フィフィさんのツイートに学ぶ移民社会(2)

| TB(0) このエントリーをはてなブックマークに追加
 第1回の記事では、保守的な移民一世がその社会にすでに定着しているマイノリティに対して排外主義的な暴言を投げかける現象を紹介しました。

 しかし、保守的な人物であっても、かならずしも排外主義的な暴言を発するとはかぎりません。各種の社会調査によると、政治的に保守的であることと、異文化集団に排外主義的な態度を持つことの間には、小さくない相関関係はあります。しかし、両者をイコールで結べるほど高い関連ではないのです。

 わかりやすい例を出すと、排外主義的な保守系政治家はめずらしくありませんが、逆に、外国籍住民への差別解消に尽力している保守系の政治家も少なくはありませんね。保守と排外主義は、基本的に別の次元の問題なのです。欧州では、反排外主義こそが保守本流とみなされることも少なくありません。

 だとすれば、「保守主義的な移民一世が社会に情報を発信する資源を手にしたとき」に「すでに定着しているマイノリティに対して排外主義的な暴言を投げかける」という命題は、前半と後半をつなぐ論理に欠落があることになります。

 ということで、今回は、なぜ保守的な移民一世が排外主義的になる傾向があるのかについて、欠落した論理をつなぐ仮説(の一部)を紹介していきます。

(2)「《モデルマイノリティ》問題」(「《名誉〇〇人》問題」)

 米国に「モデルマイノリティ」という言葉があります。マイノリティというと、社会的地位が低く犯罪率も高いというイメージがありますが、「中には努力して社会的に成功している賞賛すべきマイノリティだっているじゃないか」と、日系などのアジア系移民を賞賛して名づけられた言葉です。

 単純に理解すれば、アジア系としては褒められて悪い気がしないと思われるかもしれません。しかし、「モデルマイノリティ」という言葉は、本質的に、「理想的でない厄介者のマイノリティ」の存在を前提としています。

 つまり、「マイノリティとして不利な地位にあっても、ちゃんと頑張って社会的に成功している民族集団もいるじゃないか。それに対して、黒人、先住民、メキシコ系は...」という差別的な主張を正当化するために、「モデルマイノリティ」という言葉は使われることが多いのです。

 差別を都合よく正当化するために利用されるわけですから、「モデルマイノリティ」などと呼ばれてうれしいはずがありません。また、アジア系が一定の社会的地位を達成しなければ、「モデルマイノリティのくせに努力しなかった」と非難されるネジレ現象すら起こったりしますので、当事者としてはけっしてありがたい呼称ではないのです。

 にもかかわらず、移民の中には、自ら「モデルマイノリティ」と呼ばれたがる人たちもいます。(a)自らの努力と能力によって一定の社会的地位を達成したと思っている移民一世、(b)マジョリティの価値観を習得すればマジョリティに仲間入りできると考えている保守的なマイノリティ、にその傾向が強いようです。

 このうち、(a)については次回以降で取り上げることにします。ここでは、(b)の代表事例だと思われるフィフィさんのツイートを紹介しましょう。

「お世話になってるなら、せめてその家のルールにそって仲良く暮らしましょうよ。ってこと。文句が多いと追い出されちゃうよ。で、それはあくまであなたのお家で私が居候したさいも同じように扱ってくれますか?って前提。郷に入りては郷に従い」(2012年11月15日)

「私なりに外国人が日本とどう接することで上手く共生出来るか考察してツイしてるの。その度に誤解をされ批判も受けますが、一番不思議なのは、日本に嫌悪感を持つ外国人がその意見に理解を求めてくる事。日本を愛せない外国人を日本人も歓迎する訳ないじゃない。」(2012年3月16日)

 これらは、自ら「モデルマイノリティ」を志向する人々の代表的な言説であるように思われます。自分たちは「居候」であり、がんばって日本人に歓迎されるべく日本を愛さなければならない。マジョリティの価値観を忖度し、それに適合的に生きなければならないというロジックなのですから。

 いや、そういう考え方自体はべつに責められるべきものではありません。むしろ、ただでさえ摩擦の生じやすい異文化関係なのですから、お互いに譲れるべきところは譲りながら、誤解を避ける努力をするべきでしょう。それが誰も傷つけないかぎりにおいては。

 しかしながら、この二つのツイートは、いずれも、誤った情報に基づいて朝鮮学校に対して攻撃的なツイートをしているときに投じられたものであることに注意が必要です(前回の記事を参照)。間違った情報をもとに責められれば、誰しも反論したくなるもの。それを、「日本に嫌悪感を持つ外国人」などと決めつけていますね。

 みずから「モデルマイノリティ」を買って出ようとする者は、「モデルマイノリティ」という概念が内包している差別性をも内面化してしまいます。それが事実であればまだしも、偏見に満ちた架空の「ダメなマイノリティ」を創りだしてしまう場合すらあります。


 自分が「そのような外国人」とは違う「モデルマイノリティ」だと思われたいとき、かりに「そのような外国人」の物語がデマでしかなかったとしても、それを真に受けて批判するという現象が起こるわけです。

 以上が、「保守主義的な移民一世が社会に情報を発信する資源を手にしたとき」に「すでに定着しているマイノリティに対して排外主義的な暴言を投げかける」という命題を解き明かすロジックの一つです。

 ところで、みなさんは、自分がいい子になりたいために先住のマイノリティを攻撃する保守的な移民一世をけしからんと思いましたか。それとも、移民はいい子にならないと生きていけないと思い込ませてしまった社会がけしからんと思いますか。ぼくはどちらかというと後者ですね。

前のエントリー3件

次のエントリー3件

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://han.org/blog/mt-tb.cgi/336

このブログ記事について

このページは、mskimが2012年11月19日 01:13に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「フィフィさんのツイートに学ぶ移民社会(1.5)」です。

次のブログ記事は「フィフィさんのツイートに学ぶ移民社会(3)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。