政治思想と社会保障観(2012.11.1)

 

 三つの自由主義と二つの保守主義と社会民主主義

 福祉国家とは完全雇用と社会保障を重視している国家であるともいわれるが、小山路男は次のように整理している。「福祉国家理念が複雑な経済的・政治的諸利害の妥協の産物であったことである。この理念はあらゆる政党の政策や主張が一致し重複したところで成立したから、開明的保守主義者にも進歩的自由主義者にも、あるいは社会主義者にも訴えることができたのである。」ロイド・ジョージやチャーチルの新自由主義の運動として始まったものが、保守主義者のチェンバリンによってさらに推進され、労働党内閣によって完成された。「福祉国家はかくして、自由主義と社会主義の原理的混合体として理解されている」(小山路男「福祉国家の起源」同編著『福祉国家の生成と変容』光生館、1983年、p.223)。

 小山教授が記していたような問題について、社会保障論や社会政策論ではあまり議論されていない。一つの理由はマルクス主義が経済社会を分析するときには生産関係(生産手段の所有関係)を中心にし、歴史法則を前提にして分析することが社会科学的なのだという考えであったため、社会主義を理想とする人も資本主義を守りたい人も、ともかく経済を中心に研究してきたからである。ソ連・東欧の社会主義が崩壊して歴史法則をそのまま肯定するわけにはいかなくなったように思われる。そこで資本主義や市場経済という枠組みの中での政治(「社会に対する価値の権威的配分(the authoritative allocation of values for a society )D.イーストン)が社会保障に及ぼす影響を検討してみたい。

 まず、社会保障と政治思想との関係をみてみたい。
 

(前半) 自由主義・社会民主主義・保守主義の解説

(後半) 政治思想と社会保障

  

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自由主義・社会民主主義・保守主義の解説 

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              (1)社会自由主義(「ニュー・リベラル」の解説として)
              (2) 社会民主主義
              (3)保守主義
                            自由保守主義(社会保守主義)
                            保守的自由主義
                            リバタリアン保守主義
                            財政保守主義
        (4)新自由主義

(本稿では自由主義を、オールド・リベラル、ニュー・リベラル、ネオ・リベラルの三つに分けた。社会保障とはニュー・リベラルと縁が深いので、ニュー・リベラルで検索したが、もっぱら「社会自由主義」の解説の中にニュー・リベラルの解説があった)

(政治思想や政党の話は、歴史的なことはともかく、現代のことになると、資料の執筆者の立場によって書き方が変わってくると思う。だから、別の人が読むと、おかしいと感じることもあるはず)




(1)社会自由主義(「ニュー・リベラル」の解説として) 

(英語版WIKIPEDHIAより抜粋)

 社会自由主義は自由主義というものは社会的正義を含むべきだという信念である。古典的自由主義とは違い、国家の役割には失業や保健ケア、教育、市民権の拡大など経済的社会的分野を含むと考えている。20世紀末に社会自由主義への反発が起こり、ネオ・リベラリズムと呼ばれてマネタリスト的政策と政府支出削減につながった。しかしこの反発は古典的自由主義への回帰にはならなかった。

★英国での起源

 19世紀末から20世紀初めにかけて、経済成長の停滞、貧困の拡大、失業、都市での相対的剥奪(貧困)などから古典的自由主義の原則は非難された。刻苦勉励し才能で身を立てるというself-madeの人間という理想像は非現実的になった。

 19世紀末から20世紀初めにかけて、「ニュー・リベラル」と呼ばれた思想家はレッセフェールの古典的自由主義と対立し社会や経済、文化などに国家が介入することを主張した。「ニュー・リベラル」にはT.H.グリーンやホブハウスやホブソンが含まれ、個人の自由は良好な環境のもとで達成できるものだと考えた。そして、世間の貧困や不潔や無知は自由と個人の尊厳(individuality)を不可能にするので、これらの条件を解消するために、強力で福祉を目指した介入主義の国家が必要と考えた。第二次大戦後、英国の「福祉国家」は労働党により建設されたが、二人の自由主義者、ケインズとベヴァリッジによって経済的基礎と福祉システムが設計されたのである。

★ドイツでの起源

 19世紀末に自由主義左派(left-liberals)が労働組合を作り、それは1873年に社会政策学会を造った自由主義左派のブレンターノなどに指導された。自由主義左派の主な目標は、自由な演説、集会の自由、自由貿易、代表議会、私的財産の保護などであったが、福祉国家のことは国家社会主義と呼んで強く反対した。一部の人はドイツの自由主義左派を社会自由主義と呼んでいるが、現代ドイツの自由主義を代表するのは自由民主党で、自由主義左派はもっと保守的であって、保守主義と連携する国民自由党の右派となった。

★フランスでの起源

 社会自由主義は第三共和制の下で社会主義の思想家によって発展した。そのうちのデュルケイムはレオン・ブルジョワのような急進的な政治家に影響を与えた。彼らは個人というものは社会に対して負債を持っていて、累進的課税をおこない公務労働と福祉制度を促進すべきと考えた。しかし彼らは国家が管理するというよりも調整する方がいいと考えたので、個人間の共助的な保険制度を強調した。彼らの主目的は福祉国家ではなく社会移動の障壁を取り除くことだった。

★アメリカでの起源

 1870年代80年代に社会主義に影響された経済学者が労働組合を紹介したが、政治思想の確立に伴ってその考えは捨て去られた。1883年にレスター・ウォードが『動学的社会学』を出版して社会自由主義を整理し、H.スペンサーやW.サムナーが支持していた自由放任政策を攻撃した。デューイはホブハウスやグリーンやウォードなどニュー・リベラルの影響を受けていたが、1884年から1930年代の著作で自由主義的な目標を達成するために社会主義的な方法を紹介した。社会自由主義の考え方はのちのニュー・ディールへと引き継がれた。

実践

 社会自由主義は大企業と政府と労働組合の協調によって特徴付けられた。

★英国での実践

 社会自由主義の最初の政策は、1906年から14年の自由党のもとで実践され、リベラル・リフォームとして知られる。主な要素は貧困な老人の年金と労働者の国民保険である。これらは1909年の人民予算などの累進課税によるものだった。大企業のオーナー経営者は、企業の利潤に都合のよくなっていた保守党を支持し、自由党を見限った。改革はいつも企業の利害と労働組合からの反対を受けた。しかし、もっとも熱心だった自由主義者はアスキス、ケインズ、ロイド・ジョージ、チャーチルとベヴァリッジだった。

 

 



(2)「社会民主主義」

(社会民主主義は社会主義であるといわれるが、ここの解説を読むと、最近の社会民主主義は資本主義の修正といえる。これを社会主義というのであれば、その社会主義はかつてのように生産手段の公有という共通理解とは違った社会主義だというべきである。たとえば、市場経済+生活保障充実。その意味での社会主義である。もともと社会主義は多様でロマンでもあったからこの社会主義もありだと思う。しかし、それでは各政党が口にする「社会主義」がなんなのか、いちいち確かめる必要がある

 

社会民主主義

(英語版WIKIPEDIAより抜粋)

 中道左派の政治イデオロギーである。公式にはevolutionary reformist socialismである。社会主義に到達するまでは階級協調を支持する。資本家と労働者の階級格差を縮小するために法律の改良と経済的再分配制度を擁護する。1951年のフランクフルト宣言は資本主義から社会主義へ徐々に転換することを支持した。最近の政策では、「福祉国家」促進、労働者の権利を守るための経済民主主義の創設を推進している。

 ニュー・ライトとネオ・リベラリズムの勃興以来、多くの社会民主主義政党は社会主義への移行という目標を廃棄し、「福祉国家」資本主義を支持するようになった。英国労働党は「第三の道」を掲げたが、その展開はかえって民主社会主義democratic socialismの高まりをもたらした。しかし、多くの国では両者は同じ政党で活動している。社会主義インターナショナルは社会民主主義と穏健な社会主義政党の主要な国際機関である。それは、第一に自由(個人の自由、差別からの自由、生産手段の所有者への依存からの自由、政治的権力乱用からの自由など)、第二に平等と社会的正義(equality and social justice)、第三に連帯(solidarity)などを理念とする。

 戦後、社会民主主義と共産主義の分裂に続いて、社会民主主義内部の分裂が起こった。一方は、革命抜きで資本主義を廃絶し、民主的議会を通して社会主義体制に置き換えることが必要であると考える。他方は、資本主義体制は維持するが、大企業国有化、公的教育、普遍的保健ケアなどのような社会的プログラムの実行、累進税制に基礎を置く恒久的な「福祉国家」の確立を通した富の部分的再分配など根本的な改良が必要だと考える。戦後、多くの社会民主主義政党が後者になり、資本主義を廃棄するという方針を止めてしまっている。社会民主主義者と民主社会主義者ということばは同じように使われたが、1990年代までは英語圏では両者は区別されていた。

 ヨーロッパでは社会民主主義者によって行われた多くの改良は、国民保健ケア事業などのように自由主義者と保守主義者にも支持され、もはや公共支出や産業規制について19世紀のような低い水準へ下げる支持はなくなった。米国さえもそうである。

 しかし1980年代以降、西欧では、社会民主主義の見直しがされているとみられている。とくに英語圏では社会民主主義の価値が確固として根付いていない。とくに最近は社会民主主義政党と政府が、「第三の道」を受け入れて、伝統的な社会民主主義の要素から離れていき、国家が管理していた企業などの民営化や市場規制の緩和に向かった。伝統的な社会民主主義者は「第三の道」を受け入れることはいっそう中道に、さらには中道右派に寄ることだ警戒した。「第三の道」の支持者は、それが現実への社会民主主義の必要で実践的な適応だという。伝統的な社会民主主義は戦後のブレトン・ウッズ体制のもとでは成長できたが、その体制は1970年代に崩壊している。とくに、有権者の中で中産階級が増えていて、左翼まる出しでは選挙が戦えなくなったのだ。

 



(3)「保守主義」

(現在は多くの国で「保守主義」と呼ぶのは、つぎの「近代的保守主義」ではなく、あとに紹介する「自由保守主義」のことである。その「自由保守主義」であっても、福祉は伝統的な弱者救済や慈善でありそこが保守主義のゆえんで、公的な福祉政策は中身が空っぽであるといってもよい。)

保守主義 

(『社会学辞典』有斐閣、ウキペディアなどから抜粋)

 現状の変革に対して、伝統的制度を維持しようとする立場であるが、近代的保守主義とは、フランス革命の後に、反革命的な封建貴族階級によって革命に対する批判の体系として形成された。「保守主義の父」と呼ばれるエドモンド・バークは、革命フランスを軍事力で制圧する対仏戦争を主導した。祖先から相続した古来からの制度を擁護し、それを子孫に相続していくべきだとする政治哲学である。同時に、1688年名誉革命を支持し、絶対王政は批判して議会政治を擁護し「国民代表」を提唱するなど近代政治哲学を確立したともされる。自然的に発展してきた “法(コモン・ロー)”や道徳、階級、国家とともに、君主制度、貴族制度、教会制度は、いずれの世代も自分たちの勝手な考えで改変することは許されないとみなす。社会契約論が唱える自然権が要求する権利は認めず、イギリスの歴史で形成されたものを守る。それは個々の人間は間違いを犯す不完全な存在と見なすからで、理性、進歩、平等、人権、民主主義などに強く反対する。

エドモンド・バーク(ウィキペディアから)

Edmund Burke1729年~1797年)アイルランド生まれ。政治家としては、絶対王政を批判し、議会政治を擁護した。議会における「国民代表」の理念を提唱したり、近代政治政党の定義づけをおこない、近代政治哲学を確立した。

(ジャン・ジャック・ルソーは、諸個人がいっそう自由で平等な状態、共通善を最大化するため積極的に社会契約を締結したことによって国家が成立したとみる。その契約当事者である市民のみならず、その集合体である人民こそが主権者で、契約の当事者に王は含まれないとして、現にある政体を否定し新に社会契約を締結し得るという革命的発想を含んでいた。ルソーの社会契約論は、後のフランス革命に影響を与えたとされる。ウィキペディア「社会契約」)

 バークは、人間の文明社会は、 “幾世代にわたる無意識の人間の行為”と“神の摂理”との共同作業において開花し発展・成長したものだと把握する

 バーク保守主義はフランス革命により提示された<社会契約>ではなく、<本源的契約>を重視する。多年にわたり保持してきたものの中に<本源的契約>の存在を見、その表れである祖先から相続した古来からの制度を擁護し、それを子孫に相続していくとする政治哲学である。だから自然的に成長してきた目に見えぬ“法(コモン・ロー)”や道徳、階級、国家、教会制度においても、ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない“時効の憲法prescriptive Constitution)”が存在するとみなす。

 バークはまたフランス革命に影響された<不可譲の人民主権>説を批判する。人民主権説によれば、人民は、違反行為のあるなしにかかわらず王を処置しうる。人民は、随意に、自らいかなる政体をも新たに設けうる。為政者の治政の存続期間は契約の固有の課題ではなく人民の意志次第である。事実上<社会契約>がなされたとき、それが拘束するのは直接契約に関わった人々だけで子孫には及び得ない、とする。しかしバークは<本源的な契約>の視点からこれらに反対する。

 イギリス国民の個々が享受し相続してきた「自由」「名誉」「財産」は、世代を超えて生命を得ている慣習・習俗や道徳の宿る“中間組織(intermediate social-group)”、例えば家族、ムラ、教会コミュニティ等によって守られると考える。これは社会契約論の仮想された自然権ではなく、現実のイギリスの歴史が自然と形成してきた摂理であるという。

 このようなバーク哲学において、人間の理性への過信を危険視し慎慮を求める。言い換えれば、個々の人間は多くの間違いを冒す不完全な存在と看做す人間観に基づいている。

 文明の政治経済社会に人間の知力や理性に基づく“設計”や“計画”が参入すれば、個人の自由は圧搾され剥奪されるとする。実際に、このバークの予見どおりに、フランス革命は、人間の理性を絶対視し、既存の教会制度を否定し「理性の神」を崇拝した結果、ギロチンに個人の生命を奪われ、革命権力の恣意に財産を奪われた。

 明治憲法は、上からの近代化を強力に推し進めるためドイツ法を範にすることになり、その後、東京大学法学部がドイツ憲法学に主軸をおきイギリス憲法学を排除したことによってバークは東大のカリキュラムから排除された。その上、日本ではドイツ観念論やマルクス主義がもてはやされた事からバークの存在は省みられなかった。バークに関する研究が始まるのは第二次大戦後のことである。



(つぎは英語版Wikipediaから抜粋) Conservatismの変種には次のものがある。

Liberal conservatism 自由保守主義(社会保守主義)。
 
保守的諸価値と古典的自由主義の結合であるが多種多様である。歴史的にはレッセ・フェールの市場という経済自由主義と権威や宗教などを信奉する古典的保守主義の結合した考え方。これは、経済や社会で個人の自由を尊重する古典的自由主義と対照的である。米国はじめ多くの国ではこれが「保守主義」と呼ばれる。
liberal conservative運動が政治の主流になったイタリアやスペインでは「自由」と「保守」は同義語である。
米国の
liberal conservative の伝統は古典的自由主義の経済個人主義とバーク的な保守主義が結合したものである。
Liberal conservatism
の二つ目の意味は、ヨーロッパで発達したもので、あまり伝統主義的ではない保守主義と社会自由主義(social liberalism)が結合したものである。これは社会主義の集産主義に対抗するものである。これは、自由市場経済学と自己責任という保守主義的な考え方を中心に、人権、環境、福祉国家など社会自由主義を伴うもので、スウェーデン穏健党のラインフェルト首相の思想で、「社会保守主義」とも呼ばれる 。

