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赤壁の戦いの実相は?
このページは、「漢詩紀行~江守徹の読み」の、蘇軾「赤壁懐古」への補足ページです。(12/3/5)
赤壁の戦いは、実態がはっきりしないらしい。さし当たり参照出来る、『正史三国志』といくらかの詩編から類推できる事を書き出してみる。(引用は、ちくま学芸文庫『三国志』と各種唐詩集より。詩の現代語訳は自作)
目次
☆3世紀末、正史『三国志』の陳寿筆本文での記述
正史からの推測
☆5世紀、裴松之による『三国志』への注
☆9世紀、杜牧の詩「赤壁」
☆11世紀、蘇軾の詩「赤壁懐古」

☆西暦208年、赤壁の戦い
☆三世紀末、正史『三国志』の陳寿筆本文での記述
(陳寿は、298年没、書かれたのは280年以降らしい)
「魏志」
基本の年代記にあたる「武帝紀」には、
>公は赤壁に到着し、劉備と戦ったが負けいくさとなった。そのとき疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ。そこで軍をひきあげて帰還した。
としか書いてない。
つまり戦いはあったが、周瑜の例の策は無かった事になっている。しかも主敵は呉でさえなく、劉備だということだ。

「蜀志」
「先主伝」(劉備の年代記)には、
>・・・(曹操は)精鋭の騎兵五千を引き連れ急いで(劉備を)追撃し・・・先主が妻子を棄て、諸葛亮、張飛、趙雲ら数十騎とともに逃走し、・・・(漢津で)関羽のひきいる船と出会い、・・・劉表の長男で江夏太守の劉琦の軍勢一万余人と出会い、ともども夏口へ到着した。先主は諸葛亮を派遣して、孫権と手を結んだ。孫権は周瑜、程普らを水軍数万を送って、先主と力を合わせ、曹操と赤壁において戦い、大いにこれをうち破って、その軍船を燃やした。先主と呉軍は水陸平行して進み・・・流行病が広がり北軍に多数の死者が出たため曹公は撤退して帰った。
とある。火船の計ではなさそう。また周瑜も現地で戦った事になっており、蘇軾の詩とは違う。この時の劉備・孔明は曹操に追われて命からがら逃げたあとで、大した戦力があったとは思えないが、蜀志だけに、かなり劉備の側に花を持たせているように見える。
同じく「蜀志」の「諸葛亮伝」では、孔明が自分から孫権のもとに行き、孫権を説得して曹操と戦うように持っていく、そして、
>孫権は大いに喜び、すぐさま、周瑜、程普、魯粛ら水軍三万を派遣し、諸葛亮について先主のもとに行かせ、力を合わせて、曹公を防がせた。曹公は赤壁で敗北し、軍勢を引き上げて鄴に帰った。
これも、上と同様、孔明に花を持たせた書き方。これにも孔明の側の軍についての記載が無い。

「呉志」
「呉主伝」(孫権の年代記)に
>劉備は夏口まで来て、そこに留まると、諸葛亮を使者に立てて孫権のもとにいかせた。・・・周瑜と程普とが左右の督となり、それぞれに一万の軍を指揮し、劉備と共同して軍を進めると、赤壁で敵と遭遇し、曹公の軍を徹底的に打ち破った。曹公は残った船に火をつけ、兵をまとめて撤兵した。士卒たちは飢えて病気にかかり、その大半が死亡した。周瑜や劉備たちはさらに追撃し、・・・
ここでは孔明はただの使者、戦いは主に周瑜と程普が行ってるようだ。やはり劉備の軍の記載が無い。火船の計もなく、船に火を付けたのは曹操自ら。
同じく、「呉志」の「周瑜伝」には、曹操の大軍に恐れをなした呉の高官たちが、曹操を迎え入れ降伏するよう主張するなか、周瑜が抗戦論を展開して、孫権の同意を得たこと、そして、戦いが次のように描かれる。
>(劉備は)魯粛と当陽において出会うと、双方共同して作戦にあたるとの約束ができ、そこで軍を夏口まで進めてそこに留まるとともに、諸葛亮を使者として孫権の元に遣わした。孫権はこうした情勢にもとづいて、周瑜や程普らを派遣して、劉備と共同しつつ曹公を迎え撃たせ、両軍は赤壁で遭遇した。このとき、曹公の軍勢の中には既に疫病が発生していて、最初の交戦で曹公の軍は敗退し、兵を引いて長江の北側に陣を置いた。周瑜たちは、南岸にあった。周瑜の武将の黄蓋がいった、「ただいま、敵は多数で、味方は少数であって、持久戦に入るのは不利でございます。ただ見てますに、曹操の軍の船艦は、互いに船首と船尾とがくっつき合った状態でありますから、焼き打ちをかければ、敗走させる事ができます。」そこで蒙衝(駆逐艦)と闘艦(戦艦)とを数十艘選び出し、それに焚き火と草とをつめこみ、その中に油を注ぎ、それを幔幕でおおうと、上に牙旗(将軍旗)を立てた。前もって曹公に手紙を送って、降伏したい旨の偽りの申し入れをしておき、さらに走舸(快速艇)を用意して、それぞれ大きな軍船の後に繋ぐと、次々と曹公の軍営に向って発進した。曹公の軍のほうでは軍吏も兵士たちもそろって首を延ばしてこれを観望し、黄蓋が投降して来るのだと指さしていい合った。黄蓋は、それらの船を切り離すと、同時に火を放った。折しも強風が猛り狂い、すべての船に火が移って、岸辺にある軍営にまで延焼した。やがて、煙と焔とは天にみなぎり、人や馬の焼死したり溺死したりする者はおびただしい数にのぼり、曹公の軍勢は敗退して、引き返して南郡に立てこもった。劉備は、周瑜らとともにさらに追い打ちをかけ、曹公は曹仁らを留めて江陵城を守らせると、みずからはまっすぐ北方へもどった。
これは、『三国志演義』での話に近く、また蘇軾の詩での描写に近い。

