ソードアート・オンライン2 『フェアリィ・ダンス』



第三章 『樹上の檻』

 つがいの小鳥が、白いテーブルの上で身を寄せ合って朝の歌をさえずっている。
 そっと右手を伸ばす。碧玉のように輝く羽毛に一瞬指先が触れる。――と思う間もなく、二羽の小鳥は音も無く飛び立つ。弧を描いて舞い上がり、光の射す方向へと羽ばたいていく。
 椅子から立ち上がり、数歩後を追う。だがすぐに、金色に輝く細い格子が行く手を遮る。小鳥達はその隙間から空へと抜け出し、高く、高く、どこまでも遠ざかっていく――。

 アスナはしばらくその場に立ち尽くし、鳥たちが空の色に溶けてしまうまで見送ると、ゆっくりきびすを返してもとの椅子に腰掛けた。
 白い大理石で造られた冷たい丸テーブルと椅子。側に、同じく純白の豪奢な天蓋つきのベッド。この部屋の調度品はそれだけだ。部屋――と言ってよければ、だが。
 やはり白のタイルが敷き詰められた床は、端から端まであるけば二十歩はかかろうかという巨大な真円形で、壁はすべて華奢な金属の格子でできている。格子の目はアスナでも無理をすれば通り抜けられそうなほど大きいが、それはシステム的に不可能である。
 十字に交差する金の線は垂直に伸び上がり、はるか頭上で半球形に閉じている。その頂点には巨大なリングが取り付けられ、それを恐ろしく太い木の枝が貫いて、この構造物全体を支えている。枝はごつごつとうねりながら天を横切り、周囲に広がる無限の空の一角を覆い尽くす巨大な樹へと繋がっている。
 つまりこの部屋は、途方もないスケールの大樹の枝から下がった金の鳥籠――いや、その表現は正しくない。時折遊びに来る鳥たちは皆格子を自由に出入りしている。とらわれているのはアスナ唯一人、だからこれは檻だ。華奢で、美しく、優雅で、しかし冷徹な樹上の檻。

 アスナがこの場所で覚醒してから、すでに六十日が経過しようとしていた。いや、それも確実な数字ではない。何一つ書き残すことのできないこの場所では、日数を記録できるのは頭の中だけだ。
 毎朝目覚めるたびに、今日は何日め、と自分に言い聞かせる。だが、近頃ではその数字に確信が持てなくなってきている。ひょっとしたら同じ日付を何回も繰り返しているのではないか――実際にはすでに数年の月日が過ぎ去っているのではないか――。そんな想念にとらわれてしまうほど、『彼』と過ごした懐かしい日々は遠い記憶の中に没しようとしている。
 あの時――。
 浮遊城アインクラッドが崩壊し、世界が輝きに包まれて消滅していく中、アスナは彼と固く抱き合って意識が消え去る瞬間を待っていた。
 恐怖はなかった。自分は為すべきことを為し、生きるべき人生を生きたという確信があった。彼と一緒に消滅するのは喜びですらあった。
 光が二人を包み込み、肉体が消え去り、魂が絡み合って、どこまでも高く飛翔し――
 そして不意に彼のぬくもりが消えた。一瞬にして周囲が暗闇に包まれた。アスナは必死に手を伸ばし、彼の名を呼んだ。だが容赦ない奔流が彼女を捕らえ、暗闇の中を押し流していった。断続的な光の点滅。どことも知れない場所に運ばれていく、そんな気がして、アスナは悲鳴を上げた。やがて前方に虹色の光彩が広がり、そこに突入して――気付くと、この場所に倒れていた。

 ゴシック調の巨大なベッド、その天蓋を支える壁に鏡が据えられている。そこに映る姿は、昔とは微妙に異なっている。顔のつくり、栗色の長い髪は昔のままだ。だが身にまとうのは、心許ないほど薄い、白のワンピース一枚。胸元に、血のように赤いリボンがあしらわれている。剥き出しの足に、大理石のタイルがしんしんと冷気を伝えてくる。武器はおろか何一つとして持っていないが、背中からは不思議な透明の羽根が伸びている。鳥というよりは昆虫の翅のようだ。
 最初は、ほんとうの死後の世界なのか――とも思った。だが今ではそうでないことがわかっている。手を振ってもメニューウインドウは出ないが、ここはアインクラッドではない、新しい仮想世界だ。コンピュータの作り出すデジタルの牢獄。アスナは、そこに、人間の悪意によって幽閉されている。
 ならば負けるわけにはいかない。悪意に心を挫かれるわけにはいかない。そう思って、アスナは日々襲ってくる孤独と焦燥に耐えている。だがこの頃では、それが少しずつ難しくなってきている。絶望の毒がゆっくりと心を染めていくのを感じる。
 冷たい椅子に腰掛け、テーブルの上で両手を組み合わせて、アスナはいつものように心の中で彼に囁きかける。
(早く……はやく助けに来て……キリトくん……)

「その表情が一番美しいよ、ティターニア」
 不意に鳥籠の中に声が響いた。
「泣き出す寸前のその顔がね。凍らせて飾っておきたいくらいだよ」
「なら、そうなさいな」
 ゆっくりと声の方に顔を向けながら、アスナは言った。
 金の檻の一箇所、巨大な樹――世界樹――に面している部分に、小さなドアが設けられている。ドアまでは、階段が刻み込まれた枝が伸び、世界樹の幹との間に通路を繋いでいる。
 そのドアから入ってきたのは、ひとりの痩せた長身の男だった。
 カールした長い金髪が豊かに流れ、それを額で白銀の円冠が止めている。体を包むのは濃緑のゆったりとした長衣、これも銀糸で細かい装飾が施されている。背中からはアスナと同じように翅が伸びているが、こちらは透明ではなく、巨大な蝶のものだ。漆黒のびろうどのように艶のある四枚の翅に、エメラルドグリーンの鮮やかな模様が走っている。
 顔は造り物のように――としか言い様がない――端麗だ。秀でた額から連なる鋭い鼻梁、切れ長の目には翅の模様と同じ色の瞳が冴えざえとした光を放っている。だがそれらを台無しにしているのが、薄い唇に張り付くゆがんだ微笑だ。全てを蔑むような、卑しい笑い。
 アスナは一瞬男の顔を見ると、汚らわしいものを見たかのようにすぐに視線を逸らせた。呟くように言葉を繋げる。
「――あなたなら何でも思いのままでしょう、システム管理者なんだから。好きにしたらいいわ」
「またそんなつれない事を言う。ぼくがいままで君に無理やり手を触れたことがあったかい、ティターニア?」
「こんな所に閉じ込めておいてよく言うわ。それにその変な名前で呼ぶのはやめて。私はアスナよ、オベイロン――いえ、須郷さん」
 アスナは再び男――須郷伸之の化身オベイロンの顔を見上げた。今度は瞳を逸らさず、力を込めた視線を向けつづける。
 オベイロンは不愉快そうに唇をゆがめると、吐き捨てるように言った。
「興醒めだなぁ。この世界では僕は妖精王オベイロン、君は女王ティターニア。プレイヤー共が羨望を込めて見上げるアルヴヘイムの支配者……それでいいじゃないか。一体いつになったら君は僕の伴侶として心を開いてくれるのかな」
「いつまで待っても無駄よ。あなたにあげるのは軽蔑と嫌悪、それだけだわ」
「やれやれ、気の強いことだ……」
 再びオベイロンは片頬を吊り上げて笑うと、ゆっくりアスナの顔に向かって右手を伸ばしてきた。
「でもねえ……なんだか最近は……」
 アスナは顔をそむけようとしたが、おとがいに手がかかり、無理やり正面に向けさせられる。
「そういう君を力ずくで奪うのも楽しいかなあと、そんな気もするんだよね」
 万力のような力で固定されたアスナの顔に、今度は左手の指が這い始めた。頬から、唇に向かって細い指がじわじわと動いていく。どこか粘つくようなその感触に、背筋に寒気が走る。
 嫌悪のあまり固く目を瞑り、歯を噛み締めるアスナの唇を指先で数度なぞると、オベイロンはそのまま首筋をゆっくりと撫で下ろした。やがて指は、深い襟ぐりの胸元で結ばれた真紅のリボンに辿り着く。アスナの恥辱と恐怖を愉しむように、リボンの一端がじわり、じわりと引かれていく――。

「やめて」
 ついに耐え切れなくなり、アスナはかすれた声を洩らした。
 それを聞いたオベイロンは喉の奥をククッと鳴らすとリボンから手を離した。指をひらひらを振りながら、笑いの混じった声で言う。
「冗談さ。言ったろう? 君に無理矢理手はかけない、って。どうせすぐに君の方から僕を求めるようになる。もう時間の問題だ」
「――何を言っているの。そんな訳ないじゃない」
「ねえ君」
 オベイロンは両腕を胸の前で組むと、テーブルに体を預けた。にやにや笑いが一層大きくなる。
「NERDLESが娯楽市場のためだけの技術だと思うかい?」
 予想外の台詞にアスナは口を噤んだ。オベイロンは芝居がかった仕草で両腕を大きく広げる。
「冗談じゃない! こんなゲームは副産物にすぎない。あの機械は、電子パルスのフォーカスを脳の感覚野に限定しているが、その枷を取り払ったらどういうことになるか――」
 見開かれたオベイロンのエメラルド色の瞳にどこか逸脱した輝きが宿り、アスナは本能的な恐怖を感じた。
「――人間の思考、感情、記憶までも制御できる可能性があるってことだよ!」
 あまりにも常軌を逸したオベイロンの言葉に、アスナは絶句するしかなかった。数回呼吸を繰り返してから、どうにか声を絞り出す。
「……そんな、そんなことが許されるわけが……」
「誰が許さないんだい? すでに各国で研究が進められている。でもねえ、この研究だけはサルで済ませるわけにはいかないんだよね。連中は自分が何を考えてるか喋ってくれないからね!」
 ひっ、ひっと甲高い声で笑いを洩らし、テーブルから跳ねるように体を起こしたオベイロンは、せかせかした歩調でアスナの周りを歩き始めた。
「脳の高次機能には個体差も多い、どうしても大量の被験者が必要だ。だがアタマをいじくり回すわけだからね、おいそれと人体実験なんかできない。それでこの研究は遅々として進まなかった。――ところがねえ、ある日ニュースを見ていたら、いるじゃないか、格好の研究素材が、五万人もさ!」
 再びアスナの肌を怖気が走った。オベイロンが何を言わんとしているのか、その先がようやく想像できた。
「――茅場先輩は天才だが大馬鹿者さ。あれだけの器を用意しながら、たかがゲーム世界の創造だけで満足するなんてね。SAOサーバー自体には手をつけられなかったが、あそこからプレイヤー連中が解放された瞬間、必要十分な被験者二千人をこの僕の世界にリレーする準備を整えてひたすら待ったよ。ああ、勿論君もね。いやあ、クリアされるのが実に待ち遠しかったね!」
 妄念の熱に浮かされたかの如く、オベイロンは饒舌に言葉をまくし立て続けた。アスナは昔から彼のこの性癖が大嫌いだった。
「この二ヶ月で研究は大いに進展したよ! 記憶に新しいパーツを埋め込み、それに対する情動を誘導する技術は大体形ができた。魂の操作――実に素晴らしい!!」
「そんな……そんな研究、お父さんが許すはずがないわ」
「無論あのオジサンは何も知らないさ。研究は私以下極少数のチームで秘密裏に進められている。そうでなければ商品にできない」
「商品……!?」
「アメリカの某企業が涎を垂らして研究終了を待っている。せいぜい高値で売りつけるさ。――いずれはレクトごとね」
「……」
「僕はもうすぐ結城家の人間になる。まずは養子からだが、やがては名実ともにレクトの後継者となる。君の配偶者としてね。その日のためにもこの世界で予行演習しておくのは悪くない考えだと思うけどねえ」
 不意にオベイロンは言葉を切ると、わずかに首を傾け沈黙した。すぐに右手を振ってウインドウを出し、それに向かって言う。
「わかった。すぐに行く」
 ウインドウを消し、再びにやにや笑いを浮べながら、
「――という訳で、君が僕を盲目的に愛し、服従する日も近いということが判ってもらえたかな? しかし僕も勿論君のアタマを操作するのは望まない、次に会うときはもう少し従順であることを願うよ、ティターニア」
 猫撫で声でささやくと、アスナの髪をひと撫でして身を翻した。
 ドア目掛けてせかせかと歩いていく男の姿を、アスナは見なかった。ただ俯いて、オベイロンの最後の台詞が心に垂らしていった恐怖に耐えていた。
 やがてカシャン、というドアの開閉音が響き、次いで静寂が訪れた。




 制服に着替え、竹刀ケースを下げて剣道部の部室から出ると、巨大な校舎の谷を抜けてきた微風が直葉の火照った頬を心地よく撫でていった。
 午後一時、すでに五時限目が始まっているので学校はしんと静まり返っている。一、二年生はもちろん授業中だし、自由登校の三年生も、学校に来ている者は高校入試直前の集中ゼミナールを受講しているので、今ごろ校内をのんきに歩いているのは直葉のような推薦進学組だけだ。
 気楽な身分ではあるが、同級生に出くわすと必ず皮肉のひとつも言われてしまうので、直葉としては無闇に学校に来たくはない。しかし剣道部の顧問が実に熱心な人物で、東京の名門校に送り出す愛弟子のことが気になって仕方ないらしく、一日おきに学校の道場に顔を出して指導を受けるよう厳命されている。
 顧問いわく、最近直葉の剣には妙なクセがある、らしい。直葉は内心で首をすくめながら、そりゃそうだろうなぁ、と思う。短時間とは言えほぼ毎日のように、アルヴヘイムで型もなにもないチャンバラ空中殺法を繰り広げているのだ。
 しかしそれで剣道部員としての直葉の腕が落ちているかと言うとそういうことはなく、今日も、かつて全日本で上位に入ったことのある三十代の男性顧問から立て続けに二本とってひそかに快哉を叫んだ。
 なんだか、近頃相手の竹刀がよく見えるのだ。強敵との試合で、神経が極限まで張り詰めると、時間の流れがゆるやかになるような感覚すら覚える。
 数日前の、和人との試合を思い出す。あの時、直葉の本気の打突を和人はことごとく躱してみせた。まるで、彼だけが違う時間流のなかにいるかのような凄まじい反応だった。ひょっとして――、と直葉は考える。NERDLES機器は、使用者の脳になにか器質的な変化を与えるのではないか……。
 物思いにふけりながら自転車置き場に向かって歩く直葉に、校舎の陰からいきなり声をかける者がいた。
「……リーファちゃん」
「うわっ」
 びくっとして一歩飛びすさる。現れたのは、ひょろりと痩せた眼鏡の男子生徒だった。レコンと共通の特徴である、常に困ったように垂れ下がった細い眉毛が、今日は一層急角度を描いている。
 直葉は右手を腰に当てると、ため息混じりに言った。
「学校でそう呼ばないでって言ってるでしょ!」
「ご、ごめん。……直葉ちゃん」
「この……」
 竹刀ケースの蓋に片手を沿えながら一歩詰め寄ると、男子生徒はひきつった笑みを浮かべながらぶんぶん首を振った。
「ごごごめん、桐ヶ谷さん」
「……なに? 長田クン」
「ちょ、ちょっと話があって……。どこかゆっくりできるとこ、行かない?」
「ここでいいわよ」
 長田伸一は情けない顔をしながら肩を落とす。
「……ていうか、そもそも推薦組のあんたが何で学校にいるのよ?」
「あ、すぐ……桐ヶ谷さんに話があって、朝から待ってたんだ」
「げげ! ヒマな奴……」
 直葉はふたたび数歩後退し、背の高い花壇の縁に腰を下ろした。
「で、話って?」
 長田は微妙な距離を保って直葉の隣に座ると、言った。
「……シグルド達が、今日の午後からまた狩りに行こうって。今度は海底洞窟にしようってさ、あそこはサラマンダーがあんま出ないし」
「狩りの話ならメールでいいって言ったじゃない。……悪いけど、あたししばらく参加できないわ」
「え、ええ!? なんで!?」
「ちょっとアルンまで出かけることに……」
 アルヴヘイムの中央にそびえる世界樹、その根元には大きな中立都市が広がっている。それが央都アルンだ。スイルベーンからはかなりの距離がある上に、途中に飛行不可能な区域も多く、辿りつくには数日を要する。
 長田はしばらく口をがくーんと開けて硬直していたが、やがてずりずりと直葉ににじり寄りながら言った。
「ま、ままさか昨日のスプリガンと……?」
「あー、うん、まあね。道案内することになったの」
「な、何考えてんのさリー……桐ヶ谷さん! ああんなよく分からない男と、と、泊りがけで……」
「あんたこそ何赤くなってるのよ! 妙な想像しないでよね!」
 すぐそばまで接近してきた長田の胸を竹刀ケースでどつく。長田は極限まで眉に八の字を描かせ、直葉を恨みがましい目で見つめた。
「……前に僕がアルンまで行こうって言ったときはあっさり断ったくせに……」
「あんたと一緒じゃ絶対辿り着けないと思ったからよ! ……ともかくそういうわけだから、シグルドたちにはよろしく言っといてね」
 直葉はぴょんと立ち上がり、「じゃね!」と手を振って自転車置き場目指して走り出した。長田の、叱られた犬のような情けない顔がちくりと胸を刺すが、そうでなくても学校ではいろいろと噂されているのだ。これ以上距離を縮める気にはならない。
(……道案内するだけだよ……)
 自分にも言い聞かせるように、胸のなかで呟く。キリトという少年の、謎めいた黒い瞳を思い出すと、妙にそわそわと落ち着かない気分になる。
 広大な駐輪場の片隅に停めてある、街乗り仕様のマウンテンバイクのロックを手早く外す。えいやっとまたがると、立ち漕ぎで猛然とダッシュ。冬の冷たい空気がぴりぴりと頬を叩くが、気にせず裏門から飛び出して、急な下り坂をノーブレーキで駆け下りていく。
 早く飛びたい、と直葉は思った。キリトと並んで、全開パラレル飛行をすることを考えると、少しだけわくわくした。

