開発主査(チーフエンジニア)


開発主査(チーフ・エンジニア)とは


 トヨタ自動車の開発主査は、自動車産業の研究者により重量級の開発主査と呼ばれている。 開発主査は通常技術系の部長経験者から選ばれる。レクサス/セルシオの開発には3700人のエンジニアが携わり、これを束ねるのが開発主査の仕事である。 これらの人びとを遅滞なく動かして成功に導く義務を負っている。 つまり、車体を構成する多くの設計部門、デザイン部門、性能の試験評価部門、生産技術部門、販売部門などと接点を持ちながら、これらのチームをまとめつつ1台の車を作りだしていくのが要求される職能である。 開発主査は直属の部下を5、6人しか持たず、なんら人事権なしに職務を遂行しなければならない。 したがって、開発主査には強いリーダシップが要求される。 つまり、“責任だけ持たされる苦労の多い職責”ということにになる。 でも開発した車には主査のパーソナリティが投影した何かがあると言われている。

 重量級の開発主査といった時の、“重量級”の意味は開発の最も源流に位置し、開発、生産、販売まで責任を持つ。 開発したクルマが打ち切りになった時、そのクルマがいくら利益を上げるだろうかまで責任を持っている。
 一方、軽量級の開発主査は、開発時における原価企画までしか責任を持たない。 開発したクルマが実際に売れるかどうかには興味がなく、ただ数字合わせの販売計画に合せた原価の積み上げしかしない。 重量級と軽量級の開発主査の差は、責任においても、成果においても著しい差がある。

 トヨタのチーフ・エンジニアリングが開発エピソードを語ったページがある。
 トヨタでは主査は“憧れの職種”であるが、他社では、極端な場合、主査は“嫌われる職種”になっていることがある。 経営者が個別車種に関しては何でも主査に責任を持たせ、目標性能、品質、原価、納期などは目標達成しながら推移することはまれであって、いつも未達のまま推移するものである。 したがってこのような会社の主査は、開発レビューのたびに経営者から、あたかも白州に据えられた罪人のように扱われ、手ひどく吊るし上げられる。 一方、ライン部門は、主査が代表で怒られるので、問題・課題の解決に対して真剣にならず、問題はなかなか解決されないことになる。 夜遅く帰宅し、朝早く出社する憔悴しきった主査の顔を見れば、全社員が嫌う職種になってしまうのも無理からぬことである。(203ページ『トヨタ経営システムの研究』)
 このように重量級主査か、軽量級主査であるかを左右するのは、次の豊田英二元社長の言葉によく表れている。
 「担当車両のためによいと思うことについては、社内の誰にでも直接意見を述べ、また意見を述べる権限があると心得よ」(202ページ『トヨタ経営システムの研究』)
 このような社風を持つことが、重量級の開発主査が生まれることができる第一歩だと考える。 東京大学の藤本宏隆教授は、主査が軽量級なのは、経営者が主査を軽量級(便利屋)扱いしているから、と書いている。 この考えは、研究者としてあるまじき幼稚で短絡的な考えである。 会社組織が顧客志向でない場合、例えば生産指向が強い場合が考えられる。 社長が会社組織を変えようとしても、例えば生産部門の副社長が徒党を組み、労働組合を巻き込んで顧客志向を阻止している場合がある。

 開発主査は、製造業ならどの業種にでも存在する。 製品コンセプトを開発し、それを製品として作り上げていくのが開発主査(Product manager)の役割である。 製品コンセプトはどの企業でも高い理想を掲げ、社会に役立つ商品にしようとする。 ところが技術的な制約、コスト面での制約で妥協せざるを得ない。 一般的に、80%ラインが開発の成功と失敗を分ける線らしい。

 ボディ、エンジン等のコンポーネント、生産設備と市場情報等の部門が足並みを揃えなければ、良いクルマ作りはできない。 重量級の開発主査が生まれる条件は、企業風土そのものにある。 重量級開発主査は、職務権限ではなく、主にリーダーシップを発揮することによって成果を上げている。 リーダーシップを発揮できない管理過剰の企業では、開発主査は力を発揮できず、軽量級になってしまう。

