木村さんは勉学のため6年間の東京生活を経験しているが、元々は津軽生まれの津軽育ちである。それ故「大学を卒業すると迷わず出身地青森県に戻り、下北地方の中学教師として赴任した」と言う。この学校での新任教師時代の悩みと行動は、氏の著書「信・愛・勇への教師像」(注1)に詳しいが、赴任早々、生徒たちとの裸の付き合いによる“心の交流”を大切にする熱血教師振りを発揮している。例えば、教師2年目には、気になる生徒との交流を図るため下宿まで引っ越してしまうほど過激なものであった。こうして熱血教師と生徒たちとの心の交流は着実に進んでいくのだが、その様を最初に赴任した中学校の卒業生から手紙を貰った氏は以下のように記している。『…昨年五月、一人の教え子から手紙がきた。中ニ、中三と担任した生徒である。集団就職列車で見送った生徒である。短い文面であったが、万感胸にせまる思いで読んだ。<15歳の時から10年が立ちました。私もようやく看護婦の国家試験に受かり、一人前の看護婦になりました。これからも看護の道に努力して進みたいと思います。作文通りに努力した自分をほめてやりたいと思います。では>…』。まさに心の交流を基本とした木村流の教育の一端が垣間見えるようなエピソードであろう。そして、この中学での2年間の教師経験後、氏はかねてから希望していた僻地教育に取組むことになる。 |
氏は最初の赴任地で実践教育を積みながら、常に僻地教育へのこだわりを持っていたと言う。氏は前出の著書のなかで『へき地へき地とうわごとのようにいい、どうせ行くなら最高のへき地へと希望を出していたのが、まさに叶えられたのだ。校長先生にはわたしも長年校長をやって、ずい分へき地へも先生方を転任させたけど、へき地へ転任させられた先生からお礼を言われたのは、今がはじめてだよと、あと三年で定年の学校長はこう言ってぼくを励ましてくれた。』と述懐している。 |
木村さんの僻地教育は、下北地方で3年、南津軽地方で7年、延べ10年間に及び、その間に4つの学校で教鞭をとっていた。そして、僻地教育2年目には、東京時代に知り合った恋人・紀子さんを妻として迎え、二人三脚の体当たり24時間教育をスタートさせていくのである。 |
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僻地教育に取組んだこの時期に実践人の会の森信三氏(注2)と出会い、同氏の強い勧めで著書・自主出版文集『信・愛・勇へのアプローチ』などを次々と作り出していた(注3)。同文集は教師生活1〜2年目の記録集を中心としたものだが、この自主出版文集は後に『信・愛・勇への教師像』として当時担任していた中学三年生の読書感想文などを加えて再出版されている。当時の生徒からみた教師像や人生の先輩に対する見方が素直に捉えられているので、少々長くなるが生徒感想文の一部を以下に引用し、紹介させていただく。 「先生」というと実にかたっ苦しくて近よりがたい。事実ぼくたちは先生というものになんとなく近よりがたく、敬語をつかっている。そして、かげではなんだかんだと口にする。「先生」というものは事実そうあるべきものなのか。その中で、生徒と先生の間に何が生まれるのだろうか。型にはまった生徒と先生間で、年の差を忘れ、立場の差を忘れてこそ、生徒と先生はとけ合うのだ。ぼくはこの「信・愛・勇へのアプローチ」という本を読んで、真の先生というものを見た。ぼくの担任の先生ではあるが…。学校の不良どもであろうが誰であろうが話しかけて行く。他の先生は決して相手にしない生徒たちと心をとかして話し合う。すばらしいことではないか。この先生の宿直の時には生徒たちが集ってくるというのだから、なんとなくずっこける。…生徒とパンツ一つ、ふんどし一本でバスケットができる先生。生徒としてならもちろんだれでもこんな先生にめぐり合いたいと思うだろう。先生としては、どんな先生を夢みるかは知らないが。また、他に感動したところといえば、劇である。日ごろの出番のない野郎どもをひきつれ、「ビルマのたて琴」をやった。野郎どもにしてみれば、さぞかしうれしかったろう。そして、もう一つピンとこなくて不思議だったろう。彼らはすばらしい劇を完成させた。ぼくの日の浅い人生経験では、なっとくできない。どうして野郎どもがすばらしい劇を完成させることができたのか。ぼくたちは今その先生を担任の先生としている。がんばってもらいたい。<以上、中学3年男子生徒からの感想文。原文ママ> こうした教師と生徒との心の触れ合いは、生徒の卒業後も人生の節目節目に続けられている。24時間生徒と向かい合う教師の家庭に半ば同情を込めて、大変でしょうね、と尋ねると「何時でも生徒たちが出入りしていますし、生徒に『私もここの家の子です』などと言われたりして、実の子との区別がつきにくくなったりしていましたよ(笑)」と奥様が応えてくれた。 |