 二時少し前に自宅に着いた。
 庭に、和人の自転車は無かった。どうやらまだジムから戻っていないらしい。
 実のところ、最近の和人はもう「SAO以前」の彼の体格をほぼ取り戻していると思う。しかしどうもそれでは満足できないらしい、と言うより仮想世界内での自分との間にギャップを感じているようだ。
 そんなの当然、ゲーム内のキャラクターに生身の体を近づけようなんて無理な注文だ――と思う一方で、和人の気持ちも良くわかる。直葉だって現実で「飛ぼう」として転びそうになったことは一度や二度ではない。
 縁側から家に上がり、洗濯機に道着を放り込んでスイッチを入れ、ざっとシャワーを浴びる。ラフな格好に着替えると、二階に駆け上がって自室のベッドに転がり込む。
 アミュスフィアの電源を入れ、すっぽり被ると、目を閉じる。大きく一回深呼吸、ついで魔法の呪文を――。
「リンク・スタート!」

 リーファが目蓋を開けると、鈴蘭亭一階の風景がふわりと広がった。テーブルの、向かいの席にはもちろん誰もいない。待ち合わせまではまだ数十分の余裕がある。それまでに旅の準備を整えなければならない。
 店から出ると、スイルベーンの街は美しい朝焼けの空に覆われていた。
 毎日決まった時間にしかログインできないプレイヤーのための配慮か、アルヴヘイムでは約十六時間で一日が経過する。そのため、現実の朝晩と一致することもあればこのようにまったくずれることもある。メニューウインドウの時刻表示は、現実時間とアルヴヘイム時間が併記されており、最初は多少混乱したが、今ではこのシステムが気に入っている。
 あちこちの店をばたばたと駆け回り、買い物を済ませると、ちょうどいい時間になっていた。鈴蘭亭に戻ってスイングドアを押し開けると、今まさに奥のテーブルに黒衣の姿が実体化しようとしているところだった。
 ログインを完了したキリトは、数回まばたきをすると近づくリーファを認めて微笑んだ。
「やあ、早いね」
「ううん、さっき来たとこ。ちょっと買い物してたの」
「あ、そうか。俺も色々準備しないとな」
「道具類は一通り買っておいたから大丈夫だよー。あ、でも……」
 キリトの、簡素な初期武装に視線を落とす。
「キミの、その装備はどうにかしておいたほうがいいね」
「ああ……俺もぜひどうにかしたい。この剣じゃ頼りなくて……」
「お金、持ってる? 無ければ貸しておくけど」
「えーと……」
 キリトは右手を振ってウインドウを出し、ちらりと眺めて、なぜか顔をひきつらせた。
「……この『ユルド』っていうのがそう?」
「そうだよー。……ない?」
「い、いや、ある。結構ある」
「なら、早速武器屋行こっか」
「う、うん」
 妙に慌てた様子で立ち上がったキリトは、何かを思いついたように体のあちこちを見回し、最後に胸ポケットを覗き込んだ。
「……おい、行くぞ、ユイ」
 するとポケットから黒髪のピクシーがちょこんと眠そうな顔を出し、大きなあくびをした。

 リーファ行きつけの武具店でキリトの装備一揃いをあつらえ終わった頃には、街はすっかり朝の光に包まれていた。
 と言っても、特に防具類に凝ったわけではない。属性強化されている服の上下にコート、それだけだ。時間がかかったのは、キリトがなかなか剣に納得しなかったからだ。
 プレイヤーの店主に、ロングソードを渡されるたびに一振りしては「もっと重い奴」と言い続け、最終的に妥協したのはなんと彼の身長に迫ろうかというほどの、超のつく大剣だった。ノームやインプに多い巨人型プレイヤー用装備だ。
 ALOでは、余ダメージ量を決定するのは「武器自体の攻撃力」と「それが振られるスピード」だけだが、それだと速度補正に優るシルフやケットシーのプレイヤーが有利になってしまう。そこで、筋肉タイプのプレイヤーは、攻撃力に優る巨大武器を扱いやすくなるよう設定してバランスを取っている。
 シルフでも、スキルを上げればハンマーやアックスを装備できないことはないが、固定隠しパラメータの筋力が足りないためにとても実戦で振り回すことはできない。スプリガンはマルチタイプの種族だが、キリトはどう見てもスピードタイプの体型だ。
「そんな剣、振れるのぉー?」
 呆れつつリーファが聞くと、キリトは涼しい顔で頷いた。
「問題ない」
 ……そう言われれば納得するしかない。代金を払い、受け取った剣をキリトはよっこらしょうと背中に吊ったが、鞘の先が地面に擦りそうになっている。
 まるで剣士の真似をする子供だ、そう思ったとたんにこみ上げてきた笑いをかみ殺しながら、リーファは言った。
「ま、そういうことなら準備完了だね! これからしばらく、ヨロシク!」
 右手を差し出すと、キリトも照れたように笑いながら握り返してきた。
「こちらこそ」
 ポケットから飛び出したピクシーが、二人の手をぺちぺち叩きながら言った。
「がんばりましょう! 目指せ世界樹!」

 巨大な剣を背負い、肩にピクシーを乗せたキリトと連れ立って歩くこと数分、リーファの目前に、翡翠に輝く優美な塔が現われた。
 シルフ領のシンボル、風の塔だ。何度見ても見飽きることのない美しさだ――と思いながら隣に目を向けると、黒衣のスプリガンは先日自分が貼りついたあたりの壁を嫌そうな顔で眺めていた。リーファは笑いを噛み殺しながら彼のひじを突付いた。
「出発する前に少しブレ―キングの練習しとく?」
「……いいよ。今後は安全運転することにしたから」
 キリトが憮然とした表情で答える。
「それはそうと、なんで塔に? 用事でもあるのか?」
「ああ……長距離を飛ぶときは塔のてっぺんから出発するのよ。高度が稼げるから」
「ははあ、なるほどね」
 頷くキリトの背を押しながら、リーファは歩き出した。
「さ、行こ! 夜までに森は抜けておきたいね」
「俺はまったく地理がわからないからなあ。案内よろしく」
「任せなさい!」
 トンと胸を一回叩き、大きな塔の正面扉をくぐって内部へ。一階は円形の広大なロビーになっており、周囲をぐるりと色々なショップの類が取り囲んでいる。ロビーの中央には魔法力で動くとおぼしきエレベータが二基設置され、定期的にプレイヤーを吸い込んだり吐き出したりしている。アルヴヘイム時間では夜が明けたばかりだが、現実では夕方に差し掛かっているので、行き交う人の数がそろそろ増え始める頃だ。
 キリトの腕を引っ張りながら、ちょうど降りてきた右側のエレベータに駆け込もうとした、その時。
 不意に傍らから数人のプレイヤーが現われ、二人の行く手を塞いだ。激突する寸前で、どうにか翅を広げて踏みとどまる。
「ちょっと危ないじゃない!」
 反射的に文句を言いながら、目の前に立ち塞がる長身の男を見上げると、それはリーファのよく知った顔だった。
 シルフにしては図抜けた背丈に、荒削りだが男っぽく整った顔。この外見を手に入れるためには、かなりの幸運か、かなりの投資が必要だったと思われる。体をやや厚めの銀のアーマーに包み、腰には大ぶりのブロードソード。額に幅広の銀のバンドを巻き、波打つ濃緑の髪を肩の下まで垂らしている。
 男の名前はシグルド。ここ数ヶ月リーファがよく行動を共にしているパーティーの前衛だ。見れば、彼の両脇に控えているのもパーティーメンバーである。レコンもいるのかと思って更に周囲に目をやったが、目立つ黄緑色の髪は視界に入らなかった。
 シグルドはシルフ最強剣士の座をいつもリーファと争う剛の者で、また同時に、主流派閥に関わるのを忌避しているリーファと違って政治的にも実力者だ。現在のシルフ領主――月に一回の投票で決定され、税率やその使い道を決める指導者プレイヤー――の側近としても名を馳せる、言わば超アクティブ・プレイヤーである。
 その恐るべきプレイ時間に裏打ちされた数値的ステータスはとてもリーファの及ぶところではなく、シグルドとのPvPデュエルはいつも、運動性に優るリーファがいかにして彼の膨大なHPを削りきるかというしんどい戦いになる。それだけに、狩りではフォワードとして実に頼もしい存在感を発揮するのだが、反面その言動はやや独善的で、束縛を嫌うリーファを辟易とさせる局面も少なからずあった。今のパーティーでの稼ぎは確かにかなりの効率なのだが、そろそろ抜ける潮時かな、と最近は考えないでもない。
 そして今、リーファの前にずしりと両足を広げて立つシグルドの口許は、彼が最大限の傲慢さを発揮させる時特有の角度できつく結ばれていた。これは面倒なことになりそうだ――と思いながら、リーファは口を開いた。
「こんにちは、シグルド」
 笑みを浮べながら挨拶したものの、シグルドはそれに応える心境ではないらしく、唸り声を交えながらいきなり切り出した。
「パーティーから抜ける気なのか、リーファ」
 どうやら相当に機嫌が悪いらしいシグルドを、ちょっとアルンまで往復するだけ、と言って宥めようと一瞬考えたが、なんだか急に色々なことが面倒になってしまって、気づくとリーファはこくりと頷いていた。
「うん……まあね。貯金もだいぶできたし、しばらくのんびりしようと思って」
「勝手だな。残りのメンバーが迷惑するとは思わないのか」
「ちょっ……勝手……!?」
 これにはリーファも少々かちんと来た。前々回のデュエルイベントで、激戦の末シグルドを下したリーファを試合後にスカウトにきたのは彼自身である。その時リーファが出した条件は、パーティー行動に参加するのは都合のつくときだけ、抜けたくなったらいつでも抜けられる、という二つで、つまり束縛されるのは御免だとしっかり伝えてあったつもりなのだが――。
 シグルドはくっきりと太い眉を吊り上げながら、なおも言葉を続けた。
「お前は我がパーティーの一員として既に名が通っている。そのお前が理由もなく抜けて他のパーティーに入ったりすれば、威信に泥を塗られることになる」
「…………」
 シグルドの大仰な台詞に、リーファはしばし言葉を失って立ち尽くした。唖然としつつも、やっぱり――という思いが心中に去来する。
 シグルドのパーティーに参加してしばらく経った頃、リーファの相方扱いで同時にメンバーになったレコンが、いつになくマジメな顔で忠告してきたことがあったのだ。
 このパーティーに深入りするのはやめたほうがいいかもしれない、と彼は言った。理由を聞くと、シグルドはリーファを戦力としてスカウトしたのではなく、自分のパーティーのブランドを高める付加価値として欲しがったのではないか――更に言えば、自分に勝ったリーファを仲間、というより部下としてアピールすることで勇名の失墜を防いだつもりなのではないか、と。
 まさかそんな、と笑い飛ばしたリーファに向かってレコンは力説したものだ。曰く――性別逆転の許されないVRMMOにおいては女性プレイヤーは希少な存在であり、それゆえに戦力としてよりアイドルとして求められる傾向にあり、ましてリーファちゃんみたいなかわいい女の子はレジェンダリーウェポン以上にレアであり見せびらかし用に欲しがられて当然なのであり中にはそれ以上の下心を抱いてる奴も多いのでありしかし自分に関しては一切そんなつもりは無くあくまでピュアかつリアルなお付き合いを望んでいるのであり云々かんぬん。
 どさくさに紛れて妙なことを口走り始めたレコンに体重を乗せたリバー・ブローを一発撃ちこんで黙らせておいて、リーファは一応真剣に考えてみた。のであるが、自分がアイドル扱いされているなどという状況にはどうにも現実感がわかなかったし、ただでさえ覚えることの多いMMORPGが更にややこしくなりそうだったので、それ以上考えるのをやめ、今日までさして大きな問題もなくパーティープレイをこなしてきたのだったが――。
 怒りと苛立ちを滲ませて立つシグルドの前で、リーファは全身に重苦しく絡みつくしがらみの糸を感じていた。ALOに求めているのは、すべての束縛から脱して飛翔するあの感覚だけ。何もかも振り切って、どこまでも飛びたいと、それだけを望んでいたのに……。
 しかし、それは無知ゆえの甘えだったのだろうか。全ての人が翅を持つこの仮想世界なら、現実世界の重力を忘れられる――と思ったのは幻想だったのだろうか?
 リーファ/直葉は、小学校の頃よく自分を苛めた剣道場の上級生のことを思い出していた。入門して以来道場で敵なしだったのが、いつしか年下でその上女の直葉に試合で勝てなくなってしまい、その報復としてよく帰り道で仲間数名と待ち伏せては卑小な嫌がらせを行った。そんな時、その上級生の口許は、今のシグルドと良く似た憤懣に強張っていたものだ。
 結局、ここも同じなのか――。
 やるせない失望に囚われ、リーファがうつむいた、その時だった。背後に下がり、影のように気配を殺していたキリトが、ぼそりと呟いた。
「数を恃む奴はいずれ死ぬ」