 合議制で製品開発を行なっている場合、コンセプトを実際の製品にする段階において、どうしてもイメージしやすい方向に流されてしまう。 つまり、既存の製品をモノマネになりやすい。 1980年代に、日本の自動車会社は概ね全て重量級の開発主査がいるという研究結果がある。 日本の自動車会社は、同じ日本の自動車会社をモノマネしていたので、間違った研究結果を出していたものと考えられる。 日本の自動車会社の開発主さの違いは、1985年にアメリカへの輸出枠の年間230万台への枠の拡大等で現れ始めた。 1990年代終わりの勝ち組と負け組みに分かれた時、その違いは明白になった。
 それぞれの部門が自部門の情報を隠し、その情報を他部門との交渉に使う排他的官僚主義の企業では重量級の開発主査は生まれない。 更に、このような企業では重量級の開発主査にふさわしい知識を習得できない。 また、製品コンセプトを製品設計にする仕事は、転写と呼ばれるようなルーチン的な仕事でなく、高い能力の必要な創造的な活動である。

 企業風土に対して社長は責任を持つべきではあるが、社長が交代すれば企業風土がすぐに変わるものではない。 企業風土改革には、長い期間がかかる。 人事部門は企業に安定をもたらすことを職務としている。 人事部門が強くなれば、リーダーシップを否定し、管理過剰の企業になってしまう。 そして排他的官僚主義に落ち込み、それぞれの部門は集団思考に落ち込んでしまう。 このような企業風土が短期間に変わるとは考えにくい。

 このトヨタ生産システムとともに、トヨタの車づくりに欠かせないのが、主査制度である。 主査の役割は、製品開発に関する機能部門を横串にして、その機能を調整することにある。プロジェクトマネジャーの原型ともいえよう。 主査は89年、チーフエンジニア(CE)へと名称が変更され、現在、このチーフエンジニアの下に、主査が配置されている。(8ページ『トヨタはいかにして「最強の車」をつくったか』)
 主査制度は、トヨタの製品開発システムの根幹である。
 その役割は、設計コンセプトの創造から車両設計、生産、販売、サービスにいたる、あらゆるプロセスの監督だ。 車種ごとに、社歴20年以上のベテラン技術者が任命され、その下に、エンジン、ボデー、シャシーなどの技術者が集められている。
 そのルーツは、1955年に発売された「トヨペット クラウン」の開発時にさかのぼる。 当時の名誉会長の豊田英二が、「おまえの好きなようにやってみろ」といって、「クラウン」の開発責任者に中村健也を指名したのが、主査制度の始まりといわれる。(16ページ『トヨタはいかにして「最強の車」をつくったか』)


開発主査(チーフエンジニア)の歴史


 第二次世界大戦後、GHQによって航空機の開発・生産が禁止された。 その時、航空機産業から自動車産業に多くの技術者が転職を余儀なくされた。これが日本の自動車産業の技術基盤となっている。 初代カローラの開発主査になった長谷川龍雄氏は、以下のように述べている。
 かくして、B29の迎撃用防空戦闘機「キ−94」の開発司令が軍から下ったんです。
 大変だったのは、それからです。私は、「キ−94」のチーフデザイナーとして、開発を率いることになったんですが、じつは、私も会社も、戦闘機を設計した経験がまったくなかった。
 しかしながら、このときの経験が、トヨタに入社後、例の主査制度の導入につながっていくわけです。 飛行機のチーフデザイナーというのは、すべてのことを文字通り1人で決めなければならない。 とりわけ、機体重量をどうするか、胴体の大きさをどうするか、主翼の面積と厚さをどうするかといった基本的なことは、最初の設計プロセスで、チーフデザイナーが決めなければなりません。 それによって、飛行機の運命、できのよし悪しが決まってしまうんですね。(183〜4ページ『トヨタはいかにして「最強の車」をつくったか」)
 トヨタは、その頃、私と同じような立場の技術者をおよそ200人ほど採用しています。 飛行機メーカー、陸海軍の工廠や技術研究所からあぶれて失業していた連中を、「しめた、これは安い買い物だ」とばかりに一挙に採用した。 もっとも、当時、設備投資をするようなおカネはありませんから、人材だけは確保しておこう、将来、必ずや財産になるという遠大な考えで大量の技術者を雇っていたに違いない。 喜一郎さんと隈部さんの頭の中は、まさに「好機至れり」だったんじゃないでしょうか。(185〜6ページ『トヨタはいかにして「最強の車」をつくったか」)
 移転を考えたのは、技術ばかりではありません。 航空機開発におけるチーフデザイナー制度そのもの、あるいは製品開発におけるチーフデザイナー制度そのもの、あるいは製品開発における企画手法などのソフトウエアも導入しなければならないと考えていました。
 航空機の製品開発において企画手法とは、どのようなものかといえば、たとえば重量を企画する、原価を企画するといった場合、まず、チーフデザイナーが総枠を握り、その中でエンジンは何キロという具合に各部署に配分する。 肝心なのは、その際、チーフデザイナーが必ず5%程度の“貯金”を持っていることなんです。 これは、財務省が各省の予算を査定するのと同じ理屈でして、開発の途中、どうしてもこの装備をつけたいということになった場合、重量オーバーになる可能性が必ずある。 こうしたときに、チーフデザイナーの“貯金”から重量を分け与えてあげる。 このような方法で、あらゆるプロセスを集中的かつピラミッド的にチーフデザイナーがコントロールする、というのがチーフデザイナー制度に基づく開発システムです。(192ページ『トヨタはいかにして「最強の車」をつくったか」)
 主査制度とは、職制の壁を打ち破って指示してこそ機能するものであった。 長谷川氏は、次のような「主査に関する十ヶ条」なるものを作った。


