ナポレオンの戦闘教義(後編)
近代師団と軍団の起源
恒久的な大部隊の戦術・管理組織としての歩兵師団は一八世紀のフランスで姿を現した。一七五九年、デューク・ド・ブローリー(Duc de Broglie)が歩兵と砲兵を組み合わせて恒久的な師団編制をフランス軍に持ち込んだ。
一七九四年、フランス革命軍の陸相カルノーは、騎兵、歩兵、砲兵の3兵科を組み合わせた師団編制を定め、独立戦闘能力を付与した。一七九六年までに師団編制はナポレオンによって全フランス軍に普及した。ナポレオンは彼の機動戦、運動戦にその能力を最大限に活用した。将兵は迅速な機動の訓練を受け、兵站支援は機動戦に適用できるように改善された。戦場における機動は砲兵の火力支援によって高められた。
軍の規模が二〇万のレベルになったとき、軍の管理の便宜性を図るために師団のグループ化が必要になった。そして一八〇〇年にモロー(Moreau)がライン河正面軍の一一個師団を四個グループに仕分けたのが最初になった。
ナポレオンは一八〇四年にこのグループを恒久的な編制「軍団(Corps)」とし、それまで師団を運用していたように軍団を運用するようになった。歩兵と砲兵で組織される師団は戦闘における機動部隊としての「基本任務(使命)」を持って残った。軍団には騎兵が組み込まれ、軍団全体の偵察・警戒を「使命」とすることになった。また、騎兵師団、騎兵軍団も編制された。
ナポレオンの歩兵師団は、二~三個旅団と一個砲兵旅団から成り、各歩兵旅団は二個歩兵連隊、砲兵旅団は二個砲兵大隊(Batteries)で、各砲兵大隊はカノン砲四門、榴弾砲二門であった。
兵站支援
ナポレオンは兵站支援システムの改善の名人であった。作戦開始に先立って計画される兵站計画は、補給処と交付所の作戦配置および補給所要の見積もりがきわめて優れていた。
ナポレオン軍は野外に機動するときでも宿泊は街や村落をしばしば利用し、住民たちに糧食の提供を求めた。しかし、兵士と兵站段列(補給・整備・後送などの移動部隊)は四日分の非常用糧食を携行していた。そして主補給基地(base)、中間補給基地はもちろん、作戦部隊に随伴する前方段列にも所要の補給品を準備し、常続的に追送していた。
このような深慮遠謀のもとにナポレオン軍は、驚くほど迅速に機動した。最も代表的なものは、一八〇五年、フランス北部海岸から西部ヨーロッパを横断してウルム、ウィーン、オーストリッツに至る約八〇〇キロの戦略的機動であった。約二〇万の兵力が一日平均二〇~二五キロの機動を五週間続けたのだ。この時代では驚異的な機動速度である。これは八〇〇キロに限って言えば、ジンギス・カーン軍の機動速度に匹敵する。
この兵站支援システムは一八一二年のロシア会戦まで十分に機能した。ロシア会戦は、ロシアの道路事情が最悪であったこと、ゲリラが活動したこと、ロシアの町や村落が貧困であったことに加えて退却するロシア軍によって生活物資が収奪されていたことで機能しなかった。輸送用の四輪荷車が通過可能な道路網がなかったのだ(日本の戦国時代の道路網のように)。
軍事理論と戦略
ジンギス・カーン以来、久しぶりに論理的で明白な戦争遂行の新しい概念がイタリーとエジプト戦線におけるナポレオンの作戦で提示された。その概念は一九世紀前半を支配した。
ナポレオンの相手はできるかぎりナポレオンのシステムを真似たが、ナポレオンが戦争遂行について心の奥深くに持っていた革命的な戦争に対する考え方を理解していなかった。
同盟軍がフランス軍より兵力優勢であった一八一四年のときでさえ、ウェリントンかブリュッヘルのいずれか(多分ブリュッヘル)が、
「ナポレオンが戦場に出てくれば、四万の兵力と同等の戦力的価値がある」
と言わしめたように、同盟軍はナポレオンを畏敬し恐れた。ナポレオンは彼の考えをまとめて書き残さなかったが、彼が言い残した戦略と戦術に関する一一五の格言を「ナポレオンの金言」としてまとめられている。
この金言全体としては、不均衡な体裁をなしていて、あるものは金言とはいえ、当たり前のことを述べているものも含まれている。また、その当時としてはきわめて有益な格言ではあるが、今日では当たり前のことになっているものもある。したがってこの「金言集」を読むときには、当時の状況の解説が必要で、金言の背景とあわせてみれば、永遠の価値を理解することができる。
そしてナポレオンの戦争遂行の方法とその背景にある哲学は、ナポレオンの実績から演繹的に推論できる。ナポレオンの敵も味方もナポレオンが歴史の舞台から去ったあとも、その課題に取り組んだ。彼の敵は初期の敗北を分析して彼の考え方の一部を理解してナポレオンを崩壊に送り込む一助にした。そして次の一〇数年間に二名の分析者がナポレオン戦略・戦術の本質について偉大な業績を残した。曰く、