「え……?」
 その言葉の意味が咄嗟につかめず、リーファは目を見開きながら振り向いた。同時にシグルドが唸り声を上げた。
「……なんだと……?」
 キリトは一歩踏み出すと、リーファとシグルドの間に割って入り、自分より頭一つぶんほども背の高い威丈夫に向き合った。
「仲間の数に頼る奴は長生きできないって言ったのさ。あんたのその剣は、背中を女の子に守ってもらわなきゃ振れないのか」
「きッ……貴様ッ……!!」
 あまりにもあからさまなキリトの言葉に、シグルドの顔が瞬時に赤く染まった。肩から下がった長いマントをばさりと巻き上げ、剣の束に手をかける。
「屑漁りのスプリガン風情がつけあがるな! リーファ、お前もこんな奴の相手をしてるんじゃない! どうせ領地を追放されたレネゲイドだろうが!」
 今にも抜刀しそうな勢いでまくし立てるシグルドの台詞に、ついカッとしたリーファも思わず叫び返していた。
「失礼なこと言わないで! キリト君は――あたしの新しいパートナーよ!」
「なん……だと……」
 額に青筋を立てながらも、シグルドは声に驚愕をにじませて唸った。
「リーファ……領地を捨てる気なのか……」
 その言葉に、リーファはハッとして目を見開いた。
 ALOプレイヤーは、そのプレイスタイルによって大きく二種に分かれる。
 ひとつは、今までのリーファやシグルドのように領地を本拠にして同種族のパーティーを組み、稼いだユルドの一部を領主に上納して種族の勢力を発展させようとするグループ。もうひとつが、領地を出て中立都市を本拠とし、異種族間でパーティーを組んでゲーム攻略を行うグループだ。前者は後者を目的意識に欠けるとして蔑視することが多く、領地を捨てた――自発的、あるいは領主に追放された場合を問わず――プレイヤーを脱領者、レネゲイドと呼称している。
 リーファの場合は、共同体としてのシルフ族への帰属意識は低いのだが、スイルベーンが気に入っていることと、あとの半分は惰性で領地に留まり続けていた。だが今シグルドの言葉によって、リーファの中に、解き放たれたい――という欲求が急速に浮かび上がってきたのだった。
「ええ……そうよ。あたし、ここを出るわ」
 口をついて出たのは、その一言だった。
 シグルドは唇を歪め、食いしばった歯をわずかに剥きだすと、いきなりブロードソードを抜き放った。燃えるような目でキリトをねめつける。
「……小虫が這いまわるくらいは捨て置こうと思ったが、泥棒の真似事とは調子に乗りすぎたな。のこのこと他種族の領地まで入ってくるからには斬られても文句は言わんだろうな……?」
 芝居がかったシグルドの台詞に、キリトは肩をすくめるだけの動作で応じた。その糞度胸に半ばあきれつつも、リーファは本当に戦闘になったらシグルドに斬りかかる覚悟で腰の長刀に手を添えた。緊迫した空気が周囲に満ちた。
 と、その時、シグルドの背後にいた彼の部下が小声で囁いた。
「今はやばいっすよ、シグルドさん。こんな人目があるとこで無抵抗の相手をキルしたら……」
 周囲にはいつの間にか、トラブルの気配に引かれたように見物人の輪ができていた。正当なデュエルならともかく、この場では攻撃権を持たないキリトをシグルドが一方的に攻撃するのは確かに褒められた行為ではない。
 シグルドは歯噛みをしながらしばらくキリトを睨んでいたが、やがて剣を鞘に収めた。
「せいぜい外では逃げ隠れることだな。――リーファ」
 キリトに捨て台詞を浴びせておいてから、背後のリーファにも視線を向けてくる。
「……今オレを裏切れば、近いうちに必ず後悔することになるぞ」
「留まって後悔するよりはずっとマシだわ」
「戻りたくなったときのために、泣いて土下座する練習をしておくんだな」
 それだけ言い放つと、シグルドは身を翻し、塔の出口へと歩き始めた。付き従うパーティーメンバー二人は、何か言いたそうにしばらくリーファの顔を見ていたが、やがて諦めたようにシグルドを追って走り去っていった。
 彼らの姿が消えると、リーファは大きく息を吐き出し、キリトの顔を見た。
「……ごめんね、妙なことに巻き込んじゃって……」
「いや、俺も火に油を注ぐような真似しちゃって……。しかし、いいのか? 領地を捨てるって……」
「あー……」
 リーファはどう言ったものか迷った挙句、無言でキリトの手を取って歩き始めた。野次馬の輪をすり抜けて、ちょうど降りてきたエレベータに飛び乗る。最上階のボタンを押すと、半透明のガラスでできたチューブの底を作る円盤状の石がぼんやりと緑色に光り始め、すぐに勢い良く上昇を開始した。
 数十秒後、エレベータが停止すると壁面のガラスが音も無く開いた。白い朝陽と心地よい風が同時に流れ込んでくる。
 足早にチューブから風の塔最上部の展望デッキに飛び出す。数え切れないほど訪れたことのある場所だが、四方に広がる大パノラマは何度見ても心が浮き立つ。
 シルフ領は、アルヴヘイムの南西に位置する。西側は、しばらく草原が続いたあとすぐに海岸となっており、その向こうは無限の大海原が青く輝いている。東は深い森がどこまでも連なり、その奥には高い山脈が薄紫色に連なる。その稜線の更に彼方に、ほとんど空と同化した色で一際高くそびえる影――世界樹。
「うお……凄い眺めだな……」
 リーファに続いてエレベータを降りたキリトが、目を細めてぐるりと周囲を見回した。
「空が近いな……。手が届きそうだ……」
 瞳に憧憬にも似た色を浮かべて青い空を仰ぎ見るキリトに並んで、リーファはそっと右手を空にかざし、言った。
「でしょ。この空を見てると、ちっちゃく思えるよね、色んなことが」
「……」
 キリトが気遣わしげな視線を向けてくる。それに笑顔を返し、リーファは言葉を続けた。
「……いいきっかけだったよ。いつかはここを出ていこうと思ってたの。一人じゃ怖くて、なかなか決心がつかなかったんだけど……」
「そうか。……でも、なんだか、喧嘩別れみたいな形にさせちゃって……」
「あの様子じゃ、どっちにしろ穏便には抜けられなかったよ。――なんで……」
 その先は、半ば独り言だった。
「なんで、ああやって、縛ったり縛られたりしたがるのかな……。せっかく、翅があるのにね……」
 それに答えたのはキリトではなく、彼の肩、ジャケットの大きな襟の下から顔を出したユイという名のピクシーだった。
「フクザツですね、人間は」
 きららんと音を立てて飛び立つと、キリトの反対側の肩に着地し、小さな腕を組んで首を傾げる。
「ヒトを求める心を、あんなふうにややこしく表現する心理は理解できません」
 彼女がプログラムであることも一瞬忘れ、リーファはユイの顔を覗きこんだ。
「求める……?」
「他者の心を求める衝動が人間の基本的な行動原理だとわたしは理解しています。ゆえにそれはわたしのベースメントでもあるのですが、わたしなら……」
 ユイは突然キリトの頬に手を添えると、かがみこんで音高くキスをした。
「こうします。とてもシンプルで明確です」
 あっけに取られて目を丸くするリーファの前で、キリトは苦笑いしながら指先でユイの頭をつついた。
「人間界はもうちょっとややこしい場所なんだよ。気安くそんな真似したらハラスメントでバンされちゃうよ」
「手順と様式ってやつですね」
「……頼むから妙なことを覚えないでくれよ」
 キリトとユイのやり取りを呆然と眺めていたリーファは、どうにか口を動かした。
「す、すごいAIね。プライベートピクシーってみんなそうなの?」
「こいつは特にヘンなんだよ」
 言いながらキリトはユイの襟首をつまみあげると、ひょいと胸ポケットに放り込んだ。
「そ、そうなんだ……。――人を求める心……かぁ……」
 リーファはピクシーの言葉を繰り返しながら、かがめていた腰を伸ばした。
 なら――、この世界でどこまでも飛んでいきたいと願っている自分の気持ちも、実はその奥で誰かを求めているのだろうか。不意に、和人の顔が脳裏を過ぎって、ドキン、と心臓が大きな音を立てる。
 ひょっとしたら……この妖精の翅を使って、現実世界のいろんな障害を飛び越えて、和人の胸に飛び込んでいきたいと――そう思っているんだろうか……。
「まさかね……」
 考えすぎだ。心の中でそう呟いた。今は、ただ飛びたい。それだけだ。
「ん? 何か言った?」
「な、なんでもないよ。……さ、そろそろ出発しよっか」
 キリトに笑顔を向けると、リーファは空を振り仰いだ。夜明けの光を受けて金色に輝いていた雲もすっかり消え去り、深い青がどこまでも広がっていた。今日はいい天気になりそうだった。
 展望台の中央に設置されたロケーターストーンという石碑を使ってキリトに戻り位置をセーブさせると、リーファは四枚の翅を広げて軽く震わせた。
「準備はいい?」
「ああ」
 キリトと、彼の胸ポケットから顔を出したピクシーがこくりと頷くのを確認して、いざ離陸しようとしたところで――。
「リーファちゃん!」
 エレベータから転がるように飛び出してきた人物に呼び止められ、リーファはわずかに浮いた足を再び着地させた。
「あ……レコン」
「ひ、ひどいよ、一言声かけてから出発してもいいじゃない」
「ごめーん、忘れてた」
 がくりと肩を落としたレコンは、気を取り直したように顔を上げるといつになく真剣な顔で言った。
「リーファちゃん、パーティー抜けたんだって?」
「ん……。その場の勢い半分だけどね。あんたはどうするの?」
「決まってるじゃない、この剣はリーファちゃんだけに捧げてるんだから……」
「えー、別にいらない」
 リーファの言葉に再びレコンはよろけたが、この程度でメゲるような彼ではない。
「ま、まあそういうわけだから当然僕もついてくよ……と言いたいとこだけど、ちょっと気になることがあるんだよね……」
「……なに?」
「まだ確証はないんだけど……少し調べたいから、僕はもうしばらくパーティーに残るよ。――キリトさん」
 レコンは、彼にしては最大限にマジメな様子でキリトに向き直った。
「彼女、トラブルに飛び込んでくクセがあるんで、気をつけてくださいね」
「あ、ああ。わかった」
 どこか面白がっているような表情でキリトが頷く。
「――それから、言っておきますけど彼女は僕のンギャッ!」
 語尾の悲鳴はリーファが思い切りレコンの足を踏みつけたことによるものだ。
「余計なこと言わなくていいのよ! ――しばらくアルンにいると思うから、何かあったらメールでね。じゃね!!」
 早口でまくし立てると、リーファは翅を広げ、ふわりと浮き上がった。名残惜しそうな顔のレコンに向かって二分の一秒ほど手を振ると、くるりと向きを変えて塔から離れ、北東の方角に滑空を始める。
 すぐに隣に追いついてきたキリトが、笑いを押し殺したような表情のまま言った。
「彼、リアルでも友達なんだって?」
「……まあ、一応」
「ふうん」
「……何よ、そのふうんってのは」
「いやあ、いいなあと思ってさ」
 キリトに続けて、彼の胸ポケットからピクシーも言った。
「あの人の感情は理解できます。好きなんですね、リーファさんのこと。リーファさんはどうなんですか?」
「し、知らないわよ!!」
 つい大声で叫んでしまい、リーファは照れ隠しにスピードを上げた。レコンの直球な態度にはいいかげん慣れてしまっているのだが、キリトの隣でやられると何故か妙に恥ずかしかった。
 気づくと、いつの間にか街を出て、森の縁に差し掛かっていた。リーファは体を半回転させて後進姿勢を取り、遠ざかっていく翡翠の街を見つめた。
 一年を過ごしたスイルベーンから離れることを思うと、郷愁に似た感情がちくりと胸を刺したが、未知の世界へ旅立つ興奮がすぐにその痛みを薄めていった。バイバイ、と心のなかで呟いて、再び向き直る。
「――さ、急ごう! 一回の飛行であの湖まで行くよ!」
 はるか彼方にきらきらと輝く湖面を指差し、リーファは思い切り翅を鳴らした。


 じっとりと冷たい指先が自分の二の腕を這い回る感触に、アスナはひたすら耐えていた。
 鳥かごの中央、巨大なベッドの上。緑のトーガをだらしなく着崩したオベイロンが長々と体を横たえ、隣に顔を背けて座るアスナの左手を取って肌を撫でまわしている。その気になればいつでも襲える、という状況を楽しんでいるのだろう、端正な作り物の顔にはいつにも増して粘つくような笑いが浮かんでいる。
 先刻、オベイロンが鳥かごに入ってくるなりベッドに横たわり、隣に来いと言ったときは無論拒絶してやろうと思ったし、腕をいじくりはじめた時は殴りかかってやろうと思った。それでも、嫌悪感に耐えて唯々諾々と言葉に従ったのは、感情の起伏が激しいこの男に、今以上に自由を奪われるのを恐れたからだ。むしろオベイロンはアスナが反抗するのを待っているフシがある。たっぷりとアスナが嫌がる様を満喫した上で、システム的に束縛してから挙に及ぼうと言うのだろう。今はまだ、せめて籠の内部だけでも自由に動ける状態を確保しておかなければならない。――少しでも脱出の可能性が残されているうちは。
 しかし勿論限度というものがある。もしこの男が体に触れてきたら、右拳を思い切り顔の真ん中に叩き込んでやろう――。そう思いながらアスナが石のように身を固くしていると、いくら腕を撫で回してもアスナが何の反応も見せないことに失望したのか、オベイロンは手を離すとごろりと体を上向けた。
「やれやれ、頑なな女だね、君も」
 少々不貞腐れたように言う。その声だけは、記憶にある須郷のものを完全に再現していて、それがまた嫌悪の元になる。
「どうせ偽物の体じゃないか。何も傷つきゃしないよ。一日中こんな所にいて退屈するだろう? 少しは楽しもうって気にならないのかねえ」
「……あなたにはわからないわ。体が生身か、仮想かなんてことは関係ない。少なくともわたしにとってはね」
「心が汚れるとでも言いたいのかね」
 オベイロンは喉の奥でくくっと笑った。
「どうせこの先、僕が地位を固めるまでは君を外に出すつもりはない。今のうちに楽しみ方を学んだほうが賢明だと思うけどねえ。あのシステムは実に奥が深いよ、知ってた?」
「興味ないわ。……それに、いつまでもここにいるつもりもない。きっと……助けに来るわ」
「へえ? 誰が? ……ひょっとして彼かな? 英雄キリト君」
 その名前を聞いて、アスナは思わずびくりと体を震わせた。オベイロンはニヤニヤ笑いを大きくしながら上体を起こした。アスナの心をくじくスイッチをよくやく見つけた――と言わんばかりに、勢い良く喋りはじめる。
「彼……キリガヤ君とか言ったかな? 本名は。先日、会ったよ。向こうでね」
「……!!」
 それを聞いた途端、アスナはさっと顔を上げ、オベイロンを正面から見つめた。
「いやあ、あの貧弱な子供がSAOをクリアした英雄とはとても信じられなかったね! それとも、そういうモノなのかな、筋金入りのゲームマニアってのは?」
 嬉々とした表情で、オベイロンがまくし立てる。
「彼と会ったの、どこだと思う? ……君の病室だよ、本当の体がある、ね。寝ている君の前で、来月この子と結婚するんだ、と言ってやったときの彼の顔は実に傑作だったね!! 骨を取り上げられた犬だってあんな情けない顔はしないね、大笑いしそうになったよ!!」
 くひっ、くひっと妙な笑い声を切れ切れに発しながら、オベイロンは体を捩った。
「じゃあ君は、あんなガキが助けにくると信じているわけだ! 賭けてもいいけどね、あのガキにはもう一回ナーヴギアを被る根性なんてありゃしないよ! 大体君のいる場所がわかる筈がないだろうに。そうだ、彼に結婚式の招待状を送らないとな。きっと来るよ、君のウェディングドレス姿を見にね。まあそれくらいのおこぼれは与えてやらないとね、英雄君に!」
 アスナは再びゆっくりうつむくと、オベイロンに背を向け、体をベッドの天板に掛けられた大きな鏡に預けた。力なく肩を落とし、クッションをぎゅっと握り締める。
 そのアスナの様子に満足したのか、鏡の中でオベイロンがベッドから降り、立ち上がった。
「あの時は監視カメラを切っておいたから、しょぼくれた彼を撮影できてないのは惜しかったなぁ。もし撮れてれば動画を持ってきてやったのに。次の機会があったら試みるよ。ではしばしの別れだ、ティターニア。明後日まで、寂しいだろうが堪えてくれたまえ」
 最後に一回ククッと笑うと、オベイロンは身を翻した。トーガの裾を揺らしながら、ドアに向かって歩いていく。
 鏡の中に、小さくなるオベイロンの姿を捉えながら、アスナはすすり泣く様子を装いつつ心の中で思い切り叫んだ。
(――馬鹿な男!!)
 まったく、頭はいいのかもしれないが実に愚かな男だ。昔からそうだった。他人を言葉でこき下ろす衝動が我慢できないのだ。アスナの両親の前ではうまく猫を被っていたが、アスナや兄は、須郷の他人に対する毒舌には何度も辟易とさせられていた。
 今も、そうだ。本当にアスナの心を折ろうとするなら、彼は現実世界でのキリトのことを話すべきではなかった。彼は死んだと言うべきだったのだ。
 この世界に囚われてからの、それがアスナの最大の憂慮だった。自分だけがこの世界に転送され、キリトの意識は消滅してしまったのではないか――、必死に打ち消しながらも、その想像はアスナの心に毒を垂らしつづけた。
 しかし今や、オベイロンがその憂慮をきれいに打ち払ってくれた。
(キリト君は――生きてる!!)
 何度も、心の中でその言葉を噛み締める。その度に、アスナの中に灯った炎は確固としたものになっていく。
 生きているなら、彼が状況を黙視しているはずがない。絶対にこの世界のことを探り出し、やってくる。だから、自分もただ囚われているわけにはいかない。出来る事を見つけ出し――躊躇せず実行に移すのだ。
 アスナは、鏡に顔をつけて悲嘆に暮れる様を装った。鏡の中では、はるか遠くのドアにたどり着いたオベイロンが、こちらをちらりと振り返り、アスナの様子を確認している。
 ドアの脇には小さな金属のプレートがあり、そこには十二の小さなボタンが並んでいる。それを正しい順で押すことによってドアが開閉するのだ。
 何もそんな厄介な仕組みにしなくても、管理者属性の者だけがドアを開けられるようにすればいいではないかと思ったが、どうやらオベイロンには彼なりの美学があって、この場所にシステム臭のするものを持ち込むのが嫌いらしい。あくまで自分は妖精の王であり、囚われの王妃を虐げているつもりなのだ。
 それもまた、彼の愚かしさであり(キズ)だ。
 オベイロンが手を上げ、金属板を操作している。彼の立つ場所はアスナからは遠く、遠近エフェクトによってディティールが減少し、どのボタンを押しているのかはわからない。それを確認済ゆえに、オベイロンはそんなシステムでもこの檻は磐石だと思っている。
 それはその通りだ――オベイロンを直接見る場合に限っては。
 彼はナーヴギアの作り出す仮想世界に触れてまだ間がない。だから知らないこともたくさんある。例えば、この世界の鏡は光学現象ではない、ということをだ。
 アスナは泣くふりをしながら、至近距離から鏡に目を凝らした。そこには、くっきりとオベイロンの姿が映し出されている。現実の鏡なら、どんなに顔を近づけても遠くにあるものが詳細に見えたりはしないが、ここではオブジェクトとしての鏡の表面に微細なピクセルを用いて、映るべきものが計算され、表示されているのだ。遠近エフェクトも、鏡の中までは及ばない。指先の動きがはっきりと見える。
 このアイデアを思いついたのはかなり前だ。しかし、オベイロンが部屋を出るときに、自然に鏡に近づくチャンスが今日までなかった。この機を逃すわけにはいかない。
(……8……11……3……2……)
 オベイロンがボタンを押す順番を、アスナはしっかりと心に刻み付けた。やがてドアが開き、オベイロンがそこをくぐるとガシャリと音を立てて閉まった。黒地に碧玉色の翅を揺らしながら妖精王は樹上の道を遠ざかっていき、やがてその姿が消えた。

