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坂本龍馬の名言集

幕末の風雲児、坂本龍馬(坂本竜馬)。土佐藩郷士として生まれ、剣術家・政治家・実業家としてさまざまな才能を発揮し、日本中を駆け巡り大政奉還の成立に尽力した。当時としては奇才ともいうべき龍馬の名言集を集めよーぜよ。

更新日: 2010年11月28日RSS

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人の世に道は一つということはない。
道は百も千も万もある

どこかに希望がもてる道がきっとあるはずです。

「世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る」

出典龍馬16歳のときに詠んだという句が、乙女宛てに作られたとされる詠草集収録。(京都国立博物館蔵)

「世間の人が言いたいのであれば自分の事を言いたいだけ言えば良い、
でも自分のやりたい事は自分だけが知っているのだ。」という意。
坂本龍馬が12歳の時、小高坂の楠山塾で学ぶが出来が悪かったようで、退塾させられます。14歳で高知城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流和兵法を学ぶのですが、それまでの龍馬は寝小便タレで、泣き虫だったといわれており、そういう目で見られることも多々あったのかもしれません。その頃に、詠んだ句なのでしょうか。
その後、メキメキと剣の腕をあげ、武市半平太と共に、江戸留学(北辰一刀流・桶町千葉道場入門)の許しを得るほどまでになります。

日本を今一度せんたくいたし申候

乙女お姉さんへの手紙に書いています

是皆姦吏の夷人と内通いたし侯ものにて候。
右の姦吏などはよほど勢もこれあり、大勢にて侯へども、龍馬二三家の大名とやくそくをかたくし、同志をつのり、朝廷より先づ神州をたもつの大本をたて、それより江戸の同志、はたもと大名其余段々と心を合せ、右申所の姦吏を一事に軍いたし打殺、日本を今一度せんたくいたし申候事にいたすべくとの神願にて候。

意訳:【悪い幕府の役人が、外国人と内通している。こうした悪役人は、よほど勢いもあり、大勢いますが、龍馬は二、三の大名と、固く約束し、同志を募り、朝廷もまず神の国を守る大方針を立て、江戸の同志 旗本・大名・その他 と心を合わせ、悪役人と戦って撃ち殺し、この日本を今一度洗濯しなければならないことを祈願する。】

有名なくだりです。洗濯したいというのは、安易に外国の援助を受けて反抗する長州を征伐している幕府の方針を進めている官僚に向けてでしょうか?
外国が政府に反乱を抑えるための武器・資金を出し、その国を侵略するのは、アヘン戦争で清国を利用した西欧列強の手であることを龍馬は危惧してこう言ったのかも。

此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かわいがられ候て、先きゃくぶんのようなものになり・・・すこしエヘンにかおしてひそかにおり申候。
達人の見るまなこはおそろしきものとや、つれづれにもこれあり。
猶エヘンエヘン、かしこ

出典通称「エヘンの手紙」 坂本乙女宛 文久三年(1863)五月一七日

訳注:最近は天下一の軍学者勝麟太郎という大先生の門人となり、ことのほかかわいがられて弟子となり、すこし”エヘン顔”して密やかにおります。達人(勝海舟)の見る目は大したものだとか、徒然草にも書かれています。なおエヘンエヘン、かしこ
乙女姉への手紙は、ユーモアあふれる素の龍馬さんが、浮かび上がってきますねw
勝が発案し龍馬が発足の為に働いた念願の神戸海軍操練所(蒸気船などの訓練所)に入るんだぞ~どうだ!えっへん!という訳です。
のちに栄太郎(高松太郎=龍馬の甥)と入りますが、正式発足後の操練所は浪人を受け入れないことになった為、龍馬は正式な練習生でなく勝の私塾の立場で入るしかなかったのですが・・・

丸くとも一かどあれや人心
あまりまろきは ころびやすきぞ

出典坂本龍馬詠草(和歌)

温厚で円満な人格もいいが、どこかに毅然としたものがないといけないの意。
坂本龍馬は、三十数首ですが、詠草(和歌)を残しています。これは、そのうちの一句。
人の気持ちを物の形に例えているんですね。この歌は 『坂本龍馬関係文書一』に活字としては載っているものの出典の記載は無く、直筆の 史料も残されていないようです。これは、龍馬が少年時代通っていた道場に伝わる『小栗流和せき語録』 の一説が元のようです。しかし、龍馬はこの教えを受けたことは間違いありませんし、後に天下を駆け上る人格形成の基礎となったのかもしれませんけど。

