2010.6.25 早稲田大学台湾研究所ワークショップ
「日本の植民地統治期における国籍と戸籍をめぐる政治―『日本人』の
画定にみる機会主義―」

2010年6月25日、早稲田大学早稲田キャンパス22号館502教室において
早稲田大学台湾研究所ワークショップ「日本の植民地統治期における国籍と
戸籍をめぐる政治―『日本人』の画定にみる機会主義―」(台湾研究所客員
研究員 遠藤正敬氏)が開催された。
遠藤氏の報告は、氏が2010年3月に上梓された『近代日本の植民地統治に
おける国籍と戸籍−満洲、朝鮮、台湾』を、特に台湾統治に関する記述を中心
に報告したものである。報告の狙いとして、日本の国籍法ならびに戸籍法を
めぐる政治過程を検討し、その機能を植民地統治における役割、植民地人の
法的地位に関する法政策の推移という観点から追究するものであること、
すなわち、朝鮮、台湾、樺太、南洋群島、さらに満洲において展開された国籍
政策及び戸籍政策の立案と実施の過程を追い、植民地統治において「日本人」
という身分がいかに政治的に画定されていったのかについて考察するもので
あることが述べられた。報告の概要は以下の通りである。

近代国家においては、「国民」「外国人」の区分は市民権獲得の基準となる国籍
の有無によって決定されるのが一般的であり、戦後の日本においては、旧植民地
出身者の帰属国籍の決定という重大な問題に際し、「日本国民」画定の基礎と
されたのは戸籍であった。→近代日本における国籍法と戸籍法がいかに関連性
をもちつつ機能したのかを遡って考究する必要。仮説−国籍の与奪は近代国家の
主権行為とされていた以上、国籍のもつ意味と機能は定式化されるものではなく、
むしろ機会主義的な国家の政策判断によって自在に変化し、いわば政治性を
免れないものとなる。そうした国籍の操作性を律するものが日本では戸籍であった
のではないか。→戸籍が日本国籍を有する者を血統的に証明し、「日本人」を画定
すること、つまり戸籍主義の原理が日本の国籍政策の基底にあるという分析視角
の有効性。

1、 植民地領有と住民の国籍決定−国籍の操作性
1889年2月11日に公布された大日本帝国憲法は、第18条に「日本臣民タル要件ハ
法律ノ定ムル所ニ依ル」と規定し、「日本臣民」なる身分の規定は議会による制定法に
委ねた。この第18条に基づき1899年3月16日、国籍法が公布された。父系血統主義を
日本国籍を出生時に取得する原理とし、婚姻や養子縁組に基づく家籍の変動に伴い
国籍の取得・喪失が発生することが規定された→父(家長)を主軸とした家族国籍一体主義

植民地住民の国籍決定
基本的に領土変更に関する当事国間の条約において領土住民の国籍選択に関する
規定が設けられていた。新領土に憲法は適用されないという前提の下に、「新附の民」
としての台湾人は形式的には日本国籍を付与されたとしても、「日本臣民」として平等な
法的地位に置かれるものではなかった。植民地人に付与する「日本国籍」は、当該住民を
宗主国日本が専権的に処遇する行為−公法上の権利義務関係において生来の日本人と
差別的に扱う−を国内専管事項として国際法的に承認させるための対外的な表示である、
という趣旨。→国益に照応して国籍の意味と機能を操作していくという、国籍を政治的道具
としてとらえる実利主義的な国籍政策の提示。

2、戸籍による「日本人」の峻別
1871年の壬申戸籍を発端とし、1898年の戸籍法(1898年法律第12号)により成文法として
確立された日本戸籍は、欧米のような個人単位の身分登録ではなく、個人の身分関係を
親子の血縁関係に基づいて公証する形態となった。「日本人」において内地あるいは外地
への帰属を示す標識となるのが戸籍であり、本籍が内地と外地のいずれに所在するかにより
「日本臣民」のなかで「内地人」「外地人」の区別がなされた。→帝国日本の領土において
戸籍法制定が統一的に行われなかったことに起因
1905年10月第1回臨時戸口調査を経て同年12月に戸口規則(1905年総督府令第93号)及び
戸口調査規程(1905年訓令第255号)が公布され、新たに台湾住民の戸口調査簿が編製された。
「台湾住民戸籍調査規則」は「戸籍」の語が用いられたものの、内地における戸籍法とは大きな
相違←内地人−台湾人間の「共婚」は内地の戸籍に反映されず、合法的な婚姻として認められない
→1932年11月25日「本島人ノ戸籍ニ関スル件」等により、従来から編製されていた戸口調査簿を
台湾人の「戸籍簿」として扱うものとなった。◎戸籍に左右される国籍の機能−国籍と不可分の
権利義務とされる参政権と兵役は戸籍法適用の有無が実質的基準とされた

