SPECIAL INTERVIEW 音楽・ファッションの世界をめざす人へ ーー第一線で活躍するクリエイターたちからのメッセージ

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細野晴臣 写真

「遊びのワクワク感がないと、クリエイティブなことはできない」

細野晴臣 ミュージシャン

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先駆的なサウンドを世に送りつづけ、40年以上にわたって日本のポピュラー音楽界を牽引してきた天才ミュージシャン、細野晴臣。はっぴいえんど、Y.M.Oといった伝説的グループを立ち上げ、歴史的な名作を生み出す一方、音楽プロデューサー、レーベル主宰者としても大きな実績を残してきた。近年では、2011年に発売されたソロアルバムが高く評価されるなど、創作者として新たな黄金時代を迎えつつある細野が、クリエイティブでありつづけるために必要なことを自身の経験をもとに語った。

──細野さんは著書のなかで、「音楽を仕事にすることは意識していなかった」と書かれています。1960~70年代の当時、ロックでご飯を食べる、ということは現実的ではなかったのでしょうか。

細野 そうですね。60年代─ぼくが小中学生のころにエレキギターブームが起こり、まわりの連中がみんなロックに夢中になりました。けれど、当時はロックが反社会的なイメージでとらえられていて、エレキを弾いていると不良扱いされていた時代。ロックが仕事になるなんて、まったく思えませんでしたね。大学に入っても、音楽は遊びだと思っていました。

──音楽を仕事にしたきっかけとは?

細野 ぼくはボーッとしている人間なので、大学4年生になって、まわりの友人がどんどん就職を決めていくなかで、音楽ばかりやっていたんです。音楽関係の仕事ができればいいな、と思っていましたが、それは漠然とした希望でしかなかった。そんなときに、友人がレコード会社から内定をもらって、はじめて焦りを感じました。そこで大学の就職窓口に行ったら、時期が遅くてもう閉まっていたんです(笑)。
 そこでもう一年、就職先を探しながら音楽をやっていると、友人のなかにプロのバンドマンになるやつが出てきて。その彼から「解散して違うバンドを組むから、一緒にやってくれ」と言われて、そのバンドに“就職”することに。それが、ぼくがメジャーデビューした「エイプリル・フール」というバンドでした。

──事務所に所属して、きちんとお給料が出たんですね。

細野 そうですね。新宿のクラブで専属バンドをやったり、演歌歌手の前座をやったり、いろんな仕事をしました。当時はサイケデリックブームだったので、ドアーズやツェッペリンのカバーが中心でした。ここでカバーをやり尽くしたことが、「はっぴいえんど」につながったんだと思います。はっぴいえんどではお金よりも、とにかくいい音楽をつくることを目標にしたので、要するに“失業”してしまったわけですが(笑)。

──細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂……類まれな才能が集まったはっぴいえんどは、日本のポピュラー音楽史に名を刻む伝説のバンドです。なぜ、このようなメンバーが集まったのでしょうか。

細野 音楽をやっていると、自然と仲間が集まってくるんです。中学時代から同好会のようなかたちで音楽をしていて、そうすると他校の音楽好きとも出会うようになる。その延長線上で、はっぴいえんどのメンバーが集った、という感じです。
 はっぴいえんどの結成当初は、ほんとうにお金にならなかったですね。初期はぼくがマネージャーを兼ねていたのですが、イベントへの出演依頼があっても、ギャランティについてきいたことがなかった。むしろ、「練習不足で人前に出る準備ができていないから、半額でいいです」なんて言ってしまって、メンバーに怒られました(笑)。

細野晴臣 『HoSoNoVa』

2011年に発売されたソロアルバム
『HoSoNoVa』
(ビクターエンタテインメント)

──それでも、「これだけの作品をつくっていれば、いつかレコードが売れて、生活できるようになるだろう」という思いがあったのでは?