『新官制擬定書』(しんかんせいぎていしょ)

出典『新官制擬定書』 坂本龍馬・長岡謙吉、戸田雅楽 ※新政府の人事案

関白
三条実美(公卿)
内大臣
徳川慶喜(徳川)
議奏
有栖川宮熾仁親王(宮家)、仁和寺宮嘉彰親王(宮家)、山階宮晃親王(宮家)、島津忠義(薩摩)、毛利広封(長州)、松平春嶽(越前)、山内容堂(土佐)、鍋島閑叟(肥前)、徳川慶勝(尾張)、伊達宗城(宇和島)、正親町三条実愛(公卿)、中山忠能(公卿)、中御門経之(公卿)
参議
岩倉具視(公卿)、東久世通禧(公卿)、大原重徳(公卿)、長岡良之助(肥後)、西郷吉之助(薩摩)、小松帯刀(薩摩)、大久保一蔵(薩摩)、木戸孝允(長州)、広沢平助(長州)、横井小楠(肥後)、三岡八郎(越前)、後藤象二郎(土佐)福岡藤次(土佐)

新政府綱領八策(しんせいふこうりょうはっさく)

出典11月3日 新政府綱領八策 坂本龍馬直柔 直筆(国立国会図書館・長府博物館)

第一義 天下有名ノ人材ヲ招致シ、顧問ニ供フ。

第二義 有材ノ諸候ヲ撰用シ、朝廷ノ官爵ヲ賜ヒ、現今有名無実ノ官ヲ除ク。

第三義 外国ノ交際ヲ議定ス

第四義 津令ヲ撰シ、新ニ無窮ノ大典ヲ定ム。津令既ニ定レバ、諸候伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ率ス。

第五義 上下議政所。

第六義 海陸軍局。

第七義 親兵。

第八義 皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス。

右預メ二三ノ明眼士ト議定シ、諸候会盟ノ日ヲ待ツテ云々。

○○○自ラ盟主ト為リ、此ヲ以テ朝廷ノ奉リ始テ天下万民ニ公布云々。強抗非礼、公議ニ違フ者ハ断然征討ス。権門貴族モ賃借スルコトナシ。

慶応丁卯十一月    坂本直柔

ご相談被遣(つかわされ)候建白之儀、万一行ハレザレバ固(もと)より必死の御覚悟故、ご浄化白無之(これなき)時は、海援隊一手を以て大樹参内の道路ニ待受

出典土佐 後藤象二郎 宛 慶応三年(一八六七) 十月一三日

訳:ご相談された建白の腱ですが、万一実行されない場合は、もともと死ぬ気の覚悟であるので、城をあけ渡さないときは、海援隊によって慶喜公の行く手に待ち受け
龍馬の意を受けた後藤は、「船中八策」に基づく「大政奉還」を土佐老公山内容堂に訴え、越前松平春嶽とともに建白書を将軍徳川慶喜へ上奏する。一方、薩摩は武力倒幕の準備をしていた。
慶喜は、264年続いた政権を返上するタイミングに苦慮する。龍馬のこの激励の手紙は、覚悟の手紙。
命を預けた手紙。船中八策の理想を託し、権力を狙う様々な立場の人間の思惑を載せ、激しくも静かなギリギリした攻防が今、始まろうとしている・・・。

私ももしも死ななんだりや、四五年のうちにハかへるかも、梅雨の命ハはかられず

出典姪 春猪宛て 慶応3年(1867)1月20日

訳:私ももし死ななかったりすれば、4,5年のうちに帰るかもしれんが、露のようにはかない命をはかる(予想する)ことはできないよ。

坂本家を継いだ権平からも土佐に帰り、家督をつぐように催促されていた龍馬。(龍馬と権平には、21歳の年齢差があり、権平は高齢だったため)仲の良い姪の春猪にやんわりとその意思を手紙で伝えています。

暗殺される直前、はからずも1週間ほど土佐に帰省し、大好きな明るく楽しい坂本家で過ごせたのには、世の中の混乱を一手に収め時代の扉を開けた龍馬に対し、あまりに残酷だと天が憂慮したためなのでしょうか?

