うたをつぐもの―うたわれるもの・After― (根無草野良)
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~第〇幕・1~ 終わり、始まり
トゥスクルと呼ばれる国の最僻地。
カカエラユラの森を間近に臨むその場所に、ヤマユラの村はある。
いくつもの動乱に飲みこまれ、それでも平穏を手に入れた村だ。
集落の外れに並ぶ小さな丸石の数々を、戦乱で散った家族たちの墓標を、
エルルゥは綺麗に整えていく。
「おはよう、おばあちゃん……おはよう、みんな……」
語りかける声はごく自然に。
日課となっている挨拶にはいつもと同じく、確かな答えが返ってくる。
揺れる草花の音が、小鳥たちのさえずりが、絶えることのない虫の声が。
耳ではなく、心に直接聞こえてくる懐かしいいくつもの声 に、
エルルゥの口元は自然と緩んだ。
「うん、今日も元気。アルルゥには相変わらず困らされるけど、
仲良くやってるよ」
浮かぶ表情は、どこか寂しげなほほ笑み。
「だから、心配しないで、ね……」
わずかな憂いを払うように、エルルゥは空を見上げた。
「あはっ……今日は、いい天気になりそう」
澄みきった青い空。
抜けるような鮮やかさは、目に掛かりかけた霞を爽やかに拭ってくれた。
今日もまた、ヤマユラの穏やかな日々が流れていく。
帰りの道すがら、先日足を診た老婆に声をかけられた。
「エルルゥ様、おはようございます」
「おはよう、おばあさん。足の調子はどうですか?」
エルルゥの笑顔に応え、老婆は嬉しそうに破顔する。
「はいぃ、おかげさまで、杖があれば歩けるようになりました。
これでまた、あの鬼嫁と戦えますわい。ふひょふひょふひょ」
「あ、あはは……程々にね」
村の中心にある広場に来れば、小さな子供が駆け寄ってくる。
「エルルゥお姉ちゃん!」
「あら、もう起きても平気なの?」
「へっちゃらだよ! もう、母ちゃんの手伝いだってできるんだ」
「そう、偉いんだね」
「エヘヘ~」
自慢げに鼻をこする少年の後ろで、その母親が頭を下げる。
「エルルゥ様、おはようございます」
「あ、おはようございます」
「この度は、エルルゥ様には、この子を救っていただき、
なんとお礼を言えばよいか……」
「いえ、わたしはちょっと手助けしただけで、この子は、
この子自身の力で治ったんです。
ですから、あまり気にしないでください」
「本当にありがとうございました。それではまた」
「じゃあね、お姉ちゃん!」
「うん、それじゃあね」
元気に手を振る少年は、母親に手を引かれて去っていった。
小さく手を振り返しながら、エルルゥは与えられた温もりを噛みしめる。
なにげない日々の、なにげない幸せを。
「おはよっス、エルルゥさん」
「おはようございます、エルルゥ様」
「エルルゥ様、どうですこれ。今朝採れたモロロです」
「みなさん、おはようございます」
一度は焼き尽くされたこの村も、皆の懸命な努力により
以前のような生活を取り戻しつつある。
決して楽ではない営みの中でも、こうして笑っていける生活を。
そう、あの人が望んだのは、こんな日常だった。
「…………」
村の者たちと別れて一人、ふと、エルルゥは空へと顔を向けた。
青く、吸いこまれそうな空の先に、手の届かないモノを見る。
それは、共にこの日常を過ごしたかった人の姿。
自然と、呟きをこぼしていた。
「ハクオロさん……わたしはここにいます。
アルルゥと一緒に……ここにいます」
祈るように。
誓うように。
決して届かないと知りながら、それでも止められぬ想いのまま。
「ずっと……ずっと……ここにいます……。
ここで……あなたを……」
吹き抜ける、一陣の風。
乱された髪につられ、環状の髪飾りが大きく揺れた。
遥かな時を経て重ねられてきた想いに、
エルルゥは肩を叩かれたような錯覚を覚えた。