開発主査(チーフデザイナー)の仕事


 トヨタの主査制度について、3代目カローラを開発した佐々木紫郎氏は下記のように書いている。
 車というのは、ワンモデル4年とすると、製品化までに3年から3年半かかります。 主査の仕事のうちで、いちばん大事なのは、企画づくりの最初の1年間です。企画とはコンセプトづくりです。 時間をじっくりとかけてコンセプトを練り上げる。いいコンセプトがまとまれば、仕事はもう半分終わったようなものです。 だから、最初の1年をいかに集中してやるかが問われるのです。 実際、企画ができれば、みんなを間違いのない方向へ引っ張っていくことができます。 あとは、プロジェクトが自分の企画通りに動いているかをチェックすればいい。 コンダクターの役を果たせばいいのです。(224〜5ページ『トヨタはいかにして「最強の車」をつくったか」)
 トヨタの主査制度のもっとも大きな特徴は、個人にすべてを任せたことです。 トップは、主査に車開発のすべてを一任した。あれだけの権限を40代の主査に任せてしまうというのは、大変な決断だったと思います。 でも、任せられたからこそ、主査は思いきって仕事ができた。
 私は当初、主査は義務だけあって権限がないからこそ、苦労ばかりさせられると文句をいった。 というのは、主査の下には4、5人のメンバーがいて、チームを組んで仕事をするのですが、エンジンにしろ、シャシにしろ、コンポーネントは、すべて各設計部で設計して、実験もする。 ところが、それぞれの部には部長がいて、そこで働いている人たちの人事権から何からすべてを握っている。 つまり、主査には、人事権を持たされていなくて、ただ、各部の関係する人材を集めて、仕事をしてもらうだけです。 権限がないにもかかわらず、仕事をまとめる責任があると思っていた。これは間違いだった。
 主査の権限を狭い心で考えると、何も権限がないではないか、という話しになってしまうのですが、じつは、そうではないということに気がつきました。 たとえば、この車をやると決まったら、当時のお金で、3百億円から4百億円もかかります。 それで成功すればよいのですが、失敗すれば、自分が腹を切るだけですめばまだしも、それこそ会社が傾いてしまう。 実際、あの頃は、車種も少なかったから、失敗した場合のダメージが大きかった。 初代「カローラ」の開発と同時に、トヨタは、「カローラ」専用の高岡工場の建設に踏み切っていますが、私は、その計画を聞いて、工場を見にいったことがあります。 ものすごく広くて、そこにどえらい機械が据え付けてある。こんな大金を使って大丈夫かな、売れなかったら本当にどうするんだろうと思って、恐くなった記憶があります。
 つまり、主査制度では、それだけの権限を主査に持たせている。目に見えない権限なのですが、とてつもなく大きな権限です。 むろん、大きな権限を持っているからといって、振りかざせるようなものではない。主査の仕事は、あくまで各部の部員を集めて話をし、仕事をしてもらうことです。 とはいえ、これは簡単なことではない。主査と各部の部長は立場上、同格だから、「そんな設計はすべきではない」などと、それぞれの立場からいろいろな苦情がくる。 その場合、実際に仕事をしてもらっている各部の課長、係長、あるいは若い人たちを仲間につけなければ、思うように仕事が進められない。 あの主査のためなら命を投げ出してもいいといった気持ちにさせるような人格がなければ、主査は務まらない。 逆にそれがあれば、各部の部長がいろいろと文句をいってきても、仕事は進んでいきます。 (226〜7ページ『トヨタはいかにして「最強の車」をつくったか』)
 本田技研では、新車開発は別会社の本田技術研究所が行っている。 開発責任者はRAT(リプレゼンタティブ・オートモービル・ディベロップメント)と呼ばれている。 実際の新車開発はLPL(リーダー・オブ・プロジェクトリーダー)が行っていると推測できる。 RATはパトロンのような位置にいるものと考えられる。