以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内(うだい)万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。苟(いやしく)も此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難(かた)しとせず。伏(ふし)て願(ねがは)くは公明正大の道理に基(もとづ)き、一大英断を以て天下と更始一新せん。

出典船中八策・締めの文(参政、後藤象二郎に提示・海援隊士の長岡謙吉が記録) 慶応3年(1867年)6月

訳:この八策で、国の勢いは伸び先進国に肩を並べる日がくる。公明正大の目を持って英断してほしい。必ず日本は変われる。

龍馬は、いつも不器用に、手探りしながら進む挑戦の毎日だった。
泥まみれになって、貧乏で。将来の保証もなく命の危険にさらされて。苦しみながら色んなものを捨てた。
立場を超えて国を憂う様々な人達の想いを背負い、変化し続けた龍馬が得た答え。
これが想いを、一つにした強くて自由で平等な国のかたち。

1. 憲法制定
2. 上下両院の設置による議会政治
3. 不平等条約の改定
4. 海軍力の増強
5. 御親兵の設置
6. 金銀の交換レートの変更

とんとんと登る梯子(はしご)の真中程で 国を去って薩摩同志 楼に上がる貧乏の春 辛抱しゃんせと目に涙

出典慶応三年 おりょうへ向けて歌ったとされる都々逸(唄)

訳:「とんとんと」土佐にある大阪行きの船の出る港。土佐を出て、薩摩の同士となって奔走し、楼(遊郭)に出入りするにも懐は寒い、ここは耐えるしかない・・・。
と嘆いたという(笑)「貧乏の春」は、おりょうが当時「お春」と名を変えていたことから。
龍馬は、長州で木戸・高杉との会合を頻繁に持っていた。以来、馴染みになり朝帰りした日は、おりょうは烈火のごとく怒ったと記録にある(著:長府と坂本龍馬)
人たらし(人の心をとらえる人のこと)と呼ばれる龍馬も、おりょうさんの怒りを抑えるのには骨を折ったようで・・・。

当時二ても土佐国ハ幕の約にハ立不甲(たちもうさず)位の所ハ相はこび申し候。今年七八月にも相成候へバ、ことにより昔の長薩土と相成可甲(あいなりもうすべし)と相楽ミ居甲候。

出典長州 木戸孝允(きど たかよし /桂 小五郎)宛 慶応三年

訳:昔も土佐は幕府の役には立たないぐらいのところまできていました。今年も7、8月になれば事によっては昔の長州・薩摩・土佐くらいにはなりそうだと楽しみにしております。

大政奉還に向けて、薩長の連盟に土佐を加えようとする龍馬と土佐藩。
しかし、肝心の土佐藩主「山内容堂」は、「酔えば勤皇、醒めれば佐幕」と揶揄され、勤皇派か、佐幕派かと藩の方針を決めきれずにいた。
その中で、龍馬は7、8月頃には、雄藩連合を持って新政府を立ち上げるべきだと木戸孝允に協力を仰ぐ。土佐が発案した武力に依らず徳川家も新政府に参加させるという大政奉還も、土佐藩を倒幕へ参加させるための迷う容堂へ向けた苦肉の策でもあったんだ

世の中と云ものハかきがら計である。人間と云ものハ世の中のかきがらの中ニすんでおるものであるわい、おかしおかし。

出典慶応三年四月 姉乙女宛ての手紙

意:人間は、世のなかの牡蠣がらの中に住んでいるものですなあ。おかしいおかしい。
狭い世界で、広い視野もなく生きていることを皮肉っているこの一文。
脱藩の罪が許され、海援隊隊長に任命された龍馬。
岩に上がって四方を見渡してみると、世の中というのは牡蠣殻ばかりで、多くの人はその中に住んでいると評しています。同士であった武市半平太を死へと追いやった後藤象二郎と手を組んだこと。社中や土佐の仲間達の批判や怒りはいかほどだったか?実利や理想の前にそれを捨てる龍馬は責められたかもしれません。
しかし感情がざわめくという事は、所詮閉じた価値観の中で、物事を判断しているということなんだと言っています。

表に御しるし被成候(なられそうろう)六條ハ、小、西、両氏および老兄、龍党等も御同席にて談論セシ所ニて、毛(すこし)も相違無之候(あいちがえこれなく そうろう)