(英語版WIKIPEDIA「穏健党」より)穏健党は1904年に創設され、当初は国家主義で保守主義の党だった。1970年代に伝統的な保守主義政党から国際的な自由保守主義(liberal conservatism)へ徐々に移行した。社会問題に関する自由主義的なスタンスは1964年のキリスト教民主合体(キリスト教左派ないし社会保守主義)に始まった。1991年から1994年のビルト内閣では減税、歳出削減、バウチャー学校制導入、電信やエネルギー市場の自由化、公有企業民営化などを行った。(つぎの社会民主党内閣でもさらなる規制緩和と民営化が行われた)。やがてリバタリアンのスタンスが支持を失い、党首はラインフェルトに替わった。2006年に穏健党は中央党、自由人民党、キリスト教民主などと連立政権を造った。党のイデオロギーは自由主義と保守主義の混合で自由保守主義にあたる。スウェーデンや多くの西欧では自由主義は、米国の現代的な自由主義ではなく古典的自由主義に近い。しかし、党は「1930年代以来の社会給付の多くを受け入れている」。また、暴力や性犯罪、勤勉、教育制度の平等などを主張し、同性婚の合法化やEU加盟を支持している。また、ややネオ・リベラルにちかい体質や労働法批判は変化し、スウェーデン・モデル維持や労働市場重視になった。

Conservative liberalism 保守的自由主義。
 自由主義の変種で、自由主義と保守的政策を結合したもので、自由主義のなかの右派。自由主義の始まりに見られるもので、ドイツやイタリアでは第二次大戦までの政治階級は保守的自由主義者だった。

Libertarian conservatism リバタリアン保守主義。
 米国とカナダに見られ、市場原理主義的な経済と保守主義が結合したものである。分派として、憲法主義、ネオリバタリアニズム、
小さな政府保守主義などがある。libertarian conservativesはレッセフェールを固守し自由貿易主義だが、中央銀行制度や産業規制、環境規制、企業福祉、補助金など経済への介入に反対し、妊娠中絶に反対する

Fiscal conservatism 財政保守主義。
 政府支出や公的負債に慎重な経済思想で、健全財政主義である。

 

 保守的政党の目標は国によってさまざまであるが、保守主義政党も自由主義政党も、共産主義や社会主義や環境保護政党(green party)に対抗して、私有財産を保護する傾向がある。保守主義と自由主義の違いは社会的問題の扱いにある。多年にわたり保守的政党は非キリスト教徒や非白人や女性には投票権を制限しようとしてきたが、現代の保守的政党は自分の立場を定義するとき、自由主義的政党や労働党に対抗する立場として定義することが多い。

 「米国の保守主義」は古典的自由主義者と19世紀末から20世紀初めの保守主義者の提携に始まる。レーガン大統領は最近の保守主義の象徴で、「保守主義の魂はリバタリアニズムである」と述べた。社会保守主義者は家族、教会、郷土など伝統的な社会単位を強調し、同性婚と妊娠中絶には反対である。

共和党(英語版WIKIPEDIAより)

 共和党は財政保守主義、社会保守主義、ネオコンサヴァティズム、穏健派、リバタリアン(市場原理主義)を含んでいる。保守の連合の前は、歴史的には古典的自由主義、パレオコンサヴァティズム、漸進主義を支持していた。(なお、パレオコンサヴァティズムpaleoconservatismは米国において伝統、小さな政府、市民社会、反領土拡張、反連邦主義などを強調し、宗教、郷土、国家、西側などを重視する米国の保守主義哲学である。 21世紀には、軍事的介入、移民、差別撤廃、同盟国強化、社会福祉などに反対している。)

 共和主義者は経済的な繁栄の背後にある要因として自由市場の役割と個人的達成を強調している。その目的のために自由放任の経済学、財政保守主義、福祉政策ではなく個人的責任などを支持する。主な経済学はレーガノミックスとして知られる供給サイドの経済学である。所得税制は富裕層には不公平だと考え、また財産税にも反対している。

 大部分の共和党支持者は、運の悪い人のためのセイフティ・ネットに賛成であるが、貧困層を援助するには政府よりも民間部門の方が効率的だという。だから、福祉予算に代わって民間のfaith-basedや慈善団体などへの補助金を支持する。1996年のクリントンの福祉改革を支持する。政府が運営する一元的保健ケア・システムは医療の社会化なので反対であるが、メディケアとメディケイドには好意的である。2011年にはメディケアとメディケイドと2010年保健ケア法の改革を求めている。一部の人は最低賃金引き上げは雇用や輸出を減らすということで反対している。

 社会サービスではfaith-based initiativesを支持している(faith-based initiativesとは、White House Office of Faith-Based and Community Initiatives (OFBCI)が支援する民間の社会サービスで、この事務局は2001年ブッシュ大統領が造った。このサービスの方が政府が関与するよりも地域の個人のニーズにうまく対応できるという考えからである。



●わが国の保守主義と儒教(ウキペディアほか)

 孔子(B.C551B.C479)それまでのシャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化した。周末、実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあったのを憂えて体制批判をし、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。その根本義は「仁」であり、「仁」が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の祖先崇拝があるため、「仁」という人道の側面と「礼」という家父長制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。

 孟子(B.C372-289「礼はもともと人々に備わっている」という性善説。天下を与えられるのは天だけで、天の意思、天命は直接にではなく、民の意思を通して示される。民がある人物を天子と認め、その治世に満足するかどうかによって天命は判断される。民が天子の治世に満足しない時は天命により政権交代させる(天命を革(あらた)める)。「徳」のない君主を武力により放伐(放逐)することも容認した(易姓革命)。だから王朝の世襲に反対する。仁義礼智信という徳性を拡充し五倫(父子・君臣・夫婦.長幼・朋友)には親愛・義・別・序・信を維持して社会は平穏となる。どんな悪い親でも体を授かった親は敬わねばならぬ。夫と妻にはそれぞれ別の役割がある。年長者には従う。 徳による治世が「王道」であるとし、武力による「覇道」を批判した。

 荀子(B.C298-238以後)は「強いられなければ誰も礼などもたない」という性悪説。人間の本性は欲望なので、みなが欲望を満たそうとし社会は「乱」に陥る。そのために、外的な法令と罰則、「礼」で各自の分限を規制し欲望を抑えることで社会の「治」秩序が実現する。

 前漢時代に儒教を国教とし、官吏登用試験の必須科目にされ、体制の学問となっていく。ここから高度な教養のある人が官僚になる傾向ができあがったらしい。

 『論語』後漢(25-220年)末に現在の形に整理された。

 朱子11301200)孟子の流れで朱子学(理学)。宇宙の正しい物事の関係「理」は人間では身分の上下関係として現れるのだから、身分制度、上下関係は変えられない。親孝行は子どもの心でなく「理」がさせるものである。

(わが国へは、一般には1199年に入宋した真言宗の僧が日本へ持ち帰ったのが最初とされるが明確ではない。鎌倉時代後期までには、五山を中心として学僧等の基礎教養として広まった。鎌倉幕府以降の武家は覇道を避けるため徳の象徴・天皇をいただいて王道とし支配を正当化した尊王論)。

(儒教、『論語』は16世紀にヨーロッパに紹介され、「易姓革命」はヴォルテール、モンテスキュー、ケネーなどの思想家に大影響を与え、啓蒙思想の発展に寄与したとされる)。

 王陽明14721528陽明学。朱子学は孔子の教えとは違っているとして批判した。学問とは自分の心を正しく捉えることを貴ぶものと考えた。「心即理」。「性・情」を含む「心」は、天が全員に賦与した善性()であり、性は外的権威(経書)によらず完成できる。「理」は人の「心」の内にあるから、「経書」などや外的な権威に頼らなければいけない、ということはないことになる。「理」はわが「心」に他ならない、といったので体制側が警戒したらしい。五倫のうち、朋友以外は上下関係なのに対して、朋友は水平的関係で、勉強会などを重視し朋友関係を大切にした。知行合一(認識と行動は表裏)。

 江戸時代になると、王道と易姓革命が支配の正統性に利用されるようになり、学問として研究されるようになった。

 中江藤樹(1608-1648)(陽明学) 身分差はあるが人の価値は平等である。親孝行が最優先であるが、実際には他人に配慮しつつ親孝行すべきである。しかし、親孝行よりもこの世を最優先すべきで、この世のために働くことが大切である。(大塩平八郎はこの流れだといわれる)。

 林羅山(1583-1657)(朱子学)家康に仕えた。士農工商の身分制度は「理」により正しいから、絶対に変えてはならない。親孝行は「心」でなく「理」がさせるものである。人間は天理を受け本性は善だが、情欲のため「理」から外れた行いをする。だから儒学で「理」を極め、上下関係を壊す情欲を捨て去るべき。国の「序」秩序を保つため「敬」とその現れである「礼」(礼儀・法度)が重要。また、名分論が武家政治の基礎理念とされた。神道と人道と儒教の根本は同じとした。

 幕末の徳川慶喜は尊皇主義だったが、尊皇攘夷論と対立した。

 1890(明治23)、『教育勅語』で国家のイデオロギーとして本格的に採用された。軍部の一部で朱子学に心酔する者が多く、二・二六事件や満州事変にも影響したといわれている。■

 

 現代の経済成長論のひとつは資本蓄積と労働力と技術進歩によって経済は成長するという考えである。しかし、農業に適した土地や気候、工業に必要な鉱物資源などを考慮しなくてはならず、それらは土地としてくくられていたが技術進歩の中に含めることもある。これら三つの生産要素は必ずしも国内でまかなえないが、現代では海外からの投資、移民労働者、貿易などで増大させることができる。

 おそらく18世紀にヨーロッパ人は新天地アメリカで生産や貿易など経済活動が盛んになり、生活水準が向上していることを認識したと思うが、そのポイントは自分以外は何にも頼らない自立心とひたすら働く勤勉という労働者の生き方だと考えたようだ。マルクスは産業革命を念頭に置いて、資本の自己増殖・資本蓄積にともない生産力水準が向上すると述べた。ここには経済成長と同じ思想がある。しかし、マルクスは、資本主義では生産力が向上してもそれが労働者の生活水準の向上につながらないことを批判した。

 それに対して、中国大陸は戦乱が当たり前の地域だったから、農業の技術革新があまりなく、民を富ませる(生活を向上させる)ためには、二つの方法が考えられた。ひとつは、支配者が治水を進め戦争をやらず贅沢をしないことなどの「善政」(徳)。もうひとつは近隣を侵略して領土を広げ搾取することであろう。いずれにしても戦乱続きで農民はいつも疲弊し虐殺されていたが、儒教は身分制度を変えるなと言った。支配者は自国の農民を搾取し近隣を侵略し、権力を親族で独占し縁故で役職を分配し報復粛清し、暗殺毒殺で権力を奪取したといううわさが絶えず、いつも農民庶民の生活は安定しなかった。そういう支配者に抵抗して、農民の反乱がいつも、どの地方でも発生した(今日も中国の地方で暴動が起こっているが、共産党が悪いと言うが、歴史的にいつの支配でも暴動はつきものだった)。

 中国共産党がやったのは、資産家や農民の工場や農地や家畜など生産手段を国有化公有化することだった。その理由は、マルクスが、生産手段を資本家が所有しているから利潤が資本家のものになる(搾取する)と言ったので、公有化国有化すれば人民のものとなり収益を人民が分配できるという理屈であった。それは分配という側面では理にかなっていたが、生産力向上という面からは逆の政策だった。つまり、働いても働かなくても、売り上げが増えても増えなくても、労働者の賃金は変化しないために、まじめに働こうという意欲が失われることになり、生産要素の一つが劣化してしまった。

 こうして儒教は本家の中国では廃れてしまったが、わが国では徳川時代に政府公認の学問となり、武士にとどまらず寺・僧侶・寺小屋をとおして庶民にも普及したと考えられる。徳川家の譜代大名としては、戦国時代を乗り越えたのだから、ともかく徳川家の存続安泰を図ることが目標だった。つまり、戦国時代のように戦争を仕掛けて領地を恩賞として与えることはその大名の勢力を増強すること、徳川の勢力を弱めることにつながる。だから、徳川の内政の中心は軍事力の行使ではなく、諸大名の経済力の増強を抑えることであり、それが徳川家の存続と譜代大名の安泰であったと考えられる。そういう社会では支配者を脅かさないで秩序を重んじる儒教は相性がよい理念だったと考えられる。しかし、戦争こそないものの、地震、洪水、火災、疫病、凶作がおこり、そういう自然の力による被害が意識され、身分制度云々よりは被災者に対する支配階級による徳政が求められ、これは儒教と整合的だったといえよう。また、徳川時代には戦争がなかったので、農民は技術革新に努力しそれが少しは報われ、農業生産力が向上するという経験を積んでいた。

 漢の時代に儒教が官吏登用試験の必須科目になって以来、その王道思想はわが国の武家支配の一つの理念となった。徳川時代には武士は官僚や事務員としての勤務となったが、その生活や勤務の規範として、すでに清では廃れていた儒教・漢文がわが国で栄えることになった(今日では多くの若い中国人は漢文が読めないと言われる)。幕末の動乱期には尊王論として前面に出た。明治期には再び社会秩序のイデオロギーとして国家の理念となった。こうして脱亜入欧で欧米の法律体系や官僚制度、軍事制度などが導入されたが、儒教は明治期の官僚にも高度な教養として外国語とともに求められたと考えられる。
 やがて欧米列強による日本帝国の迫害という時代認識の中で、国家存続の背骨として国民の中に復活を遂げたといえるのではないか。

●儒教の「忠」(日本と中国・朝鮮)

(ア)親子には「孝」が生まれたが、血縁関係のない他者との関係では<まごころ>という観念で人間関係を成り立たせた。朋友では「信」、主君には「忠」。こうして血縁的共同体、地縁共同体(通婚圏、親戚)、地域共同体へと道徳が擬似的に拡大される。

(イ)周王朝の地域共同体連合から「秦」「漢」の中央集権的皇帝国家へ展開したときに、「信」はそのままで、「忠」は直接、皇帝と関わる官僚の道徳に移行する。「科挙試験」の登場後、「忠」道徳は科挙官僚の皇帝に対する道徳へと集約され、国民一般の道徳ではなくなった。

(ウ)中国・朝鮮は試験官僚によって政府を構成した。日本は律令制を真似たがすぐに荘園という私有地の有力者が登場し公地制がくずれ中央集権が徹底できなかった。鎌倉以降、天皇は中央集権国家の象徴的元首にとどまり、実権は幕府が握り、国政も最終的には藩単位となった。

(エ)藩の君主は地域共同体の中心者として実感できる対象で、行政担当者は試験合格者でなく世襲の武士に固定されていたから、「君臣の関係」が末端まで密であった。「忠」道徳は武家全体、行政担当者全体に生きていた。

(オ)中国・朝鮮では試験合格官僚が「官」であるのに対して、地方では土着で世襲制の「吏」がいた。「吏」が行政の実権を握り、土地の地主や大商人などと地方有力者となっていた。「官」は中央の皇帝に対して「忠」の意識を持つが、地方に永住する「吏」にはそのような観念は生まれない。「吏」にとっては地域社会の最高道徳の「孝」が重要。「官」は「忠・孝」合わせて重視するが、「吏」は「忠」の観念がうすい。「官・吏」以外のものは「孝」のみである。

(カ)日本の武家社会では、「官」相当の上士、「吏」相当の下士ともに、遠くからでも姿を見る藩主に対して共同体的感覚が強く、「忠」道徳を共有していた。だから、明治維新後、全官僚が全時代の「忠」道徳を天皇への「忠」道徳、ひいては国家への「忠誠」へと平行移動的に展開したのは自然であった。

(キ)中国・朝鮮ではごく少数の「官」のみの「忠誠」であったから、近代化して国民国家となろうとしたとき「国民の国家に対する忠誠」という道徳の形成に苦しんだ。「公共への忠誠」という道徳は一握りの科挙官僚しか持っていなかった。辛亥革命で国軍と称しても盗賊まがいの軍閥が各地にできてしまった。孫文が自国民を「バラバラの砂(散砂)」と嘆いたのには歴史的理由があった(『孝経』加地伸行訳、講談社学術文庫、pp.223-228)。