 あらためて紹介すると、フィットのプロジェクトチームは、設計、テスト、デザインの3部門から選ばれた、総勢約25人である。 このうち、LPLの松本を頂点に、数人のLPL代行、さらに何人かのPLによって、リーダー層が形成された。 ただし、松本がトップとはいえ、LPLに人事権はない。(81ページ『本田宗一郎と知られざるその弟子たち』)
 日産自動車ではリバイバルプランと関連して、新車開発体制を見直している。
 車づくりは、エンジニアやデザイナーだけの領域ではない。 顧客ともっとも近い関係にあるディーラーや営業部門との対話は、顧客ニーズをとらえた車づくりに欠かせないし、部品メーカーとの密接な関係は、品質、信頼性および技術向上を強化させるとともに、価格の引き下げにも結びつく。
 今日、チーフエンジニアに求められるのは、顧客満足の獲得と事業的成功に向けた横断的マネジメントである。(17〜8ページ『トヨタはいかにして「最強の車」をつくったか』)
 日産自動車は2000年1月から車種・クラス別に新車の収益管理に責任を持つCEO直轄の6人の「プログラム・ダイレクター(PD)」を新設した。 これは、商品企画や開発、販売・マーケッティング、製造、購買など、各分野でぶつかる意見の食い違いを調整して、最も効果的な選択をするのが役目だ。 これまでも車種ごとに商品開発主管がいて、新車のデザインや性能・仕様の決定、コスト管理や収益管理の権限を握っていた。 しかし、新組識では、商品企画から製造、購買までを横串にさして見るPDのほか、新車一台の など、車種ごとに縦に商品企画・製作を見る責任者を設けて分担させた。(『ゴーンさんの下で働きたいですか』 日経ビジネス人文庫)

 ゴーン体制以前には、チーフ・プロダクト・スペシャリストは『商品主幹』と呼ばれていた。
 湯川と同じチーフ・プロダクト・スペシャリストの肩書きを持つエンジニアが日産には15人いる。 彼らは商品企画本部の商品企画室という組織に所属し、チーフ・プロダクト・スペシャリストごとに“セダン”“RV”“スポーツカー”といったようなセグメントごとに担当を持つという形になっている。
 湯川はスポーツカーの担当であり、ZカーとスカイラインGTRの2車種の新車開発を行なっているが、湯川は自分のチームのメンバーを今は7名に固定している。 この企画部門の7名とデザイン部門とが侃侃諤諤の議論を経て、Zカーは作り出されてきたのである。(163〜4ページ『Zカー』)