氏は教師生活28年・人生52歳が過ぎるころから新たな挑戦を始めていた。「私はそれまで9年間も続けてきた生徒指導専任教諭(生徒指導主任)を返上してもらい、乞い願って知的障害学級の学級担任にしてもらいました」と述懐する。これは教師生活・体験を通じて体得した信念があっての行動とも思われる。そして、「別に意識してそのように始めたわけではなかったのですが、毎日の授業の中で、結局は“育”を重視せざるを得なかったわけです」、「普通、われわれ“教育”という場合には、どちらかというと“教”のほうに九割九分、人によっては百パーセントの重きをおいているわけですよね。ところが、知的障害の子供たちと付き合う場合は、徹頭徹尾“育”を先にしなければ駄目だったわけですよ」と続けた。ちなみに木村さんは生徒たちの行動を徹底的に観察し、独特の直感的な手法で彼らの自立心や自主的行動を引出しつつ、子供たちの成育を図ってきた。しかし、その一方で著書「なぜ学校は今でも荒れつづけるのか」にもあるように、徐々にそのパワーを失った子供たちや社会に適応できない子供たちが増えつづけてきていることにも危機感を持っていたのである。 |
平成六年の正月、木村さんは琉球大学・比嘉教授の著書『地球を救う大変革』(注4)と言う本に出会い、そこでEM菌(注5)の効用を学び、当時の校長・成田清一先生(注6)とともに、この菌を活用した環境改善と学校教育の実践に挑戦することになった。パワーを失い、社会に適応できない子供たちの増加に危機感を持っていた二人は、直感的に“教育現場でのEM菌活用”を考えたのである。このときのことを氏は「さまざまな夢を持ってスタートしたのですが、28年間に亘る教師生活の蓄積が、なに一つ役に立たないことを痛感させられ、途方にくれていた時、強力な助っ人として現れたのが、EM菌だったのです」と言う。早速、校内に必修クラブ「地球環境浄化クラブ」を誕生させ、運動部も文化部もイヤという子供たちに呼びかけながら、40人のクラブを作り活動を開始した。この子供たちは比嘉先生を呼んでの第1回のEM講演会、その後のEM普及活動に大活躍し、生ごみのリサイクルや河川の浄化活動を拡大していった。 |
そして、木村さんはこうした子供たちの活動と並行して、担任する“生き生き学級(知的障害学級)教育”にもEM菌を本格的に取り入れた。例えば「老人ホームではEM講習会・EMぼかしの作り方(注7)の指導を“生き生き学級の生徒”が努め、生徒たちはホームの老人から『先生、先生!』と呼ばれて張り切っているのです」と嬉しそうに語る。 |
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木村さんの教育実践活動は、氏の10冊の著書や全国各地での講演の反響が示しているように、とてもこの特集では言い尽くせないほど深淵なものである。それほどの実績にも満足することなく、氏は現在も新たな挑戦を始めている。それは、木村さんたちのEM菌を活用した地球環境浄化活動が学校教育の枠を越え、ボランティア活動として青森県内を中心に益々拡大しているためである。平成10年、青森大学大講堂での第一回・むつ湾浄化大作戦フォーラム開催を皮切りにして、平成13年には情熱を傾注した教師生活を敢えて58歳で終焉させるとともに、翌14年にはボランティア結集の企業組合・縄文環境開発を立ち上げ、平成15年8月には第二回・むつ湾浄化作戦フォーラム“よみがれ むつ湾よ”を開催して地域内での地球環境改善活動の拡大と充実を目指している。 |
木村さんは嘗て、教師としての名刺を「本職です」とし、EM関連の環境改善活動の名刺を「天職です」として自己紹介していたと言う。そして今、その本職と天職のすべてを懸けて“縄文時代の「大氣」と「水」と「大地」”を目指して、地球救済への本格活動を始めたのである。 |
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