 中天に輝く太陽が、鳥かごの中に格子状の影を作り出していた。その碁盤模様がゆっくりと伸びていくのを、アスナはじりじりしながら待ちつづけた。
 現在分かっていることは、そう多くはない。
 ここが『アルヴヘイム・オンライン』という、SAOタイプのバーチャルMMOゲームの内部で、信じがたいことだがそのゲームは正式にユーザーを募って運営されていること。オベイロン/須郷はそのサーバーを利用して元SAOプレイヤーの一部、約二千人の"頭脳を監禁"し、違法な人体実験に使用していること。それだけだ。
 なぜ世間に知られたゲーム内で違法実験を行うような危険な真似をするのか聞いてみたところ、須郷は鼻を鳴らして答えた。――君ねえ、この種のターミナルを動かすのに幾らかかるのか知ってるのかい? サーバ一台でウン千万だよ! こうすれば会社は利益を上げられるし僕は研究ができる、一石二鳥じゃないかね。
 つまりは財布の事情だったわけだが、それはアスナにとっても都合がいいことだった。完全にクローズドな環境なら手の出しようがないが、現実世界と繋がっているならばどこかにきっと綻びがある。
 この世界での一日が、現実よりいくぶん早く経過しているのはオベイロンからそれとなく聞き出してあった。つまり、現実では今が何時なのかを推測するのは容易なことではないが、その難問に対する回答はまたしてもオベイロン本人が意図せず提供してくれていた。
 彼がここにやってくるのは二日に一度、業務が終了してから、会社の端末を使用してダイブしているのだということが分かっている。生活のサイクルを守ることに固執する彼の性癖はよく知っているので、その時間はほぼ一定と考えていい。ゆえに行動を起こすなら、彼が帰宅し、眠りについてからのほうが望ましい。
 無論、この陰謀に関わっているのは彼一人ではないだろう。だがこれは明らかな犯罪行為だ。ALO運営企業全体が荷担しているとは考えにくい。よくて数人――。それが皆須郷直属の部下なのだとしたら、夜通しALO内部を監視するのはほとんど不可能なはずだ。毎晩徹夜できるサラリーマンなどいるはずがない。
 どうにか彼らの目をくぐり抜けてこの鳥かごから脱出し、どこかにあるであろうシステム端末にアクセスしてログアウトしてしまえば。それが不可能でも外部にメッセージさえ送れれば――。ベッドの上にうつ伏せになり、枕に顔を押し当てた格好で、アスナはひたすら時間が経過するのを待ちつづけた。



 リーファは半ば感嘆し、半ば呆れながらキリトの戦闘を眺めていた。
 シルフ領の北東に広がる『古森』の上空、もう少しで森を抜けて高原地帯に差し掛かる辺りだ。スイルベーンはもはや遥か後方に遠ざかり、どんなに目を凝らしても翡翠の塔を見分けることはできない。
 いわゆる中立域の奥深くに分け入っているために、出現するモンスターの強さもかなりのレベルになりつつある。今キリトが三匹を同時に相手にしている、羽の生えた単眼の大トカゲ『イビルグランサー』もシルフ領の初級ダンジョンならボス級の戦闘力を持っている。
 基本ステータスもさることながら、厄介なのは大きな紫の一ツ眼から放つ『呪念』――カース系の魔法で、食らうと大幅な一時的ステータスダウンを強いられる。ゆえにリーファは距離を取って援護に徹し、キリトにカースが命中するたびに解呪魔法をかけているのだが、正直に言ってその必要があるのかどうかも怪しいところだ。
 身長に迫るほどの巨剣を握ったキリトは、防御や回避といった言葉は辞書にない、と言わんばかりのバーサークっぷりを見せて次々とトカゲと叩き落としていった。尾を使ったトカゲの遠距離攻撃など意に介するふうもなく、巨剣を振り回しながら突進しては時に数匹を一度にその暴風に巻き込み、切り刻む。恐るべきはその一撃の威力で、当初は五匹いたイビルグランサーはあっという間にその数を減らし、最後の一匹はHPを残り二割程度に減らされたところで逃走に移った。情けない悲鳴を上げながら森に逃げ込もうとする奴に向かってリーファは左手をかざすと、遠距離ホーミング系の真空攻撃魔法を発射。緑色に輝くブーメラン状の刃が四〜五枚宙を疾り、トカゲの体に絡みつくようにその鱗を切り裂いた。直後、青い爬虫類の巨体はポリゴンの欠片となって四散し、この日五度目の戦闘はあっけなく終了した。
 大きな金属音と共に剣を鞘に落とし込み、宙をふわふわと近づいてきたキリトに向かってリーファは右手を上げた。
「おつかれー」
「援護サンキュー」
 ぱしんと手のひらを打ち付け合って、笑みを交わす。
「しっかしまあ……何ていうか、ムチャクチャな戦い方ねえ」
 リーファが言うと、キリトは頭をかいた。
「そ、そうかな」
「普通はもっと、回避を意識してヒットアンドアウェイを繰り返すもんだけどね。キミのはヒットアンドヒットだよ」
「その分早く片付いていいじゃないか」
「今みたいな一種構成のモンスターならそれでもいいけどね。近接型と遠距離型の混成とか、もしプレイヤーのパーティーと戦闘になった時は、どうしても魔法で狙い撃たれるから気をつけないとだめだよ」
「魔法ってのは回避できないのか?」
「遠距離攻撃魔法には何種類かあって、威力重視で直線軌道の奴は、方向さえ読めれば避けられるけど、ホーミング性能のいい魔法や範囲攻撃魔法は無理ね。それ系の魔法を使うメイジがいる場合は常に高速移動しながら交錯タイミングをはかる必要があるわ」
「ふむう……。覚えることが沢山ありそうだなあ」
 キリトは難解な問題集を与えられた子供のような顔で頭をかいた。
「まあ、キミならすぐに勘がつかめる……と思うよ。目はいいみたいだしね。現実でスポーツか何かやってるの?」
「い、いやまったく」
「ふうん……。ま、いっか。さあ、先に進みましょう」
「おう」
 頷きあうと、二人は翅を鳴らして移動を再開した。傾きはじめた太陽に照らされ、緑金色に輝く草原が森の彼方に姿を現しつつあった。

 その後はモンスターに出会うこともなく、二人はついに古森を脱して山岳地帯へ入った。ちょうど飛翔力が限界に来たので、山の裾野を形成する草原の端に降下することにする。
 靴底を草に滑らせながら着地したリーファは、両腕を上げて大きく伸びをした。生身の体には無い器官なのに、長時間の飛行をすると不思議に翅の根元が疲労するような感覚に襲われる。数秒遅れて着陸したキリトも同じように腰に手をあてて背筋を伸ばしている。
「ふふ、疲れた?」
「いや、まだまだ!」
「お、頑張るわね。……と言いたいとこだけど、空の旅はしばらくお預けよ」
 リーファの言葉に、キリトは眉を上げた。
「ありゃ、何で?」
「見えるでしょう、あの山」
 草原の先にそびえ立つ、真っ白に冠雪した山脈を指差す。
「あれが飛行限界高度よりも高いせいで、山越えには洞窟を抜けないといけないの。シルフ領からアルンへ向かう一番の難所、らしいわ。あたしもここからは初めてなのよ」
「なるほどね……。洞窟か、長いの?」
「かなり。途中に中立の鉱山都市があって、そこで休めるらしいけど……。キリト君、今日はまだ時間だいじょぶ?」
 キリトは右手を振ってウインドウを出すと時計を確認し、頷いた。
「リアルだと夜7時か。俺は当分平気だよ」
「そう、じゃもうちょっと頑張ろう。ここで一回ローテアウトしよっか」
「ろ、ろーて?」
「ああ、交代でログアウト休憩することだよ。中立地帯だから、即落ちできないの。だからかわりばんこに落ちて、残った人がシルエット……プレイヤーの入ってないキャラクターを守るのよ」
「なるほど、了解。リーファからどうぞ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。十分ほどよろしく!」
 言うと、リーファはウインドウを出し、ログアウトボタンを押した。警告メッセージのイエスボタンに触れると、周囲の風景が中央の一点に流れ込むかのごとく遠ざかり、消えていった。

 ベッドの上で覚醒した直葉は、アミュスフィアを外すのももどかしく飛び起きると、部屋から出た。足音を殺しながら階段を駆け下りる。雑誌の校了日が近いので翠はまだ帰っておらず、和人も自室にいるのか一階はしんと静まり返っていた。
 冷蔵庫を開け、買い置きのベーグル三つと生ハムやクリームチーズ、野菜類を次々と取り出す。丸いパンを手早くスライスして、薄くマスタードを塗ってからハムその他をどさどさと挟み、完成したベーグルサンドを皿に移す。小さなミルクパンに牛乳を注ぎ、レンジにかけてから直葉は再び階段まで戻り、二階に向かって呼びかけた。
「お兄ちゃん、ご飯どうするー?」
 ……だが返事はない。寝ているのかな、と肩をすくめ、台所へ取って返す。薄く湯気の立ち始めたミルクを大きなマグカップに注ぎ、皿と一緒にリビングテーブルの上に移動。いただきます、と小声で言って、即席の食料に大きく一口かぶりついた。
 本当は、VRMMOにかまけてこういう食事をすると翠に叱られてしまうので、なるべく団体行動は夕食時にかからないように注意しているのだ。だが今回ばかりはそうもいかない。多分キリトとの旅は明日いっぱい、ヘタをするとその翌日までかかってしまうだろう。性分なのか直葉は長時間のパーティープレイが苦手で、日をまたぐような場合はどうしても気詰まりになってしまうのだが、不思議に今回はそれがなかった。それどころか――
(あたし、わくわくしてる……)
 もぐもぐと咀嚼しながら胸の中で呟く。あの謎めいた少年(と、更に謎めいたピクシー)と未知の世界を冒険することを考えただけで気持ちが浮き立つ。
 思い返せば、昔は毎日がそんな感じだった。強くなるにつれ少しずつ行動範囲が広がり、見知らぬ場所の上空を飛ぶだけでドキドキしたものだ。でも、シルフ領の中で、古参の有力プレイヤーとして持ち上げられ、知識と同時に色んなしがらみが増えていき――気づかないうちに毎日が惰性の中に埋もれていった。種族全体のために戦うという義務が、翼に見えない鎖をかけていたのだ。
 ALOで領地を捨てた者を指す言葉「レネゲイド」、それは本来「背教者」という意味の英単語なのだと言う。義務として課せられた教えを捨て、国を追われた人々……今まではみじめな裏切り者というイメージを重ねていた彼らの胸中にも、もしかしたら一片の誇りがあったのかもしれない――。
 漠然とそんなことを思いながら、直葉はベーグルサンドの最後のひとかけらを口に放り込み、ホットミルクと一緒に飲み下した。残った二つのベーグルにラップをかけ、メモ用紙を一枚剥ぎ取って、「お兄ちゃんへ、お腹が空いたら食べてね」と走り書きをして皿の下に挟む。
 時計を見ると、そろそろ落ちてから十分が経過しつつあった。あわてて食器を洗い、トイレを済ませて、部屋に駆け戻る。
 ベッドに体を横たえ、サスペンド状態のアミュスフィアを被ると、すぐに草原の微風がさわやかな香りで直葉――リーファを迎えた。