同時に、確かな人の気配を。
「え……?」
どこか懐かしい気配に慌てて振り返る。
そこにいた人物と、視線が交わった。
優しくも、果てしなく冷たいまなざしと。
「あなた、は……」
思わず発した声は、いかなる想いが発したものか。
喜び、悲しみ、戸惑い、不安。
あるいは――
「…………、…………」
なにを言われたのか、エルルゥにはよくわからなかった。
長い長い歴史の中、彼女の生は一瞬で、
短すぎる人の命では、世界の理は解せなかった。
ただ、それが自らの望みに叶うことだと、それだけは直感していた。
あの日掴めなかったものに、もう一度触れられる最後の機会だと。
だから、躊躇うこともなく、差し出された手を握り返した。
「ハア、ハア、ハア……」
確かに感じた強い気配に、森で遊んでいたアルルゥたちは、
急ぎ、ヤマユラの村へと駆け戻った。
そして、さらに走り回る。
驚く村人たちの間を抜け、掛けられる声を聞きもせず、
村の隅々まで調べ尽くすように。
だが、家にも、蔵にも、厠にも、望む者の姿を見つけ出すことはできず。
ようやく足を止めた広場の一角で、アルルゥたちは荒い息を整えていた。
「やっぱり、いない、よね……あは……」
カミュの疲れた笑い声は、アルルゥの予感を揺るがせた。
忘れるはずのない懐かしい匂いも、今はまるで感じられない。
「……おとーさん……」
「そんなはずないよ、アルちゃん。だって、おじ様は、もう……」
だが、思いだした温もりは簡単に諦められるものではなく、
アルルゥはより確かな感覚にすがっていた。
「ムックル」
『ヴヲゥ……』
「ガチャタラ……」
『キュゥゥ……』
小さな母の切なる望みに、しかし二つ子も応えてはくれない。
獣の心は偽ることを知らず、それ故に正しい現実を知らしめる。
身を縮める二頭の様に、ようやくアルルゥも気持ちを冷まし始めていた。
「……おとーさん……」
「アルちゃん……。さ、お昼にしよ。カミュ、お腹ぺこぺこだよ。
お家に戻ってエルルゥ姉様と一緒に……あれ?」
気づかうカミュが首を傾げる。
「アルちゃん。エルルゥ姉様はどこ? 村の中で、見かけた?」
「……え?」
問われ、アルルゥも思いだす。
向かうべき我が家はすでに調べ、誰もいない事を確認していた。
薬師を営むエルルゥが家にいない事は珍しくない。
だが、今の今では話が別だ。
得体の知れない不安が心を満たしていく。
「おねーちゃん……?」
泣きだしそうな声で左右を見る。
首だけを巡らせていた動きは次第に高ぶり、
落ち着きなく周囲をさまよいだした。
「お、落ち着いてアルちゃん。大丈夫だよ。
きっと山とか森とかに、石とか薬草とかを採りに行ってるだけ……
アルちゃん!?」
カミュの声を聞くこともなく、アルルゥはムックルにまたがり、
駆けだしていた。
「おねーちゃん、おねーちゃん……!」
胸に生まれた不吉な予感を、消し散らすようにただ駆ける。
踏み固められた土の道を、石塊の転がる山の道を、
緑に満ちる木々の道を。
森への祈りも、その声に耳を傾けることもせず、
アルルゥは深緑の内を駆け回った。
「おねーちゃん、おねーちゃん、おねーちゃん……」
飛ぶように流れていく景色の中、呼吸も忘れて目を凝らす。
だが、どれほど葉の間を見通しても、梢の囁きに耳を傾けても、
緑の匂いを嗅ぎ分けても、姉の存在を感じることはできない。
次第に日の光は傾きゆき、青い空はゆっくりと朱に染まっていった。
やがて、すべては紫色の闇に消えていく。
星の光も、月の光も、深い緑の天井を通り抜ける事は出来ず、
カカエラユラの森最奥にまで至ってすら、
エルルゥの姿を見つけることはできなかった。
「おねー、ちゃん……やだぁ……おねー、ちゃ……」
あふれる涙は止め処なく、数日の間アルルゥの頬を濡らす事となる。
この日より、エルルゥはヤマユラの村から姿を消した。