日本映画における50年代、70年代、90年代の試み
時代の無意識に支えられ、一方で批評的に時代と斬り結ぶ
フィクションの力
僕がフィクションについて考えるときにいつも思い出すのは『ガメラ対ギャオス』の最後、ギャオスの最期の場面です。
子供の頃、親に連れられて映画館で見たとき、僕は前の回が終わる10分ぐらい前に劇場の中に入った。次の回の席取りのためにはそうするのが当時の世の習わしだった。暗闇に目を凝らすと、立ち見してる大人たちの肩の間からスクリーンがみえていて、巨大な二匹の怪獣が戦っている。怖いんだけど目が離せない。黒い巨体が首根っこを噛まれて血を流してる。その血が紫色だ。そのコウモリ型の怪獣をガメラがずるずると斜面を逆さに引きずっていく。昆虫が餌を巣穴に連れ込む仕草。ギャオスはもはや抵抗すらできない。ガメラはそのまま活火山の火口にもろともギャオスを引っ張り込んで殺すんだけど、その後、僕は見てはいないはずの映像をみているんです。火口を落ちていくギャオスが激しく回転しながら超音波光線を発して、周囲の岩壁から切断された岩石群がギャオスの体に激しく降りかかる。それでパンッとカメラが引くと火口から一筋の光が天空へ向けて伸びていく。ギャオスの超音波光線がグーッと空へ向かって伸びていくんだけど、そこにはあの恐るべき力はもうない。次第にスーッと力尽きて消えてった。その火山の中での回転式超音波光線発射の場面は僕の創作だったらしくて本編にはないんだけど、断末魔の超音波光線はありました。それを見た少年がその記憶を増殖させるだけのインパクトがあの映像断片にはあった。
ギャオスは凄絶な死に方をした。この寂寥感、哀切は何なのか。ガメラは本当に正義の味方だったのか。人間界が勝手に害虫と益虫を分けている。稲作を荒らす虫が害虫、その虫を食べる虫が益虫。しかし人間たちの思惑を超えた自然界の法則にあっては、ただ二匹の獣たちがのっぴきならない生存闘争を生き、死んだというそれだけのことではないのか。いわば野生の王国。ただ強い者が勝ち、弱い者が命を失う非情の世界。繰り返される生存闘争と死の世界。それが実にプリミティブに、しかしそれゆえの力強さをもって語られている。天空に伸びていくたった一筋の光と音によってある観念に過ぎないはずのものが視聴覚的に形象化されている。その興奮は年端のゆかぬ子供たちの心に確実に何かを刻みつけてしまった。
かつて映画はギャオスの断末魔の光線ひとつで生と死をダイナミックに描き出すことができた。なのに、なぜかいまはそれができなくなっている。なぜだろう、と考えながら昭和二九年版の『ゴジラ』を見直したとき、『ガメラ対ギャオス』も面白いけど、『ゴジラ』はその比ではなかった。決定的なものがここにある、という強い感触にとらわれてしまったのです。それは先日も話したけど、映画は現実そのものではない、現実に対峙しようとしている「もうひとつの現実」なんだという話に関係してくる。映画、より正確に云えばフィクションというのはこの現実に対峙しようとするとき、この世の現実そのものをみつめると同時に、実はそこにある「可能性」というものをみつめているのではないかと。つまりフィクションが常に手に入れたいと望んでいるのは単なる現実のリアリティじゃない、あくまで「可能性」としてのリアリティなんだ。その可能性としての出来事の連鎖が、いまの私たちにとって面白いかどうかを必死に問うているんだと。映画がしばしば現実世界の出来事を予言してしまうということが起こる。それは青山真治の『ユリイカ』が北九州のバスジャック事件を予言してしまったように才能に溢れた作家の身の上にも起こるし、そうではない作家の場合でも起こる。なぜかといえば、フィクションの語り手というのは本質的にこの現実世界にある可能性をみているからだと。そのことによってこの世界に対する一種の批評的視座を手に入れることもできるのだと。その意味では映画作家の視線というのはどこかで犯罪者の視線に通じるものがある。時代を画するような犯罪がしばしば時代の無意識を色濃く反映しているように、娯楽に徹したフィクション映画もまたその時代の無意識を色濃く反映することになる。反映するだけでなくある批評的な視座をもって時代の無意識と斬り結ぶのだと。
