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〈朝鮮歴史民俗の旅〉 妓生(1)

 妓生の本来の姿は特殊技能を持った女性である。鍼灸や歌舞の技能に優れ、必要に応じて社会に奉仕する技能集団であった。医療関係には尚房妓生・薬房妓生がおり、歌舞関係には声妓、歌妓、舞妓がいた。

 技能をもって社会に奉仕していたこれら妓生たちは、若くて美貌の持ち主であり、男性に接することの許された賎民だったので、自然に酒宴の席にも招かれていた。高麗の時代に、妓生は官妓として政府の「掌学院」に登録され歌舞を事業とし、宮中の宴会に出入りしていた。

 妓生の由来についてはいろいろな説があるが、「百済の柳器匠の子孫楊水尺が生草を求めて流浪するのを見て、高麗の人李義民が、男を奴婢に女は妓籍に登録して管理したが、これがもとになって妓生がはじまった」という、実学者丁茶山の説が最も有力視されている。

 儒教的道徳を重視した朝鮮王朝は、社会の秩序と風紀を乱しかねないと妓生制度の廃止を何度も試みた。妓生にかえて男寺党(旅芸人)を宴会に呼ぶこともあった。しかし、妓生は宴会の華であって、大の男がそれに代われるものではない。結局、妓生の制度は存続し、時代とともに強化されていった。

 朝鮮王朝は政府内に「妓生庁」を設けその管理にあてた。これは、歌舞など妓生に必要な技能はもちろん、行儀、詩作、書画のこころを教え、王族や上流階級に接するにふさわしい素養を身につけさせた。また、ソウルと平壌に「妓生学校」を設立し、15歳から20歳までの女性に歌舞、礼法の他、高度の礼儀作法と書芸を授け芸能と教養を完備させていた。

 朝鮮の妓生は官妓であった。官の社会は厳格な位階の秩序で維持されたものだが、妓生も例外ではなかった。彼女たちは一牌、二牌、三牌という三つの等級に分けられた。一牌は一級妓生。美貌で歌舞に長じた者たちで、王宮や上流社会の宴会に招かれた。二牌は二級妓生で、ある程度の技能を持ち下級官吏や中人を相手にしていた。三牌は三級妓生で技能をもたず、もっぱら酌婦として勤めた。

 妓生には夫がおり、妓夫と呼ばれた。夫婦の関係でもあり、俳優とマネージャーといった関係でもあった。妓夫は妓生の財産を管理したが、時には使用人としても働いた。夫がいることで、妓生は宴会の歌舞をうまくこなすことができ、男たちの侮辱や嫌がらせから身を守ることもできた。妓夫に指名されたのは公務員である司法や警察、軍などの下級官吏だった。

 朝鮮王朝時代、妓生で有名になった都市がいくつかあったが、そのトップは平壌であった。当時、平壌は柳京とも呼ばれた。柳には遊興を楽しむという意味がある。晋州と海州、北の義州、南の釜山なども有名であった。行政と軍事の拠点であったこれらの都市は、官吏や軍人の出入りが頻繁で、その分、妓生の出番も多かったと言える。

 主たる任務は宮中や官邸の宴会を盛り上げること。彼女たちは国王が狩や花見などから王宮に戻ると、行列の先頭に陣取って国王賛美の歌舞を披瀝し、宴会の席では、高位官僚たちと時調や漢詩を交わしながら酒席の雰囲気を盛り上げた。外国の使臣を迎えての宴席では、清楚で美しく慎み深く振る舞った。

 日常の仕事は高位官僚の私的な宴会に呼ばれて技能を披露し、酌婦としての勤めを果たした。誕生祝や還暦祝いなど、宴会好きの両班にとって妓生はなくてはならない存在であった。私的な行事では国事と違い、宴幣と呼ばれる出演料が支払われたため、妓生にとっても大きな楽しみであった。

 妓生は歌舞が売物であったが、性を提供することもあった。身分的には賎民、官卑であったので両班・官僚の命令とあれば拒むことはできなかった。この場合の妓生を房妓生・守廳妓生といった。守廳とはもともと官吏の就寝時に廊下で主人の部屋を守ることであったが、いつしか転じて、寝室にはべること、お伽の相手をするという意味になっていった。

 妓生に守廳を求められるのは奉命使臣に限られていた。地方の官吏や豪族であっても妓生を相手に性を求めることは、法によって固く禁じられ、それを犯せば百たたきか罰金刑に処せられた。奉命使臣とは中央政府が派遣する特命の官吏で、監察使や暗行御使などである。

 郡や県の守令たちは、彼ら奉命使臣がその地に赴いて申し出れば、妓生を提供しなければならなかった。これは法の決まりである。

 妓生は両班社会で「解語の花」と言われていた。人間の言葉を解する口と耳をもった花という意味だ。侮辱的な表現だが、妓生の社会的地位はその程度のものに過ぎなかった。だが、見方によっては、妓生は最も自由な女性たちであったとも言える。

 両班家の主婦のように、「婦道」の厳しいしきたりに縛られることもなかった。華やかな着物を身にまとい、派手に化粧をし、馬やかごに乗ることも許された。

 朝鮮王朝全時代を通じて、妓生を巡るスキャンダルが絶えなかった。両班が夫婦の愛情に飢えていたからだ。正妻はいても夫婦は信義と礼節で結ばれるもの。正妻は子を生み育て家庭を守る人に過ぎない。一方、妓生といえば、苦境を脱して人間らしく生きたいという強い願望を持っていた。両者のこの欲求が、途方もない行動に身を任させた。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師) 

[朝鮮新報 2004.10.30]