出典長州藩士 木戸孝允宛 慶応二年 二月五日 薩長同盟 裏書

意:表に記された六ヶ条は、小松帯刀、西郷隆盛、および木戸孝允、私龍馬らも同席して議論したもので、少しもこれに相違しません。
殺し合いまでした犬猿の仲、薩摩藩と長州藩。しかし共に幕府へ脅威を感じていた。
龍馬は、倒幕の力として両藩を結びつける為、薩摩名義で武器を購入し長州へ流す、見返りに長州から薩摩へ兵糧米を送るという和解案を提案。(亀山社中という中立の組織が行い、両藩は対等の立場ということになる。)
感情のしこりを必要とする物の交流により溶かし、利益の共有感を持たせる。
その上で倒幕という両藩が共有できるビジョン(解決策)を提示し、実現をみた同盟。
どうしても、龍馬が裏書をする必要があったのだ

文(ふみ)開く衣の袖は濡れにけり 海より深き君が美心(まごころ)

出典坂本龍馬 句

二十人計(ばかり)、同士引きつれ、今長崎の方にで、稽古方仕(つかまり)候。御国より出しものもの内一人西洋イギリス学問所ニいりおり候

出典乙女、おやべ当て・慶応元年 9月9日

意:(二十人ほどの同士と、長崎に出て演習している。土佐から出た者が一人、西洋のイギリス学問所にいます。)
海軍塾閉鎖から長崎での商売の為、社中20人ほどでイギリスの語学・航海術などを学んでいた頃の手紙。
その一人とは、近藤長次郎のこと。
学問好きで土佐では川田小龍、江戸で安積艮斎、高島秋帆に西洋砲術の指導を受ける。
その後、神戸海軍塾を経て亀山社中へ。
薩長同盟の要である長州藩の武器・艦船購入を担当し、その見返りとしてイギリス留学を無断で決めた為切腹。
龍馬はおりょうに「自分が居ったら殺しはせぬのじゃった」といい、手帳には「術数ありあまって至誠たりず」と、力を過信した同士長次郎を嘆き偲んだ。

「われ、はじめて西郷を見る。その人物、茫漠(広々としてとりとめのない)としてとらえどころなし。ちょうど大鐘のごとし。小さく叩けば小さく鳴り。大きく叩けば大きく鳴る。」

出典勝海舟の語録からの抜粋

龍馬は、子供の頃、落ちこぼれで塾の先生がさじを投げたそうです。
その後、彼は独自のやり方で工夫しながら教養書を読み、和歌、砲術、馬術、三味線や歌も歌ったと。
この言葉は、西郷さんを評して龍馬が言った言葉ですが、中国の書「礼記」の一節をアレンジしたものでした。
これを勝は、評価する者が第一級の人物なら、評価される者も第一級の人物だと言いました。
龍馬は、様々な経験や人物との出会いから学び、広い教養を育ててきました。それが、周囲に一目を置かせる下地になった。だから、一介の脱藩浪人でしかなかった龍馬が、藩の上役と対等に話し信頼を得、人物を動かす(大きく響かせる)ことができたと思うのです。

殺し殺サレニはるばる大阪二くだりてをる

出典慶応元年9月9日 坂本乙女、おやべ宛 (所蔵 京都国立博物館)

意:殺されるが為に、はるばる大阪にきたんだ!
この一文は、龍馬の姉乙女に、おりょうを紹介した手紙からです。
この過激なセリフを発したのは、龍馬の妻おりょう。
大阪にやくざにだまされ身売りされてしまった妹を取り返すために、刃物を忍ばせて単身大阪まで訪れ、やくざ者に「殺すぞ!」と脅されたが、「殺すなら殺せ!その為に大阪まで来たんだ!」とタンカを切りとうとう取り返したという逸話を手紙で紹介してます。
さすが「おりょう」といった感じですが、これを書いた本意は、勇ましいことが好きな乙女に、妻おりょうを認めて欲しいとする龍馬の苦肉の策のようで、おりょうを紹介する手紙だけでも、複数の手紙があるほどです(笑)

かの小野小町が名歌よみても、よくひでり(日照り)の順のよき時ハうけあい(請負い)、雨がふり不申。あれハ北の山がくもり(曇り)てきたところを、内々よく知りてよみたりし也。につたゞつねの太刀おさめてしほ(潮)の引しも、しほ土器をしりての事なり。