 戦後は、支配者に都合の良い封建的な思想として批判を受け、影響力は弱まった。戦後教育は、マルクス主義の欲望の解放とデューイ説で児童の人間性を重視し、対等な民主主義を強調したので、道徳としての五倫は封建的だとして否定した。保守主義者はこれを批判し続けている。

 わが国の戦後の保守主義の中心は儒教(特に天皇制支持と伝統的家族や長幼の序の強調)であるといっても過言ではないと思う。そして保守主義政党は、その上に欧米の非共産主義政党や保守主義政党の政策を模倣し取り入れ続けている、といえるのではないか。しかし、欧米の保守主義政党の政策も幅があり、選挙で勝つために中道的な政策になっている。わが国の保守主義政党がそれに近づくと、わが国の戦前からの保守主義とは食い違いが生じる部分も出てくる。

●改革開放の中で儒学や老荘思想などが「中華民族の優秀な道徳倫理」として再評価され、市場経済に不可欠な商業道徳を学ぼうという機運が生まれ、儒教を真剣に学ぶべきという議論も出てきた。(ウキペディア)

 文革大革命の間に、孔子は中共の最大の敵として打倒されていたが、いまは再び「至聖先師」として高く持ち上げられている。2004年以降、北京当局が世界的規模で「孔子学院」を設立。海外の大学や現地教育機関と提携して運営され、現地の中国語学習者を対象とし、授業の教材提供や奨学金の支給は国家漢弁が協力・支援する。2005年から今まで、すでに88カ国(地区)で282か所の孔子学院と272個の孔子教室を設立した。

一方、米国在住の中国歴史学者・余英時教授によると、「孔子学院は文化目的のものではなく、政治目的だ。カナダのある孔子学院は、調査の結果、中国共産党の情報収集機関であることが判明した」という。

孔子学院高層部理事会の規定には、「中共の世界戦略の一環と位置づける」と明示されている。中央政治局委員で宣伝担当の李長春氏は昨年、孔子学院を「中国対外宣伝構造の重要部分」とし、中共対外宣伝工作における役割を定義している。

昨年9月、北京で開かれた「孔子誕生2560周年記念国際学術フォーラム」で、中共中央政治局委員、政治協商会主席・賈慶林氏が出席、「その精華を継承、その糟粕(かす)を取り除き、儒学を社会主義文化の推進に役立たせよう」と孔子に対する宣伝方針を述べていた。

(「大紀元」http://www.epochtimes.jp/jp/2010/03/html/d84928.html



(4)新自由主義(Neoliberalism(英語版WIKIPEDIAの抄録)

 

 新自由主義は経済と社会政策への市場原理的なアプローチで新古典派経済学を基礎にしている。この経済学は民間企業と自由貿易と開かれた市場を強調するものである。従って、国家の政治と経済における優先順位では民間部門の役割を最大化しようとしている。

 

政策の含意

 新自由主義は経済の制御を公的部門から民間部門へ変えようとしているが、それはいっそう効率的な政府をうみ、国家の経済的な健康を増進するという信念があるからだ。新自由主義の具体的な政策は、ジョン・ウイリアムソンの「ワシントン合意」と呼ばれ、IMFと世界銀行が合意した政策リストがある。ウイリアムソンのリストは10項目である。

 政府は将来の市民の負担になるような大きな赤字を出すべきではない。恒常的赤字は高いインフレと低い生産性をもたらすから避けるべきである。赤字は一時的な安定のために限るべきである。

 公的支出はムダな補助金や支出をやめて、成長や貧困者向けサービスに振り替えて、初等教育や一般的な保健ケアや社会資本投資へと振り替えるべきである。

 税制改革―課税ベースを拡大し、緩やかな限界税率に変え、技術革新と効率に役立てる。

 金利は市場に委せ、実質で正の金利とすべき。

 変動為替制

 貿易自由化―量的制限の引き下げによる輸入の自由化

 支払いバランスにおける資本勘定の自由化。海外ファンドへの投資や海外ファンドの投資を誘致する。

 国営企業の民営化:たとえば通信事業

 規制緩和―市場参入や競争を制限する規制の撤廃。ただし、安全性や環境保護、消費者保護のための規制は必要。

 財産権の法的保護

 資本のフィナンシャライゼイション。

 

シカゴ学派

 シカゴ学派経済学は新古典派経済学をシカゴ大学の経済学部を中心として論じている。

 この学派は政府の不介入を強調し自由放任の自由市場における規制を不効率なものとして拒否する。新古典派の価格理論とリバタリアン主義を支持し、1980年代まで、マネタリズムの観点からケインズ主義を拒否した。その時期は合理的期待形成を支持した。方法論的には、実証経済学を支持したが、それは統計学を使って理論を実証するものである。

 シカゴ大学が世界的に最も重要な経済学部と考えられているが、ノーベル賞の受賞者を一番多く輩出している大学である。シカゴ学派は競争法、学校のバウチャー制、中央銀行、知的財産を支持し、フリードマンの負の所得税を現在のシステムに代わるものとして提案している。

 

オーストラリア

 新自由主義的経済政策は1983年以降、労働党政権と自由党政権で採用された。1983年から1996年の各政権は経済自由化とミクロ経済改革を提唱した。また、政府企業の民営化、債券市場の規制緩和、豪ドルの変動制を実行し、貿易保護を止めた。

 キーティング大臣は、1992年に強制的老齢年金保証システムを導入したが、国民の貯蓄を殖やし将来の老齢年金における政府の責任を減じるためだった。大学の財政の規制を減らし奨学金制度を振興し授業料を取るように求めた。留学生を含む学費全額負担の学生を増やすよう要請した。2009年に労働党政権により、公立大学の国内の学費全額負担学生の入学を止めさせた。自由党政権は1996年にハワード首相で成立したが、経済自由化計画は継続され公的企業の民営化や通信事業者の売却をおこない、オーストラリア準備銀行が創られた。10%の付加価値税が導入されたが、税制を簡潔化するためであった。労働市場の改革も行われた。

 

カナダ

 カナダでは、減税、福祉支出削減、政府の最小化、公的保健ケアと教育の改革等は、新自由主義によるものだが、マルロニー、ハリス、クライン、キャンベル、ハーパーなどが関わった。

 

日本

 史上最大の民営化は郵政民営化である。それは国内最大の雇用主で公務労働者の3分の1を占めていた。

 20039月に日本郵政を4分割した。小泉総理は20059月の総選挙は郵政選挙だといい、選挙で勝利し、2007年に民営化された。

 

ニュージーランド

 ロジャーノミクスは労働党政権の大蔵大臣のロジャー・ダグラスが1984年から始めた経済政策を、レーガノミクスになぞらえたものです。

 農業補助金の廃止、貿易障壁の廃止、公的資産の民営化、マネタリズムに由来する手段によるインフレの抑制など、労働党の政策は伝統的な労働党の理念を裏切るものだった。労働党はやがてロジャーノミクスから撤退することになる。ロジャー・ダグラスは15%のフラットな税率や学校、道路、病院の民営化などを計画したが、当時の労働党内閣はそれらを緩やかなものにした。それでも、世界的な文脈では急進的なものだった。ダグラスは1993年に労働党を去りACTに合流したが、それは新しい自由党と見なされるものだった。

 1984年以降、農業を含む補助金は削減され、輸入規制は自由化され、為替レートは変動化され、金利や賃金や価格に対する統制は排除され、限界税率が引き下げられた。金融引き締めと財政赤字削減は1987年の年率18%のインフレ率の引き下げをもたらした。1980年代90年代の政府の経済的役割の縮小は公的赤字を減らしたが、同時に、それまでなかったような失業率をもたらしてしまった。が、2006-2007年に失業率は再び低下したが、3.5%から4%だった。

 2008年にニュージーランドは世界銀行の評価では世界で2番目に企業に優しい国(business friendly)だった。 

2011.11.27日経) 2011年総選挙で与党国民党が第一党になり政権を継続。キー首相は経済の競争力強化を重視し、景気対策、震災復興で膨らんだ財政赤字の削減に取り組む。財源確保のために政府保有株の売却の方針。労働党は海外投資家の影響が強まるとして国有資産の売却に反対。

 

英国

 1979年に政権に就いたサッチャーの政治経済の哲学は国家の介入を減らし自由市場と企業家精神を強調するものだった。サッチャリズムにはキース・ジョセフ、フリードリッヒ・ハイエク、ミルトン・フリードマンなどが含まれる。

 サッチャーは行きすぎた政府の介入を国営企業の民営化によりなくそうとした。キャラハン政権が、需要を管理するケインズ政策が失敗したという結論を出した後、サッチャーは財政はインフレを中心にして考えようとした。貨幣供給の成長を抑えるために利子率を引き上げ、また、住宅と産業の補助金を削減した。さらに、通貨の印刷に制限を設けたり、労働組合に法的な制約を設けた。

 1982年までにインフレ率はピーク時の18%から8.6%まで低下した。サッチャリズムはナショナリズムや、全体としての社会よりも個人に焦点を当てる倫理観も含むようになった。

 サッチャーが退陣する時、英国の成長率はドイツ、フランス、イタリアよりも高かった。同時にこれには、他のEU諸国に比べて貧弱な社会的条件をともなっていた。失業率は、1973-79年の3.4%や1960-73年の1.9%と比べて、1979-89年は9.1%に増加していた。

 2001年に労働党のマンデルソンは、「今や、われわれはみなサッチャー派だ」といった。1983年から1992年の労働党党首のキノックは、サッチャー政権の経済政策と大まかには一致するような右寄りの政策転換を行った。ブレア政権の経済政策は、サッチャー寄りともいわれた。

 2010年のキャメロンとクレッグの連立政権は、ネオリベラルとずっといわれてきた。

 

米国

 1981年から1989年のレーガン政権はアメリカ経済の自由化に寄与したといわれるが、これは現代的な言い方で、リベラルというよりは保守主義的な経済という方がふさわしい。(本稿では自由化というのはわずかしか規制を持っていない経済システムを指すことにする)。その政策はレーガノミクスといわれ、時として供給サイドの経済学といわれるのである。

 レーガン時代のGDPは年率2.7%で、1人当たりGDP1981年から4%も増えた。失業率は1983年不況のピーク時よりはさがったが、平均で見れば、前後の時期よりも高い。インフレははっきり下がった。平均実質賃金は変わらなかったが、不平等が増え始めた。諸政策は高所得層の税率引き下げを引き合いにして「トリクルダウン経済(したたり経済)」と揶揄された。冷戦における防衛支出の増加で財政赤字は増え、貿易赤字も増えた。それらは貯蓄とローンの危機につながった。連邦予算の赤字を埋めるために、国内と海外の借り入れを大幅に増やした。その結果、最大の貸し手から最大の借り手に成り下がった。

 



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政治思想と社会保障

★自由主義
★社会民主主義
★保守主義
保守主義 日本
★中道政権
★「世代間扶養」解法


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★自由主義
 
 社会保障を論じるとき、自由主義との関係は微妙である。19世紀後半のイギリスは、産業革命を終えて、ビジネスチャンスを増やしもうけを増やして、富裕層(貴族以外の地主や資産家)に成り上がりたい実業家が経済活動の規制を嫌い、自由主義が中心だったとされる。自由放任がよくて国家は経済にできるだけ関与しないで、経済のことは市場に任せる、つまり、経営者や投資家、消費者、労働組合に任せるのが望ましいと考えられた。生活に困窮するものがあれば、極端に条件の悪い救貧法と政策とはいえない民間の慈善活動に任せればよいと考えていた。スマイルズの『自助論』(1858)の序文では、自ら助けるということのなかには「他人を助けるということが自ずから含まれることは明らか」と述べていた。中流階級は、労働者が困窮するのは労働供給が多すぎて労働条件が悪くなっているからだと考え、労働者の自覚が足りないこと、注意が足りないことが困窮の原因だと考えた。富裕層や中産階級はお互いの親族や縁故のネットワークで、財産を保全し生活を安定させ、また熟練労働者も共済組織を作りそれなりの生活安定の共助をしていたようである。だから、自由主義の時代に自立に言及されるのは、おそらく生活が不安定で家族も壊れやすく一人で困窮している単純労働者だったと思われる。中産階級をお手本にして勤勉に働き節約に励むことが大切だと説いた。そうすれば慈善や救貧法に依存しなくてすむはずだ。それが自立だったと思う。

 一方、保守主義者は富裕層や中間層の立場から、強い国家を求め、労働者が生活困窮で伝統的な家族や秩序を維持できなくなることを好まず、労働者や貧困者の生活の援助をすることには躊躇しなかった。彼らが考えた援助はパターナリズムと呼ばれた。(産業革命後、国家は全体としての労働力を保全しなければならなくなるが、「表面上は、この種の弱い労働者を惨憺たる労働状態から保護し、彼らを人道的に救済するためのものであるかのような印象を与えた」(大河内一男「社会政策」『社会学辞典』有斐閣、p.365)保守主義者は19世紀末の長引く不況に際して、労働者保護の立法も行った。それに対して自由主義者は自由放任が建前なので、国民の生活破綻を見ないふりをしていた。

 また、遅れた資本主義国家だったドイツでは、19世紀にイギリスの自由主義経済思想が導入されたが、19世紀後半に保守主義的な「社会政策」思想が浸透し始め、官僚主導の国家による労働者保護が支持されるようになった。その代表として、ビスマルクによって労働者を対象とした社会保険が作られた。

こうして、国家による再分配や社会保険は保守主義によってもたらされた発想といえる。そして、自由主義者は国家による再分配としては困窮者への救済だけ認めそのほかの再分配を批判する伝統が作られた。

 このような自由放任のイギリスがどのようにして福祉国家になったのか、その発端は自由主義にして理想主義の哲学者T.H.グリーンにある。19世紀末に、思想や信仰など人間の内面は自由放任でよいが、人格の成長を妨げるものを取り除くのは国家の役割だ、というT.H.グリーンの哲学があらわれた。イギリスの自由主義者は、保守党が労働者保護の立法により支持を集め、ドイツで労働者の社会保険が作られるのをみて、グリーンの思想を受け入れ、労働者の生活を支えるためには国家が役割を持つべきだと考えたのである。これは伝統的な自由主義の修正であり、ニュー・リベラリズムと呼ばれた(河合栄次郎『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』日本評論社、昭和15年、p.726。それに対して何事も自由放任で国家の役割を否定する自由主義は、オールド・リベラリズムと呼ばれるようになった。

 20世紀初めにニュー・リベラリズムの自由党政権がリベラル・リフォームと呼ばれる社会改良政策を実行した。そして、社会保険も導入された。これが社会保障につながっていくが、当然、オールド・リベラルは批判したと思われる。

 そして、1929年に始まる世界大恐慌の中で、国家が公共事業を行って失業者に仕事を与えることが、スウェーデンや、初期のヒットラー、アメリカなどで行われるようになり、イギリスのケインズもそのような政府の活動を支持する経済学を展開した。彼もまた自由主義者であった。

 やがて第二次大戦のさなかに、のちに自由党員となるベヴァリッジにより社会保障の計画がだされた。つまり、自由主義者によって社会保障や福祉国家の計画が作られたのである。ベヴァリッジは、ビスマルクが労働者だけを対象にした社会保険を作ったのに対して、国民全体を対象にした社会保険中心の計画を作った。そこで、保険料を払えない人に対しては、社会扶助が救済しなければならないという考え方を出したのである。ところが自由主義といえばオールド・リベラルを指すことが多いので、その文脈ではベヴァリッジの計画は説明がしにくいひとつのパラドックスとなってしまうのである。だから、社会保障の成立に関して自由主義との関連は語られにくいのであろう。ニュー・リベラルで説明するよりは、むしろ、戦後の政権を取った労働党との関係の方が説明しやすいのである。しかし、反社会主義的な「社会政策」は自由主義ではなく、保守主義によって始められていた。だから、国家の介入ということでは保守主義者も寄与していたのである。