「お待たせ! モンスター出なかった?」
 待機姿勢――片膝立ちでしゃがみこんだ格好――から立ち上がり、リーファが言うと、傍らに寝転がっていたキリトは口から緑色の曲がったストロー状のものを離し、頷いた。
「おかえり。静かなもんだったよ」
「……それ、ナニ?」
「雑貨屋で買い込んだんだけど……スイルベーン特産だってNPCが言ってたぜ」
「あたし知らないわよ、そんなの」
 するとキリトはそれをひょいっと放ってきた。片手で受け止め、ドギマギする心を素知らぬ顔で隠して端っこを咥える。一息吸うと、甘い薄荷の香りがする空気が口に広がった。
「じゃ、今度は俺が落ちる番だな。護衛よろしく」
「うん、行ってらっしゃい」
 キリトがウインドウを出し、ログアウトすると、自動的にその体が待機姿勢を取った。その横に腰を下ろして、ぼんやりと空を眺めながら薄荷味のパイプを吸っていると、キリトの胸ポケットからもぞもぞとユイが姿を現してリーファを仰天させた。
「わぁ! ……あ、あなた、ご主人様がいなくても動けるの?」
 するとユイは当然といった顔で小さな手を腰にあて、頷いた。
「そりゃそうですよー。わたしはわたしですから。それと、ご主人様じゃなくて、パパです」
「そういえば……なんであなたはキリトのことパパって呼ぶの? マサカそういう設定なの?」
「……パパは、わたしを助けてくれたんです。俺の子供だ、ってそう言ってくれたんです。だからパパです」
「そ、そう……」
 やはりどうにも事情が飲み込めない。
「……パパのこと、好きなの?」
 リーファが何気なく訊ねると、ユイはふいに真剣な表情でまっすぐ見つめ返してきた。
「リーファさん……好きって、どういうことなんでしょう?」
「ど、どうって……」
 思わず口篭もる。しばらく考えてから、ぽつりと答えた。
「……いつでも一緒にいたい、一緒にいるとどきどきわくわくする、そんな感じかな……」
 脳裏に和人の笑顔がよぎり――なぜかそれが、目の前で瞼を閉じてうつむくキリトの横顔と重なって、リーファははっと息を飲んだ。心の奥底に隠した和人への思慕とよく似たものをいつの間にかキリトにも感じているような、そんな気がしてしまって、思わず頭をぶんぶんと振り払う。怪訝な顔でユイが首をかしげる。
「どうしたんですか、リーファさん?」
「なななんでもない!」
 つい大声で叫んだ、その途端――
「何がなんでもないって?」
「わっ!!」
 いきなりキリトが顔を上げて、リーファは文字通り飛び上がった。
「ただいま。……何かあったの?」
 激しく動揺するリーファに怪訝な目を向けながら、キリトは待機姿勢から起立した。するとその肩に乗ったままのユイが言った。
「おかえりなさい、パパ。今、リーファさんとお話をしてました。人を好――」
「わあ、なんでもないんだったら!!」
 慌ててその言葉を遮りながらリーファも立つ。
「それより、さっさと出発しましょう。遅くなる前に鉱山都市までたどり着けないと、ログアウトに苦労するから。さ、洞窟の入り口までもう少し飛ぶよ!」
 早口でまくし立てると、キリトとユイは揃って首をかしげた。それに構わず翅を広げ、軽く震わせる。
「あ、ああ。じゃあ、行こうか」
 腑に落ちない顔ながらもキリトも翅を展開し――突然ふいっと、今まで飛んできた森の方に振り向いた。
「……? どうかしたの?」
「いや……」
 声をかけると、キリトは思いがけず厳しい顔でうっそうと繁る木立の奥を見据えている。
「なんか、誰かに見られた気が……。ユイ、近くにプレイヤーはいるか?」
「いいえ、反応はありません」
 ピクシーは小さな頭をふるふると動かした。だがキリトはなおも納得できない様子で眉をしかめている。
「見られた気が、って……。この世界にそんな第六感みたいなもの、あるの?」
 リーファが聞くと、キリトは右手で顎を撫でながら答えた。
「……これが中々バカにできないんだよな……。例えば誰かがこっちを見ている場合、そいつに渡すデータを得るためにシステムが俺たちを『参照』するわけだけど、その流れを脳が感じるんじゃないか……という説もある」
「は、はあ……」
「でもユイに見えないなら誰も居ないんだろうしなあ……」
「うーん、ひょっとしたらトレーサーが付いてるのかも……」
 リーファが呟くと、キリトは眉を上げた。
「そりゃ何だい?」
「追跡魔法よ。大概ちっちゃい使い魔の姿で、術者に対象の位置を教えるの」
「便利なものがあるんだなあ。それは解除できないの?」
「トレーサーを見つけられれば可能だけど、術者の魔法スキルが高いと、対象との間に取れる距離も増えるから、こんなフィールドだとほとんど不可能ね」
「そうか……。まあ、気のせいかもしれないしな……。とりあえず先を急ごうぜ」
「うん」
 頷きあい、リーファとキリトは地を蹴って浮かび上がった。間近に迫った白い山脈は絶壁の如くそびえ立ち、その中腹にぽっかりと口を開けた洞窟が見て取れる。不吉な黒い冷気を吐き出しているかのような巨大な穴目指して、リーファは力いっぱい翅を鳴らし、加速を始めた。
 数分の飛行で、二人とひとりは洞窟の入り口までたどり着いた。
 ほぼ垂直に切り立った一枚岩の岩盤の中央に、巨人の鑿で穿たれたかの如き四角い穴が開いている。幅も高さも、リーファの背丈の三、四倍はありそうな大きさだ。遠くからはわからなかったが、入り口の周囲は不気味な怪物の彫刻で飾られ、上部中央には一際大きな悪魔の首が突き出して侵入者を睥睨している。
「……この洞窟、名前はあるの?」
 キリトの問いに、リーファは頷きつつ答えた。
「『ルグルー回廊』って言うのよ、確か。ルグルーってのが鉱山都市の名前」
「ふうん。……昔の映画だけどさ、『ロードオブザリング』って観たことある?」
 にやにや笑うキリトの顔を横目で睨む。和人の部屋に、数年前出た愛蔵版のBDVDがあったので、勝手に借りて三作とも観ていた。
「……あるわよ。山越えで地下を通ると、でっかい悪魔に襲われるんでしょ。あいにくだけどここに悪魔は出ませんからね」
「そりゃ残念」
「あ、オークは出るらしいわよ。そんなに楽しみなら全部お任せしますわね」
 つん、とそっぽを向くと、リーファはすたすたと洞窟の中へと歩き出した。
 洞窟の中はひんやりと涼しく、外から差し込む光はすぐに薄れ、周囲を暗闇が覆いはじめた。魔法で灯りをともそうと手を上げてから、ふと思いついて、横を歩くキリトを見る。
「そう言えば、キリト君は魔法スキル上げてるの?」
「あー、まあ、そこそこに……。使ったことはあんまりないけど……」
「洞窟とかはスプリガンの得意分野だから、灯りの術も風魔法よりはいいのがあるはずなのよ」
「えーと、ユイ、分かる?」
 頭をかきながらキリトが言うと、胸ポケットから顔だけ出したユイがどこか教師然とした口調で言った。
「もう、パパ、マニュアルくらい見ておいたほうがいいですよ。灯りの魔法はですね……」
 ユイが一音ずつ区切るように発声したスペルワードを、キリトは右手を掲げながら覚束ない調子で繰り返した。すると、その手から仄白い光の波動が広がり、それがリーファの体を包んだ途端、すっと視界が明るくなった。どうやら光源を発生させて周囲を照らすのではなく、対象に暗視能力を付与する魔法らしい。
「わあ、これは便利ね。スプリガンも捨てたもんじゃないわね」
「あ、その言われ方なんか傷つく」
「うふふ。いやでも実際、使える魔法くらい暗記しておいたほうがいいわよ。いくらスプリガンのしょぼい魔法でも、それが生死を分ける状況だってひょっとすると無いとも限らないし」
「うわ、さらに傷つく!」
 軽口を叩きながら、曲がりくねった洞窟を下っていく。いつの間にか、入り口の白い光はすっかり見えなくなっていた。

