。
「当り前だろう」と言う人も多いだろうが、実際にはアフレコの時、フイルムの完成していない作品も多いのである。
林原さんには、たまたま電車に乗り合わせた時に、ムサシの役作りをした上で、必ずしもアフレコ台本どおりの台詞を言わなくてもいい、と言った事がある。
プロデューサーの1人が「林原さんのムサシ、アフレコ台本どおり言わないんだよね」と言っていたが、いちばんムサシらしい喋り方をしているのだったら、それでいいと思うのだ。
シリーズ構成の当初は、僕もアフレコに立ち会っていたが、ほとんどの声優さんがアフレコ台本どおり喋るので、次第にアフレコから足が遠のいてしまった。
ムサシ、コジロウ、ニャースがバトルから退場する時の決め文句「やな感じ!」は、3人が勝手に考えたアドリブである。
早速毎回使わせてもらったのは言うまでもない。
こうして、ロケット団がサトシ達とバトルする時は、前口上と退場の決め文句がお約束になった。
やがて、試写の日がやってきた。
僕はアフレコ現場で見ているので試写には立ち合わなかったが、試写会場は終了後、拍手に包まれたそうである。
少なくとも関係者の評判はよかったようで、僕はほっと胸をなでおろした。
そして、1997年4月1日、TV放映が始まった。最初は1年半のつもりだった。
翌週には当然2話が放送された。
だが、その2話の中に気になる部分があったのだ。
その部分で妙な事に気がついた。
ブラウン管方式で見たピカチュウの電撃が妙に光り過ぎるのである。
ただ、僕の見ていた位置がブラウン管から距離があったので、眩しい程度にしか感じなかったのだが、それが後の事件につながるとは思いもしなかった。
それについては、その時期にお話ししようと思う。
いずれにしろ『ポケモン』がいまだに続いている長寿番組になろうとは、最初は夢にも思わなかった。
ともかく、1本、1本に平均4稿、1ヶ月近くかかっている脚本である。
それだけ様々な人の知恵が注ぎ込まれているには違いない。
2話以来、毎回のようにロケット団は出続けている。
仮に出ていない回があったとしても、どこかでサトシ達を見つめているのである。
だから、ある意味で『ポケットモンスター』の主役は、ロケット団と呼べるかもしれない。
脚本の会議は毎週開かれた。
そして、2話分の脚本を元にして、第1回目の、脚本家の方々がプロットを持ち寄る会議が、三軒茶屋の制作会社で開かれた。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
自分のオリジナリティに確信が持てたと思っても、自分1人が思い込んでいるだけでは、ひとりよがりかもしれない。
そこで、本当に自分にオリジナリティがあるかどうかを、簡単に試してみる方法がある。
映画でもいい、TVドラマでもいい、アニメでもいい。もちろん小説を読むのでもいい。
できるだけ、世間的に話題になっているものがいいだろう。
それらの作品に接して、まず、あなたはどう思うだろう。
面白い、つまらない、感動した。あそこが楽しい、ここがひどい。
あなたの思いは様々だろう。
だが、そういう思いを抱くことからして、オリジナリティがあるとは言えないと思う。
それは、あなたの感想であり、たとえ理路整然と感想を述べても、よくできた批評である。
何かの作品に接して、その作品の訴えかけるものに何かを感じるのは、よく考えると、過去に出会ったものと比較しているだけかもしれない。
これは僕だけの考えかもしれないが、ある作品に接して、それが名作と呼ばれるものであろうと愚作と呼ばれるものであろうと、オリジナリティのある人がまず最初に思うのは、「自分ならこうは作らない」だろうと思う。
その作品に対する感想は、それから後の話である。
「自分ならこの素材、ストーリーをどう作りかえるだろう」
「自分が作ったら、どんな作品ができるだろう」
そんなふうに考えてしまう人が、オリジナリティのある人だと思う。
作品に対する感想よりも、「自分ならどうする」「自分ならこうする」が先行してしまう人が、オリジナリティのある人である。
もしもあなたが、何かにつけてそう思いがちの人だったら、あなたにはオリジナリティがあると言っていい。
つまり、どんな作品に接しても、鑑賞の対象ではなく、自分なりの創作の素材として見てしまえる人が、オリジナリティのある人なのである。
つづく
■第144回へ続く
(08.04.09)
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編集・著作:
スタジオ雄
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