事件記者業界の「空気」が生んだ週刊朝日ハシシタ問題
佐々木 俊尚 | 作家・ジャーナリスト
朝日新聞出版がリリースした「見解」
「ハシシタ 奴の本性」という驚くべき差別的な記事を週刊朝日が掲載した事件について、版元の朝日新聞出版が『週刊朝日の橋下徹・大阪市長連載記事に関する「朝日新聞社報道と人権委員会」の見解等について』という文書を発表した。
問題の記事が掲載にいたるまでの経緯が詳細かつ実に生々しくライブ感あふれた文章で書かれていて、非常に興味深い。文書の(1)には、他のメディアでもすでに報じている内容だから許されると考えたというような話がある。
本件記事と同内容に近い記事が既に他の月刊誌・週刊誌等に複数掲載されている。編集部や記事をチェックした者たちは,それらについては橋下氏からの特段の抗議はなく,社会問題ともなっていないと即断し,こうしたことから本件記事も許されるものと考えたとしている。
また(2)の経緯報告書にある担当デスクのこのコメント。
「他誌がどんどん報じており、自分の中で(書くことの)ハードルが下がっていた」
新聞・テレビ・雑誌の記者たちで構成されるメディアの業界では、なにか不祥事や事件が起きて政治家や企業、官公庁へのバッシング報道が集中的に開始されると、「何を書いてもかまわない」「いまだからどんどん書いてしまえ」というモードに切り替わる。とくだん過熱で冷静な判断を失っているわけではない。頭は冷静なのだが、過熱するうちに「赤信号みんなで渡れば怖くない」モードになってしまうのだ。
だいぶ以前に社会保険庁のずさん年金記録事件が発覚したとき、知人の週刊誌デスクからこう言われたことがあった。「佐々木さん、社会保険庁のなんかネタないですか。いまなら何書いても大丈夫ですから。どんなささいな話でもフレームアップしちゃうから」。社会保険庁の総バッシングモードに入っている状況なら、過剰報道もその場の空気で許されてしまう、ということなのだ。
この「その場の空気」は、メディア業界の中だけで醸成される。もう少しくわしくいえば、マスメディアの中には政治報道や社会報道、科学報道などさまざまなジャンルがあるが、よく問題になるメディアスクラムなどを生むのは事件などを取材する社会部記者の業界だ。殺人事件から政治家、経営者のスキャンダルまでをも扱う「トラブルなら何でも屋」の業界である。
私も昔この業界の中で仕事をしていたのでよくわかるのだが、業界内メディア空間が過熱してくると、その空間の中だけしか見えなくなってくる。他の新聞や週刊誌、テレビの報道局やワイドショーなどがどういう報道をしているのかだけが気になり、その業界が世界のすべてであるような錯覚に陥る。
たぶん週刊朝日の陥ったのも、そういう空気感だろう。メディアが好き勝手に橋下市長の悪口を書き立てる状況になっている中で、「何を書いても大丈夫」とだんだん感覚が麻痺してくる。赤信号みんなで渡れば怖くない、とあの恐ろしい差別的見出しの記事へと突っ走ったのだ。
とはいえ以前は、それでもだれにも批判されずにすんだ。なぜなら報じる、伝えるというメディア的行為の主体は新聞やテレビ、雑誌などのマスメディアにしかなく、それ以外には報道の主体は存在しなかったからだ。
ところがインターネットが普及してきたことによって、この「メディアの総バッシング報道」の外側に、メタ的なメディア空間が出現してきた。これが、この総バッシングの「何を書いても大丈夫な空気」に対するカウンターになってきている。今回のハシシタ事件も、もし橋下さんがTwitterなどのメディア発信能力を持っていなければ、メディアの側は彼の反論を黙殺して終わった可能性が充分にある。
インターネットはすっかり日常的に普及し、新聞やテレビがTwitterを活用するシーンも増えてきた。大きなメディア空間の中で、マスメディアのいる場所とソーシャルメディアのいる場所は接触し、融合しつつある時代状況に来ている。
社会部記者業界の中の空気にだけ浸り、その外側にもっと大きなメディア空間があるということを認知しないと、今回の週刊朝日のようなことが起きてしまう。
もう少し付け加えておこう。
今回の事件で「メディアのモラルが地に墜ちている」というような論調もあちこちで見かける。まあたしかにあの記事にはモラルのかけらもないのは事実で驚くしかないが、一方でモラルも良心もないような社会部記者・事件記者みたいなものも、この社会には多少は必要だ。そういう猟犬のように事件のにおいをかぎ回る、野良犬のような雑誌ジャーナリズムが、ときに社会の不正や腐敗を暴いてきたのも事実なのだから。
そういう意味で、極論を承知でいえば、そもそも週刊誌記者にモラルなんか求めることに無理がある。彼らに求めるべきものはモラルなんかではなくて、先に書いたようなメディア業界の閉じた空気感から脱却し、新しい「ウチとソトの感覚」を持つことだ。自分たちだけがメディア空間を形成するのではなく、自分たちもまた見られている存在だという認識をきちんと持てるかどうかが必要なのだ。
さらにいえば、そういう新しいウチとソトの感覚を提示できるような新しいメディア空間、さらにはそうしたメディア空間の基板となるような新しいアーキテクチャが出てくるべきなのかもしれない。ローレンス・レッシグも昔書いていたように、人間の行動を提示するのはモラルや法律ではなく、市場原理やアーキテクチャなのだから。