 アメリカのリベラルも同様である。アメリカが自由主義の国といったときには、伝統的な自由放任、自助努力が最も大切な価値観とされている。だから、大不況の時に民主党政権が「社会保障法」を制定したり、ニュー・ディール政策をやって、大々的に国家が国民生活や経済に介入したが、それに対して自由主義や保守主義の側からは社会主義だという大反対があった。しかし、やがてアメリカでは国家の介入が必要だと考えるのを「リベラル」と呼ぶようになったが、これはイギリスのニュー・リベラルの立場である。これに反対する共和党の立場をアメリカでは保守主義というが、市場経済を信奉するイギリスのオールド・リベラルの立場である。アメリカではヨーロッパとは違って守るべきしきたりや慣習があったわけではないので、皆が守るべき最高のものは自由であるといわれる。保守派は自由を最大化すべきと考え「小さい政府」を主張し市場経済の結果を尊重しようとする。自由主義右派とも呼ばれる。また、中絶反対、同性愛婚反対なども保守派といわれるが、この意味の保守派は民主党にも少なからずいるとされる。それに対してリベラルと呼ばれる人たちは市場経済に任せ切りではなく政府の介入が必要だというので、保守派からは「大きな政府」の支持者と呼ばれる。自由主義左派とも呼ばれる。

 こうなると、国家による労働者保護の発端は英、独とも保守主義にあるけれども、ベヴァリッジ計画も自由主義(ニュー・リベラル)で、ニュー・ディールの完全雇用政策や「社会保障法」もリベラルということになり、自由主義が社会保障、福祉国家の基礎を作ったことになってしまうのである。それに対して、英米の「真の自由主義」の立場は、国家からの自由を掲げてそれらに反対すると主張するわけである。

 経済政策でも大不況の時に、公共事業を大々的に行う経済学思想が普及し、ケインズ主義と呼ばれた。当時の新古典派の経済学が経済の自由放任こそ重要で、不況の時は社会主義のような国家の介入をしなくても、減量経営を進めて、やがて利潤が確保できるようになれば、景気は回復すると考えていたのに対して、ケインズ主義は、逆に政府の公共事業などの必要性を主張したのである。ところがケインズは自由党支持だったから、新古典派もそれを批判するケインズ主義も同じ自由主義の枠の中の話と言うこともできるのである。ケインズもベヴァリッジも資本主義を否定しようとして「大きな政府」を主張したのではなく、「資本主義の存続」のために、逆説として「大きな政府」が必要だと考えたのである。(「福祉国家や混合経済は、単に民間経済と公共経済の複合態ではなく、資本主義と社会主義の混合態である。資本主義の存続のための変貌が、資本主義でもなく社会主義でもない第三のものを生み出した」。馬場啓之助『資本主義の逆説』東洋経済新報社、1974年、p.44)。

 ただ、ベヴァリッジは、社会保険によって最低生活費を保障する計画を立てたが、最低限を超える生活については各人の努力によって満たすべきだと考えていた点で、社会保障はあくまで最低保障で、これが自由主義の特徴といえよう。自由主義の経済学者が、公的な生活保障は最低限の保障に限るべきだ、という話はここから始まる考え方といえよう。

 戦後になって、景気回復のために政府が介入することは、新古典派からも広く認められるようになってきたが、それはあくまで短期の景気対策として支持されている。それに対して、ケインズの考えが単なる短期的な不況対策ではなく、現代資本主義は恒常的な需要喚起策を必要とするという認識にたつ立場からは、社会保障と完全雇用を重視する国家には「ケインズ型福祉国家」という呼び方も受け入れられるのであろう。

 石油危機の後のインフレ、引き締め政策、失業者増加というスタグフレーションの状況の中で、アメリカでは、それまで政策を指導してきたケインズ主義が機能しなくなり、それを批判するマネタリストと呼ばれる経済学が政策の中心となった。これが新自由主義(ネオ・リベラリズム)と呼ばれ、社会保障を批判し経済の規制緩和を声高に主張し、金融の野放図なマネーゲームを容認し、リーマン・ショックの大不況をもたらした戦犯とされるものである。ネオ・リベラリズムは、オールド・リベラリズムと同様に社会保障が行政部門を肥大化させるものとしてこれを批判する。そして、それに代わるものとして、マネタリストのフリードマンは所得税のシステムを利用する「負の所得税」という最低生活保障システムを提案していた(このシステムは、欧米では、給付付き税額控除制度と呼ばれる一群の制度として実施されている)。このような提案をするところがネオ・リベラルがオールド・リベラリズムと違うところである。社会保障は行政部門を肥大化させるので反対であり、それによる所得再分配にも反対するが、税制による所得再分配には賛成するという立場である。したがって、「大きい政府」に反対し、民間の自由な競争市場に任せるのがよいとする点は共通している。

 戦後イギリスでは、社会主義の労働党が福祉国家の中身を作った。年金は当初、自由主義のベヴァリッジの最低生活費保障を目指したものだった(ゆとり部分は自助努力に委せる)が、1960年に所得に関連した付加給付を開始した。つまり、最低年金だけでは労働者の不満があったわけである。1969年労働党内閣は、拠出と給付を所得に関連させる年金を提案したグリーン・ペイパーを発表した。社会民主主義のスウェーデンはすでに1960年に2階建て年金となっていたが、労働党も社会民主主義的な年金を提案したといえる。1971年保守党内閣は、公的年金は基本年金に限定し、所得比例は企業年金で行うという案のグリーン・ペイパーを公表した。1974年には労働党内閣が、所得比例年金を計画したベター・ペンション白書を公表し、1975年に、基礎年金と所得比例年金の2階建て年金となり、社会民主主義的年金となった。

 こうして、政権交代した保守主義の保守党も福祉国家の骨組みを解体することはしなかった。つまり、保守主義者も社会保障、福祉国家に理解があったといわれる。ところが、保守党のサッチャーが政権を取ると、まさにオールド・リベラルのように規制緩和を進め労働組合を弱体化し、福祉国家の解体を目指した。つまり、この時期は保守党が社会保障を抑圧したのである。そして、一方では強い国家を追求し、他方で市場原理を重視した金融の規制緩和によって金融取引が盛んになり、イギリスの経済成長が高まり継続したので、新保守主義と呼ばれるようになった。こうして、英米では新自由主義や新保守主義は、それまでのケインズ主義や福祉国家路線の経済政策を覆したが、他方で経済の活況をもたらし、国民の支持を得ていた。

 このように、自由主義は少なくとも、オールド・リベラル、ニュー・リベラル、ネオ・リベラルの三つを区別しないといけない。また、保守主義も、国民生活の安定に理解がある伝統的な保守主義と福祉国家を解体する新保守主義を区別しなければならない。最近のイギリスでは、保守党が大幅な若返りをはたし、サッチャーの新保守主義を否定し、国民生活に関与する政策が検討されるようになっているといわれ、20105月に政権に返り咲いた。つまり、政党レベルになると、保守主義者も有権者の支持を得られやすい現実的な中道路線をとることが増えてきた。

 1990年代以降になると、ネオ・リベラルに近い政策が米英の民主党や労働党によっても採用されるようになる。これは、選挙に勝つためには中道的政策が必要となることの表れといえよう。

★(1)アメリカ (クリントノミックス)

 従来は、貧困層の多くは政府により支給される福祉扶助を受けていた。これは、生活必需品を買うだけの収入のない世帯に政府が毎月一定額の現金給付を行うものである。中でも最も広く給付されているのは、「被扶養児童家庭生活援助(AFDC)」であった。

 AFDCは、1980年代から90年代には批判の対象となり、全国選挙の争点となった。中流階級の多くは、税金が、働く意志のないと見なされる人たちの扶助に使われることに憤慨している。福祉が次世代にわたり施されるうちに、福祉に依存する生活が定着してしまう傾向があると批判する声もある。他の専門家は、教育と機会の欠如が貧困の根本的な原因であり、この問題に取り組まない限り、貧困層を極端な窮乏生活から守るものは福祉制度しかないと主張する。しかしいつも、社会福祉制度は貧困層を依存状態に閉じ込め、自己の生活を管理する力を奪うという非難があった。1993年に大統領に就任した民主党クリントンは、1994年に共和党が上下院で優勢となると、共和党のお株を奪うべく、財政赤字削減に動き出す。均衡財政をめざし、巨額の財政赤字を解消して、2000年には2300億ドルの財政黒字を達成した。これらの経済政策は、レーガノミックスに対し、クリントノミックスと呼ばれる。税制では、レーガノミックスで引き下げられた高額所得者の所得税率を引き上げた。また、中間層の減税を実施し貧困層をターゲットにした民主党の方針を大幅に転換した。そんな中で、1996年には、AFDCが改められ、連邦政府の補助金をもとに各州政府が行う援助制度が導入された。この法律はまた、福祉援助の受給期間を生涯5年に限定し、健康な成人に対しては2年間の受給後は就業することを義務付け、アメリカの市民権を持たない合法移民に対する福祉援助を廃止し、食料クーポンの支給を無職の人には3カ月間に限定した。(http://tokyo.usembassy.gov/j/irc/ircj-portrait-usa09.html。ほか)

★(2)イギリス (福祉から就業へ Welfare to Work))

 保守党政権のあと労働党政権が成立した1997年春から2005年春にかけて若者の失業率は減少した。政府によれば、このような若者の雇用状況の改善は、失業者への職業紹介や職業訓練を重視した「ニューディール政策」の成果という。この政策は、雇用対策の重点を、失業手当の支給といった受動的雇用政策から、教育技能訓練などを行って失業者のエンプロイアビリティ(就業能力)を高める積極的雇用政策に移した点に特徴がある。いわば、社会的排除の悪循環を断ち切る方法として、従来は失業手当を給付して「低所得」を改善することに力を入れたが、ブレア政権では教育・技能訓練を行って「スキル不足」の克服に重点を置くものだった。このような考え方に基づく福祉政策は、従来の「セーフティネット」型福祉ではなく、「トランポリン」型福祉とされる。「トランポリン」であれば、綱から落ちても守られるのみならず、綱を踏み外した人々を再び綱に戻すことができる。失業者の職業能力を開発することによって、再び経済の担い手として経済成長に寄与していける。

 なお、若年失業者に対して職業紹介や職業訓練などを重視する政策は80年代以降の保守党政権でも採られていた。例えば、保守党政権は1986年に「再出発プログラム (Restart Program)」を導入し、求職活動を失業手当の受給要件として、長期失業者に職業安定所における定期的な面談を義務付けた。この主たる狙いは、失業手当の支給を引き締めることにあった。「ムチ」の側面が強かった。これに対して、ブレア政権では、職業紹介・職業訓練といった「アメ」も用意している。職業紹介などカウンセリング機能の充実、教育技能訓練、事業主に補助金を出して就業の場を提供することなど、失業者への支援メニューが大規模に組み込まれたのである。とくに、個人アドバイザーなどのカウンセリング機能を充実させている。また、職業訓練等を受けない若年長期失業者に対して、求職者手当を停止した。若年失業者の中には、社会との接点が完全に断たれた者や、意欲があっても就職活動のやり方がわからない者も多い。放っておいたら、福祉依存の生活に陥ってしまう。この点、ニューディール政策では、「求職者手当の停止」というムチを使って、若年失業者に個人アドバイザーとの面談や職業教育訓練を強制している。こうしたムチは、若年失業者が就職活動を始める強いきっかけになっている。さらに、若年失業者の教育訓練を民間部門に委託している点である。民間企業やボランティア団体などにおける実地の職業訓練からは、企業や現場のニーズに即した技能を得られ、就職に直結しやすい。(http://www.mizuho-ir.co.jp/research/jakunen060329.html

 働けるものは働かないと救済しないというのは、救貧法の伝統である。この政策は、自助努力を強調すれば自由主義的といえるが、積極的雇用政策とみれば、北欧の社会民主主義の政策と共通するといえる。

★(3

 わが国で、若者に聞けば、自分の生活は自分の努力で守るのが当然だ、生活が苦しくてもできるだけ自分でがんばるべきだ、というであろう。これには、自由主義であれなんであれ、多くの人が賛成しよう。

 19世紀のイギリスの中産階級はオールド・リベラルで、生活が苦しいのは本人が怠けているからだ、と考えることが多かった。ところが、20世紀初頭にロウントリが貧困な家庭を調査したところ、収入不足の原因として、失業や働き手の病気、仕事があったりなかったり不安定、子どもが多い、などがわかった。つまり、がんばっていても貧困になってしまうことがあることが、中産階級の人によって明らかになった。また、普通の労働者は、若いときに結婚する頃は良いが、子供が何人か生まれると生活が苦しくなり、それでも、子どもが働いて家計を助けてくれるようになると生活が楽になる、そして、子どもが結婚して独立していくころには、両親は歳をとって働けなくなり、貧しい老後を送るのだ、ということも明らかにした。

 ここで若者が、本人の怠惰は論外としても、生活困窮には社会的な原因があることもあるので、国の援助が必要になる場合もある、と考えれば、オールド・リベラルと袂を分かつことになる。その場合でも、国の援助はあくまで、低所得者に限るべきだと考えれば、ネオ・リベラルである。それに対して、サラリーマンも失業や、病気や老後の心配があるので、社会保険などを作るべきだといえば、ニュー・リベラルになる。



 

★社会民主主義

 社会民主主義は19世紀末から20世紀にかけてのヨーロッパでは共産主義者などさまざまな団体が名乗ったようである。しかし、一つの伝統としてはイギリスの労働党の流れがある。その特徴を河合栄次郎は次のように描写していた。

 英国社会主義は1848年のチャーチズム運動崩壊後影を潜め、自由主義の独占に任せたが、1880年代に復活し、1910年代にはT.H.グリーンの社会思想と並立した。グリーンは自由主義のうちベンサムの経験主義を改訂して理想主義を得たが、これを継承し、思想言論の自由と議会主義を相続し、グリーンの社会政策をさらに社会主義に転回させたのが英国社会主義である。それはいわゆる社会主義との違いでもある。シドニー・ウエッブが『社会民主主義へ』(1916)の中で、グリーンがあらゆる人の人格の成長をはかることが社会の目的であると言ったことは、自分らの立場の最良の表現である、と述べている。英国社会主義の特異性はマルクス社会主義と比較すれば明瞭になる。マルクス社会主義は、唯物論、唯物弁証法、唯物史観をもち、暴力革命主義と無産者独裁主義を持つ。英国社会主義は、理想主義で、議会主義、言論自由主義である。英国社会主義は労働党の指導原理であり、これは自由主義からくるものである。その意味では、グリーンは社会主義と労働党にも影響を及ぼしている。(河合栄次郎『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』日本評論社、昭和15年、pp.734-735

 また、労働党の母体の一つとなった「フェビアン協会」に属していたウエッブ夫妻はつぎのようなナショナル・ミニマムの保障を提案した。「その国が産業経営上許容しうる最低条件を規定し、しかもただに衛生及び安全の一定の予防設備と最長労働時間とに止どまらず、更に週給の最低額をもまた包含するものとしなければならないであろう」(S.B.ウェッブ『髙野岩三郎監訳 産業民主制論(1897)』法政大学出版局、pp.937-938)。これは労働条件の引き上げで資本家の利潤を減らす話であるが、これを保障することは、国民的効率が向上し、結局は、資本家にも悪い話ではないと説得した。これは、社会政策の生産力説と同じだという理解もある(江里口拓「ウエッブ夫妻」小峯編『福祉の経済思想家たち』ナカニシヤ出版、2007年、p.155)。

 マルクス『共産党宣言』(1848)第3章で、「ブルジョアジーの一部は、ブルジョア社会の存続をはかるために社会の欠陥をとりのぞきたいとのぞんでいる」とし、その中に博愛事業家や労働者階級の改良家、慈善事業家などを入れていた。そこでマルクス主義者は福祉国家には賛同しないのであるが、社会民主主義者は「理論」よりは現実的な改良を重視するところで、マルクス主義とは袂を分かつということもできよう。

