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女優の森光子さん死去
11月14日 19時21分

80年近くにわたって舞台やテレビで活躍し、女優として初めて国民栄誉賞を受賞した森光子さんが、今月10日、心不全のため東京都内の病院で亡くなりました。
92歳でした。

森光子さんは京都市出身で、14歳で映画に出演したあと歌手として活動を始め、太平洋戦争中は日本軍の慰問活動も行いました。
戦後は、ラジオ番組を中心に活躍していましたが、劇作家の菊田一夫さんに見いだされ、昭和36年に始まった舞台「放浪記」で主人公の林芙美子の役を初演から務めました。
舞台は大ヒットして、特に「でんぐり返し」の演出は、この舞台の名物となり、上演回数は平成21年5月に2000回を超えて、1人の俳優が主演を務める舞台としての最多記録を打ち立てました。
このほか「おもろい女」や「雪まろげ」などがロングラン興行になるなど、森さんは大衆演劇の第一人者として活躍しました。
またテレビドラマで演じる庶民的で明るい母親役などが親しまれ、NHKの「紅白歌合戦」でも司会を3度務めたほか、バラエティ番組にも出演し、お茶の間の顔になりました。
こうした長年の功績が認められ、昭和59年に放送文化賞を、平成17年には文化勲章を受章、「放浪記」の舞台が2000回に達した年には、国民栄誉賞が贈られました。
しかしその後、森さんの体調に心配があることを理由に、おととし、平成22年5月に予定されていた「放浪記」の舞台は中止になりました。
その後は表舞台に姿を現すことが少なくなり、最近は病院で療養を続けていました。
森さんは栄養管理のために短期入院を繰り返し、ことし9月からは再び入院して療養を続けていましたが、今月10日の午後6時37分、静かに眠るように息を引き取ったということです。
葬儀は家族の希望で、14日、密葬を執り行ったということです。

90歳近くまで舞台で演じ続ける

森さんは大正9年5月、京都市で生まれました。
いとこで、映画俳優の「アラカン」こと嵐寛寿郎さんの映画プロダクションに入り、茶屋の少女役として14歳で映画デビューを果たし、3年半で40本ほどの映画に出演する人気ぶりでした。
戦争で映画の製作本数が減った20歳を過ぎたころに上京。
当時のスター歌手の前座として歌を歌うようになり、太平洋戦争中は旧満州や東南アジアなどの戦地で、在留日本人や日本軍の慰問活動も行いました。
その後、大阪を拠点にラジオ番組やテレビドラマ、舞台と戦後最初のお笑いブームに乗って喜劇女優として活躍しました。
しかし脇役が多く、なかなかいい役に恵まれませんでした。
森さんが下積み時代の思いを記した川柳です。
「あいつよりうまいはずだがなぜ売れぬ」。

転機は舞台「放浪記」

そんな森さんに大きな転機が訪れます。
劇作家の菊田一夫さんに見いだされ、昭和36年に始まった舞台「放浪記」で、主人公の作家、林芙美子の役を務めることになったのです。
41歳で初めてつかんだ主役の座でした。
舞台は大ヒット。
特に、小説が雑誌に載ることを知った芙美子が喜びのあまり行う「でんぐり返し」の演出は、この舞台の名物となりました。
「放浪記」をきっかけに、森さんはテレビや映画、舞台で大活躍。
紅白歌合戦の司会も3回務めました。
ドラマでは、昭和45年に始まった「時間ですよ」のシリーズで演じたお母さん役が幅広い年代から親しまれ、日本を代表する「お母さん女優」としてその人気を不動のものにしました。
さらに森さんは、NHKドラマの「おはなはん一代記」に主演したほか、民放のワイドショー番組やコント番組にも積極的に出演。
お茶の間の人気者になりました。

“生涯現役”の陰に不断の努力

現役で演じ続けるため、70歳を過ぎてから始めたスクワット。
毎日150回欠かさず続けたといいます。
80歳を過ぎても舞台に立ち続け、生涯現役を貫きました。
ライフワークとなった放浪記は平成21年5月に2000回を達成。
森さんは1度も休むことなく林芙美子を演じ、1人の俳優が主演を務める舞台としての最多記録を打ち立てました。
そのことが評価され、同じ年の7月には国民栄誉賞を受賞しました。
翌年には、7メートルの高さのゴンドラに乗ってあらわれ、自ら作詞した歌を披露するという新たな舞台にも挑戦。
精力的に活動を続けてきました。
しかし、森さんの体調に心配があることを理由に、平成22年5月に予定されていた「放浪記」の舞台は中止になりました。
その後は表舞台に姿を現すことが少なくなりました。

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