以上互いに矛盾する描写がかなりある。陳寿が『三国志』を書く際に元にした書物がそもそも魏志、呉志、蜀志でそれぞれ異なっていたことと、ある程度、それらの王朝の面子を立てて書こうという気持ちがあったせいのようだ。
ただ、おそらく言えることは、
※ 孔明は使者であって、指揮官としては現れていない。また軍勢を持ってはいない
※ 他の軍隊の人数などは書いているのに、劉備の側の軍勢が明らかではなく、ボカされている
※ 曹操の軍で疫病が流行ったというのが共通して見える
※ 曹操と戦った側の主体がはっきりしない
※ 火船で曹操の軍を破ったというストーリーは、真偽は別にして3世紀後半にはできていた
※ 船に火を付けて燃やした、というのは、どちら側がやったにせよ、ある程度共通している
といった事か。
この時期の劉備は領土も持っておらず、漂流中の集団のトップでしかない。しかも曹操に追われて逃走中の身なので、大した軍勢は持っていなかったのではないだろうか。戦いの主体には成り得ないのでは。ただ、あとからかえりみて、三国の一角を担ったということで、大した実態が無いのに、誇張されて書かれたのではないか。とりわけ、『三国志』を書いた陳寿は蜀の出身であって、劉備を持ち上げ、魏の対抗者として描こうという志向があったらしい。これと各国、各人の面子を立てたような書き方の為に混乱しているように見える。

☆5世紀、裴松之による『三国志』への注
(陳寿が採用しなかった異説や後に出た書物から、裴松之が引用して本文に注としてつけ、当否を検討したもの)
「魏志」への注
『山陽公載記』という書物が引用され、その中に、
>公は軍船を劉備の為に焼かれ・・・徒歩で引き上げたが、泥濘にぶつかり・・・弱兵全員に草を背負わせて泥濘を埋めさせ・・・劉備はそのあとやはり火を放ったが間に合わなかった。
などとあって、船を自ら焼いたのではなく、敵に焼かれたと、若干話が近づいてはいるが周瑜の話はない。魏志では一貫して曹操と劉備の戦いらしい。

「蜀志」への注
「先主伝」に、『江表伝』からの引用として、
>〔劉備が周瑜に〕「今曹公と対陣なさるにあたって、さだめし深い計略がおありのことでしょう。兵士はどのくらいおりますか」と訊ねると、周喩は、「三万です」といった。劉備、「惜しいことに少なすぎますな」というと、周喩は、「これでわが方は充分です。豫州殿(劉備)は、私が曹操軍をやっつけるのをただごらんになっていてください」といった。・・・(劉備は)内心では周喩が必ず北軍(曹操軍)を撃破できるものと、まだ信じていなかった。だからちぐはぐな感じで後方におり、二千の兵をひきいて関羽、張飛とともに動かず、思いきって周喩にかかわろうとしなかった。つまりは進退どちらに対応できる態度をとったのである。
つまり、劉備軍は戦わなかったと。ただし、『江表伝』は呉を持ち上げるための書物で、あまり信用出来ないらしい。またここだけ急に軍勢が出てくるのも唐突な印象。戦わなかったのだから、適当で良かったということか。

