脳卒中で全身麻痺の状態に陥った男が、片目のまばたきだけで意志の疎通を図りながら本を書き上げたという実話を基にした作品である。私などはその設定を聞いただけで感動してしまうのだが、映画化作品からはそれほど心に訴えかけてくるものがない。
エルの編集長だったジャンは脳卒中に倒れ、左目以外のすべての機能が麻痺してしまう。卒中から回復した彼の視点で映像を構築して行く序盤は見ごたえ十分である。彼に話しかける人々の表情を見つめながら、観客も彼の心情に寄り添うことになるので、単調なはずの画面が驚くほど豊かな表現として生きてくるのである。
ゆえに前半は文句なく素晴しい。ジャンの思考は正常なので、彼のモノローグはしっかりと観客に伝わるが、彼の視点で描かれるすべての登場人物には彼の声が聞こえない。彼らはジャンの心の声とは無関係に彼ら自身の感情や思考でジャンを認識しようとしているのである。返事のない対話というものが、普段とは別の角度から人間の感情を照射するのだ。だから、物言わぬジャンに話しかける人々と向き合うだけで映画は成立し、それがスリリングであったりするのだから驚きである。言語療法士アンリエットが文字盤を使ってコミュニケーションをとってゆく過程で、ジャンが「死にたい」と告げた時の彼女の表情も心に残る。
ところが、そこから先が広がってゆかないのである。彼は自分が潜水服を着て海の底に沈められているような感覚に囚われていて、そこからまったく無関係な蝶のはばたきを想像する。それは想像力ということであり、肉体と精神との関係を突きつけることになるわけだが、彼のイマジネーションと現実とがそれほど葛藤を繰り広げているようには見えない。彼と向き合う人々が善意の人たちばかりで、ジャン以外の人物からはドラマが見えてこないのである。ジャンが観ることのできる限られた世界の住人だから仕方がないとは思わない。返事のない対話というシチュエーションをうまく利用すれば、いくらでも彼と向き合う人々のドラマは描けたはずだ。それがないから、後半は訴求力を失ってしまい、事象だけが淡々と進んでゆくしかないのである。
ジャンが瞬きだけで本を綴ってゆくことも、それに辛抱強く付き合った人々の存在も凄いとは思うが、そうした実話の感動が映画として変換しきれていないのである。その辛抱強さが画面からあまり感じられず、意外と簡単に本が出来上がってしまったような印象を受けるのだ。やはり、ジャンだけでなく、彼と向き合う人々の具体的な葛藤が欠けているからなのだろう。
この映画を観ていると、ベトナム戦争ですべての感覚を失った若者を描いた『ジョニーは戦場へ行った』が想起されるのだが、あの作品のように、「ただ生かされていることの苦痛」が感じられないのだ。死んでしまいたいという葛藤が強ければ強いほど、それを乗り越えようとする意志の素晴しさは顕著になるものなのに、この映画ではジャンの懊悩がそれほど強烈には伝わってこない。『ジョニーは戦場へ行った』では、他者からすればただの肉の塊になってしまったジョニーの悲劇が、そのまま戦争の残酷さとして観客の胸に突き刺さったわけだが、本作の主人公からは「生き抜いた」という感動しか生まれ得ないのだ。彼の絶望や努力、彼をとりまく人々の善意などはストレートに伝わったとしても、まばたきで本を書いたという点を除けば多くの難病映画と大差がないため、『ジョニーは戦場へ行った』のような強烈なメッセージは残せないのである。映画としては単調になったかもしれないが、ジャンのまばたきと対峙し続けるような描写が必要だったのかも知れない。 |