 そのときは、実際にクルマを作るというモノ作りの部分に限らず、販売台数から収益まですべて商品主幹が責任を負っていたんです。 それが新しい体制になってからは、チーフ・プロダクト・スペシャリストは商品の競争力にすべてを集中しろというかたちになりました。 競争力のある商品さえ作ればいい。販売や収益を管理する部隊とは一線を画された結果、妥協なく、モノ作りに集中できるようになりました」(165〜6ページ『Zカー』)
 この日産自動車の考え方は、ABM(アクティビティ・ベースド・マネジメント)やバランス・スコアーカードの管理会計の考え方に基づいたものである。 チーフ・プロダクト・スペシャリストは、お客様の視点で製品や生産工程を考え、競争力ある商品を作る。 ところが、会計的視点は直接には商品開発を左右することはない。会計的視点は、戦略や意思決定を修正しなければならないことを教えてくれる。
 また、バランス・スコアーカードの考え方は、人材育成に対して戦略が必要なことを示唆している。 チーフエンジニアの仕事は、熟練作業と同じであり、徒弟制度と同じような方法が必要だと考える。
 モノづくりは、親方と弟子のような師弟関係なくして伝承されない、という意見がある。 技術とは何か、モノづくりのノウハウとは…。それらは、言葉では語り尽くせない「暗黙知」の領域で、これまで師弟関係のような濃密な人間関係を通して伝承されてきたのは確かだ。
 しかしながら、いまの若い人たちは、濃密な人間関係を嫌う。上司と部下のコュニケーションも希薄である。 そんななかで、果たして技術の伝承は可能なのか。師弟関係なき後の技術の伝承は、モノづくりの現場の課題である。(2256ページ『トヨタはいかにして「最強の車」をつくったか』)
 チーフエンジニア(開発主査)の仕事は、多くの能力を必要とし、的確なキャリアを積んでいかなければその能力は獲得できない。 その半面、それぞれのチーフエンジニアが、必要な人材を集めてくる方法を続ける限り、部分最適は実現しても、人材育成という意味で全体最適は達成できない。 近い将来において、チーフエンジニア候補の能力の評価と、どのようなキャリアを積ませるべきかの計画を策定し、どのプロジェクトを担当させるのかを決める機関が必要らなると考える。  トヨタ自動車には技監という職制がある。技監というとトヨタ生産方式を極めた人がなるもの一般に思われている。 初代セルシオ/レクサスのチーフエンジニアをされた鈴木一郎氏も技監になっている。 やはり、トヨタ自動車にとって、トヨタ生産方式とチーフエンジニアによる開発制度は同等の重要性を持っていると考えられる。

 チーフ・エンジニア等の「重量級プロダクト・マネジャー」(Heavy Weight Product Manager)と呼べるような、明確な結果責任とそれを果たすために必要な優れた能力と強力な影響力を持つようなリーダーの重要性が発表されたのは1991年である。 にも係らず、この流れに追随できない自動車メーカーもある。日産自動車はカルロス・ゴーン氏によって、トップダウンで変えることができた。  トヨタ自動車には初代カローラの開発主査になった長谷川龍雄氏がいたから、「重量級プロダクト・マネジャー」が定着したのであろうか。
 また、別の会社では、強力なプロジェクト・リーダー制を取り入れた最初のプロジェクトが、任命された強力な人物の個性に支えられて成功したことから、 やがてプロジェクト・リーダーというのは重要な役割を担っているのだという認識が組織内で広く定着するようになったという。(164ページ『分業と競争』)
 これによって、「ローテーションは無駄である」という後知恵を否定することになった。 自分の担当する部品や仕事のやり方をわかる人がいるというよい意味での緊張感を醸し出し、早め早めの対策が実行できる好循環を生み出したのであろう。
 前線のエンジニアが他の関連する部品との調整を上手にできるようにする1つの有力な手だては、あまり狭い範囲で専門化しすぎないようにすることである。 クラークと藤本の研究でも、個々のエンジニアにより広い範囲の設計業務を任せている組織の方が開発の効率やスピードで勝っている傾向があることを明らかにしている。
 ただし、あまり専門を広くとりすぎても今度は個別技術の深堀りがおろそかになってしまう。 このジレンマをうまく乗り越える方法の1つが、個々のエンジニアが時間をかけて幅広い専門性を培っていくという方法である。 つまり、関連する部品をある時点で同時に幅広く担当させるのではなく、ローテーションを通じて、関連部品の設計を通時的に経験していくという方法である。(152〜3ページ『分業と競争』)
 「重量級プロダクト・マネジャー」の重要性が研究者の間で喧伝されても、「重量級プロダクト・マネジャー」を育成できない会社もある。 クルマは全体のバランスの良さよりも、突出した技術力が重要であるというメンタルモデルから抜け出せないためと考えられる。
 ところが別の会社になると、その伝統は個々の部品技術の先進性におかれていたりする。 重要な部品やシステムで先進的な技術を開発し、それによって市場にアピールし、実際そこから成果をあげてきた伝統と実績があれば、どうしても個々の技術者の目は各部品を担当している設計部長に向く。 プロジェクト・リーダーの権威、影響力は実質的には限界があり、機能別のリーダーたちの意向、抵抗を乗り越えて特定の車種のために開発部門を強引にまとめ上げていくには難しくなってしまう。(161ページ『分業と競争』)