 (ただ、こうみただけでは、マルクス主義のはずなのにわが国に福祉国家を建設しよう、充実させようという人がいることを説明できない。おそらく、資本主義の最終段階として福祉国家を見据え、その次の段階の社会主義への移行を夢見るのではないだろうか。「ポスト福祉国家」などとあわてないで、まず、福祉国家を成熟させてそれから行き詰まりを実証し、社会主義への展望を切り開こうというのではないだろうか。)ア;社会政策の道議論は,「ドイツにおける社会政策学会を通じて実践に移された」もので、労働運動には反社会主義的かつ労使協調で対処する。イ;社会政策の政治論は、「第1次大戦後における労使間の勢力均衡や変動を背景として組み立てられた理論」で,社会政策と社会主義が等置され、やがて社会主義に連節すると考える。ウ;しかし、社会政策の本質は、総体としての資本が労働力の再生産を貫徹する政策の体系であり、経済的必然性を理解することが基本的態度である。(大河内一男「社会政策」『経済学辞典』岩波書店、p.558ここで「本質」というのは、資本主義の温存とか社会主義につなげるとか、という立場とは関係ない話ということであろう)。

 そして、戦後の社会民主主義の特徴としては、社会改良主義とか修正資本主義とかいわれることがある。それはかなり幅広い考え方で、たとえば、ケインズ経済学を修正資本主義の考え方だということもあるので、そうするとケインズは社会民主主義者のようになりかねない。しかし、やはり、ニュー・リベラルでよいと思う。それでも、河合がいうように、ニュー・リベラルならば、労働党における自由主義的要素と矛盾せず、ケインズやベヴァリッジが労働党に親近感があったとしても違和感はない。ただ、これが資本主義の修正なのか階級政党の揺り戻しなのかにこだわるなら、労働党の場合は資本主義の修正というべきであろう。

 本稿で社会民主主義というのは、政治思想としてのヨーロッパの社会民主主義というよりは、現実の北欧福祉国家の政治思想を社会民主主義と呼びたい(わが国の社民党は全く念頭にない)。しかも経験的には、社会民主党政権が別の政権になっても、大きく変更されずに国民に支持されている体制でもある。社会民主党以外の政権も、ある程度、修正したとしてもほぼそのまま維持している体制を指したいわけである。ヨーロッパの政治思想としての社会民主主義ということになると、各国の社会民主党に触れねばならないがその準備はない。だから、歴史的にどんな思想かというよりは、現実の北欧福祉国家の思想的特徴をさして社会民主主義と呼んでおきたい(福祉国家には問題があるとしてもそれを維持しようとする思想と考えられる。それはマルクス主義や社会主義の革命路線とは縁を切ったものと考えられる。しかし、わが国には縁を切っていない社会民主主義者も多そうである)。北欧の特徴は、市場経済と福祉国家の共存だといっただけでは不十分である。ドイツやフランスも市場経済と福祉国家が共存しているが、エスピン=アンデルセンは福祉国家の内実の違いによって保守主義的レジームとして区別している。だから、「北欧レジーム」というネーミングでも良かったはずであるが、社会民主主義レジームの名前の由来としては、その出自において、社会主義的な階級政党が発展して社会民主主義となり、指導的な立場について福祉国家を形成したという歴史的な特徴によるものであろう。

 スウェーデンでは社会民主労働党が戦前の1928年に「国民の家」構想を出し、1932年には公共事業による雇用対策を行うなど、国民の協調をすすめる勢力となり、国民の支持を得て、政府が大きな役割を持つ福祉国家の形成に強い影響力を持った。一方、欧州大陸では、戦後、キリスト教民主主義が大きな政治勢力となり、自由放任でもなく社会主義でもない、階級協調とパターナリズムの福祉政策によって福祉国家を形成していったが、保守的政党といわれる。そのようななかで、労働者階級の利害を代表しようとする社会民主主義も、また、キリスト教勢力との和解を果たし、国民政党として勢力を広げるようになった。(つまり、社会民主主義のルーツは社会主義といえるが、現代の社会民主主義は、教会と和解し、経営者と協調する国民政党に変化したことが重要で、昔ながらの社会主義ではない)。そして、1960年には基礎年金の上に所得比例の新国民年金をのせる2階建ての年金を作り、社会保障は従前生活水準の維持を目指すものとなったといえる。

 このように、社会民主主義も保守的なキリスト教民主主義も、ヨーロッパの福祉国家の成立に大きく関わったわけであるが、基本的には、保守主義が支配階級や中間層の立場から、資本主義の維持の手段として国民の福祉を推進しようとするものであるのに対し、社会民主主義は国民の福祉を推進するのに役立つように資本主義を活用する、と色づけすることができよう。

ホームページ「がんばれ福祉国家」のうちの「北欧モデル」参照
★一般にスウェーデンの高い国際競争力の源泉として、
IT(情報技術)インフラの整備や高い教育水準、政府の研究開発投資などが指摘されている。だが「スウェーデン・モデル」の本質はそれだけにとどまらない。パラドックスを解く鍵は、同国が一般のイメージと異なり倒産も解雇も当たり前に生じる厳しい資本主義競争社会である点にある。企業は、原材料を調達するのと同じ感覚で労働者を雇用し生産活動を行っている。企業は社会保険料負担が高い半面、労働者には賃金しか支払わず、仕事がなくなれば即座に解雇する。その賃金には日本のような通勤手当も扶養手当も年功序列の昇給も含まれない。病気で休めば2週間後から給与がカットされ疾病保険の支払い義務も国に移る。企業の健康保険組合もなく、ブルーカラーの解雇については退職金も支払われない。
 スウェーデンにおける賃金は、日本の非正規労働者に対する賃金と同じように考えられよう。つまりその賃金体系は、連帯賃金政策と呼ばれる政策の下で企業の生産性格差にかかわらず同じ職種なら賃金が同じという「同一労働・同一賃金」が実現している。最低賃金法は存在しないが、こうした連帯賃金政策で賃金格差は極めて小さい。こうしたシステムは、平均水準の賃金を支払えない生産性の低い企業の整理淘汰を促す一方、平均より生産性の高い企業には超過利潤をもたらし高い国際競争力を生み出している。
 他方、解雇された労働者に対しては、より競争力のある他の業種・企業へ強力な転職支援を行う「積極的労働市場政策」が採用されている。失業直後は、従前賃金の8割水準の失業保険が給付されるが、期間が長くなるにつれて給付が減少する。同時に教育・職業訓練、一時的雇用、就職支援、所得保障給付など次の仕事につくための多様なプログラムが提供されている。
 生産性の低い企業・業種から高い企業・業種に積極的に労働移動を促すことで、産業構造の高度化と人的資本の質的向上が同時に達成できた。その結果、同国は高い国際競争力の下、高い生産性と持続的な経済成長を記録。1995年から2006年の労働生産性上昇率は年平均で27%だったが、2000年代には32%に達した。
 この高成長によって、税や社会保険料などの高負担と高福祉が可能になった。雇用、年金、医療、育児、教育など国民生活に不可欠の分野で非正規労働者にも漏れのない充実したセーフティー・ネットが構築され、これが雇用や社会保障など国民の将来不安の解消を通じて内需振興につながる好循環を生み出した。湯元健治「スウェーデン・モデルの核心学べ」日本経済新聞20090917

デンマークは人口550万人足らずの小国ですが、経済のグローバル化の与件をしっかりと国内経済運営のなかに取り込みつつ、独自のパフォーマンスを発揮しています。つまり、ローテク部門からより高度な産業分野に雇用を移動すべく、企業による解雇は頻繁であるけれども、その一方で解雇された人びとはただちに厳しい市場原理に委ねられるのではなく、地方政府、企業そして中央政府など社会的パートナーが一体となって再就職のための技能研修、職業教育に取り組んでいます。その再教育の間、最長四年まで以前の給与の80%が保障されています。その結果、解雇、失業問題が人びとに与えるショックは制度的に緩和されています。
 また、教育コストは基本的に大学を含めて無償であるため、教育の機会の平等が実現されています。こうした教育の平等、個人の社会参加の平等とICT革命の実現という組み合わせは、アメリカ社会と大きく異なっている北欧モデルの特徴です。
 労働市場の柔軟性と社会保障制度の充実を両立させているのが、デンマーク・モデルの特徴です。フレキシュキュリティとは、柔軟性+社会保障を意味しています。当然このモデルでは社会保障支出が増大する結果、国民の税負担は増大します。いわゆる「高福祉・高負担」の問題ですが、国民は全体として高負担に不満を抱いていません。それは、高負担に見合う高水準の福祉が実現されているからです。とにかく、デンマーク・モデルは、技術革新を受け入れつつ、社会的連帯を維持しています。それが可能な原因として、宗教的、倫理的背景を考えることができます。人間関係がアトム化している現代社会ですが、プロテスタント的な近隣関係にもとづく人間関係は決して喪失されていない。(ボワイエ『ニュー・エコノミーの研究』2002、藤原書店、pp.302- 訳者解説)■

 

 「スウェーデンの社会保障制度の中枢をなしているのは、低所得層に最低限の生活水準を保障する救貧的な給付ではなくて、全国民を対象とした現物給付の社会サービスと、働いていたときの給与の額に比例する社会保険給付である。たとえば、失業手当や疾病手当、年金の給付額は、従前の所得に比例して決まる。社会保障制度は雇用と密接に結びついているのである。」「働かなければ、最低限の給付しか受けられない」(湯元健次ほか『スウェーデン・パラドックス』日本経済新聞社、201011月、p.84)という見解がある。また、わが国の戦後の社会保障の始まりについては、「国民の自主的責任の観念を害することがあってはならない。その意味においては、社会保障の中心をなすものは、自らをして、それに必要な経費を拠出せしめるところの社会保険制度でなければならない」(1950年社会保障制度審議会勧告)という方針があった。これは、少なくとも医療保障については、戦前からの健康保険、国民健康保険を継承し、イギリスの国民保健サービスのような税方式はとらないという意思表明であろう。しかし、所得保障については、ベヴァリッジ報告以来の社会保険方式を採用することになる。国民年金ができていない段階では、年金水準は低かったが所得比例の社会保険給付と言うことができる。

 このように北欧の社会保障をみてみると、社会民主主義という現実は、一方で生産力を高めることを重視し、他方で国家の制度をとおしてその成果を国民生活の向上のために使っていく体制を支える思想である、といえる。(マルクスは、資本主義の生産力水準を賞賛し、生産関係つまり生産手段の所有関係を否定した。北欧は、資本主義の生産水準をさらに強化し、一方で、所有関係に由来する分配を修正することで生産関係を修正しているといえるかもしれない)。

 わが国の社会保障は、半分は今のスウェーデンに近い方式で始まったといえる。ベヴァリッジ報告は、医療は税方式だから、わが国の社会保障がベヴァリッジ報告に影響されて始まったというのは言い過ぎだと思われる。

 そして、実際には、社会保険が整備されるまでは、生活保護や社会福祉が中心で、低所得者への給付が中心だったと言われる。これは、まさに、自由主義的なシステムだったといえる。だから、自由主義の経済学者は、わが国の社会保障も、もともとは自由主義で低所得者中心の効率的な社会保障だったといっている。今は、肥大化しすぎているから、元に戻すことが必要だというのである。

 したがって、戦後の社会保障のはじまりは半分はスウェーデン方式の要素があり、半分は自由主義の要素があったと言うことかもしれない。ところが、社会保障の実際の仕組みには、保守主義の要素が潜り込むことになる。


●江田ビジョンと「構造改革」

 「構造改革」は元々は1940年代にイタリア共産党のパルミロ・トリアッティが主張したもの。「ソ連型の社会主義を唯一の手本とし、ソ連の指示に従ってその国の革命を押し進める」というコミンテルン式の「ソ連に絶対忠誠」に異を唱え、自国の改革を主張する路線、学説であった。日本では1950年代に紹介され、政治学者の松下圭一などによって普及した。日本社会党では、貴島正道らが江田三郎の支持を得て勢力をもった。しかし日本共産党の「自主独立路線」と比べれば「構造改革」派の方が「親ソ」であった。

 江田三郎は1962年に講演した際、日本社会党主導で将来の日本が目指すべき未来像として

1)アメリカの平均した生活水準の高さ

2)ソ連の徹底した生活保障

3)イギリスの議会制民主主義

4)日本国憲法の平和主義

をあげ、これらを総合調整して進む時、大衆と結んだ社会主義が生まれるとした。いわゆる「江田ビジョン」である。これが新聞報道されると話題となり、江田は雑誌『エコノミスト』にこの話をもとにした論文を発表し、世論の圧倒的な支持を得た。民主社会党の西尾末広もこれを評価した。「構造改革」は、社会民主主義とは異なるが、暴力革命によらず長期的な社会の変革を目指すという点では社民主義に近いものがあった。そのため、社会党左派は、資本主義体制を温存するものとして強く非難し党書記長だった江田は辞職した。

 2001年以降は自由民主党の総裁小泉純一郎がスローガンとして「聖域なき構造改革」を唱え、さまざまな分野の変革を行っている。この時、構造改革とはマルクス主義用語であるという紹介もなされている。

(「構造改革」「江田三郎」ウィキペディア)



★保守主義

 イギリスでは、19世紀には自由主義が中心的で,貧困は個人の責任として放任する立場であった。それに対して保守主義者は、おそらくフランスの伝統が革命で崩壊したことを教訓として,国内の「二つの国民」を憂い、支配層が労働者の厳しすぎる労働条件に温情的な保護を加えるように要請した。J.S.ミルは近代にはもはや当てはまらないと考えた「保護従属の理論」をこう描いた。「富める人たちは、貧しい人たちに対し親代わりの地位に立ち、彼らを子供のように導いたり叱ったりしなければならぬ。貧しい人たちが自発的行動に出るということは、必要ではない。彼らが、ただ彼らの日々の労働をなし、かつ道徳を守り、宗教を信ずるならば、それ以上のことを彼らに求めてはならぬ。彼らの道徳と宗教とは、彼らにとって上位者に当たる人たちが、彼らに与えなければならぬ。この上位者に当たる人たちは、これに関する適切な教育が彼らに与えられているか否かを審査し、かつ彼らに、その労働と敬愛との代償として、適当な食料と衣料と住居と、精神的教育と邪気のない娯楽とを確実に与えるために、必要なすべてのことをなさなければならない。」(『経済学原理』1848年、第4編第7章1)。そして,保守党は19世紀末の不況に際して,労働者保護の立法をした(河合栄次郎『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』日本評論社、昭和15年、pp.46-)