「うええーと……アール・デナ・レ……レイ……」
 キリトは、紫に発光するリファレンスマニュアルを覗き込み、覚束ない口調でスペルワードをぶつぶつと呟いた。
「だめだめ、そんなにつっかえたらちゃんと発動できないわよ。スペル全体を機械的に暗記しようとするんじゃなくて、まずそれぞれの『力の言葉』の意味を覚えて、魔法の効果と関連付けるようにして記憶するのよ」
 リーファが言うと、黒衣の剣士は深いため息とともにがっくりとうな垂れる。
「まさかゲームの中で英熟語の勉強みたいな真似することになるとは思わなかったなぁ……」
「言っときますけど上級スペルなんて二十ワードくらいあるんだからね」
「うへぇ……。俺もうピュアファイターでいいよ……」
「泣き言いわない!! ほら、最初からもう一回」
 ――洞窟に入ってすでに二時間が経過していた。十回を越えるケイブオーク相手の戦闘も難なく切り抜け、スイルベーンで仕入れておいたマップのお陰で道に迷うこともなく、順調に路程を消化している。マップによればこの先には広大な地底湖にかかる橋があり、それを渡ればいよいよ地底鉱山都市ルグルーに到着することになる。
 ルグルーは、ノーム領の首都たる大地下要塞ほどではないが良質の鉱石を産し、商人や鍛冶屋プレイヤーが多く暮らしているということだったが、ここまでの行程で他のプレイヤーと出会うことはなかった。この洞窟は、狩場としてはそれほど実入りのいい場所ではないし、何より飛行が身上のシルフゆえ、飛べない場所は敬遠する者が多いのだろう。洞窟内は幅も高さも充分あるのだが、飛翔力が一切回復しないのだ。
 シルフのプレイヤーで交易のためにアルンを目指す者は、かかる時間は大幅に増えてしまうが、シルフ領の北にあるケットシー領を経由し、山脈を迂回する場合が多い。猫に似た耳と尻尾を持つ種族ケットシーはモンスターや動物を飼い馴らすスキル「テイミング」が得意で、テイムした騎乗動物を昔からシルフ領に提供してきた縁があるためシルフとは伝統的に仲がいい。領主同士の関係も良好で、近いうちに正式に同盟を結ぶという噂もある。
 リーファにも親しいケットシーの友人が何人かいるために、今回のアルン行きも北回りルートを取ろうかと考えたが、キリトが急ぐ様子だったので山越えを選んだ。地下深く潜るのは正直不安もあったけれど、この調子ならさして問題もなく突破できそうだった。
 ――そう言えば、キリトが何故それほどアルン……世界樹へ急ぐのか、その理由も謎のままだ。飄々とした態度からはなかなか内心がうかがい知れないが、戦闘の様子を見るとどうやらかなり気が急いているようでもある。
 確か人を捜している――というようなことを言っていたような覚えがあった。リアルで連絡が取れない相手をゲーム内部で捜す、というのは、実はそれほど珍しい話でもない。雑貨屋の店先にある掲示板の尋ね人コーナーには、常に「捜しています」の書き込みが後を絶たない。大概その理由は恨みつらみか色恋沙汰のどちらなのだが、しかしそのどちらもキリトには似合わない気がした。それに――アルンで捜す、ならわかるがなぜ世界樹なのか。あそこは今のところ不可侵領域であり、たとえ根元までは辿りつけても上部に登ることは不可能なのだ……。
 スペルワードに悪戦苦闘し続けているキリトの隣を歩きながら、リーファはぼんやりと取り留めのない思考に身を任せていた。普段なら中立地帯で物思いにふけるなど自殺行為だが、この旅に限ってはユイが恐るべき精度でモンスターの接近を予告してくれるために不意打ちの心配はない。
 更に数分が経過し、いよいよ地底湖が間近に迫りつつあったその時、リーファの意識を呼び覚ましたのはユイの警告ではなくルルルル、という電話の呼び出し音にも似たエフェクト音だった。
 リーファはハッと顔を上げ、キリトに声をかけた。
「あ、メッセージ入った。ごめん、ちょっと待って」
「ああ」
 立ち止まり、体の前方、胸より少し低い位置に表示されたアイコンを指先で押す。瞬時にウインドウが展開し、着信したフレンドメッセージが表示された。――と言ってもリーファがフレンド登録しているのは(不本意ながら)レコンただ一人なので、差出人は読む前からわかっていた。どうせまた益体もない内容だろうと思いながら目を走らせる。だが――
『やっぱり思ったとおりだった! 気をつけて、s』
 書かれていたのはこれだけだった。
「なんだこりゃ」
 思わず呟く。まったく意味を成していない。何が思ったとおりなのか、何に気をつけろというのか、そもそも文末の「s」というのは何なのだ。署名ならばLのはずだし――書きかけで送信したのだろうか?
「エス……さ……し……す……うーん」
「どうしたの?」
 不思議そうな顔のキリトに、内容を説明しようとした、その時だった。彼の胸ポケットからぴょこんとユイが顔を出した。
「パパ、接近する反応があります」
「モンスターか?」
 キリトが背中の巨剣の柄に手を掛ける。だが、ユイはふるふると首を振った。
「いえ――プレイヤーです。多いです……二十三人」
「にじゅう……!?」
 リーファは絶句した。通常の戦闘単位にしては多すぎる。ルグルーもしくはアルンを目指す交易キャラバンだろうか。
 確かに、月に一回ほどのペースでスイルベーンと中央を往復する大パーティーが組まれている。しかしあれは出発数日前から大々的に告知して参加者を募るのが慣例だし、朝に掲示板を覗いた時にはそのような書き込みは無かった。
 しかし正体不明の集団であろうとも、それがシルフである限り危険はないし、まさかこんな場所に異種族の集団PKが出るとも思わなかったが、何となく嫌な感じがしてリーファはキリトに向き直った。
「ちょっとヤな予感がするの。隠れてやり過ごそう」
「しかし……どこに……」
 キリトは戸惑ったように周囲を見回す。長い一本道の途中で、幅は広いが身を隠せるような枝道のたぐいは見当たらない。
「ま、そこはオマカセよん」
 リーファはすました笑みを浮かべるとキリトの腕を取り、手近な窪みに引っ張り込んだ。照れくささを押し隠して体を密着させると、左手を上げてスペルを詠唱する。
 すぐに緑に輝く空気の渦が足許から巻き起こり、二人の体を包み込んだ。視界は薄緑色に染まったが、外部からはほぼ完全に隠蔽されたはずだ。リーファはかたわらのキリトの顔を見上げ、小声で囁いた。
「喋るときは最低のボリュームでね。あんまり大きい声出すと魔法が解けちゃうから」
「了解。便利な魔法だなあ」
 キリトは目を丸くして風の膜を見回している。そのポケットから顔を出したユイも、難しい顔をしてひそひそと囁いた。
「あと二分ほどで視界に入ります」
 二人は首を縮め、岩肌に体を押し付ける。緊迫した数秒が過ぎ、やがてリーファの耳にザッザッという足音がかすかに届いてきた。その響きの中に、重い金属音の響きが混じった気がして、あれ、と内心で首を傾げたとき――。
 キリトがひょいと首を伸ばし、不明集団が接近してくる方向を睨んだ。
「あれは……何だ?」
「何? まだ見えないでしょ?」
「プレイヤーは見えないけど……。モンスターかな? 赤い、ちっちゃいコウモリが……」
「!?」
 リーファは息を呑んで目を凝らした。洞窟の暗闇の中に――確かに小さな赤い影がひらひらと飛翔し、こちらに近づいてくる。あれは――
「……くそっ」
 無意識のうちに罵り声を上げると、リーファは窪みから道の真ん中に転がり出た。自動的に隠蔽魔法が解除され、キリトも途惑い顔で体を起こす。
「お、おい、どうしたんだよ」
「あれは、高位魔法のトレース・サーチャーよ!! 潰さないと!!」
 叫びながら両手を前方に掲げ、スペル詠唱を開始。長めのワードを唱え終わると、リーファの両手の指先からエメラルド色に光る針が無数に発射された。ビィィィ、と空気を鳴らし、赤いコウモリ目掛けて針が殺到していく。
 コウモリはふわりふわりと宙を漂い、巧みに射線から身をかわし続けたが、やがて弾数の多さに屈したように数本の針に貫かれると地面に墜落し、赤い光を発して消滅した。それを確認するやリーファは身を翻し、キリトに向かって叫んだ。
「街まで走るよ、キリト君!!」
「え……また隠れるのはダメなのか?」
「トレーサーを潰したのは敵にももうわかってる。この辺に来たら山ほどサーチャーを出すだろうから、とても隠れきれないよ。それに……さっきのは火属性の使い魔なの。ってことは、今接近してるパーティーは……」
「サラマンダーか!」
 察しのいいところを見せてキリトも顔をしかめた。そのやり取りの間にも、ガシャガシャという金属音の混じった足音は大きくなっていく。リーファがもう一度ちらりと振り返ると、彼方の暗闇にちらりと赤い光が見えた。
「行こう」
 頷きあい、二人は走り出した。
 一目散に駆けながらマップを広げて確認すると、この一本道はもうすぐ終わり、その先に大きな地底湖が広がっていた。道は湖を貫く橋に繋がり、それを渡り終えれば鉱山都市ルグルーの門に飛び込むことができる。街の中はアタック不可能圏内なので、いかに敵の数が多くとも何もすることはできない。
 でも、どうしてこんなところにサラマンダーの大集団が……。
 リーファは唇を噛んだ。トレーサーに付けられていたということは、連中は最初からリーファ達を狙っていたということだ。しかしスイルベーンを出てからは、ユイのサーチ能力のせいでそんな隙はなかったはずだ。可能性があるとすれば、まだスイルベーンの街中に居たときしかない。
 火属性の魔法を使うシルフもいないわけではない。各属性の魔法は、風ならシルフ、土ならノームというように特定の種族に秀でた適正があるが、習得に苦労するだけでスキルを上げること自体は可能だ。
 だが、さっき潰した赤いコウモリは、目標を追跡するトレーサーと、隠蔽を暴くサーチャーの機能を兼ね備えた高位の術で、サラマンダー以外の種族があれを使えるほどに火魔法スキルをマスターするのは至難の技と言っていい。ということは――
「スイルベーンにサラマンダーが入り込んでいた……?」
 走りながら、リーファは呟いた。もしその想像が的中しているとすれば容易ならざる事態だ。スイルベーンは比較的他種族の旅行者に門戸の開かれた街だが、敵対関係にあるサラマンダーの侵入だけは厳しくチェックしていた。強力なNPCガーディアンが、見つけ次第斬り倒しているはずなのだ。それをかいくぐる手段はごく少ない……。
「お、湖だ」
 右前方を走るキリトの声が、リーファの意識を引き戻した。顔を上げると、ごつごつした通路はすぐ先で石畳の整備された道に変わり、その向こうで空間がいっぱいに開けて、広大な青黒い湖水がほのかに光っていた。
 湖の中央を石造りの橋が一直線に貫き、彼方には空洞の天井までつながる巨大な城門がそびえ立っている。鉱山都市ルグルーの門だ。いっぱいに開かれたその内部に飛び込んでしまえば、この鬼ごっこはリーファ達の勝ちだ。
 わずかに安堵して、リーファは再び後方を振り返った。追手の灯す赤い光とはまだかなりの距離がある。これなら――、そう思って、石畳を蹴る足に力を込める。
 橋に入ると、周囲の温度がわずかに下がった。ひんやりと水の香りがする空気を切り裂いて疾駆する。
「どうやら逃げ切れそうだな」
「油断してコケないでよ」
 キリトと短く言葉と笑みを交わしながら、橋の中央に設けられた円形の展望台に差し掛かった、その時だった。
 ゴゴ、ゴーン! という重い轟音がリーファの耳朶を叩いた。
「!?」
 橋が揺れている。息をのむ間もなく、展望台の少し先の部分に、茶色の光の柱が屹立し――その直後、地面から巨大な岩の壁が地響きとともにせり上がり、二人の行く手を完全に塞いだ。
「な……」
 キリトも一瞬目を丸くしたが、走る勢いは緩めなかった。背の巨剣を鈍い金属音と共に抜き放つと、それと一体になって岩盤に突進していく。
「あ……キリト君!」
 無駄よ、という余裕は無かった。キリトは巨剣を思い切り岩に打ち込み――ガツーン! という衝撃音と共に弾き返されて橋に叩きつけられた。茶色の岩肌には傷ひとつついていない。
「……ムダよ」
 翅を広げて急制動をかけ、その横に停止すると、改めてリーファは言った。キリトは恨めしい顔で立ち上がった。
「もっと早く言ってくれ……」
「キミがせっかちすぎるんだよ。これは土魔法の壁だから剣じゃ破れないわ。攻撃魔法をいっぱい撃ち込めば破壊できるけど……」
「その余裕は無さそうだな……」
 並んで背後を振り返ると、血の色に輝く鎧をまとった集団の先頭が橋のたもとに差し掛かるところだった。
「飛んで回り込む……のは無理なのか。湖に飛び込むのはアリ?」
 キリトの提案に首を横に振る。
「ナシ。ここには超高レベルの水竜型モンスターが棲んでるらしいわ。ウンディーネの援護無しに水中戦するのは自殺行為よ」
「じゃあ戦うしかないわけか」
 巨剣をがしゃりと構えなおしたキリトに向かって、リーファは頷きつつ唇を噛んだ。
「それしかない……んだけど、ちょっとヤバいかもよ……。サラマンダーがこんな高位の土魔法を使えるってことは、よっぽど手練のメイジが混ざってるんだわ……」
 橋の幅が狭いために、多数の敵に一方的に包囲殲滅されるという最悪の展開は避けられそうだった。しかしそもそも二十三対二という圧倒的に不利な戦力差の上、このダンジョン内では飛ぶことができない。リーファの得意な空中での乱戦に持ち込むことができないのだ。
 全ては個々の敵がどれほどの戦闘力を持っているかにかかっている。
(――それもあんまり期待できそうにないけどね……)
 内心で呟きながら、リーファはキリトの隣に立つと長刀を抜いた。重い金属音を響かせながら接近してくる敵集団はすでにはっきりと目視できる。先頭、横一列に並んだ巨漢のサラマンダー三人は、先日戦った連中よりも一回り分厚いアーマーに身を固め――左手にメイスなどの片手武器、右手に巨大な金属盾を携えている。
 それを見て、リーファは一瞬いぶかしく思った。ALO内での利き腕は現実世界と同じなので、サウスポーのプレイヤーはやはり少ないはずなのだ。
 だがその疑問を口にする前に、隣に立つキリトがリーファをちらりと見て、言った。
「きみの剣の腕を信用してないわけじゃないんだけど……ここはサポートに回ってもらえないか」
「え?」
「俺の後ろで回復役に徹してほしいんだ。そのほうが俺も思い切り戦えるし……」
 リーファは改めてキリトが携える片刃の大剣を見やった。確かに狭い橋の上で、味方を気遣いながらあの武器を振り回すのは至難の技だろう。ヒール役は性分ではなかったがリーファはこくりと頷き、トンと地面を蹴って橋を遮る魔法の岩壁ぎりぎりの場所まで退いた。どちらにせよ議論している時間はもうない。
 キリトは腰を落とすと体を捻り、巨剣を体の後ろ一杯に引き絞った。津波のような重圧で三人のサラマンダーが迫る。キリトの大きいとはいえない体が、ぎりぎりと音がしそうな程に捻転していく。蓄積されたエネルギーの揺らぎが目に見えるようだ。両者の距離は見る見るうちに縮まり――
「――セイッ!!」
 気合一閃、キリトは左足をずしんと一歩踏み出すと、青いアタックエフェクト光に包まれた剣を思い切り深紅の重戦士たちに向かって横薙ぎに叩きつけた。空気を断ち割る唸り、橋を揺るがす震動、間違いなくかつてリーファが見た中で最大の威力を秘めた斬撃だった。だが。
「!?」
 リーファは唖然として目を見開いた。三人のサラマンダーは武器を振りかぶることもせず、ぎゅっと密集すると右手の盾を前面に突き出しその陰に体を隠したのだ。
 ガァーン!! という大音響を轟かせ、キリトの剣が並んだタワーシールドの表面を一文字に薙いだ。ビリビリと空気が震え、湖面に大きな波紋が広がった。しかし――重戦士たちは、わずかに後方に押し動かされただけでキリトの攻撃を耐え切った。
 リーファは慌ててサラマンダー達のHPバーを確認した。揃って二割ほど減少している。だがそれも束の間、次の瞬間戦士たちの後方から立て続けにスペル詠唱音が響き、三人の前衛の体を水色の光が包んだ。ヒールの重唱でHPバーが瞬時にフル回復する。そして、同時に――
 金属の城壁にも似たシールドの列の後背からオレンジ色に光る火球が次々に発射され、大空洞の天井一杯に無数の弧を引いて降り注ぐと、キリトの立つ場所に炸裂した。
 湖面を真っ赤に染めるほどの爆発が巻き起こり、小さな黒衣の姿を飲み込んだ。
「キリト君!?」
 リーファは思わず悲鳴にも似た叫びを上げた。キリトのHPバーが恐ろしい勢いで減少していく。いや――、初撃で即死していないのが奇跡と言えた。それほどの高レベル多重魔法攻撃だった。リーファは深い戦慄とともに敵の意図を悟った。
 この敵集団は、間違いなくキリトのことを、彼の凄まじい物理攻撃力のことを知っており、それへの対抗策を練り上げているのだ。
 重武装の前衛三人は一切攻撃に参加せず、ひたすらシールドで身を守る。どんなにキリトの剣の威力が高くとも、体に届かなければ致命的なダメージを受けることはない。そして残る二十人はおそらく、全員がハイクラスのメイジだ。一部が前衛のヒールを受け持ち、それ以外の者が曲線弾道のホーミング魔法で攻撃する。これは、物理攻撃に秀でたボスモンスター攻略用のフォーメーションだ。
 しかし、なぜ。これほどの人数を動員してまでなぜキリトとリーファを狙うのか――。
 その疑問はとりあえず先送りして、リーファは回復魔法の詠唱に入った。ようやく薄れた炎の中から姿を現したキリトに、使える中で最も高位のヒールを連続してかける。だが、キリトのHPの絶対値が高いせいか、思ったほど回復しない。
 キリトも敵の意図を悟ったようだった。持久戦は不利と見てか、大剣を構えなおすと猛然と重戦士の列に打ちかかる。
 だが――、戦闘はすでに単純な数値的問題へと堕していた。
 キリトが剣を振るって与えるダメージは、すぐに後方でヒールタンクと化したメイジ集団によって回復されてしまう。その直後、詠唱を完了した攻撃魔法が降り注ぎ、キリトを爆発の渦に飲み込む。
 個人の技量の介在する余地のない、リーファの最も忌み嫌うパターン戦闘だった。趨勢を決めるのは最早、メイジ集団のマナポイントと、キリトのヒットポイントどちらが先に尽きるかというその一点でしかない。その結果はすでに明らかだった。
 何度目とも知れない火球の雨がキリトを包み込んだ。立て続けに炸裂するオレンジの光がキリトの体を翻弄し、吹き飛ばし、地面に叩きつける。
 あくまでゲームとして「痛み」自体は再現していないALOだが、爆裂系魔法の直撃を受けるのは最も不快な感覚フィードバックのひとつであると言っていい。轟音が脳を揺さぶり、熱感が肌を灼き、衝撃が平衡感覚を痛めつける。その影響は時として現実の肉体にまで及び、覚醒してから数時間頭痛や眩暈に苦しめられることがあるほどだ。
 だがキリトは何度火焔に飲まれても立ち上がり、剣を振りかぶった。回復魔法を空しく唱えながら、リーファはその姿に痛々しいものを感じずにはいられなかった。これはゲームだ。こんな局面に至れば、誰でも諦めて当然なのだ。負けるのは悔しいけれど、システムの上で動かされている以上、どうにもできない数値的戦力差というものがある。なのに、何故――。
 これ以上キリトの姿を見ているのに耐えられなくなり、リーファは数歩駆け寄るとその背中に向かって叫んだ。
「もういいよ、キリト君! また何時間か飛べば済むことじゃない! アイテムだって買えばいいよ! もう諦めようよ……!」
 だがキリトは、わずかに振り返ると、押し殺した声で言った。
「嫌だ」
 その瞳は、周囲を焦がす炎を映して赤く輝いていた。
「俺の目の前で仲間を殺させやしない……絶対に、絶対にだ」
 リーファは言葉を失って立ち尽くした。
 どうにもならない死地に陥った時の反応はプレイヤーによって様々だ。『その瞬間』を笑いに紛らせようとする者、目を固く閉じ、体を縮めて耐えようとする者、最後の最後まで剣を振りつづけようとする者。しかし対処の差はあれ、結局はすべての者が擬似的な『死』に慣れていく。VRMMO-RPGというジャンルのゲームをプレイする上で避けられない事象としてそれぞれに折り合いをつけていくのだ。そうでなければこの『ゲーム』は『遊び』になり得ない。
 だが――キリトの瞳に浮かんだ凄惨とでも言うべき光は、リーファがかつて見たことの無いものだった。システムによって明確に宣告された死をも断固として拒否する、あまりにも烈しい生存の意思。瞬間、リーファはここがゲームの仮想世界であることを忘れた。