細野 その日暮らしで、未来のビジョンなんてありませんでした。ただし、「いい音楽をつくる」という意志だけは、誰にも負けなかった。特に2枚目のオリジナルアルバム『風街ろまん』が完成したときは、「傑作に違いない」という自負心を抱きました。
 当時は、いいものをつくっても売れない時代が到来しつつあり、たとえば、ぼくらが大好きだったバッファロー・スプリングフィールドというアメリカのバンドも、アルバム3枚で解散して、ソロ活動を始めました。結果的に、ぼくらもそれを真似するかたちになってしまいましたが、先に「儲かるかどうか」なんて考えてしまうと、クリエイティブなことはできないと思います。遊びのワクワク感が先にないと、いい作品はできない─この考えは、いまも変わりません。

──細野さんは少年時代から多くの音楽を聴き、それを吸収して、新しいものをつくり上げてきました。難しいことだと思いますが、なぜそれができたのだと思いますか?

細野 音楽を聴いて躍動感を覚えたり、背筋がゾッとしたりする感覚を、ずっと忘れなかったからでしょう。きっと、去年の震災で味わった“揺れ”が忘れられないのと同じ。肉体で受けた感覚は、それが快感でも不快感でも、人を動かす力があります。頭だけで考えていると、自分は何が好きで、何が嫌いなのかがわからなくなってしまう。ぼくの作品には、音楽を身体で感じてきた経験が大きく影響していると思います。

──細野さんはバンドマン、ソロアーティストとして、あるいはレーベルの運営者、プロデューサー、作曲家として、変わりゆく音楽シーンを駆け抜けてきました。音楽シーンの現状をどうとらえていますか。

細野 ぼく自身、ほんとうはレコード盤が好きなんだけれど、最近は「デジタルでいいや」と思うようになりました。自分がそんなふうになるなんて予想もしなかったし、時代によって変化させられていることを感じます。たとえば、テクノが隆盛した時代だって、「音楽用のコンピュータなんて誰が使うんだ?」と思っていたのに、いつの間にか自分も使うようになっていた。テクノロジーの進歩に、ミュージシャンもついていかなきゃいけない時代だと思います。ただし、テクノロジーはあくまでも楽しみながら、遊びながら使うことです。新しいことを取り入れるだけでは、おもしろい音楽は生まれません。

──最後に、音楽の仕事がしたいと考えている若者に、メッセージをお願いします。

細野 ワールド・スタンダードというバンドのリーダー、鈴木(惣一朗)くんがアマチュア時代に、ぼくのところに相談に来たことがあります。彼は当時、大手企業に勤めていたんだけれど、「音楽に専念したい」という。ぼくは「会社は辞めるな。音楽は副業でいい」と答えました。そうしないと、遊びという感覚がなくなり、彼の優れた音楽性が壊れてしまう可能性があると考えたからです。
 ただ、結局はどうなっても音楽をつづけてしまう、音楽に取り憑かれたような人じゃなければ、つづかないのかもしれません。そして、どんなことでも一途に10年間つづければ、職人的な技術が身について、仕事はできると思う。ほんとうに音楽が好きなら、やりつづけたほうがいいでしょう。「好きで好きでしょうがない」という気持ちは、恋愛感情と同じで止められないものです。ただし、それだけに冷めやすいかもしれない。それを見極めて、最終的には自分で決めてほしいと思います。

細野晴臣 HARUOMI Hosono
1947年、東京都生まれ。69年、ロックバンド「エイプリル・フール」のベーシストとしてメジャーデビューし、同年に大瀧詠一、松本隆、鈴木茂と「はっぴいえんど」を結成。日本語ロックの先駆者として旋風を巻き起こし、73年の解散後は、高橋幸宏、坂本龍一と結成したイエロー・マジック・オーケストラ (Y.M.O)で活躍。自身のレーベルを立ち上げてプロデュース活動を行い、数々の名バンド、名曲を世に送り出してきた。2008年、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。11年には『くるり×細野晴臣 東北ツアー』を行い、ソロアルバム『HoSoNoVa』を発表するなど、音楽シーンで幅広い活躍を続けている。