お手伝いさんたちのブログ

中部大学 武田邦彦先生のブログの中で、音声収録のみのものをテキスト化して掲載しています。
テキスト化及び掲載にあたっては先生から許可を頂いています。

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被曝とエネルギーリスクの比較 (10/10)




1970年代のアメリカで「フォード・ピント事件」が発生した。欠陥車を製造したフォードが「回収して修理するか」、「犠牲者が出たら補償するか」を検討して、「修理費用より補償費用が安いので、修理しない」という結論になり、その結果、多くの死者を出すことになった。この事件はフォードが批判されて結局、回収・修理を行った。



この例のように「人の健康とお金」を同じ軸で天秤にかけることはできなくなったが、一方ではまだ交通事故が根絶できないのに自動車は製造されている。個別の会社では「命と金」の交換はできないが、社会単位ではまだ可能なことを示している。



原発を運転して被曝のリスクを認めるか、エネルギーを化石系燃料に転換するリスクに賭けるかが「エネルギーの選択問題」として今、日本で議論されている。また医療用被曝と治療の問題も一部の医師の不見識な発言によって危機を迎えている。



低線量被曝と疾病の関係は明らかではない。膨大な研究が報告されているが、チェルノブイリ近郊の疾病数は事故後、27年を経て増大を続けているが、一方でも健康にさして影響を与えないとする学説もある。科学的に言えば「結論が出ていない課題」であり、社会的には「予防原則が適応される例」でもある。



予防原則とは水俣病をはじめとする多くの公害を防ぐことができなかったという反省から1992年に世界的に宣言されたもので、「科学的な根拠が曖昧で、大きな被害が予想される時には、科学的結論を待ってはいけない」という基本的なスタンスである。



一方、原発を中止するリスクには、エネルギーの確保と現在の原発の金銭的損失の2つがある。エネルギーの確保の問題はより具体的には「ウラン燃料と化石燃料の寿命と入手の問題」であり、私は資源を専門としているが、「化石燃料とウランは1000年以内に枯渇することはなく、国際的に供給が途絶えることもない」という考えである。



そうすると、この問題は「まだ使える原発を使わない損失」をどのように考えるかだが、毎年約5000億円の税金を原発の開発と諸問題の解決に使用していることなどを考えると、原発の中止は国家の損失にならないと考えている。


(平成24年10月10日)




--------ここから音声内容--------



原発の再開問題について、日本の多くの人たちの意見が分かれている一つにですね、被曝のリスクとエネルギーのリスクのバランス、という問題があります。これについて、まぁ少し歴史も踏まえてお話をしてみたいと思います。





1970年代のアメリカでですね、フォード・ピント事件というのが発生しました。これはですね、実は小型車を作り慣れなかったフォードがですね、ちょっとまずい自動車…これがピントという自動車だった、これを作った訳ですね。えっと大型車というのは悠々としてますから、ガソリンタンクをどこに置いてもあまり関係なかったんですが、小型車ですとガソリンタンクを置く場所が限定されます。そのそばに実はボルトがあってですね、後ろから追突されますと、そのボルトがガソリンタンクに嵌り込んで、そこからガソリンが漏れる、という事があったんですね。これに設計製作する時は気が付きませんでした。





そしてしばらくこれを売りだしておりますと、後ろから追突された時に、ガソリンが漏れて車が燃えてですね、焼死するという、焼け死ぬという事件が起こります。これについてフォードはですね、社内で至急検討会議を行いまして、そこで主に議論したのは、リコールをしてですね、車を全部回収して修理する場合の値段ですね、私の記憶ではたしか130億円だったように思いますが、日本円でですね。




それから犠牲者が出た時にどのくらい死亡者が出ると、まぁ一人あたり例えば1億円払う、というような計算をしますと、補償費用は確かその時の計算で60億くらい、約半分ぐらいだったように記憶しております。ちょっと記憶は定かではありませんので、機会を見て調べたいと思いますが、だいたいそういった金額でした。





そこでフォードはですね、どうも修理費用をやるよりも補償費用の方が安いので、まぁ修理をしないという結論になります。まぁこのピントっていう車は欠陥のあるまま走るんですけれども、そうしますとやはり追突事故がある頻度で起こりますので、そこで車が燃えてですね、多くの死者を出すことになります。これがだんだん世の中に知れて来ましてね、結局フォードは批判されて、回収修理を行うようになり、信用も非常に大きく損なわれる訳です。





この例はですね、人の健康とか命とお金を同じ軸で天秤にかける事が出来るか、という問題を提示している訳ですね。つまり欠陥車を売り続けて補償金を出す、つまり「人が死んでも良いよ、その時には補償金を出すから」。この考えをですね、徹底的に追求しますと、「憎らしい奴は殺して良い。1億円用意しておけば良い」と、まぁこういう事になりますので、これは非常に社会的倫理に反する訳ですね。





まだ一方ではですね、交通事故が無くならないのに、自動車は製造を続けているという問題点がまだ存在するんですが、これはあの社会的な要請によってできてる事なんですね。個別の会社ではですね、いまやもう命とお金の交換はできない、という事になっている訳です。





まぁこういった事がですね、現在まだはっきりと議論されていない内に、被曝のリスクとエネルギーリスクというものが社会で非常に強いストレスを生じておりますね。被曝のリスクの方を強調する人たち、主にお母さんたちですが、もちろんお子さんを育てておりますから、とてもエネルギー…電気を節約しても子供の健康を守りたい、とこういう風に思うのが当然であります。