『ゴジラ』。昭和二九年、海の彼方からとんでもない怪獣がやってきて東京を壊滅させますという話が、可能性としてあったら面白いかどうか。この現実にある可能性としての世界を構築するとき、それが面白いと感じることの根本にあるのは何か? ただひとりの人間が面白いと思うんじゃなくて、それが娯楽映画として大ヒットするほどに面白いと思わせるその根本にあるのは何か? それは先にも云ったように、その時代の無意識との斬り結び方というか、『ゴジラ』という映画もその時代の無意識に強く支えられているのだというね。だからこそ『ゴジラ』はあれほどエポック・メイキングな作品たりえたんだと。そしてひとたび見事な視聴覚的形象化が完成されると、可能性にひとつの形式が与えられると、その作品というのはしばしば時代を超えて、国境を越えて生き延びていく。たぶんそれがフィクションというものの力であり、ある意味、存在意義だと思うわけです。事実、『ゴジラ』はいま見ても面白い。なおかつ怖い。そこにはいわゆる怪獣ものとは違うモノが写っているように思える。
この作品、皆さんにはあらかじめ見てくるようお願いしたわけですが、皆さんは驚きませんでしたか。ゴジラに対して人間界がこれほどまでに無力である、為す術もないということに。この映画のクライマックスは、ゴジラが東京を一方的に壊滅させていく過程を描いている。人間はただ絶望し、祈りの歌を歌う。これ、いまの感覚からいえばありえない作劇ではないですか。たとえば平成『ガメラ』シリーズなんかはギャオス対ガメラの攻防戦、あるいは怪獣対人間のせっぱ詰まった攻防戦をいまどきのCG技術を駆使して描いている。それが映画の見せ場なのだし、それなしには物語が成立しない。ところが『ゴジラ』には怪獣と人間界の間にまったくといっていいほど攻防戦がない。ただ一方的にやられまくる。
ではその攻防戦がないことの意味はなんなのか。『ゴジラ』は神話である、というのが説得力のある答えのひとつ。たとえば唐沢俊一という優れたサブカル系の評論家がそう指摘している。文藝別冊「円谷英二」(河出書房新社刊)に掲載された「特撮のカリスマ」という文章のなかで。彼がいうには、ゴジラとは要するに荒ぶる神の話であると。日本という共同体があり、そこへ海の彼方から荒ぶる神が現れた。とんでもない災厄を受けた人間たちは神鎮めの儀式を行い、供犠を供えて、海に帰っていただくと。その供犠というのがオキシジェン・デストロイヤーを発明した人類最高の知性であり、かつ戦争罹災者でもあるところの芹沢博士。彼を捧げることで、神様は海の彼方へ消えてくれた。これはまさにその通りの話で、すでに答えが出てしまったとも云えるわけですが(笑)、しかしそれがなぜ昭和二九年には可能であって、それでいていまこれをやろうとするといかにも成立しない感じがするのか? 『ゴジラ』と同じ神話構造で映画を作ろうとしても成立しないだろうこの感触はなんなのか。