出典乙女宛ての手紙1863年8月12日(文久3年6月28日)

意:小野小町が詠んだ雨乞いの歌を例に出し、日照りの日が続くと雨は降らない。小野小町はこの歌を詠むのに際し、北の山が曇るのを察知し天気を予測していたのだろう。新田義貞が刀を捧げて、潮が引いたという伝説も、予め潮の引く時間帯を見計らって行った演出だ。
注:につたゞつねの太刀おさめてしほの引し・・・武将、新田義貞が満ち潮のために兵を進められなかった時、義貞が竜神に祈って、黄金作りの太刀を海中に投げ入れると、海は干潟となり、おかげで軍は鎌倉を攻略することができたという。 世の事は、時流を見切ることで初めて動かせるものだという龍馬の信条が見て取れますよね。

この度進初在ルハ長州外夷と通じ、用意ならざる企(くわだて)有之(これあり)候。尤(もっとも)和蘭コンシユル横浜ニ於(お)いて申立也と。又緋ク下の関ニ私ニ交易場を開キたり

出典兄・権平、乙女、おやべ宛ての手紙 慶応元年(1865)九月七日

意:この度の幕府の征長は、長州が外国と通じて何か怪しげな企てをしているため、とのことです。それはオランダ総領事館が横浜で申し立てたと。また下関で勝手に、貿易場を開いているとのこと。
この頃「池田屋事件」で、龍馬の同士、望月亀弥太(もちづきかめやた)・北添きつまなど勝塾の者が新撰組(近藤勇・土方歳三)に殺され苦境に。
新撰組などから、浪士を守るため、浪士を北海道移住を企画。彼らの命を守りつつ、ロシアからの守りとなる策を練っていた矢先だった。
責任を取る形で、操練所は廃止、さらに第二次征長(長州征伐)も開始。
手紙には、オランダ領事の証言や長州の密貿易のことまで、龍馬は情報収集に長けていた。

天かに事をなすものハ ねぶともよくよくはれ(腫れ)ず てハ、はり(針)へハうみをつけてもふさず候。

出典坂本乙女宛て 手紙の一節 元冶元年(1864)6月28日

意:天下に事を成すには、ねぶと(腫れもの)もよく腫れないと針でうみを出せないように、潮時を見極める必要がある。
この頃の龍馬は、海軍操練所では塾頭として取りまとめ(勝の私塾)、また勝の右腕として、
長州と外国の調停へ同行、金策や勝の使者(熊本の横井小楠に面会)として多忙を極める。
武市ら勤皇党の処罰・攘夷派へ日増しに強くなる弾圧の嵐の中、龍馬も時流を読み、己の道を邁進するしかない。陸奥陽之助(宗光)と出会のもこの頃。
しかし、不安は的中し、池田屋騒動(事件)で塾生の土佐藩士北添佶摩・望月亀弥太などが死亡。
それをきっかけに、長州藩がクーデターを起こす禁門の変が起こり、時代は混沌を極めていく。

それハそれハ実当時のヘボクレ役人や、あるいハムチャクチャをやぢの我国ヒイキ我家ヒイキにて、男子とし(て)のはなしにあらず

出典海援隊士(土佐藩士)池内蔵太の母宛 文久3年(1863年)6月16日 画像は池内蔵太 本人

それはしょうもない役人や視野の狭い理屈の通らない無茶苦茶な親父は、自藩びいきで凝り固まり男子として情けない。
生家近く6歳下の池を、龍馬はかわいがった。池も土佐脱藩後、長州で外国船襲撃・天誅組・禁門の変など歴戦を潜り抜け、海援隊に。手紙は当時、池のわがままに切れた龍馬が、池の母に諌めてもらおうと出した手紙。文中、幕府や藩の目線でしか物事を見れず広い視野を持てない人物を、酷評している。
その池も、後に海援隊の運用したワイルウエフ号の遭難事故で亡くなる。享年26歳。
「海軍のことは今は不朽者といえども、度々戦争致し候ものなれば、随分後にも頼もしきものと相成り候べし」と池に期待した龍馬は肩を落とす。

そして平井の 収次郎ハ誠にむごいむごい。いもふと(妹)おかを(平井加尾)がなげき
いか斗(ばかり)か ひとふで私のよふすなどはなしてきかしたい。
まだ少しハ きづかいもする
かしこ。

