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小説「新・人間革命」

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厚田43

 追善法要に集った人びとは、目を輝かせながら、山本伸一の話に耳を傾けていた。

 「私たちは、必ず臨終の時を迎えます。しかし、生命は永遠です。自分の生命がなくなるわけではありません。大宇宙に冥伏するんです。ちょうど、一日を終えて、眠りに就くようなものです。時が来れば、また生まれてきます。

 死んでも、三世にわたる生命の原因と結果の法則は一貫していますから、宿業も、福運も、使命も、境涯も、そのまま続いていくんです。広宣流布に生き抜いた人は、仏・菩薩の境涯のまま、『死の仏』となるんです。

 生きている時は『生の仏』であり、亡くなってからも『死の仏』となる――それを日蓮大聖人は、『即身成仏と申す大事の法門』といわれているんです。

 さらに大聖人は、法華経見宝塔品の『若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり』の文を引かれています。正法を持ち、強盛に信心を貫き通していくことこそ、一生成仏の根本要件なんです。

 広宣流布の道は、常に険路です。牧口先生のように、殉難を覚悟しなければならないこともあるかもしれない。しかし、最後まで信心の炎を燃え上がらせ、仏法に殉じていった人の境涯は、悠々、堂々たる絶対的幸福境涯です。大歓喜の人生です。

 また、信心していても、事故や災害等で、他界する人もいるでしょう。しかし、信心を貫いてきたならば、過去遠遠劫からの罪障を消滅し、一生成仏することができます。

 経文にも、“悪い象に殺されても、地獄などに落ちることはない”とあります。その理由は、『悪象等は唯能く身を壊りて心を破ること能わず』(御書七ページ)であるからです。

 悪象等に殺されるとは、広く解釈すれば、事故や災害に遭って命を失うことともいえます。しかし、それによって、信心が破られることはないから、成仏できるんです。いかなる状況で死を迎えたとしても、生命に積んだ福徳は崩れません」

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