この『ゴジラ』という映画、いわば日本人の惨劇の記憶の集積といってもいいわけです。室戸台風だとか、江戸時代から戦前戦後に至る飢饉の記憶、関東大震災の記憶もあるのかないのか。魚がまったく捕れなくなった大戸島の海辺、飢えた顔の漁民たちが呆然と海をみつめている。「飢饉」とか「飢餓」そのものの顔をした素晴らしい顔の人たちが集められている。いまではとうてい揃えることのできないその顔もまた強烈な惨劇の記憶として捉えられている。
だけど、いちばん強烈に迫ってくる惨劇の記憶、それは東京大空襲のイメージですよね。私たちは直接には空襲を知らないけど、様々な知識を通して形成してきた集合無意識的記憶とでもいうのか。騒乱の街中を逃げまどうなか、幼い子供連れの母さんが逃げそびれる。カメラがゴジラ視線の俯瞰ショットで彼らに迫る。これに対して上空を見上げる母親の視線があって、それは身長五〇メートルのゴジラを見上げているんだけど、要するに上空を見上げた母親が幼い子供たちを抱きかかえて「大丈夫、もうすぐお父さんのところに行けるのよ」と、死を覚悟して叫ぶ。これ、空襲の罹災者のイメージだよね。あそこで観客が受けとるのは要するにこの子供たちのお父さんは戦争で死んでる、だから天国にいけばお父さんに会えるってことだ。それは惨劇であると同時に忘れ去ることのできない過去の惨劇の再現でもある、二度と起きてほしくないあの出来事がいま再び起きているというこの絶望的な感触。
先ほど紹介した「円谷英二」特集の中で、木原浩勝という人が指摘しているけど、東京湾岸に姿をみせたゴジラが芝浦、大崎方面から品川、新橋、銀座、国会議事堂など経由しつつ、隅田川からまた東京湾へと至るというゴジラのルートは、要は東京大空襲におけるB29の爆撃ルートの再現だったと。その意味でゴジラは当時の日本人が等しく「起きたら嫌だなあ」とリアルに思える悪夢の再現だった。そこに『ゴジラ』の作劇を支える時代の無意識があった。僕は昭和三六年生まれですけど、昭和二九年といえば太平洋戦争が終わってわずか九年。一方、廃墟と化した首都東京も次第に復興しつつあって、経済的には高度経済成長の始まり頃、巷では電気冷蔵庫、電気洗濯機、電気掃除機がいわゆる「三種の神器」として庶民の欲望を強くかき立てていたという。すぐ過去に痛烈な惨劇体験を背負ってはいるが、その記憶も少しづつ過去のものとなり、自分たちの生活そのものは次第に上昇気流に乗りつつあった。そんな豊かさの見えてきた時代に絶対起きて欲しくない悪夢としての東京大空襲再び。ゴジラはそういう庶民たちの無意識を見事に突いてしまった。冒頭の海をゆく船の場面、あれは「被爆」のイメージですよね。ゴジラはアメリカ軍のビキニ環礁での水爆実験で太古の眠りから蘇った。ビキニ環礁での最初の水爆事件は昭和二六年で、その後に第五福竜丸が被爆した事件とか放射能マグロの問題とかが世間の注目を集めた。その時、放射能マグロじゃなくて、そこからフィクションとして思いっきり飛躍して、真っ黒くて巨大な怪獣が海の彼方からやってくるという物語を構築した。被爆から東京大空襲へ。この二つの核となるイメージを元に『ゴジラ』の映像と音は構築されているわけです。
しかしここで再びある疑問が私たちに襲いかかる。それではなぜ時代も違う、共有する記憶も無意識も違うこの時代においてなお、私たちは『ゴジラ』に感動しうるのか。ある体験を強いられるのか。理屈でいえば先にも話したとおり、再構成された現実としての映画、この現実とは違う「もうひとつの現実」としての映画がその完成された形式によって私たちを揺るがすのだと。そうだとしたらこの問題を考えるには作劇にだけ注目していたのでは解決がつかない。『ゴジラ』の映画としての形式において決定的なモノは何だったんだ。そのことを考えるためには映画を見るだけではなく、聴かなくてはいけない。というのも問題はゴジラの足音、『ゴジラ』が今日に至るまで僕らに呪いを仕掛けうる様式を獲得してしまったのはその足音ゆえだと思うからです。その激烈な足音をそれでは聴いてみます。