「うおああああああ!!」
 仁王立ちになったキリトが吼えた。びりびりと空気が震動した。敵の火力が途切れた一瞬の隙を突き、そびえ立つシールドの壁に無謀としか言えない突進を敢行。剣は右手に下げ、空いた左手をシールドのエッジに掛けると無理矢理にこじ開けようとする。思いがけないアクションに、サラマンダーの隊列が乱れた。わずかに開いた防壁の隙間に、右手の大剣を強引に突き立てる。
 型もなにもあったものではない。攻撃にすらなっていないその行為では、とても効果的なダメージは望めない。だが、狂気とも取れるキリトの行動に、盾の内側から戸惑いの叫びが上がった。
「くそっ、なんだコイツ……!」
 その時、リーファの耳もとで小さな声がした。
「チャンスは今しかありません!」
 見ると、いつの間にかユイが肩に掴まっている。
「チャンス……!?」
「不確定要素は敵プレイヤーの心理状態だけです。残りのMPを全部使って、次の魔法攻撃をどうにか防いでください!」
「で、でも、そんなことしたって……」
 焼け石に水、という言葉をリーファは飲み込んだ。ユイの目は真剣で、キリトと同じ確固たる意思を宿しているように見えたからだ。
 リーファはこくんと頷くと、両手を上空に向かって突き出した。敵メイジ集団は既に火球呪文の詠唱に入っている。しかし、発射タイミングを合わせるためかそのスピードは遅い。リーファは得意の高速詠唱で立て続けにスペルワードを組み上げていく。音ひとつでもトチれば発動がキャンセルされてしまうが、いちかばちかで限界まで口の回転を上げる。
 スペル完成は、リーファのほうがわずかに早かった。掲げたリーファの両手から、無数の小さな蝶が飛び出すと、キリトの体を包み込んでいく。
 直後、敵も詠唱を完了。爆撃機による空爆を思わせる甲高い音を引きながら火球の群が天を切り裂いた。シールドの壁に取り付くキリトを、次々に咲く火焔の花が巻き込み――
「ふっ!」
 リーファは広げた両手に爆圧のフィードバックを感じて歯を食いしばった。キリトを包む防御魔法のフィールドが、爆裂魔法を一つ中和する度に残りのMPががくん、がくんと減っていく。マナ回復ポーションを飲んでいるがとても追いつかない。この爆撃一回を防いだところで何になるのか――と思った、その時。
 リーファの肩に立ったユイが鋭い声で叫んだ。
「パパ、今です!!」
 ハッとして目を凝らす。紅蓮の炎の中、キリトが剣を掲げすっくと直立していた。かすかに呪文の詠唱が届いてくる。スペルワードの断片を、記憶のインデックスと照合する。
(確かこの呪文は……幻惑系最上位の……!?)
 リーファは一瞬息を飲み――そして歯噛みした。今キリトが詠唱しているのは、プレイヤーの見た目をモンスターに変えるという高位魔法だ。だが、実戦での評価は無いに等しい。なぜなら、変化する姿はプレイヤーの攻撃力によってランダムに決定されるのだが、大抵はパッとしない雑魚モンスターになってしまう上、実ステータスの変動が無いということが周知されてしまっては恐れる者などいるはずもないからだ。
 リーファのMPは容赦ない速度で減少していき、ついに残り一割を切った。ユイの言葉に従っていちかばちかの博打に打って出たものの、どうやらダイスは裏目に出たようだった。
 しかし、それも仕方ない――。この手のゲームでは『強さ』のかなりの部分を知識が占める。ゲームを始めて数日のキリトに、膨大な数のスペルひとつひとつの実効力を網羅せよと要求するのは余りに酷というものだ。
 リーファはそう思いながら、両手に最後の力を込めた。敵の火球攻撃の最終波が降り注ぐのと、防護フィールドが消えるのはほぼ同時だった。一際大きく火焔の渦が巻き起こり、ゆっくりと鎮まって――
「え……!?」
 炎の壁の中で、ゆらりと黒い影が動いた。一瞬、目の錯覚かと思った。それが、あまりに巨大だったからだ。
 大男揃いのサラマンダー前衛の、優に三倍の高さがある。視線を凝らすと、背を屈めた巨人のように見えた。
「キリト君……なの……?」
 呆然と呟く。そうとしか考えられない。あれは、キリトが幻影呪文によって変化した姿なのだろうが――しかしあの大きさは――。
 立ち尽くすリーファの眼前で、のっそりと黒い影が頭を上げた。巨人ではなかった。その頭部は山羊のように長く伸び、後頭部から湾曲した太い角が伸びている。丸い目は真紅に輝き、牙の覗く口からは炎に似た息が漏れている。
 漆黒の肌に包まれた上半身には縄のような筋肉が盛り上がり、逞しい腕は地につくほどの長さだ。腰からは鞭のようにしなる尾。禍々しいその姿を表現する言葉は、『悪魔』以外に無かった。
 サラマンダー達も皆凍りついたように動きを止めていた。その場の全員が魂を抜かれたように見守る中、黒い悪魔はゆっくりと天を振り仰ぎ――
「ゴアアアアアアア!!」
 轟くような雄叫びを上げた。今度こそ、誇張でなく世界が震えた。体の底から、原初的な恐怖が沸き起こる。
「ひっ! ひいっ!!」
 サラマンダー前衛の一人が、悲鳴を上げて数歩後退した。その瞬間、恐ろしいスピードで悪魔が動いた。鈎爪の生えた右手を無造作にシールドの列に開いた隙間へと突きこみ、その指先が重武装の戦士の体を貫いた――と見えた次の瞬間、赤いエンドフレイムが吹き上がって、サラマンダーの姿はかき消すように消滅した。
「うわあああ!?」
 たった一撃で仲間が斃れるのを見た残る二人の前衛は、異口同音に恐慌の叫びを上げた。盾を下ろし、左手の武器を振り回しながら、じりじりとあとずさっていく。
 後方のメイジ集団の中から、リーダーのものと思しき怒鳴り声がした。
「馬鹿、姿勢を崩すな! 奴は見た目だけだ、亀になればダメージは通らない!」
 しかしその声は戦士たちには届かなかった。漆黒の悪魔は大音量で吼えながら飛び掛かると、右の戦士を巨大な顎門で頭から咥え、左の戦士を鈎爪で掴み上げた。ゴ、ゴッ! と連続して赤い断末魔の光が疾り、悪魔の口と拳からまるで鮮血のごとく飛び散った。
 三人の前衛が消滅するのに、五秒もかからなかったろう。気を取り直したように再びリーダーの指示が飛び、メイジ集団がスペル詠唱を始めた。だが、アーマーの類は一切身につけず、赤いローブを纏っただけのピュアメイジの集団は、前衛と比べるといかにも脆そうで――シュルルル、と呼気を吐き出しながら屹立した黒い悪魔の前では、刈り入れを待つ麦の穂にも等しかった。
 殺戮が始まった。
 スペル詠唱中のメイジ群に向かって悪魔は大きく右腕を振り上げ、横一文字に薙ぎ払った。前面に居た三、四人が襤褸切れのように吹き飛ばされ、宙で次々と赤い炎を撒き散らし、消滅。悲鳴と、ガラスを叩き割るようなバシャッ! という効果音が空に満ちる。間を置かず巨木の如き左腕が唸り、再び数名のサラマンダーが四散する。
 つい数瞬前までは集団の中央にいた一際高級そうな魔道装備を身にまとったメイジが、いかにも魔法職といった怜悧な顔を引き攣らせた。スペルワードをファンブルしたらしく、両手を包んでいたエフェクト光がブスン! と黒煙を上げて消滅する。
 キリトの変化した悪魔は、地響きと共に一歩足を踏み出すと再び轟くような雄叫びを放った。リーダーと思しき男は「ヒッ!」と喉を詰まらせたような悲鳴を上げ、右手をぶんぶん振り回した。
「た、退却! たいきゃ――」
 だが、その言葉が終わらないうちに――。
 悪魔は一瞬身を縮めると、大きく跳躍。ズシンと橋を揺るがして着陸したのは集団の真っ只中だった。それから後はもう、戦闘と呼べるものではなかった。
 暴虐の嵐――、そんな言葉がリーファの脳裏を過ぎった。悪魔の鉤爪が唸るたび、その軌跡に複数のエンドフレイムが飛び散る。中には健気に杖で肉弾戦を挑もうとする者もいるが、武器を振り下ろす間もなく頭から顎門に咥えこまれ、絶命する。
 暴風圏から器用に逃げ回っていたリーダー以下数名が、最早これまでと見てか一斉に橋から身を躍らせた。水柱を上げて湖面に飛び込むと、そのまま猛烈なスピードで彼方の岸目指して泳いでいく。
 ALOでは水に落ちても、装備重量が一定値以下なら沈むことはない。メイジの軽装が幸いして、不恰好ながらもみるみるうちに橋から遠ざかっていったが――突然、その数名の下にゆらりと巨大な黒い影が現われた。
 直後、がぽんという水音を残して全員が一瞬で水に引き込まれた。無数の泡を残して影は湖水の深みに潜っていき、消える直前、いくつかの赤い光が閃いたのが見えた。
 キリトの悪魔は彼らには興味を示さず、橋に残ったサラマンダーをひたすら殺戮し続けた。手当たり次第に掴み上げては、杭のような牙で噛み砕いていく。リーファは彼らにわずかに同情した。武器で斬られるならともかく、あんな『死に方』をしては怯え癖がついてしまっても不思議はない。
 無論キリトにはひと欠片の慈悲も無いようで、とうとう最後の一人となった不運なメイジを両手で高々と持ち上げた。ぎゃーぎゃーと悲鳴を上げるその体を、二つに捻じ切る勢いで力を込めていく――。
 あまりのバイオレンスシーンに呆然としていたリーファは、そこでようやく我に返った。ハッとして、大声で叫ぶ。
「あ、キリト君!! そいつ生かしといて!!」
 すごかったですねえ〜、などとノンキな感想を述べるユイを肩に乗せたまま、リーファは駆け出した。悪魔は動きを止め振り返ると、不満そうな唸りを上げながらもサラマンダーの体を空中で解放した。
 ドチャッと音を立てて橋の上に落下し、放心の体で口をぱくぱくさせている男の前で立ち止まると、リーファは右手の長刀を男の足の間に突き立てた。金属音と共に剣先が石畳に食い込み、男の体がビクッと震える。
「さあ、誰の命令とか色々吐いてもらおうか!!」
 せいぜいドスの利いた声で叫んだつもりだったが、男は逆にショックから醒めたらしく、顔面蒼白ながらも首を振った。
「こ、殺すなら殺しやがれ!」
「この……」
 その時、上空から様子を見下ろしていた悪魔が、黒い霧を撒き散らしながらゆっくりとその巨躯を消滅させ始めた。リーファが顔を上げると、宙に溶けていく霧の中央から黒衣の人影が飛び出し、すとんと橋に着地した。
「いやあ、暴れた暴れた」
 キリトは首をこきこき動かしながら打って変わってノンビリした口調で言い、巨剣を背中に収めた。ぽかんと口を開けるサラマンダーの隣にしゃがみこみ、肩をポンと叩く。
「よ、ナイスファイト」
「は……?」
 唖然とする男に向かって、爽やかな口調で話し続ける。
「いやーいい作戦だったよウン。俺一人だったらやられてたなあー」
「ちょ、ちょっとキリト君……」
「まあまあ」
 リーファが尖った声を出すと、ぱちりとウインク。
「さて、物は相談なんだがキミ」
 右手を振ってトレードウインドウを出し、男にアイテム群の羅列を示す。
「これ、今の戦闘で俺がゲットしたアイテムと金なんだけどな。俺たちの質問に答えてくれたら、これ全部、キミにあげちゃおうかなーなんて思ってるんだなコレが」
 男は数回口を開けたり閉じたりしながら、キリトのにこやかな笑顔を見上げた。不意にキョロキョロと周囲を見回し――おそらく、戦死したサラマンダー全員の蘇生猶予時間が終了し、セーブポイントに転送されたのを確認したのだ――再びキリトに向き直る。
「……マジ?」
「マジマジ」
 にやっと笑みを交す両者を見て、リーファは思わずため息。
「男って……」
「なんか、みもふたもないですよね……」
 肩でユイも感心したように囁いてくる。女性二人のアキレ視線にもひるまず、取引が成立したらしい男二人はグッと頷き合った。

 サラマンダーは、話し出すと饒舌だった。
「――今日の夕方かなあ、ジータクスさん、あ、さっきのリーダーなんだけどさ、あの人から携帯メールで呼び出されてさ、オレ飯食ってたから断ろうとしたら強制召集だっつうのよ。入ってみたらたった二人を何十人で狩る作戦だっつうじゃん、イジメかよオイって思ったんだけどさ、昨日カゲムネさんをやった相手だっつうからなるほどなって……」
「そのカゲムネってのは誰だ?」
「槍騎士隊の隊長だよ。シルフ狩りの名人なんだけどさ、昨日珍しくコテンパンにやられて逃げ帰ってきたんだよね。あんたがやったんだろ?」
 シルフ狩りなる言葉に顔をしかめながら、リーファはキリトと視線を交わした。おそらく昨夜撃退したサラマンダー部隊のリーダーのことだろう。
「……で、そのジータクスさんはなんであたし達を狙ったの?」
「ジータクスさんよりもっと上の命令だったみたいだぜ。なんか、『作戦』の邪魔になるとか……」
「作戦ってのは?」
「マンダーの上のほうでなんか動いてるっぽいんだよね。俺みたいな下っぱには教えてくれないんだけどさ、相当でかいこと狙ってるみたいだぜ。今日入ったとき、すげえ人数の軍隊が北に飛んでくのを見たよ」
「北……」
 リーファは唇に指先をあて、考え込んだ。アルヴヘイムのほぼ南端にあるサラマンダーの街『ガタン』からまっすぐ北に飛ぶと、リーファたちが現在通過中の山脈にぶつかる。そこから西に回ればこのルグルー回廊があるし、東に行けば円環状の山脈の切れ目である『竜の谷』がある。どちらを通過するにせよその先にあるのは央都アルン、そして世界樹だ。
「……世界樹攻略に挑戦する気なの?」
 リーファの問いに、男はぶんぶんと首を振った。
「まさか。さすがに前の全滅で懲りたらしくて、最低でも全軍にエンシェントウェポン級の装備が必要だってんで金貯めてるとこだぜ。おかげでノルマがきつくてさ……。でもまだ目標の半分も貯まってないらしいよ」
「ふうん……」
「ま、俺の知ってるのはこんなトコだ。――さっきの話、ホントだろうな?」
 後半はキリトに向けられた言葉だ。
「取引でウソはつかないさ」
 スプリガンの少年は飄々とうそぶくとトレードウインドウを操作した。入手したアイテム群を覗き込んだサラマンダーは、嬉々とした表情でせかせかと指を動かしている。
 リーファは半ばあきれながら男に言った。
「しかしアンタ、それ元々は仲間の装備でしょ? 気がとがめたりしないの?」
 すると男はちょっちょっと舌を鳴らす。
「わかってねえなあ。連中が自慢げに見せびらかしてたレアだからこそ旨みも増すってもんじゃねえか。ま、さすがに俺が装備するわけにもいかねえけどな。全部換金して家でも買うさ」
 ほとぼりを冷ますために何日かかけてテリトリーに戻ると言い残し、サラマンダーはもときた方向に消えて行った。
 なんだか、つい十分ほど前まで繰り広げられていた死闘がウソのように思えて、リーファはすっかりいつもの調子に戻っているキリトの顔をまじまじと眺めた。
「ん? なに?」
「あ、えーっと……。さっき大暴れした悪魔、キリト君なんだよねえ?」
 訊くと、キリトは視線を上向けてあごをぽりぽりと掻いた。
「んー、多分ね」
「多分、って……」
「俺、たまにあるんだよな……。戦闘中にブチ切れて、記憶が飛んだりとか……」
「うわ、こわっ」
「まあ、さっきのは何となく覚えてるよ。ユイに言われるまま魔法使ったら、なんか自分がえらい大きくなってさ。剣もなくなるし、仕方ないから手づかみで……」
「ぼりぼり齧ったりもしてましたよ〜」
 リーファの肩で、ユイが楽しそうに注釈を加える。
「ああ、そう言えば。モンス気分が味わえてなかなか楽しい体験だったぜ」
 にやにや笑うキリトを見ていると、どうしても聞いてみたい疑問が湧いてきて、おそるおそる口にする。
「その……、味とか、したの? サラマンダーの……」
「……ちょっと焦げかけの焼肉の風味と歯ごたえが……」
「わっ、やっぱいい、言わないで!」
 キリトに向かってぶんぶんと手を振る。と、不意にその手をがしっと掴まれ――。
「がおう!!」
 一声うなるとキリトは大きく口を開け、リーファの指先をぱくりとくわえた。
「ギャ―――――ッ!!」
 リーファの悲鳴と、それに続くばちこーんという破裂音が地底湖の水面をわずかに揺らした。
 
「うう、いててて……」
 リーファに思い切り張られた頬っぺたをさすりながらキリトがとぼとぼと歩く。
「さっきのはパパが悪いです!」
「ほんとだわよ。失礼しちゃうわ」
 リーファと、肩に乗せたユイが口々に言うと、キリトは叱られた子供のような顔で抗弁した。
「殺伐とした戦闘のあとの空気を和ませようというウィットに満ちたジョークじゃないか……」
「次やったらぶった斬るからね」
 まぶたを閉じてツンと顔を逸らすと、リーファは歩調を速めた。
 眼前には、巨大な石造りのゲートがはるか地下空洞の天井まで聳え立っている。鉱山都市ルグルーの城門だ。
 補給と、色々わからないことが出てきたので情報整理も兼ねてこの街で一泊することにしたのだ。思いがけない大規模戦闘で時間を取られ、リアル時刻はすでに深夜零時を回っている。
 アルヴヘイムが本格的に賑わいはじめる時間帯はこれからだが、リーファは一応学生の身分なので、どんなに遅くても一時前には落ちることにしていた。キリトにその旨を告げると、少し考える様子だったがこくりと頷いて了承した。
 並んで城門をくぐると、BGMがわりのNPC楽団の陽気な演奏と、幾つもの槌音が二人を出迎えた。
 街の規模はそう大きくはない、だが、中央の目貫通りを挟むようにそびえる岩壁に、多種多様な商店やら工房が積層構造を成して密集している様は見事なものだ。プレイヤーの数も思ったより多く、普段目にすることの少ないプーカやレプラコーンといった種族のパーティーが談笑しながら行き交っている。
「へええー、ここがルグルーかぁー」
 リーファは、初めて目にする地底都市の賑わいに思わず歓声を上げると、早速手近な商店の店先に設えられた剣の陳列棚に取り付いた。たとえ無粋な武器店であろうとも買い物はわくわくする。
「そう言えばさあー」
 銀造りの長剣を手にとってためつすがめつしていると、背後でキリトがノンビリした口調で言った。
「ん?」
「サラマンダーズに襲われる前、なんかメッセージ届いてなかった? あれは何だったの?」
「……あ」
 リーファは口をあんぐりと開けると振り返った。
「忘れてた」
 慌ててウインドウを開き、履歴を確認する。レコンからのメッセージは、しかし改めて読んでもさっぱり意味がわからない。回線がトラブって途中で切れたのかとも思ったが、それにしては続きが届く気配もない。
 ならばと思い、こちらからメッセージを打とうとすると、フレンドリストのレコンの名前はグレーに消灯している。すでにオフラインになっているようだ。
「何よ、寝ちゃったのかな」
「一応向こうで連絡取ってみたら?」
 キリトの言葉に、うむむと考えこむ。
 正直、現実世界にアルヴヘイムのことを持ち込むのは好きではなかった。ALOのコミュニティサイトにも一切出入りしていないし、レコン――長田伸一ともリアルでゲームの話はほとんどしていない。
 しかし、謎のメッセージにはどこか引っかかるものがあるのも事実だった。
「じゃあ、ちょっとだけ落ちて確認してくるから、キリト君は待ってて。あたしの体、よろしく。――ユイちゃん」
 肩に乗ったままのユイに向かって、付け加える。
「はい?」
「パパがあたしにイタズラしないように監視しててね」
「りょーかいです!」
「あ、あのなあ!!」
 心外だというふうに首を振るキリトにうふふと笑っておいて、リーファは手近なベンチに座ると右手を振った。
 ログアウトボタンを押し、この日二度目の世界移動。眩暈に似た感覚を味わいながら、はるか彼方のリアルワールド目指して意識を浮上させていく。