3、台湾籍民の日本国籍−戸籍を利した現地「日本人」の創出
「台湾籍民」とは、日本の台湾統治下、福建省の廈門・福州や広東省の汕頭に定着し、
あるいは東南アジア方面に移住した人々(1907年6月時点で厦門に在留する台湾籍民は
1300人)。日本側では、「日本人」と「中国人」の身分を使い分ける台湾籍民の法的地位を
めぐって日中間の紛争を招いた場合、中国国籍法との抵触を糊塗するため、帰化による
日本国籍の取得ではなく、下関条約履行時の台湾戸籍への入籍を以て、台湾籍を取得した
在外「帝国臣民」であるという法的根拠としていた。こうした渉外的身分行為に基づく便宜的な
国籍処理は、現地に「日本人」勢力を創出していく戦略的な戸籍政策に他ならなかった。
→朝鮮総督府が在満無籍朝鮮人に対して朝鮮戸籍への就籍を促進したのも、浮遊する朝鮮人
を対外的意味で「日本人」として繋ぎ留めておく根拠とするためであった。

4、植民地人の「移籍」をめぐる日本政府の葛藤
第2次世界大戦勃発後、総力戦体制は根こそぎ動員の様相を呈し、植民地人の非軍事分野
への動員が内地人と無差別となるに及び、日本政府においては植民地人に対する政治的
社会的処遇の改善が不可避の政策課題となった。そこで、外地在住者への参政権付与などと
ならび、植民地人の内地転籍の自由化を認める政策案が日本政府において検討された。
朝鮮総督府法務局は1944年10月11日付で「内地朝鮮間ノ転籍等ニ関スル法律案」を作成し、
本籍地又は住所地を管轄する裁判所の許可を得れば転籍を認めることとしていた。だが、
内務省は内地人と植民地人の間における戸籍の壁の存否は「民族ノ混淆、同化乃至純粋保持」
に関わる根本問題であると認識、「移籍」許可を異民族統治上の根本問題であるととらえる
見解が優位を占め、立法化には至らなかった。
満洲国では多元的な民族構成に適した身分登録法として「暫行民籍法」は1940年8月1日に公布
をみた。在満「日本臣民」すなわち内地人・朝鮮人・台湾人はそれぞれ内地戸籍・朝鮮戸籍・台湾
戸籍の適用を受ける上に、満洲国では民籍の適用をも受けることで、日本と満洲国において戸籍
・民籍の二つの本籍を有することが認められ、二重の身分証明をもつこととなった。だが、満洲国
にあっても「日本臣民」たる帰属意識が首座に置かれ、アイデンティティの競合が深化することは
抑止されようとした。従って民籍法は日本戸籍法に従属した運用となった。満洲国統治では「民族
協和」を掲げつつも、内地人も朝鮮人も他の「五族」と同一戸籍のなかに統合することで「国民」
としての平準化を図るのではなく、戸籍の峻別(=民族的境界)による社会的亀裂が温存された。

結論
植民地人に対する恣意的な日本国籍の与奪により、植民地人を日本の利害関係に照応して
便宜的に「日本人」として取扱うという専権的処遇を可能とする道具となった。そうした国籍の
効果を導出する要素として、次のような戸籍法の対外的機能があった。第一に、外国人に対しては
戸籍への編入を以て日本国籍の公証とされた。例えば、日本の大陸侵出の企図に基づく「在外邦人」
の創出にあたり、戸籍は大きな役割を果たした。第二に、戸籍は異民族統治において警察行政の
基幹としての役割を前面化させるものとなった。第三に、本籍の所在を基準とすることにより、
植民地人は対外的には国籍を同じくする「日本人」であるが、対内的には「外地人」として峻別された。
近代日本の植民地統治は同化主義を根本方針としていたものと一般には把握されている。だが、
本報告から、植民地人を対外的には国籍を以て画一的に統轄する一方、対内的には戸籍を以て
血統的・民族的に峻別する、いうなれば適宜に「日本人」と「外地人」という二通りの極印を使い分ける
植民地統治の構造が明らかになった。まさしく日本による植民地統治の実態は便宜主義、機会主義
に即したものであったといえよう。

以上が報告概要であるが、報告者からは国籍と市民権の関係、血統主義の政治文化といった点
についての政治理論的な考察、現地資料の発掘、統計資料の収集(とりわけ満洲国)、欧米の植民地
統治との比較など、今後の課題が述べられたうえで報告は終了した。
報告終了後、フロアからは、戸籍による包摂と排除、帝国における境界管理という観点について、
欧米の植民地統治と戦後日本の政策の差異、国籍法と戸籍法の制定と台湾領有の関係、アメリカの
植民地政策との比較などに関して質問・コメントがあった。
今回の報告並びにその後の議論からは、植民地全体を通じて台湾をみることや比較の視座の重要性が
提起されたが、堅実かつ手堅い実証研究を地道に進めてこられた報告者に対してフロアからは大きな
賛辞が送られ、ワークショップは盛況のうちに終了した。