コンカレント・エンジニアリング


 コンカレント・エンジニアリングは東京大学の藤本隆宏教授が、『 [実証研究] 製品開発力』で発表してから一般的になった考えである。 藤本教授はコンカレント・エンジニアリングという言葉の代わりに、サイマルテイニアス・エンジニアリングという言葉を使用している。 設計エンジニアとそれを生産するための工程設計エンジニアの間で、設計図を壁越しに投げ込むといったコミュニケーションの悪さを排した、インフォーマルな影響力が必要であるとしている。 それによって、コンカレント・エンジニアリングの同時並行作業によって開発リードタイムが大幅に短縮される。  ただ、ここで誤解してもらいたくないのは、コンカレント・エンジニアリングはバトンを渡す区間を広げたリレーではないことである。 例えば、400mリレーを4人で走る場合、1人は100m+αの距離を走れば良いだけであり、+αの距離を延長しただけではない。 しかし、コンカレント・エンジニアでは、4人が400mを走らなくてはならない。 ボールを持って走るのは1人100mで、100m走るごとに次の人にボールを渡すが、全員が400m走らなくてはならない。

 たぶん、リレーの考えは生産部門の考えをそのまま開発部門に適用していたものと思われる。 開発部門には開発部門に特有の仕事のやり方があり、そのひとつがコンカレント・エンジニアリングである。

 販売部門においても同様に言えるであろう。 営業会議等で売れなかった理由を述べ、その対策を考えるという方法は、生産部門の方法をそのまま流用したものである。 生産能力が不足して、生産指向でもモノが売れた時代には、この方法でも売れていた。 どんな販売方法をとっても売れるのであるから、売れない理由を取り除けば、売れる状態へ戻っていたわけである。
 しかし、現在は消費者指向の時代であり、売れない理由を取り除いても、売れないのである。 今はお客様が買ってくださる状況を作らなければ、モノは売れないのである。 なぜ売れないのかを考えてもしかたない。売れない理由など山のようにある。 それよりも、なぜ売れたのか、お客様はなぜ買ってくれたのかを考えることが重要である。

 生産部門的なものの考え方は、非常にベーシックな考え方である。 生産部門的な考え方の上に、開発部門の考え方、販売部門の考え方、経営部門の考え方を構築しなければならない。 重量級のプロジェクト・マネジャーやコンカレント・エンジニアの考え方は、生産部門にはない考え方を、生産部門の考え方の上に築きあげなければならない。
 かつて日本は生産部門的な考え方のみで競争してきた。1980年代には、それによって日本の製造業は世界を品質の高さと低コストで席巻した。 しかし、品質の高さと低コストは1990年代に欧米企業にキャッチアップされた。 それに対して、生産部門的な考え方で開発し、経営し続け、そういう意味で『空白の1990年代』を経験した。 開発部門は生産部門の考え方の依存を止め、開発部門特有の考え方を構築しなければならない。 同様に、販売部門や経営部門は生産部門的な考え方の依存をやめ、販売部門や経営部門としての考え方を強化しなくてはならない。 これができた企業が勝ち組み企業として生き残っている。


参考文献


自動車工場の概要, 車体工場, 塗装工場, 艤装工場, 部品納入, エンジン工場等, 新車開発(モデル決定まで), 新車開発(モデル決定以後), プラットホームの統一について, 開発センター, 開発主査(チーフエンジニア), クルマの安全問題について, クルマの安全問題(衝突実験), クルマの環境問題T, クルマの環境問題U, 燃料電池自動車, 電気自動車, リサイクル, 欧州の自動車リサイクルについて

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