うたをつぐもの―うたわれるもの・After― (根無草野良)
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~第一幕・6~ アルルゥといっしょ・朝練


 エヴェンクルガの朝は早い。

 昇り始めた日の光を朝靄の向こうに感じながら、

某(それがし)は静かに目を閉じた。

 振り上げ止めた刃にすべての意識を集中する。

 河の縁に立ちながら、

水の音も次第に離れていった。

 目も、耳も、五感すらも、

今この時だけは必要ない。

 意識はただ剣にだけ。

 自らを一振りの刃と化す。

 無明の中で軌跡を刻む。

 ゆるやかな弧を描く、

力と速さを備えた道を。

 それこそが、己が掴むべき剣の道だと信じて。

 刻んだ軌跡を意識でなぞり、

その軌道を確かなものとする。

 何度も、何度も、何度も、何度も――

 閉ざしていた目を開いても、

道は心に刻まれていた。
      
 鮮明に映る現世(うつしよ)に思念の軌跡を重ねたまま、

それをなぞるように剣を進める。

 蟻が進むほどの速さで、

ただひたすらにゆっくりと。


 伸びる筋、縮む肉。

 力は踏みしめる地から生まれ、

動きと共に上りくる。
        
 それは足の裏から踝(くるぶし)、

脚、膝、腿へと伝わり、

腰で回され背、肩、腕へ。

 動きと共に練られた力は、

ただ一太刀へと収束していく。

 切先は思い描いた軌跡から

一寸の狂いもなく宙を進み、

 狙いに違わず、軌跡の終端で静止した。

 
 しばしの、残心。

「ふう……」

 吐き出した息に合わせ、

額に浮いた汗が流れる。

 ただの一太刀ではあるが、

全身の筋肉が内から熱を発していた。

 足と剣を引く時も緊張は同様。

 姿勢を元に戻した後、

刃の軌跡をもう一度定め、

同じだけの時をかけ、

二度目の剣を静かに振る。

 もう一度。

 もう一度。

 心身を刃に重ねたまま、

一心不乱に、正確に。

 もう一度。

 もう一度。

 もう一度、もう一度――


 幾度剣を振っただろう。

「……ふうう」

 大きく息を吐き、体を弛緩させたとき、

朝靄はすっかり晴れていた。

「あちち」

 爽やかな朝日を浴びながら、

汗にまみれた身を川の流れにさらす。

 水の冷たさが心地よい。

 だが、心までは晴れなかった。

 日々の鍛錬が苦であるから、ではない。

 問題は己にこそある。

 いつまでも成長しない非力さにだ。

 本当に意味があるのだろうか?

 修行の最中には忘れられる不安が、

終わるたびに襲いくる。

「はぁ……ん?」

 体を清め、身の支度を整えたところで、

遠くから足音が聞こえてきた。

 近づいてくるその音は、

石を蹴るように慌しい。

「なん、だ?」

「おー、トラ」

 アルルゥだった。

 自分の頭ほどもある大きさの壷を抱えながら、

それを感じさせない軽やかさで駆け寄ってくる。

「あのな、トラはやめろって――」

「がんばれー」

 かと思えば、そのまま走り去ってしまった。

 振り返ることもなく、勢いはそのままに、

姿はすぐに見えなくなる。

「がんばれって、なにを……!?」

 考える前に体が動いていた。

 小さくも確かな殺気に、なかば反射で反り返る。

 同時に、その点を右の掌で打っていた。

 わずかな手応えを残し、河原の端になにかが落ちる。

「なんだこれ? 蜂、か……?

 まさか……!?」

 確かめた途端、先の殺気が羽音だと気がついた。

 いや、近づいてくる群れの気配に、

気づくなという方が無理だ。

 アルルゥの駆けてきた方向からは、

蜂の大群が黒煙のような勢いで近づいていた。

「っ、く……」

 思わず剣を抜いていた。

 かつて姉上に付き合わされた特訓が脳裏をよぎる。

               
 ――エヴェンクルガの伝説的な武士(もののふ)ゲンジマルは、

一〇〇の敵兵を相手にたった一人で立ち向かい、

そのすべてを斬り伏せたという。

 その逸話を参考に、

一〇〇匹の蛇が群れる塚に叩き落された記憶だ――
 

 あの時は動転するばかりで咬まれるがままだった。

 だが、今は違う。

「っぉぉおおおお!」
    
 覚悟を滾(たぎ)らせ剣を振るった。

 縦に、横に、斜に、回り、

 円を描き、螺旋を刻み、

止まることなく斬り伏せる。

 軌跡に触れた蜂たちが、力を失い落ちていく。

 呼吸を三つつく間に、数え切れぬほどの命が散った。

 足を運んだ後の場が、にわかに黒い色を増す。

 もっとも、それで黒煙めいた群れが

潰えるわけもなかったが。

「おおおおおぉぉ……ぉ、ぉぉおおお!?」

 蟲の意思は無慈悲に、無遠慮に、正確に、

針を標的へと向ける。

 その数はいまや一〇〇では利かない。

 一〇を落とす間に二〇が肌に張りつく密度では、

剣を振ってもすべては散らせず、
   
 当然、某(それがし)には捌けないわけで――

「う、あ、うわあああ――!」

 上げた情けない悲鳴は、

やかましいほどの羽音に掻き乱され、消えた。


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