出典姉 乙女宛て  文久3年(1863年)6月29日 写真は平井収二郎誕生地

意:平井収次郎は本当にむごすぎる。妹・加尾の嘆きはいかばかりか知れない。私の近況など話して聞かせたい。まだ少し気にかかる。
平井収次郎の切腹を京都で知った龍馬が、姉乙女へ送った手紙。青蓮院宮令旨事件(勤皇党の平井収次郎(他藩応接役)・間先哲馬・弘瀬健太が藩政改革の令旨を受けようと土佐藩主・山之内容堂の禁令を聞かず工作(重ねて久坂玄瑞提唱で京都の翠紅館に尊王攘夷派が会合。土佐藩を代表して出席していた)し、処罰を受ける)ドラマのように加尾が、この件に関し手紙を出してはいないが、龍馬の方から気遣いの手紙を出している。姉乙女と平井加尾は、一絃琴を習う稽古友達。兄妹とも坂本家と親しい仲だった。

何の志ざしもなき所ニ ぐずぐずして日を送ハ、実ニ大馬鹿ものなり

出典坂本乙女、おやべあて 慶応元年九月九日

神戸海軍操練所が瓦解。武市半平太らは、捕縛され処刑。土佐藩の追求をかわし、再度脱藩した龍馬。京都薩摩藩邸に身を寄せていても、決して腐らず次の策を練る。
禁門の変で、長州藩と敵対し、完全に決別した薩摩藩だが、長州を潰すことは本意ではなく、むしろ倒幕の為、雄藩連合を考えていた。しかし、幕府主導の第二次征長の前にそれを図らねば、長州は滅亡する。薩長連合を実現する為、龍馬は貿易商社「亀山社中」を起こし、利益共有による和解を目指す。
この手紙は、その社中設立の年、定宿「寺田屋」で家族宛に書いた手紙。この一文には、権益にすがりメンツにこだわり、互いに足を引っ張り合うあらゆる組織に対しての憤りを感じる。

ちかきうちにハ大阪より十里あまりの地ニて、兵庫という所二て、おおきに海軍ををしへ候所をこしらへ、又四十間、五十間もある船をこしらへ、でしども二も四五百人も商法よりあつまり候事

出典手紙:姉 乙女宛て 文久三年(1863年)五月十七日

意:(近いうちに、大阪から40キロメートルほどのところにある兵庫というところで、しっかりと海軍を教えてくれる施設を建設し、また70~90メートルもあるような船を作り、生徒が四、五百人も各地から集まります。)
勝の海軍構想である「一台共有之海局」にやっと志を見つけた龍馬。それは、雄藩を結集し、海軍局をつくるという考え。
手紙では見栄で、練習生400人や造船所などと法螺をふいてるが(笑)
けど、龍馬さんには、きっと見えていた。その興奮と喜びが伝わってくる。
やがて、兵庫にできる日本初の海軍養成施設「神戸海軍操練所」。
将軍家茂からの許しを受けた勝は龍馬と共に、その実現に向けて奔走することとなる。

私が死する日ハ、天下大変にて生きておりてもやくにたヽす、おらんともたヽぬよふニならねハ、
中々こすい、いやなやつで死ニハせぬ。
人と言ものハ、短気してめつたニ死ぬものでなく、又人をころすものでなし。

出典坂本乙女宛 文久三年(1863)六月二九日

意:私が死ぬ日は、天下に生きていても役に立たず、いてもたたぬようになるときだが、なかなかずるがしこい者
なのでそうそう死にはしないので安心してください。
人と言うものは、短気を起こしてめったに死ぬものではなく、また人を殺すものでもない。
暗殺や死罪・戦争が巻き起こる血で血を洗う暗雲立ち込める革命の時代。
暗雲を切り払って、時代の扉を押し開ける風雲児と後年思われている坂本龍馬は、実は敵味方関係なく
命を大切に想うただの優しい男だったのか・・・

