2012/11/17 (土)
作画主流
私は1967年生まれであり、生まれた時から「アニメ」が存在する世代です。アニメーターを志す様になり、アニメの制作技法を知る様になると、アニメとは、紙の上で絵を描き、セル用紙に転写してペイントし、背景は紙の上でポスターカラーで描き、撮影台でそれらを重ね合わせてフィルムに撮影するものだ‥‥という「マインドセット」の中に自然とハマっていきました。別の言い方ですと、「作画絶対君主制」「作画帝国主義」とでも言いますか、「アニメーターが紙の上でキバってナンボ」の価値観でものを考えるようになっていったわけです。
事実、アニメーターの良し悪しは、画面のクオリティに決定的に作用します。ゆえに「自分がミスると、後に続く行程が台無しになる。ひいてはそのシーンに重大な損失がでる。」という猛烈なプレッシャーの中で仕事をします。アニメーターが「俺が(私が)映像クオリティの根本を成しているんだ」という意識になるのも当然ですし、実際に「それを求められて」います。
しかし線画だけでは高いクオリティは実現しません。私はコンポジット、ビジュアルエフェクトという役職もしているので、「ビジュアルエフェクトが入る前と後の、とんでもない落差」をいつも目の当たりにしています。「ビジュアルエフェクトを入れないと、どうにもならないじゃん」と思う様な状況を、特に近年、何度も経験しています。
最近どうも「絵が痩せている」のを強く感じるのです。作画上で大変な事は多いのに冷めてさっぱりしているというか、枚数をかけて動かしているのに「動いている感」が少ないというか、丁寧に描いてあるのに粗雑に見えるというか、「作図上の肉痩せ」をここ5〜6年強く感じるのです。前回も書きましたが、「デジタルを安く使っている」影響が、作画のメンタル上にもどんどん表れているのではないかと感じます。
私は2000年当時、作画パワーと新しい「デジタル」パワーで、どんどんアニメ映像表現を増強し、さらなる高みへと昇りたいと行動していましたが、大多数は「どうやらデジタルにはそこそこパワーがありそうだから、面倒はそっちにできるだけ回して、作画ではパワー消費を抑えて、少しでも作業を楽にしよう」というベクトルに進んでしまったようです。これはある日みんなで決めて、そのベクトルに進んだわけではなくて、おそらく日々の些末な事柄に対して「小さな、安易な選択」をしていった結果だと思います。
昔気質のアニメーターや演出家は、作画の現場はよく知っているけど、コンピュータはよく解らないゆえに、「CG」「デジタル処理」と、安易に判断して指示できちゃうわけです。今の現場の形崩れを嘆くのであれば、まずそこ、「コンピュータ音痴」から脱却するところから始めないと、実効的な改善策も生まれないでしょうネ。
でも‥‥です。30代後半から40〜50代の人が、今からコンピュータを覚えて、2D,3DのCGのなんたるかを習得するのって‥‥、ぶっちゃけ、無理だと思うのです。
‥‥ですから、以前にも書きましたが「回帰」する方向、不用意で危ういスタンスでデジタルを使うのではなく、「作画パワーここにあり!」と、「3D」も「デジタル処理」も寄せ付けない存在力で作品価値を形成していくのが、一番「作画主流」を体現できると思うのです。安易にデジタルなんぞに頼らずに、セルと背景を組んだだけの「素組み」でほぼ100%の絵が出来上がる作り方‥‥です。
今の時代、デジタルなしでは映像コンテンツの物流は達成できませんが、あくまでデジタルは「ハコ」として使うのみとし、作画力を全面に押し出したベクトルで勝負しても良いんじゃないかと思います。
皆が皆、新しく変わっていくアニメを作る必要も無いし、ファンの人たちだって、新しいのよりも、昔の表現のほうが好きだ!って言う人も相応に多いんじゃないでしょうか。
私は、今考えている「新しい作り方」で、アニメーション映像作品を作っていきたいと決心していますが、それを「主流」にしたいとは全く考えていません。むしろ、主流にならない方が良いとすら、考えています。いくつも存在するアニメ作品スタイルの中の1つで良いと思っています。
私は、日本の映像表現技術の「力」を考えた時に、「高い作画力を駆使した昔ながらのアニメ」もあり、「新しいアニメーション作品」もあり‥‥というバラエティに富んだ状態でいたほうが、結果的に「強い」と思うのです。皆が皆、同じような作風のアニメに集中するのは、強固な1枚岩かもしれませんが、弱点や死角も多いと思います。「あの国のクリエーターは、どんだけマルチで、どんだけハイパワーなんだ」と、諸外国を唸らせたいじゃないですか。
でもなあ‥‥、結局は「今のやりかたで済んでいるんだからいいじゃん」でおしまい‥‥のような気がしますけどね。‥‥まあだから、私は一時期から「その件」については語らなくなったんですけどネ。