「ふう……」
 いつになく長時間のログインに、わずかな疲労感を覚えて、直葉は深く息をついた。
 ベッドに寝転がり、アミュスフィアを被ったままちらりと目覚し時計に目をやる。そろそろ翠が帰ってくる時間だ。顔くらい見せておいたほうがいいかもしれない――。
 そんなことを考えながら、手探りでヘッドボードに置いてある携帯を手に取った。外装を兼ねるELディスプレイ・シェルに、ログイン中の着信履歴が表示されている。
「!?」
 それを見て直葉は目を丸くした。着信十二件、すべて長田伸一からのコールだ。一体何事だというのだ。
 ぱちっと音をさせて携帯を開き、コールバックしようとしたところで、十三回目の着信が入ったらしくシェルがブルーに発光点滅した。通話ボタンを押し、耳元へ。
「もしもし、長田クン? 何なの、一体?」
「あっ! ようやく捕まった! もーッ、遅いよ直葉ちゃん!!」
「何がモーなのよ。ちょっと中でゴタゴタしててね」
「た、大変なんだ! シグルドの野郎、僕たちを……そ、それだけじゃない、領主も――サクヤさんも売りやがったんだよ!」
「売った……って……。どういう意味なの? 最初から説明してよ」
「うー、時間ないのに……。えーと、ほら、昨日古森でサラマンダーに襲われた時さぁ、直葉ちゃん、なんかおかしいと思わなかった?」
 長田は、言葉とは裏腹にいつものスローな口調に戻って言う。面と向かって話すときは、馴れ馴れしく直葉ちゃん呼ばわりされれば必ず物理攻撃を伴う訂正を加えているのだが、電話ではそうもいかないのでやむなく黙認することにする。
 それにしても、あの出来事がまだたった一日前のことだという事実は直葉を少々驚かせた。キリトと出会ったのはなんだかもう遥か昔の出来事であるような気さえする。
「えー? おかしいって……何かあったっけ……?」
 正直、キリトの印象が強すぎて、その前の空中交錯のことはよく覚えていなかった。
「最初、サラマンダーが八人で襲ってきた時、シグルドが、自分が囮になるって言って独りで三人くらい引っ張っていったじゃない?」
「ああ、そう言えば。結局彼も逃げ切れなかったんでしょ?」
「そうなんだけどさ。あれ、シグルドらしくないよ、今にして思えば。パーティーを分けるなら絶対自分はリーダーとして残って、囮は誰かにやらせるでしょう、いつもなら」
「あー……。それは、確かに……」
 シグルドの、戦闘指揮官としての腕は確かなものだが、そのぶん独善的で、常に自分がトップに立たないと気がすまないところがある。たしかに、メンバーを逃がすために捨石になるような自己犠牲的行動は彼にそぐわない。
「でも、それって……どういうことなの?」
「だからさぁ」
 長田は不味いものを噛み砕くような口調で言った。
「あいつ、サラマンダーと内通してたんだよ。多分、相当前から」
「はあ!?」
 今度こそ心の底から驚愕して、直葉は携帯を握り締めて絶句した。
 種族間のパワーゲームが繰り広げられるALOにおいて、捨てアカウントでのスパイ行為は日常的に行われている。スイルベーンをホームにするシルフの中にも、他種族、特にサラマンダーの偽装キャラクターが何人かいるのは間違いないだろう。
 ゆえに基本的に、低スキルかつ低貢献度、低アクティヴィティのプレイヤーは皆スパイの可能性があるとして執政部の中枢には近づけない。リーファでさえ、風の塔の裏手にある領主館に立ち入れるようになったのはそう昔のことではない。
 しかしシグルドは、ALO黎明期から積極的に執政サイドに参加し、今まで四回あった領主投票にもすべて立候補しているほどの古参プレイヤーだ。現領主の圧倒的な人気のせいで毎回次点、次々点に甘んじているが、選挙に破れてもへこたれる様子もなく補佐に名乗り出て、すっかり中枢の一角に大きな座を占めている。
 その彼が、サラマンダーのスパイだなどという話はにわかに信じられなかった。
「ちょっとあんた……それ、確証はあるの?」
 思わず声をひそめながら直葉は問いただした。
「僕、なんか引っかかると思って、今朝からずっとホロウでシグルドをつけてたんだ」
「……ホント、ヒマな人ねえ」
 ホロウボディというのは、レコンの最も得意とする透明化の術である。高位の隠蔽魔法と、隠密行動スキルの双方をマスターしないと使うことができない。
 もともと、レコンの英語表記である『Recon』というのは、アメリカの軍隊用語で偵察隊を指す(正しくはリーコンと発音するらしいが)のだそうだ。狩りでの先行偵察を目的としたキャラメイクに特化しているため、尾行は得意中の得意なのだろう。一度、それを悪用してリーファが休んでいる宿屋の部屋に侵入してきたことがあり――本人曰く、こっそり誕生日プレゼントを置こうとしただけ、らしいが――その時は容赦なく半殺しの目に合わせたものだが。
 長田は、直葉のアキレ声を無視して言葉を続けた。
「風の塔であいつがリーファちゃんに暴言吐いたあと、あんまりムカついたんで毒で暗殺してやろうと思ってずっとチャンスを狙ってたんだ。そしたら――」
「うわ、アブナい奴」
「――裏道であいつらも透明マントかぶって消えるから、こりゃいよいよ何かあると思ってさ。ま、アイテムくらいじゃ僕の目は誤魔化せないけどね」
「自慢はいいから、早く先を言いなさいよ」
「そのまま地下水道に入って、五分くらい歩いたかなあ、めっちゃ奥のほうで妙な二人組が待っててね。そいつらも透明マント被ってたんだけど、それを脱いだらこいつはビックリ、サラマンダーじゃないですか!」
「ええ? でも、マントじゃあガーディアンは誤魔化せないでしょう? 街に入った時点で斬られてるはずだけど……。まさか……」
「それそれ、そのまさか。メダリオン装備してたよ」
 パス・メダリオンというのは、通商などでテリトリーを訪れる他種族プレイヤーに厳しい審査のうえで与えられる通行証アイテムである。執政部のごく限られた人間しか発行できず、譲渡不可という代物だが、当然シグルドなら発行権があるはずだ。
「こいつはアタリだと思って聞き耳立ててたら、サラマンダーがリーファちゃんにトレーサー付けたとか言っててさ。それだけじゃないんだ。実は今日、領主……サクヤ様が、ケットシーと正式に同盟を調印するってんで、極秘で中立域に出てるらしいんだよ。あいつら……サラマンダーの大部隊に、その調印式を襲わせる気なんだ!」
「な……」
 直葉は一瞬息を詰め、次いで受話センサーに怒鳴りつけた。
「それを早く言いなさいよ!! 大変じゃないの!!」
「だから、最初に大変だって言ったじゃないのさぁー」
 情けない声でぶつぶつ抗弁する長田に、立て続けに言葉をぶつける。
「で、それ、サクヤに知らせたの!? まだ時間あるんでしょうね!?」
「僕もヤバイと思って、地下から出ようと思った時、うっかり石ころ蹴っ飛ばしてネ……」
「このドジ! 大間抜け!」
「……なんか、最近直葉ちゃんに怒られるの気持ちよくなってきたかも……」
「どヘンタイ!! それで!? 連絡できたの!?」
「サラマンダーのサーチャーにハイド破られて、まあ殺されたら塔で蘇生して領主館に駆け込めばいいやーと思ったら、連中毒矢撃ちこみやがって、酷いことするよねえ」
 ……先刻の自分の言葉を棚に上げた発言だが、突っ込んでいる余裕はない。
「じゃあ……レコンは……?」
「地下水道で麻痺したままサラマンダーに捕まってます……。そんで、仕方なくログアウトしてきて、直葉ちゃんに電話してたけどさっぱり出ないし、僕、他にリアルで連絡つく人いないし……。あ、えーと、ケットシー領主との会談は一時って言ってたから……うわっ、あと四十分じゃん! ど、どうしよ直葉ちゃん!?」
 直葉はひとつ深く息を吸ってから、口早に言った。
「その会談の場所はわかる?」
「詳しい座標までは……。でも、山脈の内側、蝶の谷を抜けたあたりらしいよ」
「わかった。……あたしがどうにかして知らせに行くわ。急ぐから、もう切るわよ」
「あっ、直葉ちゃん!」
 切断ボタンに指先を伸ばしたところで、切羽つまったような長田の声が流れてくる。
「なによ?」
「えーとネ。あのキリトって奴、直葉ちゃんとどういう関係なのー?」
 ぶちっ。
 と問答無用で回線を切断し、携帯を再びヘッドボードに放り投げると、直葉は枕に頭を埋めて目を閉じた。現実世界で唯一使えるスペルワードを口にして、陰謀渦巻く異世界へと意識をシフト。

 ぱちりと目を見開き、同時にリーファは勢い良く立ち上がった。
「うわっびっくりした!!」
 目の前で黒衣のスプリガンが、屋台で買ったらしき謎の食べ物――見たところ小さな爬虫類を数匹串焼きにしたもののようだ――を取り落としそうになって、危ういところで握りなおした。
「お帰り、リーファ」
「おかえりなさいー」
 口々に言うキリトとユイに向かって、リーファはただいまを言う間も惜しんで口を開いた。
「キリト君――ごめんなさい」
「え、ええ?」
「あたし、急いで行かなきゃいけない用事ができちゃった。説明してる時間も無さそうなの。たぶん――ここにも帰ってこられないかもしれない」
「……」
 キリトは一瞬じっとリーファの目を見詰め、すぐにこくりと頷いた。
「そうか。じゃあ、移動しながら話を聞こう」
「え……?」
「どっちにしてもここからは足を使って出ないといけないんだろう?」
「……わかった。じゃあ、走りながら話すね」
 ルグルーの目貫通りを、アルン側の門目指してリーファは駆け出した。
 人波を縫い、巨岩を削りだした大門をくぐると、再び地底湖を貫く橋がまっすぐ伸びていた。ブーツの鋲を鳴らして全力で疾走しながら、リーファは事情をキリトに説明した。さいわいこの世界ではどれだけ走ろうと息切れしたりということはない。
「――なるほど」
 リーファの話が終わると、キリトは何事か考えるように視線を前方に戻した。
「いくつか聞いていいかな?」
「どうぞ」
「シルフとケットシーの領主を襲うことで、サラマンダーにはどんなメリットがあるんだ?」
「えーと、まず、同盟を邪魔できるよね。シルフ側から漏れた情報で領主を討たれたらケットシー側は黙ってないでしょう。ヘタしたらシルフとケットシーで戦争になるかもしれないし……。サラマンダーは今最大勢力だけど、シルフとケットシーが連合すれば、多分パワーバランスが逆転するだろうから、それは何としても阻止したいんだと思うよ」
 一行は橋を渡り終わり、洞窟に入っていた。リーファは目の前にマップを表示し、道を確認しながら走りつづける。
「あとは、領主を討つっていうのはそれだけですごいボーナスがあるの。その時点で、討たれた側の領主館に蓄積されてる資金の三割を無条件で入手できるし、十日間、街を占領状態にして税金を自由に掛けられる。これはものすごい金額だよ。サラマンダーが最大勢力になったのは、昔、シルフの最初の領主を、汚い罠にはめて殺したからなんだ。普通領主は中立域には出ないからね。ALO史上、領主が討たれたのは後にも先にもあの一回だけ」
「そうなのか……」
「だからね……キリト君」
 ちらりと隣を走る少年の横顔に視線を向け、言葉を続ける。
「これは、シルフ族の問題だから……これ以上キミが付き合ってくれる理由はないよ……。この洞窟を出ればアルンまではもうすぐだし、多分会談場に行ったら生きて帰れないから、またスイルベーンから出直しだろうしね。――ううん、もっと言えば……」
 胸が塞がるような思いを味わいながら、リーファはその先を口にした。
「世界樹の上に行きたい、っていうキミの目的のためには、サラマンダーに協力するのが最善かもしれない。サラマンダーがこの作戦に成功すれば、充分以上の資金を得て、万全の体制で世界樹攻略に挑むと思う。スプリガンなら、傭兵として雇ってくれるかもしれないし。――今、ここで、あたしを斬っても文句は言わないわ」
 その時は、抵抗はするまい――とリーファは思った。普段の自分からはとても考えられない思考だったが、戦っても絶対に勝てない確信があったし、それに何となく、このたった一日前に知り合った少年と戦うのは嫌だった。
 もしそうなったら……あたし、ALOをやめるかもしれないな……。
 そんなことを考えながらもう一度キリトの顔を見ると、彼は表情を変えずに走りつづけながら、ぽつりと言った。
「所詮ゲームなんだから何でもありだ。殺したければ殺すし、奪いたければ奪う」
 わずかに間を置き、
「――そんなふうに言う奴には、嫌っていうほど出くわしたよ。一面ではそれも真実だ、俺も昔はそう思っていた。でも――そうじゃないんだ。仮想世界だからこそ、どんなに愚かしく見えても、守らなきゃならないものがある。俺はそれを――大切な人に教わった……」
 その瞬間、キリトの声が優しく、暖かい響きを帯びた。
「バーチャルRPGっていうこのゲームでは、矛盾するようだけど、プレイヤーと分離したロールプレイというものは有り得ないと俺は思う。この世界で欲望だけに身を任せれば、その代償はかならずリアルの人格へと還っていく。プレイヤーとキャラクターは一体なんだ。俺――リーファのこと、好きだよ。友達になりたいと思う。たとえどんな理由があっても、自分の利益のためにそういう相手を斬るようなことは、俺は絶対しない」
「キリト君……」
 不意に胸が詰まって呼吸ができなくなり、リーファは立ち止まった。わずかに遅れてキリトも停止する。
 両手を体の前でぎゅっと握り、言葉にできない感情の流れをもてあましながら、じっと黒い瞳の少年を見つめた。
 そうか……そうだったんだ――。心の奥でつぶやく。
 今までこの世界で、どうしても他のプレイヤーに、ある距離以上には近づけなかった理由、それは相手が生身の人間なのか、ゲームのキャラクターなのかわからなかったからだ。相手の言葉の裏に、本当のこの人は何を思ってるんだろうと、そんなことばかり気にしていた。どう接していいのかわからないがゆえに、他人の差し出す手を重荷と感じ、いつも翅を使って振り切っていた。
 でも、そんなことを気にする必要はなかったのだ。自分の心が感じるままに――、それだけで良かったし、それだけが真実だった。
「……ありがとう」
 心の奥底から浮かび上がってきた言葉を、そっと口にした。それ以上なにか話したら、泣いてしまいそうだった。
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