で、一方産業界に身をおいている人たちはですね、子供の健康よりかお金という事で、「日本のエネルギーは原発を辞めたらどうするんだ」と、「そういう事を考えない奴はダメだ」と言うことで鋭い対立になっている訳ですね。つまり、原発を運転して生じる被曝のリスクが大きいか、それともエネルギーを化石燃料に転換するリスクに賭けるか、という問題が現在行われております。




これに医療用被曝とか治療の問題について、一部の医師が不見識な発言をしているので、全体として議論が混乱しているという事ですね。お医者さんはぜひ、私このブログで何回も言ってますが、医療用被曝については我々は何にも言ってませんので、医師もですね、医療用被曝「以外」の被曝については、やっぱり一定の発言を控えるという風にしてもらいたいという風に思います。





ま、それはそれとして、ここではですね、低線量被曝と疾病の関係が明らかでない、という事に大きな問題があるわけですね。膨大な研究例がありますが、チェルノブイリの近郊の疾病数は事故後27年を経ても、増大を続けております。これが被曝のせいかどうかはまだ分かっておりません。一方ではですね、被曝は健康にあまり影響が無いという学説もあります。




私はですね、「科学的にいえば結論が出ていない課題である」と言う事はもうはっきりしているんじゃないか、もう議論しなくていいんじゃないかと、結論が出てないんだから、しょうがないんじゃないかと思うんですけどね。「社会的には」結論が出ているんですね。予防原則というものがありますので、「学問的に分からなくても危ないと思われるものは規制する」っていうのがですね、社会的に決定されているものですので、あまり議論しない方がこれも良いだろうと思いますね。






この予防原則というのは、水俣病を始めとした多くの公害でそれを防げなかったという事から、1992年に既に世界的に宣言されたものでありまして、もちろん日本も加盟しております。簡単に言えば、「科学的な根拠が曖昧であっても、大きな被害が予想される場合は科学的結論を待ってはいけない」という基本的スタンスなわけですね。





私はですね、実はエネルギー確保の問題より(問題から)考えますとですね、ウラン燃料と化石燃料の寿命はですね、これはあまり変わらないんですね。ウランも大体数百年、化石燃料もシェールガスを除けばほとんど同じような寿命であります。それから入手の問題もですね、両方とも外国から輸入します。現在ではですね、ウラン燃料の方はまだ原子力が全世界には行ってませんから、あまり入手が困難では無いと思われていますけれども、これは基本的には同じ問題なんですね。




私はまた別の考えで、化石燃料もウランも1000年以内に枯渇することは無いし、また国際的に供給が途絶える事も無い、という考えを持っております。これには一応の…一応というかきちっとした論拠はありますね。化石燃料が1000年以内に枯渇しないという事は、これは世界的に見れば通常の事で、日本だけが特殊な環境にあります。またウランもまぁ大体そうだと思いますね。現在のウラン鉱というのは、表面に出ているような、例えばオーストラリアのオリンピック鉱山みたいなものが注目されておりますが、本格的に探し始めたらですね、かなりあると思われます。





それからエネルギーセキュリティという問題がしょっちゅう出てくるんですけれども、これはですね、まだ1970年代に日本が中東の石油に過度に依存していたという時代のトラウマがあるんですね。既に石油・石炭・天然ガスだけでも世界各国に分散しております。これにシェールガスが入りますので、さらに輸入国は広く広がります。




エネルギーばかりでは無くて、現在社会はですね、自動車ですら輸入に頼っている国っていうのはいくらでもあるんですね。日本は自動車は輸出ですから、自動車が輸入できなくなる、という事は考えられませんが、自動車産業のあまりない所ではですね、やっぱり自動車が輸入できなくなるというのは、これ生活上非常に大きな問題になるんですね。ですから、エネルギーだけが特別である、という見方は非常に古い見方で、現在の国際貿易というものをしっかり見ればですね、エネルギーセキュリティだけが問題だ、というのはちょっと問題だと思います。





そうなりますとですね、この被曝のリスクとエネルギーリスクという問題は、もっと踏み込んで言えばですね、まだ使える原発を使わないお金の損失をどう考えるか、という事になります。現在日本では54基の原発があって、いずれも一応稼働可能な訳ですね。
少なくとも40発ぐらいは稼働が可能な訳です。1基作るのに3000億、4000億というお金が掛かるので、これをですね、40基全部反故(ほご)にするっていうのは実に残念な事ではありますが、現在原子力の開発予算に約5000億円の税金を使用しておりますので、それをですね、原子力を中止する時に使えば、国家の税金としての損失は殆ど無い、という事になります。




これをですね、さらに詳細に検討して、現実的な原子力の停止のためのお金をですね、原子力推進でも反対でも無い立場から、しっかりと学者が計算する必要があろうかと思います。こういったですね、現在ではもう誰もが利害関係があって、利害関係があるのが当然であるという風に考えて、色んな計算をしてもですね、何か背景があるのでは無いか、という風に思われるわけですね。




しかし学者というのは本来そうじゃないんですね。学者に潤沢な研究費があり、活動が自由であれば、学者は社会に大きく貢献をすることができます。というのはですね、学者が計算する値は、原子力を推進でも反対でも無く、中立的立場で物事を見、それを解説すると。あくまでもご判断をされるのは社会であるという、それが学問の自由を私たち学者が持てる最大の理由であります。




この被曝のリスクとエネルギーリスクという問題、原発中止に関する日本の損失という問題。これはですね、被曝リスクを重要視する人は、「なんだお金の問題じゃ無いじゃないか」と言いますしね、それから原発推進の方は、「いやお金が無きゃ何にもならない、お前らバカか」と、まぁこんな事をですね、続けているよりかは、やっぱり私は学者の自立性を高めて、計算は学者の計算を使うと、そういうですね、やっぱり時代に戻さなければいけないと、私はそういう風に思います。


(文字起こし by たくまー)

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