(上映)タイトルバックにドーンドーンという音
この映画は、実はゴジラの足音から始まっている。それがこの映画において最も最初に響く音である。『ゴジラ』は繰り返しその足音のみを響かせながら、いくつもの惨劇の爪痕を描き出していく。そしてまさにここぞという瞬間、大戸島の尾根の向こうにゴジラが姿を現す。
(上映)ゴジラが尾根の向こうに出現する
足音が響き、ゴジラが姿を現す。乙女が叫ぶ。ゴジラが姿を消す。それでもまだ足音は響き続ける。ところでいまゴジラがついに姿を現したわけですけど、見えたのは上半身のみだった。こんな時、ふと意地の悪い観客たちは思うわけです。ところでゴジラの足音と歩幅は合ってるのかと。で、そんなことをつらつらと考えていると、突如、猛然と気づくわけです。『ゴジラ』においては、その足音と実像とは絶対に一致しないのだということに。なぜかというとゴジラが姿を現さないときにはものすごい重低音の足音が響く。でもゴジラが姿をみせると足音が消える。これはもう冒頭から結末まで一貫してそうなのです。先ほどの大戸島の場面も(同じ場面を再生して)、ほらゴジラが写っている間は音が消えている。つまりゴジラというのはその実像と足音、映像と音が完全に分断されて演出されているわけです。おそらくは恐怖演出ということで本多猪四郎監督は考えたんだろうけど、これが単なる恐怖演出を超える効果を発揮しているように思える。つまり視覚的な実像とその足音が分離されることで、ゴジラが単なる一匹の怪獣であることを超えて、これはもう神話レベルの荒ぶる神なんだ、惨劇のメタファーなりファンタズムなんだっていう。実像と足音を分離したがゆえにゴジラがある実像以上の抽象性を獲得してしまっているように思える。
これもまた理屈のようでいて理屈を超えた出来事です。ですからそれは理屈抜きの体験によって実感してみるしかない。それでは有無を云わせぬ勢いで、ここでゴジラの東京壊滅シークエンスを上映します。
(上映)
皆さん、気づきましたよね。映画の始まりから響き続けた足音、あれだけ前半戦で強調されたゴジラの足音がこの東京壊滅のシークエンスではまったく響くことがない。足音は完膚無きまでに消去されている。気がついてみれば驚くようなことが、ごく平然と行われている。
ゴジラはひたすら音もなく、あの漆黒の巨体をうごめかせて街を破壊しつくす。儀式のような厳かさで破壊しつくす。その姿には妙な崇高さすら漂っている。それが後の祈りの歌につながるという、そういう実にシンプルな演出なんだけど、この映像と音の分離、ゴジラの実像と足音の分離がどうやら作家たちの思惑すら超えた神話作用をこの映画にもたらしてしまったように思える。そしてこの見事な演出によってこそ、逆説的に攻防戦のない神話劇としての『ゴジラ』が映画として正当化されたのだとすら云いうるように思える。
怪獣が怪獣であると同時に、ある神話的な存在であり、なおかつ惨劇のメタファーでもあるという。このことはたとえば『ガメラ』と比較してみるとよくわかる。旧『ガメラ』の第一作目は昭和四一年の制作、これは高度経済成長の真っ只中、『ガメラ』は『ゴジラ』と同じ白黒作品で、しかも『ゴジラ』とほぼ同じ骨格の物語をやろうした挙げ句に大失敗した。二九年と四一年では時代状況も背負っている無意識も全然ちがって、ガメラが惨劇のメタファーにならない。同じ事はローランド・エメリッヒ版の『GODGILA』にもいえる。ゴジラを英語表記したらGODという綴りが入っていたというのも凄い話なわけだけど、このハリウッド版のゴジラは南洋での米仏による原水爆実験によって爬虫類が巨大化したと。