 ドイツの社会政策論者は自由放任主義とマルクス社会主義に対抗して1873年に「社会政策学会」を成立させ、労働者保護政策の実施を政府に要求した。社会政策学会は、社会政策における自由放任と社会主義の革命的社会理念に反対することを主眼とした。学会創立者はシュモラーのように「現存の秩序を基礎にして下層階級の蜂起、教育、団結を望んだ」。http://www.socialpolitik.org/vfs.php?mode=informationen&lang=2そこで、ウィルヘルム大帝とビスマルクは大規模な社会政策に着手した。英国社会政策との違いは2点ある。ドイツの社会政策は、国家主義の上に立ち国家統一繁栄のために労働者を保護した。それに対して、英国では労働者各自の善(自己を成長させる人間の力 河合栄次郎 前掲書、p.727)の実現のために保護が行われた、その結果として国家繁栄をもたらすとしてもそれは目的ではなかった。その差異は、国家観念の違いであり、ドイツはヘーゲルの社会哲学を、英国ではグリーンの社会哲学を基本にしていたことが原因である。第2点。ドイツでは、政治上の自由、思想言論の自由と関連せず、民衆の意思の表現ではなく、官僚が民衆に下賜した恩恵である。開明専制である。英国の社会政策は自由主義からくるもので、政治上の自由を保ち、民衆の意思を表現する議会を通じて行われる。民衆政治に立脚する。ドイツでも、ブレンターノは英国思想の影響を受け民衆的であるが、シュモラーやワグナーは官僚的である。(同上書、pp.731-733
 ドイツで「社会政策学会」を設立した人々は新歴史学派と呼ばれた。彼らはもともとはイギリス的な自由主義経済学(ドイツ・マンチェスター学派)の支持者であったが、次第に社会問題の存在に目覚め、国家による干渉を支持するように変わっていった人々である。宰相ビスマルクは社会政策学会を支援し、逆に社会政策学会はプロイセンの立憲君主的官僚主義を支えた。当時の社会政策とは、官僚主導の上からの労働者保護により社会を安定させる政策である。労働者の社会主義運動は弾圧し、他方では、政府による上からの社会政策によって労働者と資本家との対立を緩和する。これが新歴史学派の試みであった。中心はシュモラーで、階級間の分配の不平等を批判し、不労所得の排除と所得の再配分を主張していた。19世紀末に,ビスマルクが労働者のための社会保険を創設した。こうして、保守主義の社会政策の手法として、労働者を対象にした社会保険という方法がドイツで成立したといえる
歴史家が「革命的保守主義」と呼んだ指導者として、ビスマルクはドイツ国家主義者の英雄となった。ビスマルクの考えは、社会主義者的な要素がなくて保守主義者に受け入れられる福祉政策を実践することだった(英語版WIKIPEDAOtto von Bismarck2011.10.10))。(社会政策学会会員は「講壇社会主義」と呼ばれたが、これは、社会改良=社会政策を唱える学会員は,身を大学の講壇に置きながら社会主義を唱道するもので、真の社会主義者でも真の学者でもない,としてドイツ・マンチェスター学派が侮蔑して呼んだもの。(大河内一男「講壇社会主義」『経済学辞典』岩波書店、p.328)。戦後、アメリカのマスグレイブが財政理論に分配機能を持ち込んだが、そのルーツは19世紀末のドイツの保守主義的財政理論にあると思われる。

 イギリスでも、ニュー・リベラルの自由党が20世紀になって社会保険を導入したが、労働組合の隠れ蓑となった友愛組合とは違い国家が関与する相互扶助ということで保守主義者の賛同を得やすかったと思われる(国家も財源の一部を負担した)。1942年のベヴァリッジ(自由主義者)の提案も社会保険中心だった。戦後、わが国の社会保障制度審議会が社会保険中心の社会保障を構想したのも、それの方が経営者や官僚などの保守主義者の賛成を得やすかったからだと思われる。だから労使が保険料を出すことに合意できたのである。戦後もドイツは、ビスマルク以来の伝統に従って社会保険中心だったといえよう。
 フランスは、19世紀末の「連帯」思想が、職域(産業別や職種別など)における連帯として受容されたせいか、戦後も、職域の社会保険中心で推移してきたが、ドイツ、フランスは、国内の労働組合運動が強かったために、保守主義者が社会主義と妥協し、社会保障の規模が大きくなり中福祉中負担になったと思われる。そう考えれば、妥協を嫌う原理主義者、社会主義をめざす社会主義者、管理社会批判をする人などが「福祉国家」批判を展開する土壌も理解できる(社会主義的な発想からは、福祉国家はすでに行き詰まっているとか、「ポスト福祉国家」とか、福祉国家のなかから社会的排除の問題を生み出しているなど、福祉国家を否定的に見る主張がある。ネオ・リベラルはもともと福祉国家による福祉を認めていない)。

 こうしてみると、ニュー・リベラルと社会民主主義と保守主義は、思想的には別物であるが、福祉国家を支えているという意味では、現実の政権の中道化という傾向もあって、ほとんど差がないように見える。エスピン=アンデルセンは、福祉国家の行き詰まりも視野に入れ、「三つの福祉国家レジーム類型がそれぞれどのような階級連合に基づいているかということが、その過去の発展経緯のみならず、その将来の展望をも説明しうるのである」と、述べている(エスピン=アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界―比較福祉国家の理論と動態』ミネルヴァ書房、2001年、p.36)。

 (アメリカでは、オールド・リベラルの共和党が「保守派」と呼ばれ福祉には反対するから、ここでのように保守主義が社会保険を始めたという議論は当てはまらない)



 ★保守主義 日本

★(1)伝統的美風

 わが国の社会保障には、保守主義あるいは家族主義的な要素が多くあるが、生活の中で家族や親族の相互扶助が根強く続いているわけではない。伝統的な家族や親族の相互扶助といえば、災害時に子どもや年寄りを預かったり、凶作の時に食料や仕事の援助をしたり、出稼ぎの間は残された家族の世話をするとか、都会で失業すればいなかの実家の兄弟が食べさせてくれるとか、また近隣だと、親方が仕事を分けてくれるとか、独り者が病気になれば近所のおばさんが食事を運んでくれるとか、食べていけない近所の子どもに子守をさせてお駄賃を与えたり、ということを思い浮かべるが、これらは農業や小売店・職人・行商など自営業の世界の話といえよう。これが保守主義者からみれば、庶民生活の美風である。わが国では、1960年頃までは、働く人のうち、農業、自営業、家族従事者などが半分以上を占めていたが、それ以降は勤め人が増加の一途をたどり、このような「美風」は廃れていくのである。また、老親を子どもが扶養するのも、「社会の実態として」行われなくなっている。つまり、いまや家族主義は、人口の7割を占める都会の生活では薄れ、保守主義的官僚が作った社会保障のなかに息づいているともいえる。

★(2)温情主義

 自民党の橋本龍太郎元総理の父親龍伍は、身体障害者で、そのために戦時中に東大の受験が許可されなかったという差別を受けた体験があり、そこから「弱者のための政治」を理念とするようになったといわれる。元総理もそれに倣って、1978年の厚生大臣就任から「弱者のための政治」を目指したといわれる。つまり、保守主義者は社会の虐げられた人、差別されている人に対して温情を持って政策を行うということが特徴でもある。しかし、その温情を社会保障や福祉国家という形で政策化するかどうかはまた別の話である。そうはいっても、戦後の社会保障のなかに保守主義的な性格が入り込んでいることも確かである。日本の社会保障の保守主義的な性格として,「世代間扶養」解法と家族主義がある。

★(3)施し

 戦後、自由党と日本民主党という保守政党が選挙での共倒れを避けるために1955年に保守合同を遂げた。東西冷戦の時代、アメリカは日本でソ連、中国と連帯する勢力が強くなることを防止するために、反共の防波堤として保守安定政権を「援助」したとされる。その中で、反共で連携する自由派と保守派と、それと対立する革新も、最低生活保障を基礎にした社会保障制度審議会の答申には合意できたものと考えられる。憲法25条の生存権保障に関連させて社会保障を要求することの多い「革新」は、社会保障は国の責任で国の負担でやることにこだわり、社会保険の仕組みにも国庫負担をできるだけ投入することを要求したものと思われる。

自由民主党は1955年の党の綱領で「福祉国家の完成を期する」と述べ、同じく党の政綱で「福祉社会の建設」をうたっていた。戦後、英国では労働党政権によって福祉国家の政策が進められ、次の保守党もそれを否定しなかった。それをみていた自由民主党も、基本は保守政治だが工業化を見据えて、支持基盤の自営業、農民に加え労働者も取り込むためのシンボルとして「福祉国家」を唱えたのではないかと思う。

労働組合も、本来の賃金闘争のあいまに制度要求をだして、国に要求して福祉を勝ち取ったというスタンスだった(マルクスの理論は労働者は不当に資本家に搾取されているというもの。それに従えば、利潤を削って労働者に分配することは正当な要求だということになる。しかしビスマルクの社会保険や1911年の英国の国民保険は労働者も拠出したから別の理論だったようである)。「革新」政党は社会主義建設が目標だから、国民の負担によって支える「福祉国家」などというものを政党の目標として選択するわけはなかった。(民社党は、労使協調路線で福祉国家を目標に掲げていた。マルクス主義はもともとは福祉国家は資本主義を温存するものとして批判するが、なかには資本主義の最終段階として社会福祉を充実させ福祉国家の成熟を早め、次の段階の社会主義への移行を展望する人もいるようである。マルクス主義のなかに福祉国家という人が出てくると、保守主義が福祉国家といわなくなった。保守主義の中には北欧の福祉国家も私的所有を否定する社会主義と同類と見なす人も出てきた)。福祉六法体制においても、中心は配給制度としての「措置制度」で、これは国による恩恵、慈恵政策として行政部門がもっぱら生活困窮者に「施し」を与えるような形であった。こうして、保守も革新もわが国の進路として福祉国家を選択したわけではなく、また、有権者も福祉のために負担を引き受ける覚悟もなく、「国家」からの「施し」の福祉を享受した。保守主義の国家は一部の人々に「戦争犠牲者援護」や「傷痍軍人」対策をやっているのだから、空襲で財産や家族を失った国民が損害賠償を求める気持ちで国に何かを要求するのも理由がないわけではなかった。

 富永健一は、『社会変動の中の福祉国家』(2001年)において、戦後わが国の厚生行政が官僚主導であったことを認め、その成果を賞賛している。「厚生省は、高度の国家的使命意識を持って国民のために福祉政策を用意してきた」「少なくとも日本が福祉国家の仲間入りをするまでになったのは厚生行政の主導によるものであり、そのかぎりで日本の厚生行政は立派な仕事をしてきたことを認めるべきである」「自民党政権が福祉国家づくりの担い手になり得たのは、官僚に依存してきたからである」。こうして、戦後福祉国家が官僚主導だったことを認め、東大卒業生が官僚として活躍していることに目を細めているが、官僚主導の福祉が「施し」であると評されるのである。

★(4)世代間扶養

  厚生年金は、1954(昭和29)年にそれまでの報酬比例制度を報酬比例部分と定額部分に改編(能力主義と再分配の要素の二本立てといわれた)。昭和37年から厚生年金老齢年金の受給が開始された(昭和17年設立から20年がたったから)が共済年金の3分の1程度で低いのが問題にされた。官尊民卑の表れといわれた。だから、厚生年金は、最低生活費を保障するわけではなかったので、自由主義のベヴァリッジの最低年金にも達していなかったといえよう。しかし、1965年以降、徐々に年金水準を増額し、1973年の福祉元年に、厚生年金の標準的な老齢年金は直近男子平均標準報酬の6割をめどとすることとなり、最低年金の水準を超え、心は保守主義なのに政策は福祉国家的な年金を目指すこととなったといえよう。

 60年安保の翌年から皆年金体制となった。保守主義なら老後は子どもが扶養する美風を守りたいはずのところ、役人には恩給が、会社員には年金がもらえるのに、保守の地盤の農民、自営業層はなにももらえない。そこで保守政権は「わずかな掛け金で、孫にあめ玉や小遣いをやれる年金がもらえる」ような仕組みを作り、やがて、損をしないどころか儲かる国民年金に育て上げたといえる。もともと保険料が安かったから、年金が少なくっても仕方ないが、農民や自営業なら、定年もないし、老後は跡取りと同居して暮らせば、生活費も少なく済む勘定である。そういう伝統的な家族扶養を理想とする家族主義が社会保障の一つの幹となった。ところが保守主義は、自由主義のような最低保障、社会民主主義のような従前生活水準の維持というような社会保障についての理念を欠いていたので、国民年金と厚生年金、共済年金の整合なども軽視したといえよう。
 同時期から医療は皆保険体制となったが、国民健康保険に加入すべき医師や弁護士、特定の業種などが独自に「国民健康保険組合」を作り、市町村の国保よりも有利な給付を享受し、しかも、補助金を得ている。国保という地域の相互扶助組織を作ったが、この「国保組合」は、市町村という共同体でお金の出し手になるよりも、均質な集団で相互扶助した方が得だというあからさまな「社会保険非適用集団」で、そこへ補助金を出すというのは、住民以外の特定の利益集団を優遇するもので、官僚以外には説明不能な制度である。
こうして社会保険中心の社会保障でやってきたが、企業や家族という共同体への帰属を要(かなめ)とする保守主義的な特色を色濃く持っているといえよう。終身雇用で企業に帰属していれば保険料納付に困ることはなく給付を受けられるが、企業という共同体から離脱したり転職すると、まことに不安定になる。
 民間のサラリーマンの厚生年金は、積立金を持つ修正積立方式とされているが、内実は賦課方式だと言われる。ところが、賦課方式が年金の一つの方式として成り立つのは、保険料を支払って制度を支える現役世代にあまり大きな負担がかからない場合で、そうでなければ、現役世代が賛同するはずがない。わが国のように少子高齢化が進行する場合には、現役世代が減っていくのだから、もともと年金の方式としては成り立たつはずがない。しかし、厚生労働省は現役世代の負担が重くなるといいながら、子ども世代が親世代を支えるという保守主義そのもののこの方式を「世代間扶養」と称して、維持可能のつもりでいた。これが成立するには、ある程度以上の経済成長によって、現役世代の重い負担を帳消しにする賃金上昇が見込める場合しかない。

厚生省年金局は、賦課方式と積立方式を説明した上で、「公的年金制度においては、受給者にとって個人の責任で対応できない物価の上昇や国民の生活水準の向上に対応した給付の改善などに必要な財源を後代の世代に求めるという仕組み、いわゆる世代間扶養という公的年金特有の仕組みを採っている。」と述べていた(厚生省年金局数理課監修『年金と財政―年金財政の将来を考える』法研、平成73月、p.16。物価上昇に対応するのは理解できるが、「国民の生活水準の向上に対応した給付の改善」が曖昧なのである。それを現役と後代(将来の現役となる子どもたち)の負担でまかなうのは、少子高齢社会では、持続的な経済成長がない限り不可能な話である。この年金における「世代間扶養」は、昭和40年改正頃から始まったものと考えられる。「消費者物価や賃金水準の上昇に対応させていくというだけでなく、実質的な給付水準の引き上げを図るため、年金額は定額部分、報酬比例部分の双方にわたり数次の手直しが加えられた」(厚生省年金局数理課監修『年金と財政―年金財政の将来を考える』昭和563月、p.10)。皆年金体制からわずか4年後から始まっていたのである。その当時は、まさかこれほどの少子高齢社会になるとは想像すらできなかったのである(だから、経済成長が続けば特に問題がないと考える人が多かった。しかし、今井一男は反対していたようだ)。

ただし,厚生年金老齢年金は戦時中に報酬比例で平均標準報酬月額の100分の25から始まったが,定年後の所得喪失に応じた給付が望まれていたので,年金水準引き上げは,当時のイギリスやスウェーデンにおける福祉国家(社会民主主義)の年金給付改善にならって正当化され,また,歓迎されたと考えられる.(ちなみに、機能主義の社会学では、産業化によって共同体の福祉的機能が崩壊し、機能の空白ができたので、それを国家が埋めようとして福祉国家や社会保障が始まると説明される。この理論によって、日本の場合には、伝統的な親孝行に代わる国家的な世代間扶養が正当化されるという面もあると思う)。

 年金の世代間扶養方式は、ドイツの1957年の賦課方式の導入に倣ったものと思われる。ドイツの公的年金はビスマルク以来、積立方式だったが、戦後、給付が保険料収入を上回り積立金が枯渇しかかった。そこで、給付を維持するために賦課方式を導入したのである(小梛治宣「ドイツ年金制度の変容」『経済科学研究所 紀要』 第36 号(2006)、p.184)。「ドイツにおけるこの方式の1957年の年金改革に大きな影響を与えたシュライバーは、このような年金制度の根底にある原則を「世代間契約」と名付けた。つまり壮年世代が、幼年世代を家庭の中で養育すると共に、自らの保険料で老年世代を支えるという関係が永遠につづいていくことを、諸世代間の契約という概念で把握したのである。もちろんこれは人々を説得するための比喩にすぎず、あとから生まれてくる世代はこの契約に合意してサインしているわけではない。彼らがこうした契約関係を認めず、契約が破棄される可能性はつねに残されていることに注意しなければならない。」世代間契約による賦課方式の老齢年金制度が円滑に機能するためには、幼・壮・老という三世代の人口比率が安定的に推移することが必要である。シュライバーは自らの構想の前提として「家族政策」という名の人口政策の推進をかかげていた。(足立正樹「高齢社会と社会保障」国民経済雑誌、2002pp.76,77)。

