タイトルは森田伸子さんの昨年、書かれた本のタイトルでもあります。この本から多大の示唆をいただきました。これから書くものは、メモ風で、あまりまとまりのあるものではありませんが、しばらく、この本との対話をしてみたいと思います。
私は国語教師であり、哲学者ではありません。私が何であるかなどどうでもよいのですが、この職業に付くはるかに以前から、そして付いてから後も、実に多くの哲学者たちのテキストに胸を借りて「考える力」=思考力や「言葉の力」を養ってきたという自覚があります。
そして、同時に、主に小学生と大学生ですが、多くの子どもたちの言葉にも十年以上、接してきました。この本には、子どもたちの言葉や、学校で書かされる感想文がたくさん紹介されています。そして、それに対応する国語教師の無自覚な「教育」のために登校拒否になってしまった子どもたちも出てきて胸をつかれます。私もまた、受験塾での経験から、過去問を暗記するだけの貧しさを体験してきました。
しかし、大学生になってしまうと、もう定まってしまった貧しさがしゃれた洋服を着て歩いているだけです。つまり手遅れに近い。
国語はともかく哲学という名前を聞くだけで拒否反応を示す多くの人が存在していることも私は分かっています。しかし、国語教育と哲学は、ほとんど隣接領域ではないかと最近、思いはじめています。とりわけ、「思考力を養う」などという課題が課され始めてきたときに、なぜ学校をはじめ多くの私塾などの機関が、これだけテキストが豊富にある「哲学」を、きちんととりあげないのか不思議にすら思います。
私がはじめて哲学者たちのテキストを読んだのは、高校生のときでした。その一つは、現代国語の教科書に載っていた森有正という哲学者の文章で、これに震撼してしまい、授業中に「金魚」(川村欽吾)というあだ名の国語の教師を質問ぜめにしたことを覚えています。さぞやご迷惑であったでしょう。森有正の著作はその後も読み続け、彼の専門であるデカルトとかパスカルの論考よりも、彼の独特の日本語論とかバッハのバイブオルガン演奏に影響されました。
さらには、当時、刊行されはじめた「世界の名著」中央公論社のシリーズです。確か、第一巻配本は、ニーチェの「悲劇の誕生・ツァラトゥストラはかく語りき」第二巻目がレヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」であったという記憶があります。さすがに、これらを読解するには基礎力不足でしたが、それでもむしゃぶりつくように読みました。とうとう、高校三年生になると、当時、岩波から刊行されていた「三木清全集」を親に頼んで配本してもらい、それを持って京都に赴いたのを覚えています。
こういった高校生でしたから、当時、私の書く文章は、頭でっかちで観念論的で、まったく意味をなしていなかったのを覚えていて、もしも、小論文の試験などがあったら確実に、不合格になっていただろうということも、いまなら、はっきりと自覚できます。
しかし、それよりもはるかに前の小学生の頃、私は、毎晩のように自宅の屋根に登って星々とあまりにも不思議な宇宙の存在におののき震撼していました。
ですから、森田氏の本のはじめにあるように、実は、哲学的な問いは、かなり幼い頃から孤独にはじまっているのです。それも、解答不能な問いです。解答が定まってしまっているものを思想といい、哲学とは、解答不能な問いへのあくことのない問いかけのプロセスをいいます。
解答不能な問いをあくことなく執拗に問うこと、それは、実は、現実に多くの科学者・数学者・哲学者・イノベーターたちが実践していることなのです。そこから、解答そのものよりも、たくさんの副産物が産まれてくるのです。創造とは、そのようなことです。
解答が定まっていて、しかも、自分が考えたものではない解答を暗記するだけの受験教育の貧しさを、もういいかげん止めないと、この国は、おかしくなってしまうでしょう。既に、失われた何十年がそうでした。