爬虫類だから動きは素早い。そんな怪獣をニューヨークの摩天楼に解き放って、ビルの間を駆けめぐらせて、ヘリコプターで追いかけさせて攻防戦をやろうっていう。発想自体は悪くないけど爬虫類はあくまで爬虫類であってゴジラは神にはならない。物語は人間界を超えない。『ゴジラ』がいま再現不能なのはそこです。平成版『ガメラ』シリーズにしても、あれは良くも悪くもメカニカルでスポーティなアクション映画なわけです。それなりに面白くはあるけど、そこには時代を超えて立ち現れてくる神もいないし、ただひたすら反復される呪いもない。しかしそれはもはや個人の才能に還元される問題ではない、現代映画の宿命なのだと。だとしたらこのフィクションの問題にいまなお真っ向からぶつかり合おうする作家たちにはどのような選択が残されているのか。才能だけでは解決できないその限界領域はいまどこにあるのか。その点を考える前にもう少しゴジラについて考えてみます。
これは創作の問題であると同時に批評の問題でもあるんですけど、いま『ゴジラ』を見直してみると、いくつか気になることがないではない。たとえばこの映画からはアメリカ合衆国が見事に排除されている。ビキニ環礁で水爆実験したのはアメリカ軍なのに、ゴジラは日本を壊滅させる。あくまでアメリカを排除した日本の共同体の話として映画が構築されていること。そしてそのことと連動しつつ、より大きな問題は、東京を襲撃したゴジラが皇居だけは破壊しないということ。その後、シリーズ化された『ゴジラ』は、(モスラが)東京タワーを破壊したりもするけど、皇居だけは絶対破壊しないし、登場もしない。
これはいったいどういうことなのか。もちろん常識的にそれは難しかったからやらない、映画は娯楽であり、それで何が悪いのかという考え方がひとつある。あるいはゴジラの東京壊滅は東京大空襲の再演であり、現実の空襲においてアメリカは皇居をあえて爆撃しなかった。ゆえにゴジラも皇居を破壊しないのだ、という考え方もできる。やや強弁めいた感じですけど、そうともいいうる。一方、このアメリカの不在と皇居の不在という二つの不在は、このゴジラという映画が荒ぶる神の神話劇の構造をもっているということ、映画の作劇としてはいわゆる悲劇の構造をもっていることとも強くからんでくるように思える。いわゆる悲劇というものに託された共同体での機能とは、その共同体の精神の浄化であると云われます。僕も詳しくは語れないけどそう云われる。するとゴジラは当時の日本人の精神をいかに浄化したのか、してしまったのかを考えたとき、それは『ゴジラ』という映画が、惨劇の記憶に背を向け、幸福への階段を登りかけた日本人たちが最も畏れていたであろう惨劇の再来、悲劇の再演というものをあらかじあめ虚構の儀式として演じることで、その悪夢を浄化したと考えることも可能だろう。悲劇を先取りして、疑似体験することで涙を流し、畏れの感情を浄化する。ただそう考えたとき、合衆国の野蛮な行為によって日本人が災厄に巻き込まれるという劇構造そのものを含めて、これが太平洋戦争の記憶の再演だとしたら、当時の日本人は自分たちを戦争の被害者、加害者ではなく被害者として自己認識してたってことですよね。自分たちを戦争の加害者とみなしていたらこういう話は絶対に成立しないし、またそれが大衆的な指示を受けて大ヒットするということもないだろう。
するとどうなんだ。『ゴジラ』という映画、これは民族の無自覚な自己認識に追従した俗情まみれの映画だったのか? そしてこの映画にいまなお感動しうる僕たちというのもまた「歴史意識」を欠いた愚民のひとりであると? そう考えてしまってもいいのだろうか?
