2012年03月19日

がれき問題に係る様々な意見交換の中で 

がれきの問題について、連日連夜(誇張ではありません)慎重な立場の方から呼ばれたり、お電話を戴いたりして意見交換をさせて頂いております。

今回知事や他の議員の方も書かれていますが、反対の方からのメールやお訴えがそれぞれに相当来ております。
ただツイッターなどにすべてお答えできるわけでもありませんので、このようにブログで書かせて頂いております。

罵詈雑言や一面識のない方からのあまりにも居丈高なメールなどについては、これは社会人としてのマナーの問題として残念はありますが、これも読ませては頂いております。

改めて私のスタンスを明示致しておきます。
1、安全性の確認(これは国ではなく宮崎県や市町村独自の基準で)ができるものは受け入れすべき。但し、最終的に市町村長及び議会(宮崎市民の私の場合は宮崎市長及び宮崎市議会)が判断されたことには市民として受け入れる。
2、宮崎は放射能フリーの安全な土地なので受け入れるべきではないという議論は差別につながるものであり、断じて受け入れられない。
3、運搬のコストが高いのだから宮崎は別の方策を模索すべきだという議論は、議論のすり替えであり受け入れるという意志を示し、その上で国なり現地なりがそれでも受け入れてほしいという場合、その体制を作っておくべき。
4、根拠のない「利権があるからか?」などというレッテル張りは放射能問題と政治運動のすりかえでしかない。

1ですが、100ベクレル/kgが8000ベクレル/kgに変わったということですが、100ベクレル/kg以下のものについては「放射性物質又はこれによって汚染されたもの」とみなさず、一般的なごみ(再資源化可)として取り組むことができるというものです。この部分は清山とものり県議のブログ(こちら)でよくまとめてありますので、ご覧下さい。

考えなければならないのは、基準をどこに置くかということは自治体が独自に考えればよく、県の役割はそのための情報提供及びその指針を明示することだと思っております。
例えば山形県は4000ベクレル/kg、大阪府は100ベクレ/kgなどと独自の基準を作っております。それに基づいて受け入れの基準を作っていくということだと思います。

しかし受け入れに慎重な方とお話していまして、では0ベクレルならいいのか?と問いますと、がれきにはカドミウムなどの有害物質もあるので受け入れすべきではない、と言われます。

要はいかなるものでも受け入れないということですか、ということですか?と私が聞きますと「もし受け入れて問題が起こったらたけいさんはどう責任を取るのですか?絶対ないといえますか?」と言われます。

はっきりいいます。絶対ないとはいえません。しかし絶対などあり得ません。

例えばいままで家を改築したり新築した方であれば、どなたでもがれきは発出しています。皆様どこかに住んでいる以上、がれきの発出に関係しない方は誰もいません。またこの論理で行けば工場などすべて存在できませんし、農業にしても農薬も使えませんし、有機野菜にしても大腸菌類も存在します。レントゲンやCTだって撮れません、極めて極端な議論にならざるを得ません。

何が起こるか分からない未来の中で、選挙選ばれた政治が責任を持って判断していくことが間接民主主義です。その意味では、知事が、市町村長が、それぞれの議会が判断していくことですし、当然それの判断によって健康被害などが生じれば政治家として結果責任は免れないと思います。それだけの"覚悟"が伴う判断です。

だからこそ基準や方法、受け入れ忌避基準などはしっかり考えていかなければならないのです。確かに現地でSPEEDIの公開などが遅れて不信感を増幅したことは事実ですので、そのような"条件面"についてはしっかり議論していかなければならないと思います。
しかし、受け入れ基準を考えることすらダメだ、ということになれば、これはもう価値観の問題ですので、立場が違うと言わざるを得ません。

2についても、フェイスブックで取ったアンケートやメールなどでもよく頂くご意見です。
私たちが忘れてはならないのは、東北の皆さん特に福島の皆さんはいま以てそこに住んでいるということです。
がれき受入れを要望している複数の自治体の職員の友人たちに話を聞きます。住民の皆さんはがれきのすぐ横に住み、今なおそれが増える現状に頭を抱えています。

そのような中、がれきが放射能拡散になるという論理が相手にどのような思いをするか、なぜそこに思いが致せないのでしょうか。
フェイスブックで頂いたご意見の中で、「(私は先日のブログ<こちら>で差別につながる議論になると書いたことを受けて)"差別"と書いていましたが、これはインフルエンザの時の"​隔離"と何ら変わらない問題だと思います。」というものがありました。

去年の口蹄疫のときを思い出します。宮崎ナンバーの車お断り、的なことで私たち宮崎県民は大きく傷つきました。宮崎県民はあの時のその痛みと苦しみから何を学んだのでしょうか。

隔離とは明確な伝染病などで接触することで明確に拡散されることを指します。この論理で隔離するのであれば、被災地に行った方は全員隔離されなければなりません。しかも放射能は遺伝子レベルでといえば、永遠に隔離されなければなりません。