 賦課方式をわが国に導入することに対して今井一男は強く批判していた。

自民党の小泉進次郎のサイトの「政策」(2011.12.15)には、「老後を安心してくらせるような社会保障制度を構築し、若者から高齢者まで世代を超えてお互いの支え合い」と記されているが、これは、年金の賦課方式、高齢者医療の現役世代からの支援金、介護保険の現役による保険料負担などの高齢者保護だと思われる。しかし、人口減少、少子高齢化の進展、低成長という条件の下ではムリなのである。八代尚宏が日経新聞(2011.12.1)で、「減少する一方の後代世代に社会保障負担を先送りするのではなく、豊かな高齢者が、貧しい高齢者を扶養する同一世代内の所得再分配の強化が求められている」と述べたが、新自由主義は別にして一つの提案だと思われる。

★(5)老人医療と児童手当

 高度成長期に革新陣営が福祉重視の政策で有権者の支持を増やしたが、そのひとつとして老人医療費の無料化を革新自治体で推進した。革新がそうしたのは、老人は経済成長から取り残された人びとだから「貧困層」だという判断であった。「経済成長から取り残された人びとの困窮」とは新古典派経済学のA.マーシャルが『経済学原理』で言及していた貧困問題だったから、革新がそれを取り入れ保守の老人弱者論とも共鳴した形であった。保守陣営も選挙対策として福祉重視を打ち出した。国も老人医療費無料化に踏み切ったが、所得制限付きで70歳以上に限った。マルクス主義者は、総ての欲望の完全な満足、すなわち、欲望そのものによってのみ制限されるような満足(マルクス・エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』1846、訳書pp.181-186)を理想としていたらしく、国民の欲望を抑えてはいけないという考えを指針としていたようにみえる。また、エンゲルのことば「それゆえに生活欲望の充足される度合いが、国民の福祉を決定するのである。」(エルンスト・エンゲル『ベルギー労働者家族の生活費』1895、訳書p.16にも依拠するかもしれない。だから、老人医療費無料化でムダな診療が増えたという経済学者の非難に対しても、「ニーズがあったのだ」と主張するするのである。この立場では、所得制限付きにもかかわらず、無料だったことを評価し、今日でも福祉の名において無料を要求している。

 また、社会みんなで子育てするのが良いという社会民主主義の発想からヨーロッパでは所得制限なしの児童手当が行われている。保守の論理でいけば子育ては親の責任だから児童手当などは必要なく、また、企業もわが国の年功序列型賃金体系では歳をとると賃金が増え、扶養家族がいれば家族手当などが出るのだから不必要だとした。しかし、そこは新興保守主義政党の弱者救済と選挙対策に押され、所得制限付きの児童手当を始めることになった。自由主義者も、育児や教育は親の責任、個人の努力の問題と考え、児童手当には反対だったはず。結局、将来の労働力涵養というたてまえで企業負担を求めながら、負担を抑え弱者に限るために手当には所得制限をしているのである。

★(6)老人保健拠出金

 医療では,1983年、厚生省保険局長であった吉村仁(よしむらひとし。医療課で「国民皆保険」導入に関わった)が、将来の超高齢化社会を見据え、増え続ける医療費に警鐘を鳴らす『医療費亡国論』を発表した。厚生省主導で、それまで聖域化された医師優遇税制の改革にメスを入れた。無料だった会社員の医療費に2割の自己負担を導入、浮いた財源で新たに退職者医療制度を作る仕組みを打ち出し、最終的に1割負担にするなどの修正をして、日医や反対派議員との妥協を取り付け、成立に漕ぎつけた。これなども、保守主義的な官僚主導の「社会政策」といえよう。

 1982年に老人保健制度が創設され、老人保健拠出金が導入された。1984年には国民健康保険に退職者医療制度を導入した。ここにも健康保険からの「拠出金」が投入された。両者ともに、現役世代からの「拠出金」によって高齢者の医療負担を軽減するものである。その際に、所得水準に応じて負担軽減を図るのではなく、年齢によって一律に負担軽減をするというところが、社会保障の再分配に照らして不公平な制度であり、「高齢者優遇の世代間扶養」と呼ぶことができる。

在宅介護の基盤整備や介護保険創設は,家族介護が困難になってきたので,家族介護が継続できるような環境を作ろうとしたともいえる.これが社会民主主義なら「介護の社会化」の発想になるが保守主義の方向はそうではない.しかも保険方式ならば世代間扶養もつかえるし,税方式だと事業主が負担を免れてしまうからだめだという理屈も成り立つ.そして,介護保険では,現役世代に負担を求めるが給付を制限し,実質的に「世代間扶養」方式につくりあげた.

 低成長、少子高齢化のもとでは、「世代間扶養」解法は持続できないことは明らかであるが、1980年代前半は、まだ経済成長への期待が持てたので、現役世代へ負担をお願いできたのであろう。公的年金は、少子高齢化でまさに「世代間扶養」が持続不能と分かっているのに、保守と革新の経済成長期待で、ひたすら現役世代と子孫に給付減と負担増という大きな負担を押しつけて、高齢者優遇を続けようとするものである。それに対して、自由主義的には、「自助努力」方式を強調するが、それは「福祉」を縮小することで選挙に不利になり、同時に「世代間扶養」がなくなることなので保守主義的には抵抗があるのであろう。しかし、自由主義派は経済成長が問題解決の鍵だと考えているから、その点では、高齢者優遇を続けるために成長頼みの保守派は、自由主義派の知恵を借りなければならない立場といえよう。 

★(7)財政再建

 また、1980年代はじめに保守政権が「増税なき財政再建」を唱えたときに、自立や自己責任、自助の気風を重視するとし、また、中曽根首相が「真に救済を必要とする人への援助は維持しつつも」という福祉抑制の姿勢を示したが、当時のサッチャーの保守主義が福祉抑制と市場重視を打ち出して「新保守主義」と呼ばれていたのと軌を一にするものといえよう。だから、1983年の老人保健法で「自助と連帯の精神に基づき」月400円の自己負担と各保険からの拠出7割、公費3割としたが、これはそれまでの「公租公課」の一部をさいて親孝行を擬した老人医療無料化を止め、お上の「施し」に過度に依存することを止めさせるためのものであった。しかし、老人の負担を極度に軽く設定して、現役世代の保険からの拠出金を重くして成り立つ仕組みつくりあげた。これは親孝行に代わる「世代間扶養」となるものだった。革新は、保険からの拠出金よりも老人の自己負担導入を非難し続けている。しかし、石油危機以後の低成長と高齢化のもとで、保守主義者は「施し」のレベルを超え、財政負担に歯止めがきかないような福祉の行き過ぎを嫌い、1980年代に、「日本型福祉社会」を提案したわけである。それは家族・親族・地域・企業などの共同体と人間関係によって、相互扶助を活性化しようとするものだった。同時に、大平総理の一般消費税構想や中曽根首相の売上税構想は、子孫の繁栄を願う保守主義者が、国債というツケを子孫に回したくなかったという保守の矜持でもあったろう。

 野田内閣が2011年に、TPP交渉参加開始、消費税増税と社会保障の負担給付の見直しをする提案をすると、野党は選挙を意識して、反TPP、反増税、反見直しを唱えるようである。野党でも日本共産党は、まず議会で多数を占めてその後から社会主義を実現するという路線だから、今はともかく、有権者にうける政策を訴えるべきだという姿勢が強いように見える。それに対して、野党で保守主義だという政党は、成長戦略、歳出削減の提案もせずに、反政府と言うことだけで反対しているように見えてしまう。これでは保守主義でも何でもなく、ただの選挙目当てといわれてもしかたがない。そういう中で、新自由主義的に成長と歳出削減による財政再建を主張して増税反対をいう政党は、短期的な方針としてははっきりしているように見える。結局、福祉国家を充実させようという政党にとっては、過去現在は将来世代の負担で福祉を支えてきたが、これからの財政再建が将来の福祉充実に結びつくという理論を欠いているために、ただの反政府としての反増税、反見直しと区別がつかなくなっていると思われる。

★(8)家族主義

一般的には、近代社会の自由主義者といえども家族は大切だった。しかし、それまでの家父長制ように家長の意思を優先させて個人の生き方を押しつぶすようなことには批判的になってきた。家族の外ではしきたりや慣習を批判し、縁故による取引や就職などを排除し階層の違いには寛容になったと思う。これは個人主義と整合的である。
それに対して保守主義者は、自然な感情として家族を大切にするだけでなく、家長の権威を持続させ親族間の格の違いを重視し、家族の外では家の資産や家柄とか職業の貴賎を忘れずに物事を決め業界のしきたりを優先させた。自然の感情として家族を大切にすると言うのとは違って、社会のルールとして民主主義や社会の進歩を批判し、対等な人間関係と男女平等に抵抗し、昔ながらの権威や家族間の格差、しきたりを維持することが必要だという考えである。

 家族主義は、単に家族を大切にするというマイホーム主義のことではなく、社会保障制度の中で、個人個人を対等に扱うのではなく、家父長制度のように世帯主に責任を取らせたり、本人の所得だけでなく同居世帯員の所得を対象にして負担を課する考え方である。

 国民健康保険や国民年金の保険料納付には世帯主に責任を負わせるという点、そして、高齢者が病院へ入院したり老人ホームに入所したときに、本人だけではなく自分の世帯に市民税納税者がいると利用者負担が軽減されないという点で、個人というよりも家族という共同体の枠組みを重視するという保守主義の思想が貫徹していると思う。

 都会で生活する人が増えると、結婚のあと親と別居して暮らす人が増え、歳をとった親の介護が問題になってきた。保守主義の発想からすれば、介護を家族以外の人に任せる介護の社会化ではなく、家族内部で、つまりは伝統的に主婦によって解決すべきものだった。1986年から国民年金第3号被保険者が保険料なしで満額の年金を受給できるようになったのは、主婦として自分を犠牲にして無償労働で育児、介護に尽くすことに対する保守主義からの社会的報酬である。今では、選挙運動で活躍する保守側の婦人部隊の動機付けでもあろう。「女性の年金権」を保障するという触れ込みであったが、その女性とは専業主婦で生涯を家事に捧げる良妻賢母の女性だったのであろう。本来ならば保険料免除なのだから満額年金の2分の1とすべきで、しかも財源は公費とすべきところを、保険料を流用しているから、保険としては変則的なのである。(農業や自営業の家庭の主婦だって、家業の手伝いをしながら、家事・育児・介護をこなし、それこそ自分の時間は全くない。でも、国民年金第1号被保険者とされ保険料を40年間払い続けないと、満額の老齢基礎年金がもらえない。不思議なことに、保守政党から見れば、農業や自営業は選挙の有力な支持基盤ですから、もっとサービスしても良いはずと思う。よくよく考えると、所得税の方で、トーゴーサンとかクロヨンとかいわれる不公平によって優遇しているのである。つまり、サラリーマン世帯は所得が全部、税務署に分かり税金を取られる。しかし、自営業は年間所得の5~6割が税務署に捕捉され税金を取られ、農業世帯は年間所得の3~4割が税務署に捕捉され課税される、ということを指している。このようにみると、専業主婦優遇と税の不公平はセットになって保守主義の政治を表している。)

いずれにしても、保守なら子どもによる扶養を強調すべきであるが、そうはいえなかった。時々いわれる「社会の実態に即して」という言葉は、実は、保守主義の人々を説得するものなのだ。そして介護保険でも、現役世代への給付を抑制し、実質的に「世代間扶養」方式につくりあげた。また、健康保険の被扶養家族は介護保険の第2号被保険者であっても保険料を支払わなくて良いことになっている。これもサラリーマンの専業主婦優遇である。自由主義的には、老後がくるのは分かっていることだから、老後に備えるのは各人の問題である。

 専業主婦世帯と共働き世帯の間で、夫婦の賃金合計額が同一であるにもかかわらず、高齢期の遺族年金は同一とならないことがある。夫が死亡した場合、専業主婦は老齢基礎年金と遺族厚生年金(=夫の老齢厚生年金の3/4)を受給する。これに対して、共働き世帯では、妻の老齢基礎年金と遺族厚生年金の2/3と自らの老齢厚生年金の1/2を受給するが、こちらの方が低額になることがある。これは女性の低賃金にも原因があるが、専業主婦優位の構図といえよう。

 大都市周辺で、これだけ保育所建設が求められているのに、一向にはかどらないのも、地方を含めた全体でみれば、保守主義が根強く、子どもは母親が育てるべきと考えられているからだ。保育所は共働きの貧困世帯のためのもので、普通のサラリーマン世帯には必要ないものという意識が強いと思う。日本のよい家庭には専業主婦が必要と考える保守主義では、保育所増設よりも、専業主婦を応援する子ども手当増額が好ましい。地方の選挙区を重視する政治家は保育所よりも手当増額を要望するであろう。(実際には,ほとんどの保育所が公立か社会福祉法人で、それらを増やすと自治体の補助金を増やさなければならないので、増設したくないこともあるが)。

★(9)国庫負担

 自由主義者は、社会保険もできるだけ保険原理で運用するように求める。しかし、それは哲学上のことで、むしろ、日本の公的年金、医療保険、介護保険を保険と呼ぶべきではない、という主張に行き着くのではないか。

 革新が社会保険の公費導入と扶助原理を重視し、保守が現役世代の負担強化をする世代間扶養をつくったが、自由主義者はいずれも保険原理に背くパターナリズムであるとして批判する。社会保険には国庫負担が投入されるが、ルーツをたどれば、保守主義的な社会政策を行ったビスマルクが、公的年金への国家からの賜り物として始めたものである(http://www.sia.go.jp/infom/text/shakaihosyou02.pdfによれば,年金保険は30 年以上保険料を払い込んだ70 歳以上の老齢者に給付を行うものであり、公費負担が3 分の1 だった)。また、1911年のイギリスの国民保険でも国庫負担が導入され、社会保険は資本家と労働者と国家が支えるといわれた。ベヴァリッジは、「1911年に確立された三者拠出方式を引き続きうけついでいく」(ベヴァリッジ報告、訳書p.168)と記し、被保険者、事業主、国庫の三者が拠出して支えていくことを主張した。しかし、保険原理を重視する新古典派経済学者は、経済的機能しかみないで国庫負担は単なる保険料と患者負担の値引きとしてみている。(鈴木亘『財政危機と社会保障』講談社、2010p.27)。その観点からいえば、低所得者が自助努力で保険に加入したくても保険料を払えないとき、自由主義者は、一律ではなく、低所得の被保険者に限って負担軽減の措置を講ずればよいというかもしれない。
 
国民健康保険では医療給付費の約5割が税金でまかなわれている。その根拠として、被用者保険は保険料の半分が事業主負担で労働者負担が軽減されているが、国保はそれがないので、被用者保険に合わせて税金を投入するとされる。ところが、一般的には自営業者や農民は税務当局に正確に所得が捕捉されず、トーゴーサンやクロヨンといわれる問題がある。そうだとすれば税金が割安なのだから、総体としては国保の保険料は負担できるはずともいえる。それを承知で政府が税金投入を続けるのは、保守主義者が自営業者や農民という保守の基盤を重視していることと、誰の負担を軽減すべきかを問わずに、「施し」として負担軽減をしていることが原因とも考えられる。自営業者や農民もまわりに低所得者がいるのを口実に、保守による負担軽減を、選挙協力の見返りとして受け取っているのかもしれない。介護保険も国保と横並びで、給付費の半分を保険料でまかなうとされる。ところが、その半分以上は、原則として給付を受けられない現役世代が負担するという高齢者優遇制度になっている。このような税の投入は、「革新」にとっては労働者とは直接は関係がないものだが、社会保障をできるだけ国の負担で行えという要求にそうもので歓迎されたと思われる。