「ナポレオンは、どんな会戦・戦闘においても常識的な策案を避け、無敵が予期できないだろうという策案を計画することに努めた。それにもかかわらずナポレオン自身が述べているように、彼の考え方は簡単明瞭な戦いの原則に基礎をおいていた。それは彼の会戦や戦闘を見れば明らかである」
ナポレオンは可能なかぎり会戦において初動に勝利しようとした。その手段は「偽騙」と「迅速な機動」であり、これによって敵の翼側をすり抜けて背後連絡線に迫ろうとした。そして、突然、作戦方向を主力に向けて不利な態勢にある敵に戦闘を強要した。このような典型的な彼の戦例はマレンゴ、ウルム、イエナの会戦である。
ナポレオンは「偽騙」によって敵に相対的に勝る戦闘力を集中した。また、偽騙は迅速な機動を容易にし、効果的な軍需物資の徴発を容易にした。このため、ナポレオンは緊要な時機と場所における決戦の瞬間まで戦闘力を分散配置した。
「優れた相対的戦闘力の集中は、優れた戦闘力の分散から迅速な機動によって可能になる」
という原則を地で行ったのだ。リヴォリ、フリードランド、ドレスデンの会戦は、その典型的な戦例である。
また、敵に弱点を示して決戦に誘い込み、各個に撃破するのが得意だった。その典型的な策案は、二つの敵の間に主力を配置し、ナポレオンを挟撃しようとするように敵を誘致して、各個に撃破する「内線作戦」である。全般作戦態勢上、止むなく内線態勢になるのではなく、自分から求めて内線態勢に入るのだから、当然、最悪事態になることを覚悟し、ひそかに秘密の対策も講じていた。不利な態勢と見せかけて不敗の態勢をとっていたのだ。典型的な戦例は、モンテノットとウォータールーの会戦である。もっともウォータールーでは失敗した。その原因は、ブリュッヘルに対する戦闘において部下の不手際によって敵を決戦に引きずり込めなかったからであった。
最終的なナポレオンの敗北はナポレオンの外交の失敗によるものであることは追跡し証明されている。國際政治は「外交と軍事は車の両輪」で行われるのだが、ナポレオンは軍事的天才ではあったが、外交の天才ではなかったのだ。“天は英雄と言えども二物を与えず”だった。さらに「大陸国家」の軍事思考であって「海洋国家」の軍事戦略は感覚的に認識できなかった。
ジョミニとクラウゼヴィッツによる首尾一貫した科学的な軍事理論の出現によって軍事学が広まった。そしてこのような軍事理論が組織的な軍事教育の基礎となった。大学卒業生はもちろん、学部学生にとって軍事学は近代的センスとしての基本的な知識要素となった(二一世紀になっても日本ではそのレベルに到達していない)。このような教育システムが普及した結果、軍事理論の専門家集団を生むことになった。あたかも、
「戦争という病気を予防し治療するには、軍事学という医学が必要である」
他の分野の専門職と同じように、軍事学のこのような発展は、啓蒙の時代であり、産業革命の時代の産物として軍人を専門職としようとする青年たちのための学校が誕生した。英国では一八〇二年にサンドハースト士官学校、フランスでは一八〇八年にサン・シール士官学校、米国では、一八〇二年にウエスト・ポイント陸軍工兵学校である。プロシャでは、いろいろな士官候補生学校が以前から存在していて先達の役割を果たしていたが、一八一〇年にもう一段レベルの高い戦争大学(Kriegsakademie or War Academy)が設立された。この結果、プロシャ全般参謀(General Staff)の知的関心を刺激することになった。
セント・ヘレナに流刑されるとき、ナポレオンは
「余は、英国の海洋戦略思想に敗れた」
とつぶやいたと伝えられている。ナポレオンの真の敵は英国だったのだ。大陸国家の国益と海洋国家の国益は永遠に一致することはない。特に、安全保障に対する感覚が全く違うのだ。
海洋国家と大陸国家の国家戦略は必ず衝突する。そして大陸国家は海洋国家に対する警戒心と深層における対立心は永遠に消えることはない。その衝突が戦争にならないようにするには、海洋国家が制海権を握り、強大化に向かって絶えず成長を続ける大陸国家の軍事力に対してパワー・バランスを維持しているときである。
二一世紀における日本の国家戦略を考えるとき、日本と南北朝鮮・中国の北東アジア共同体構想を唱える愚かな政治家はナポレオンの悲劇の教訓を考えてみることである。 人口13億の中国が人口1.2億の日本を子分扱いにするのは当然の理である。
コメント
初めて投稿させてもらいます。いきなり質問なんですが、ナポレオンが東欧遠征の時に戦場での負傷者を迅速に救う為に担架運搬チームを組織したと話を聞いたのですが、それは史実なのでしょうか?彼らは鉄砲を持たずに負傷兵士の救出にあたった、それが今で言うレスキュー隊の始まりだと・・
もし良ければ教えて下さい。
Posted by トクヒロ at 2008年1月31日 20:29
コメントする