要はこれは井沢元彦のいう"穢れ"(けがれ)の理論であり、極めて危険かつ深刻な話です。口蹄疫のときのことをもう一度思い返すべきです。

宮崎を放射線フリーの大地として残したいという議論もあります。1で書いたとおり、自治体がそれぞれの判断で受け入れ基準決め、を受け入れたとき、それで宮崎が汚染されるという議論にも組みしません。

私は被災地が困っているがれきを納得できる自治体で受け入れるべきだと思っております。もちろん結果として受け入れなかったところは、それはその自治体の判断ですから是非は申しませんができるだけたくさんの受け入れ可能な自治体に受け入れて頂きたいと思っています。

これを言いますと激しい反論があろうことは承知の上ですが、それによって宮崎が汚染されたと思われるのであれば、汚染されていないとご自身で判断される場所に移住されればよろしいと思います。

私はこの議論はNINBY(ニンビー・Not In My Back Yard=自分の裏庭にはあってほしくない、という意味)の極致だと思っています。日本人として、このような議論には組することはできません。

3の輸送コストの問題です。確かにこの点は一理あります。現在沖縄でも受け入れの検討がされておりますが、もちろん宮城県で処理するのと沖縄で処理するのはコスト面が違うのは事実です。

しかしいま取り組むべきは日本全国で支援するということです。宮崎県や各市町村がボランティアスタッフを派遣していますが、これにしてもその論理でいえば東日本でやればよかったという話になります。

もちろん最終的に処理する分量については距離によって差があることはあろうかと思いますが、全国各地で受け入れるという姿勢は"べき論"として正しいと思います。

別の方策として、よく「人を受け入れる」という議論があります。これについては今でも県営住宅などで受け入れもしていますし、ハローワークなどでも支援の体制があります。

受入れのための莫大なコストを被災者支援に振り向けていけばという話ですが、おカネの出所がどこかは別にしても、宮崎県が現地の人たちを現地で得ていた収入を保証し、無前提に受け入れるということは不可能です。

宮崎県は放射線フリーでありたいので、他の方法を考えますというのは、1990年の湾岸戦争終結時に、クウェートが出した感謝決議の中に日本が入らなかったことを思い出します。それはそれとして、自分たちがしたく嫌なことは現地や他県に任せましょう、ということです。
そのような姿勢はまさにそれと同じではないかと思います。

4については気を付けなければならない問題です。
同じくフェイスブックでの意見の中で「がれきを他県に持ち込まず、被災地の地元で処理したい、そうすれば​雇用も生まれ、お金も被災地におちる。」「瓦礫は"カネの成る木"となり、"奪い合い"が起き​ているのだ。」というものあります。

議論していてこの利権云々の話はよく出ます。率直に言いますが、そのようなことは少なくとも私においては天地神明に誓ってありません。
実際にそのような目論見がある人がいるのかどうかは分かりませんが、まるで賛成する政治家がすべてそのような人間であるというような意見は、レッテル張り以外の何物でもありません。

反対派の皆さんもこのようなことを声高に叫ばれては、決して多くの政治家の共感は生まないと思います。

先日の「3.11さよなら原発!宮崎いのちの広場」に行かれて途中で帰って来られたという方が「政治色は出さないということで行ったけど、会場には9条の会などの旗が立っていたので、違和感を感じて帰ってきた。」と言われました。

政治色ということについては様々な解釈もあり、このブログでもたびたび書いています通り定義も難しいのですが、憲法9条を守るというのは極めて政治的メッセージの強いものあり、かつ一義的には今回の趣旨とは関係ないものです。従って政治色を出さないということで行った方が違和感を感じられたのは理解できます。

成田空港問題などをみても住民運動がいつの間に政治闘争になってしまったという事例はよくあります。がれき問題を安易に利権と結びつけてしまうと、受け入れ賛成=利権政治家、受け入れ反対=クリーンな政治家となってしまい、結果的に特定の政治運動(政党も含む)のプロパガンダに使われてしまうことにもなりかねません。

1700年代のイギリスの文学者、サミュエル・ジョンソンの言葉で「地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentionsHell is paved with good intentions)」というものがあります。
善意は得てして脆いもので、そのように利用される危険性を常にはらんでいるのです。

賛否は別として、何が正しくなにがそうでないのか、レッテル張りをする議論だけは避けなければ、結果としてまさに絆にひびが入りますし、それは被災地の皆さんも最も望んでいないことであろうと思います。
もちろん逆の立場のレッテル張りもいけません。受入れ反対の人間は○○だからだ、ということも同じです。

縷々述べてきましたが、私はできる限りお話は聞くべきだと思っていますし、話したいという方は常識的な時間、常識的な範囲である限り、日をまたぐ議論であっても一度も断ったことがありません。

今後もそのスタンスは持っていきたいと思いますし、言論の自由とは反対の立場の方のご意見もしっかり伺うことですし、その皆さんがしっかり発言される機会は全力で守りたいと思います。

本来であれば政権与党の議員の方が積極的に発信されるべきだと思いますが、ほとんど聞かれないのが残念です。それはそれとして私は私の立場の中で受け入れに向けた訴えを続けていきたいと思っております。

長文最後までお読み頂き、ありがとうございました。
posted by たけい俊輔 at 15:25 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする