壱岐の近世については、朝鮮通信使と鯨組、人物の歴史が残っています。

朝鮮通信使は勝本浦に寄港した記録が残っています。その史跡として勝本浦に朝鮮 通信使迎接所跡があります。当時の迎接所の様子を記録した「朝鮮通信使迎接所絵 図」が残っており、迎接所絵図には詳細な部屋の配置や間取り及び部屋を使用する者 等の情報が記録されています。通信使の使節団は正使・副使・従事官の3使に加え、一流の学者や書家、医者などが随行していたことが絵図に記されています。通信使に まつわる史跡として、郷ノ浦町の爾自神社(にじじんじゃ)にある東風石(こちい し)があります。この東風石は、神功皇后が航海の順風を祈願したところ、石が2つ に割、風が吹き出し渡海できたという云われのある石です。平戸藩は、この故事にならって、順風が吹くようにと祈願をしました。

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爾自神社の東風石

1492(明応元)年、紀伊の日高氏により始まった壱岐における捕鯨活動は、江戸時代になると大村の深澤儀太夫に受け継がれます。鯨組の漁法も突いて鯨を捕獲する「突組(つきぐみ)」から網を用いて弱らせて捕獲する「網組(あみぐみ)」へと転換し、捕獲率も格段に高まり壱岐の捕鯨活動も一気に島内全体に広がりました。芦 辺町にある夷浦〔恵比寿浦〕を根拠地に置く深澤儀太夫を中心に8人共同の鯨組を経営することで、作業の効率化を図り、より多くの鯨を捕獲することが可能になりました。 鯨に関する史跡は、鯨組のあった恵比寿浦にある鯨供養塔をはじめ、勝本浦を中心に活躍した鯨組の土肥家が巨額の費用を投じて建設した御茶屋屋敷跡や高さ7m、長さ90mの同屋敷大石塀があります。

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小山弥兵衛の墓

人物の歴史では、大塩平八郎の乱の首謀者の従弟 宮脇半七(みやわきはんしち)や生野一揆の首謀 者の一人である小山弥兵衛(こやまやへい)などがおり、壱岐に流罪となって来たものの、島の発 展に余生を懸けています。平戸藩政の不正を幕府 に直訴したと伝える百姓源蔵,巡見使の随員として壱岐を訪れた松尾芭蕉の弟子河合曽良、平戸藩 主の命を受けて、壱岐の神社仏閣や名所旧跡を記した『壱岐国続風土記』を編集した吉野秀政、壱岐の歴史や現状を記述した『壱岐名勝図誌』を編集した菊池正恒、などに関する墓跡が残っていま す。 その他、1641(寛永18)年に海上通過の船を監視するために設けられた若宮島(わかみや じま)遠見番所跡や岳の辻遠見番所跡、平戸藩が 1680(延宝8)年に海上警備と壱岐の治安維 持を目的に設置した勝本押役所跡(かつもとおさ えやくしょあと)などがあり、平戸藩の、ひいて は国の要所としての役割を壱岐が果たしていたことがうかがえます。 1859(安政6)年旧暦2月13日に起きた、突風で郷ノ浦の漁師が乗った漁船が転覆し、多くの人命が失われる海難事故がおきました。このときの突風を「春一番」と呼び、現在、気象情報などで用いられる「春一番」の語源となり、壱岐から全国へと広がりました。壱岐では、1987(昭和62)年に春一番の記念モニュメントが設けられました。

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春一番の供養塔

 

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