「呉志」への注
「周瑜伝」にまた同じく、『江表伝』から、
>戦いの日になると、黄蓋は、まず先に軽快な軍船十艘を選んで、その中に枯れた荻やよく乾いた焚き木を哉みこみ、魚油をかけ、その上を赤い陵慕で覆うと、旗差し物や龍の幡を船の上に建てた。ちょうど東南の風がはげしく吹いていたので、十艘の軍船を先頭に立て、長江の中央まで進んだところで帆を上げると、黄蓋は、火のついたたいまつを手に持って、将校たちに下知し、兵士たちに声をそろえて大声で「降服」と叫ばせた。曹操の軍の者たちほ、みな軍営を出ると立ったまま見守っていた。北岸の軍から二里あまりの所で、いっせいに船に火を点けさせた。火の勢いは激しく風も吹きつのって、船は矢のように突っこんでゆくと、火の粉が飛び火焔が盛んに上がり、北軍の船を焼き尽し、岸辺の軍営にまで火災が及んだ。周瑜らは、軽装の精鋭兵を率いて、火の延焼を追うようにして攻撃をかけ、戦鼓を雷のように鳴らして大挙して攻めこむと、北軍は壊滅し、嘗公は北方へ逃げ帰った。
とある。これは『演義』の話にかなり近いのではないだろうか。「東南の風」、「二里あまりの所」などは、共通しているように見える(あまり『演義』には詳しくないが)。
またこれには、黄蓋が曹操に送った偽りの帰順の手紙も掲載されている

☆9世紀、杜牧の詩「赤壁」
折戟、沙に沈んで、鉄未だ鎖けず 折れた剣が砂に埋もれていたが、鉄は朽ちてはいなかった
自ずから麿洗を将って、前朝を認む 何気なく手にとって洗って見ると、確かに前の王朝のもの
東風、周郎のために便ぜずんば、 もしあのとき東風が周郎を利するように吹かなかったならば
銅雀、春深くして二喬を鎖さん 春深い銅雀台に、喬姉妹は閉じこめられていたことだろう
とある。喬姉妹の内、大喬は孫策の、小喬は周郎の妻、銅雀台は曹操の宮殿にあった楼台なのだから、要するに呉は壊滅しただろう、ということだ。つまり、それは呉の国の命運を分ける大きな戦いであって、風向きによって戦いが決したと描かれている。これは今『演義』などで知られている話と矛盾しない。普通に戦ったのなら、風向きはそれほど大した要因ではない。やはり炎の関係だろう。たまたま吹いた(あるいは孔明がおこした)東南の風によって曹操の大軍の船舶や陣営は燃えてしまう、というのがこの話のポイントだから。『江表伝』などから、演義までに続く赤壁の伝説とよく合致している(関係ないが、3行目から4行目への場面の転換が、杜牧らしくていい)。

☆11世紀、蘇軾の詩「赤壁懐古」
大江東に去り 長江は東に流れ続け
浪は淘い尽せり、千古の風流人物を 千年前の奔放不羈なる勇士達を、その波で洗い流してしまった
故壘の西邊 砦の跡の西の方
人は道ふ是れ三國周郞の赤壁なりと これがかの三国時代、周瑜で名高い赤壁であると人は言う
亂石は空を穿ち 荒々しい岩が空に突き刺さり
驚濤は岸を裂き 轟く波が岸壁を砕こうとして
卷き起こす千堆の雪 幾重にも積もった雪を巻き上げている
江山畫くが如く まるで絵に描いたような山や川を見れば
一時多少の豪傑ぞ かつてここに集った幾多の豪傑が偲ばれる
遙かに想ふ公瑾の當年 中でもかの周瑜のその年の
小喬初めて嫁し了り 小喬が嫁入りしたばかりの頃の
雄姿英發なりしを 英気に溢れた雄姿を
羽扇綸巾 羽の扇と綸子の頭巾の泰然たる姿で
談笑の間、強虜は灰と飛び煙と滅びぬ 談笑している間に、強敵は灰や煙となって滅んだのだ
故國に神は遊ぶ いにしえの呉の国へと我が心は飛んで行く
多情応に笑うなるべし 多情多感な事だと笑われる事だろう
我が早く華髪を生ぜしを 早くも白髪の生じた事も
人間は夢の如し 人生とは夢のように過ぎ去るもの
一樽還た江月に酹がん 川面に漂う月に酒を注いで、英雄達に捧げよう
11世紀に書かれたこの詩では、明らかに炎によって敵に圧勝したように描かれていて、しかも、その戦いの間、周瑜(あるいは一説には孔明)は「談笑」していたとある。ということは、僅かな兵で火を放った例の話とほぼ一致して矛盾が無い。
正史三国志から、蘇軾の詩まで、多くは曹操側の船が燃やされた事、またいくつかは、それが周瑜側の謀略によるものだと言うことが描かれている。そしてこの戦いにおいて、劉備や孔明は大した貢献はしていないと読める。
そうすると、この詩にある「羽扇綸巾」は一部で言われてるように孔明を指すのではなく、やはり周瑜の服装を指しているだろうと思う。詩中に周瑜関連の固有名詞が三ヶ所出るのに(周郎、公瑾、小喬)、孔明は全く出ていないのもその傍証。この詩は赤壁の戦場で(実際の場所は違ってはいたが)、周瑜を想起して描いたものだろう。

他にも関係の資料があるのかもしれないが、14世紀頃に書かれた『演義』で有名なストーリーが成立する以前の時代の、この戦いに関する記述を、取りあえず見れる範囲でまとめてみた。
(h24/3/5) kifuru
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