 しかし、国保や国年に加入する低所得者について保険料負担の軽減をおこなうのは、社会保険ならば何の不思議もないことである。それは、保険制度の建前により保険料を支払わないと給付が受けられないという原則があるから、少しでも保険料が払えるような仕組みが必要だからである。しかし、保守主義者からみると、誰の保険料を軽くするかが分かってしまうことは、かえって差別につながるという危惧を持つのではないか(実は、誰が高所得者かが露わになるのを防ぐということもある)。そこで、だれが貧乏人か金持ちかわからないまま平等に負担軽減するのがよい、というのが保守の本音ではないかと思われる。「革新」にとっても、低所得層をあぶり出してそこだけに税を投入するという手法は、労働者総体の利益を重視するという建前のもとで、企業規模別の賃金格差の縮小、未組織労働者の問題などには手をつけたくない人々にとっては御法度だったのではないかと思われる。逆に、格差があることを前提にして、漠然とした税の投入を要求したのかもしれない

 それに対して、低所得者に限定しない国庫負担を、北欧にみられる「普遍主義的」なサービスとして受け入れる考え方もある。確かに、低所得者限定の給付は「選別主義的」である。選別主義的手法は利用者に貧乏人のレッテルを貼ることにより、利用が必要な人にも利用しにくくさせてしまうという点において批判される。これは在宅サービスや保育などいわゆる福祉サービスにおいて問題とされる。その点では、介護サービスを「保険」の仕組みで行うのは「普遍的」といえる。しかし、その場合に、給付費の半分を公費でまかなうことにより、ディスカウントして利用を促進することも「普遍的」なものとみるべきかどうかは、意見が分かれるのではないだろうか。北欧で、中間層や富裕層にも社会保障の給付を行うのは、彼らに高負担を求めるだけで何の見返りもないのでは不満が出てくるので、高負担する人にも給付を受けられるようにするため、普遍的な仕組みにしているともいわれている。それは「高負担」であるから出てくる発想ではないだろうか。高負担だからこそ普遍主義的給付が出てくるのであり、無負担や低負担の主張と普遍主義的給付はリンクしにくいように思われる
 ただし、イギリスで貧困層以外に対する公的な福祉サービスが始まったのは戦時に老人に介護サービスをした時ともいわれるから、この場合にはまだ高負担ではなく低負担だったが普遍主義的給付が行われたことになるが、戦時の疎開という例外事例といえる。

 一方、社会保険の扶助原理は少し事情が違うようだ。戦後、保守派が社会保険へ多額の公費を投入し妥協を求めたので、労働者も企業も保険料の半分の負担に応じ、社会保険に賛成したと思われるが、それだけに社会保険と言いながら保険原理を度外視した給付もおこなわれる。それを専門家は「扶助原理(福祉原理)」と称して一般化して見せ正当化している。たとえば、障害年金には最低保障年金額が設定されたり、医療保険には高額療養費支給制度が設けられている。国民年金の第1号被保険者は保険料を免除されても年金給付される。(ただし、公費負担医療(感染症法ほか法律)や無料または低額診療事業(社会援護局長通知)は社会保険ではなく当てはまらない。)もともと,社会保険に扶助原理が導入されたのはイギリスの失業保険で、1931年にそれまでの無契約給付(保険料納付期間を終わらずとも12週間失業保険金を給付)を過渡的支払と呼ぶことにし、その支給に資産調査を実施することになった。また,1934年失業法で、半年以内の失業には失業保険の給付、半年をこえると失業扶助(過渡的支払を保険から分離、家計資産調査を実施する)の給付を始めたことなどから始まったものと考えられる。ただし、イギリスの場合は、ミーンズ・テストをおこなって給付するということで扶助原理の導入となっている。こうみると、わが国の社会保険における扶助原理(福祉原理)のルーツは社会民主主義的なものなのかもしれないので、ここで保守主義的な性格と言い切れないと思われる。

10)親孝行のさき

世代間扶養方式を支持する根拠として三つの理由が考えられる。ア)戦争中の空襲などで家族や財産を失った人に対する国からの補償は何もなかった。それに対して、一部の人には戦争犠牲者援護という名目で、戦後60年たっても年間1兆円近い公費が使われている。これは不公平である。イ)わが国の親は、子の進学のために学費を負担していた。やがて、子どもがいい会社に就職すれば、親が高齢になったときに、子から仕送りなど扶養が期待できた。ところが、社会変動(被用者化、核家族化、都市化)によって、サラリーマンの息子による老後の家族扶養が期待できなくなったので、家族に代わって国に老後扶養機能が期待された。それが世代間扶養方式である。機能主義の社会学でも、産業化や社会変動のために扶助機能が空白になったので、その機能を国家が埋めるものが社会保障、福祉国家だと考える。明治以降の官僚の背景にあると考えられる儒教の孝の思想がこれを支えた。ウ)高齢者が資産を保有しているから、それを従来よりも少数の子どもに遺産相続すれば、子どもの負担も報われるはずである。
 
ところが、保守主義者は、こういうかもしれない。

 ヨーロッパには、社会が大学の授業料まで費用を負担している国がある。大卒者は就職すると、高い給料をもらい、たくさん消費して消費税を払う、給料に応じて高い社会保険料を払う、高い所得税を払う、ということで、社会も元が取れるといえる。それを元手に社会サービスを給付する、という見方もできる。

 それに対して日本では、大学までの授業料は両親が負担しているので、歳をとってから、子どもたちの負担を中心にして社会保障給付を受け取るのは当然といえるのである。戦後、親孝行の美風が廃れたので、高齢者優遇の社会保障の仕組みが、強制的に親孝行をしているのである。それが社会保障の「世代間扶養」の本質であり、世代間の不公平は存在しない。近頃の若い人たちが自分の生活を楽しもうと思って子供を産まないから、少子化になって困っているのである。結局、子孫繁栄を考えていればこういうことにはならなかったのである。

 確かにそういう考え方もあり得る。しかし、低成長で少子化だと子ども世代の負担が過剰になり過ぎるのである。こういう現実があって、ここからが保守主義者の出番なのである。親孝行のために子ども世代へ回す負担が重すぎると、さらに少子化が進行するということを保守主義者はどう考えるかが問題となるのではないか。

いずれにしても保守主義や自由主義にはサラリーマン家庭の生活安定にまで国が関与するべき理念がない。自由主義(ニュー・リベラル)はベヴァリッジが最低生活保障の理念を語ったが、保守主義は人道的な弱者救済の理念しかない。そこで保守主義の社会保障・社会福祉では、福祉以外の動機づけによる福祉の形を借りた行動を恐れなければならない。自由主義に後押しされた情報公開が貴重なゆえんであろう。


 

★(11社会保障費水ぶくれの放置(日経新聞2012.1.30

 

 社会保障の過剰給付が放置されているとしてつぎのように例示した。

(年金)

公務員年金の2割上乗せ給付。

定年後、民間に再就職した公務員の年金減額を優遇。

公務員の遺族年金の転給(死んだ夫の遺族年金を受給していた妻が再婚すると、夫の父母が受給できる)。

主婦年金の過払い。

(医療)

7074歳の医療費窓口負担(法律では2割負担なのに予算措置で1割を継続)

生活保護の医療扶助(本人負担がゼロのため患者がチェックできず架空・過剰請求が発生)。

国民健康保険組合への補助金(医師、弁護士、建設職人など同業者が作る組合が国民健康保険から脱走、独立したもの。補助金を受けながら入院の患者負担ゼロの組合も発覚。補助金3000億円)

 

 これらは必ずしも個人主義や自由主義の立場ではなくても不公平と判断されるところが要注意である。

 社会保障専門家はそれぞれ経緯があるといって、おかしいとはいわない。しかし、過剰給付と呼ぶかどうかは別として、不公平な給付は単なるばらまきではなく保守主義の政策選択と考えることができる。

 公務員の恩給はもともとドイツで、老後生活を心配して役人が有力者から賄賂をもらったりしないで、公平な職務遂行ができるようにするのが設立の趣旨といわれる。今は勤労者の企業年金に加入させる仕組みにすれば、官民格差とはいわれないはず。民間労働者より優遇するとすれば、震災のような一旦、ことあれば家族を顧みず公務を遂行し、犠牲となるリスクもあるからであろう。事後的な保障も必要だが、士気を維持するにはある程度の保障も必要といえる。それを住民に理解してもらう努力が欠けている。

 専業主婦の優遇は、よい家庭には無償で働く良妻賢母が必要という保守の思想で、その人たちを年金で保護するということであろう。

 高齢者医療は、1960年岩手県沢内村が最初に65歳以上の老人医療費無料化を開始し、61年には対象を60歳以上に広げた。60年代後半、無料化は東北から全国的に広がり、6912月東京都革新都政も70歳以上の医療無料化を実施し、その後、保守革新を問わず地方自治体で実施するようになった。しかし、負担能力のある高齢者までも優遇するのは、低所得の現役世代・若者世代が保険料負担に耐えているのに比して不公平となる。

 国保組合はもともと市町村国保でお金の出し手になるのを逃げる特権的階層の行為だから補助金にとどまらず組合自体を解体すべきもの。選挙で協力してもらえなくなるため政党は言い出せない。これこそ市民団体の出番だが、マスコミが無関心で応援してくれない。





★中道政権

 今日、北欧やヨーロッパ大陸では、様々な政党が、それぞれの国の議会で強力な多数派となれない場合には、多数派になろうとして、自営業・農業や中間層、退職者などを取り込めるような政策を展開し、また、連立内閣を作った。そのため、政党の間では政策に大きな差がなくなっていき、政策の違いが見えにくい、といわれるわけである。そこでヨーロッパでは多くの場合に中道政権ができ、政権の違いと言っても、中道左派とか中道右派という区別しかできないのである。20105月には英国保守党でさえ左派に近い自由民主党と連立し中道的と言われる政策を模索している。

 たとえば、高齢化の進展に際して、いずれの立場であっても、現役労働者の社会保障負担を抑えるためには、年金水準を抑えざるをえず、福祉に逆行するような政策をとるので、国民の中に批判する人々がいる。しかし、みんなが納得する代替案があるわけでもない。それでも、社会民主主義は労働者の生活安定のために、あるいは失業者の生活安定のために、経営者からも譲歩を勝ち取る努力をする姿勢に変わりはない。

 マルクス主義が華やかな時代には、自由主義、保守主義、社会民主主義は遅れた思想であり、歴史の法則に従えば社会主義が正しいものだ断定していた。しかし、今日ではいずれが「正しい」かといえば、いずれも「正しい」。問題は、我々がどれを「もっとも望ましい」と考え選択するかである。

 アメリカでは共和党が保守主義でオールド・リベラルの党、民主党がニュー・リベラルの党である。わが国で、自民党が保守主義で自由主義の政党だといわれるが、社会保障、福祉国家を進める保守主義なのか逆の保守主義でいくのか、公的福祉を抑制する自由主義なのか推進する「リベラル」なのかということは曖昧で、派閥によって違うように見える。民主党は反自民で、労働組合組織の連合の応援を受けているが、社会保障を推進しようにも財源がなく、国民負担を増やす中福祉中負担を決断できるのか、また革新なのか保守なのかひとことでは言い切れない。しかし、野党時代は構造改革をもっとしっかりやり公務員を減らせという主張であったから、DNAとしては「小さい政府」を指向するのであろう。いずれの党も党内に幅広い意見が共存している状態であるから、わが国の政界再編がいつ起こってもおかしくないのである。

 福祉を抑制する新自由主義者のはずの慶応大学の竹中平蔵教授が、最近、成長重視の「アメリカ型」、再分配重視の「スウェーデン型」という対比は誤りであり、現実のスウェーデンはしっかりした成長戦略を持っている、と述べている。このことは正しい。教授は、福祉国家を否定するというわけではなく、論点は成長戦略を持つかどうかの違いだと言い始めているようである。あるいは、シュンペーター型福祉国家の理解が進んだのかもしれない(竹中平蔵『政権交代バブル』PHP

 このようにみてくると、「小さな政府」「大きな政府」とも、いずれも自由主義の世界の中の話のようである。ケインズ型の政策を大きな政府といっても、自由主義には違いないわけである。そうではなく、高福祉高負担による福祉国家を目指すということになると、社会民主主義的な政策ということになるのではないか。民主党政権の子ども手当をばらまきといい「大きな政府」を目指すものと批判する勢力もあるが、民主党は社会民主主義というわけではない。むしろ、問題になるのは、労働組合との関連である。民主党を支持するとされる連合が社会民主主義を捨てるとは考えにくい。

 

●日経新聞2010.5.21  政治の中道化、一段と

 2010.5キャメロン首相率いる保守党とクレッグ副首相の自由民主党による戦後初の連立政権誕生は、97年の労働党ブレア政権発足以来続く英国政治の中道化を改めて示している。

 ブレア元首相と同氏から政権を引き継いだブラウン前首相のニュー・レーバー(新しい労働党) は「第三の道」を掲げて競争力と福祉の両立を目指した。キャメロン氏のモダン・コンサーバティブ(近代的な保守党)はその鏡像といえる。医療や福祉重視を約束、いわば「右からの第三の道」を探る。サッチャー主義とは一線を画す立場だ。

 冷戦終結やグローバル化の進展で先進国の主要政党が現実に採りえる政策の幅は狭い。選挙で勝敗を左右する中間層にアピールするには中道路線を強めるほかはない。

 両党は確かに欧州連合(EU)政策で立場の隔たりが大きい。しかし実際の政策は現実路線を進まざるを得ない。経済政策でも財政再建の必要性で一致。異なるのは歳出削減のタイミングという技術的な点だ。ともに中道主義である両党を「水と油」と呼ぶのは誇張がある。


 



★「世代間扶養」解法

 賦課方式と積立方式を説明した上で、「公的年金制度においては、受給者にとって個人の責任で対応できない物価の上昇や国民の生活水準の向上に対応した給付の改善などに必要な財源を後代の世代に求めるという仕組み、いわゆる世代間扶養という公的年金特有の仕組みを採っている。」(厚生省年金局数理課監修『年金と財政―年金財政の将来を考える』法研、平成73月、p.16

(疑問点:物価上昇に対応するのは理解できるが、「国民の生活水準の向上に対応した給付の改善」が曖昧なのである。所得代替率をたとえば6割に設定し、必要な保険料を徴収していて、その後も所得代替率維持に必要な給付引き上げなのか、所得代替率を4割に設定して運営してきて、ある時から6割の水準に改善するための給付引き上げも含むのか、が曖昧である。福祉元年の時の給付改善はこれをやったわけである。また、物価スライドも、物価上昇が現役の賃金上昇と同時に起こっていて、現役への負担が少ないときなら理解できる。しかし、少子高齢化社会では、持続的な経済成長がない限り、現役と後代の負担でまかなうのは不可能な話である。

 もともと、賦課方式は、pay-as-you-go で、要するに現金払いという方式で、借金もしないし余剰を積立金にすることもしないのである。そこには世代間再分配という要素は全くない。これを公的年金保険に当てはめると、現役世代から引退世代への世代間再分配の仕組みとなる。それでも、まだ、高齢者優遇になるわけではない。こう考えると、わが国の公的年金を、単なる「賦課方式」とは呼ばないで、「世代間扶養」として区別したのは、ある意味、年金数理課の良心だと思う。)

(医療保障における世代間扶養解法

1982年に老人保健制度が創設され、老人医療費に関して、老人保健拠出金の仕組みが導入された。1984年には国民健康保険に退職者医療制度を導入した。これは、財源は本人の保険料と健保保険者からの拠出金でまかなうもの。両者ともに、現役世代が加入する医療保険からの拠出金によって高齢者の医療負担を軽減するものである。その際に、所得水準に応じて負担軽減を図るのではなく、年齢によって一律に負担軽減をするというところが、社会保障の再分配に照らして不公平な制度である。これを高齢者優遇の世代間扶養と呼ぶことができる。こちらも、少子高齢化社会では、持続的な経済成長がない限り、現役と後代の負担でまかなうのは不可能な話である。



社会福祉と政治思想

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