「先々御無事とそんし上候、天下の時勢切迫いたし候につき、一高マチ袴、一ぶっさき羽織、
一宗十郎頭巾、外に細き大小一腰、各々一つご用意あり度存上候」

山内容堂の妹友姫が、三条実美の兄公睦に嫁したときに御付役として上洛し、三条家に仕えていた加尾に宛てた手紙の一節。龍馬は、土佐勤王党に入っており、京で情報収集や藩士の世話など行っていた加尾を心配し、手紙のように男装をするようにと勧めている。
羽織・袴を用意し、刀を兄収二郎に送ってもらったが、なぜ龍馬がそんな手紙を幼馴染の加尾に出したのかは、加尾と夜逃げするつもりだったとか、あくまで勤王党としてスパイの仕事をうまくいかせる為とか諸説ある。
「あらし山花に心はとまるとも なれしみくにの春な忘れそ 八本こ」といった恋歌を龍馬と交わし、それを終生大事にしていた加尾は、やはり好きだったのかも・・・。

中江のニイさん煙草を買ふて来てオーセ

出典幸徳秋水著『兆民先生』より

中江兆民(土佐藩出身・ジャーナリスト/政治家自由民権運動の理論的指導者)が、長崎でいつも龍馬にこういってお使いを頼まれたと語っていたようです。
この頃は、すでに長崎に根拠地をもち、亀山社中(海援隊)として活躍していた頃のようですね。中江兆民は、まだ少年で、どうやら龍馬に憧れていたらしく、喜び勇んでお使いをしたと記述がありますw
兆民が、後に自由民権運動の指導者として、平等や民権、また戦争にも反対するリベラリストとして活躍したのは、龍馬の蒔き続けた種が、彼の死後にも芽吹き、大きく育っていったからだと思います

『さて、世の中は、化物幽霊と云うものは無いとも限らぬ。死んだ女房のかたみとて行灯〔あんどん〕に渡せし針の穴・・・・、嗚呼小供〔こども〕を残して、女房に死なれる程、困却〔こま〕るものはない。死ぬ者の身になっても、跡に念が残る。私の国で、矢張り、小供を遺して死んだ女がある。スルと、丁度、今夜のやうに、雨のしとしとと降る晩、小供に乳を呑ませようとて、母の亡霊が、行灯の傍へ、スーッと出た・・・お化け!!

出典寺田屋のお登勢〔おとせ〕の実娘・殿井力〔とのいりき〕

意:ま。。怪談ですよね(笑)
龍馬の定宿だった寺田屋。そして、龍馬を支えている寺田屋のお登勢の実娘「殿井力」が語った龍馬についてのエピソードです。『今日は雨が降るから、私(龍馬)が一つ、怪談噺をやろう。』と、みんなを、ズラリと前へ坐らし、咳ばらいして、この話を始めたんだそうですw
ただでさえ怖い顔を、一層怖い顔をして、両手を前へ垂れて、『お化け!』と中腰になると、実に凄いと語っていたそうです。お登勢が静かにするようにと言うと、龍馬さんは、『なァに構ふものか、知れたら知れた時だ』と、すまし顔で言ったんだとか。
龍馬さんのユーモラスな人柄がわかるエピソードですよね。

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このまとめへのコメント2

  • m86さん|2010.10.15

    いい情報をありがとうございます!

  • fukuhiraさん|2010.03.15

    定期的(手紙などからできるだけ本当の言葉を紹介できたらいいなと)にキャストの福山雅治演じる坂本龍馬の言葉(ことば)を、追加中です。
    よかったら、またきてもらってチェック・追加もしてくれたら嬉しいですw
    大河ドラマ nhk龍馬伝でキャストなど通じて興味や感想・秘密などあれば
    坂本竜馬・海援隊・幕末・京都・寺田屋・岩崎弥太郎・暗殺関連のまとめ情報、ご参考にどうぞ。

    「天に意志がある。としか、この若者の場合、思えない。
     天が、この国の歴史の
     混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき、惜し気もなく天に召しかえした。
    この夜、京の天は雨気が満ち、星がない。
    若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押しあげた」

    司馬遼太郎著 竜馬がいく 8巻 あとがきより

    【nhk大河ドラマ龍馬伝がわかる!】幕末年表【坂本龍馬・新撰組・篤姫・岩崎弥太郎】
    http://matome.naver.jp/odai/2127221419756416701

    【明治維新】貿易商・トーマス・ブレーク・グラバー、実業家・倉場富三郎の写真・画像集【影の立役者】
    http://matome.naver.jp/odai/2127924278542075001

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NALNさん

ねいほうま。
テレビ大好きです。
休日に何をするかを考えている時間が幸せだったりする。


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