いや、そうではない、という声がフィクションの側から響いてくる。フィクションというのは現実そのものではない、ありえたかもしれない「可能性」が常にそこには込められているのだと。そこで急浮上してくるのがあの芹沢博士、戦禍の呪いをその黒い眼帯に形象化された人類最高の知性たる存在であると。いうまでもなく『ゴジラ』という映画はこの供犠となる芹沢博士の存在抜きには考えられないのだけど、彼はその天から授けられてしまった最高度の知性によって水中から一瞬にして酸素を消滅させるという恐るべき原理を密かに発明してしまった。その恐るべきパワーは用い方によっては平和利用も可能だが、一歩間違えば原水爆に劣らぬ破壊的な兵器にもなりうる。映画の終盤、その事実を知った主人公たちはそのオキシジェン・デストロイヤーなる技術をもってゴジラを退治するべく、博士を説得にかかる。だが芹沢博士は断る。なぜなら人類はつねに愚かだから。たとえこの技術でゴジラを倒せたとしても、その存在が明らかになるや、いずれ必ず人類はそれを武器として使用する。そして第二、第三の悲劇的な殺戮が繰り返されることになるだろう、そう博士は云う。しかし、それではゴジラをこのまま放置しておいていいのか。結局、主人公やヒロインとの三角関係の顛末などあり、博士はひとつの決断を下す。みずから供犠となる決断を。オキシジェン・デストロイヤーを使ってゴジラを倒す。しかしその最終兵器の存在を世に知らしめる以上、この私の頭の中にある設計図を含め、この地上から消滅させるという決断を。重要なのは博士がその決断をきわめて主体的に選択しているところです。
責任という言葉がある。戦争の場合なら戦争責任。芹沢博士はみずから供犠たることを選んだ。その時、彼はひとつの責任を果たそうとしている。それはいかなる立場ゆえの責任なのか。科学者としての責任である。誰に対する責任なのか。人類に対する責任である。ここで突如、冒頭の「被爆」のイメージが蘇る。この映画はそこから始まり、芹沢博士の死と共に終わる。しばらく忘れられていた原水爆の問題がここに再浮上する。日本は世界唯一の被爆国であるという現実。芹沢博士は原水爆による悲劇にも、戦争による悲劇にも直接的に荷担したわけではない。ゴジラにしても同様である。しかし責任をとる。それは大いなる飛躍である。しかしその理屈を超えた飛躍ゆえに人間としてのきわめて倫理的な選択となる。対して戦後日本の現実はどうだったか。責任をとるべき人間は本当に責任をとったのか。
この芹沢博士に対する作者たちの思い入れの深さは、疑いようもなく画面そのものに刻み込まれている。芹沢博士は孤独の中で最後の決断を下す。その博士の絶望と孤独を本多猪四郎監督は実にシンプルかつ絶妙な演出によって描写する。博士のもとを訪れた主人公とヒロインとの切り返し場面で、博士が二人の愛情関係に気づいたその瞬間からカメラの切り返しがイマジナリーライン(注1)を越える。ごく自然に交わっていた両者の視線が、不意に宙にさまよい始める。否応もなく迫りくる博士の顔、顔。そのまさしくドライヤー的な顔に浮かび上がる博士の孤独。博士の命がけの選択はこの決定的な顔の演出によって私たちの胸を突き刺すものとなる。
フィクションというのはいわばオキシジェン・デストロイヤーである。ある強大な力であると。それは本質的に両義的でしかありえない。フィクションは一面において時代の支配的な無意識に支えられ、これを是認する。しかし返す刀で、きわめて批評的に時代と斬り結ぶ。芹沢博士のように可能世界の論理(倫理)によって現実社会を告発する。これがフィクションだと。フィクションならではの批評的な視座なんだと。そうであるなら人が本気でフィクションと向き合うためには可能な限りその表層(具体的細部)を直にみつめ、聴かなくてはならない。そうすることで獲得される歴史意識がある。それゆえフィクションを前にして大事なことはしたり顔で抽象的な答えを出すことじゃなくて、そのみつめ方や聴き方を知ることだと。そうすることでフィクションはより強く輝く。批評においても、創作においても。
企画/オフィス・シロウズ 製作/オフィス・シロウズ/衛星劇場/バンダイビジュアル
配給/シネカノン *日本映画エンジェル大賞受賞作品
2004年/132分/カラー/1:1.85
(C)2004『カナリア』製作委員会