兵庫県文化賞 −劇作・演出・俳優 須永 克彦さん− |
平成15年度兵庫県文化賞受賞
劇作・演出・俳優 須永 克彦さん
〈幸福〉三部作は、今の時代に生きる 老人を励ます応援歌です
昭和14年神戸市生まれ。
俳優・演出家・劇作家として劇団「道化座」を主宰。
出演作は230作品を越え、演出家としては140作品を演出。昭和47年から稽古場に舞台を作り「道化座のいえノイエ」で140作品を連続公演。座付き作者として渡辺鶴の名前で〈幸福〉シリーズ3部作をはじめ、日中合作「小蓮の恋人」、児童劇「スーホの白い馬」を執筆。自作自演の一人芝居「カンカン人生」は200回を越えて上演。
たびたび訪中・訪韓し、中国・韓国の演劇人とともにアジアの演劇の発展に尽力しています。
神戸市在住。64歳
小学四年生の学芸会で先生に押し付けられて演じた芝居がつまらなかったせいで、芝居はコリゴリと思っていた須永さんでしたが、高校卒業前に突然劇団員募集に応募しました。
「絵が好きでね。大きな絵が描けるのと違うかなと思って、兵庫区荒田にあった劇団『神戸小劇場』に入ったんです。そしたら手が足りんから役者もやれ、言われてねぇ。さあ、ここで笑えとか言われても、おかしいもないのに笑えんわね」
そうは言っても芝居を何本か経験するうちに、須永さんは次第に演じることの面白さに目覚めていきました。
「その後仲間に呼ばれて東京で人形劇団を手伝ったりしていました。私の父は早くに亡くなり、一人っ子の私としては、神戸に残した母が心配で神戸に帰りたくなってね。しかし急に劇団を辞めるわけにはいかないから、母に『足が立たなくなったから、すぐ帰れ』という偽電報を打たせたんですわ」
神戸に戻った須永さんは、ひょんなことから道化座に参加することになりました。
「当時、道化座はシェイクスピアを中心とした大作を主に上演していましたが、昭和四十五年ごろになると、もっと身近なことを題材にした芝居をしたいと思うようになったんです。もっと若い人たちに芝居を見に来て欲しい。そこで稽古場のなかに舞台を設け、七、八十人のお客さんに芝居を見せる小劇場形式の公演『道化座のいえノイエ』をスタートさせました」
寺山修司、安部公房、別役実、つかこうへい、井上ひさしなど、新進気鋭の脚本家の作品を次々と取り上げた公演は、十五年連続毎月一作、毎週土・日曜日に公演するというハードなスケジュールでした。連続公演は話題を呼び、神戸だけでなく大阪、京都からも観客が駆けつけ人気を呼びました。
この頃から須永さんは役者・演出家・脚本家の三足のわらじをはくようになりました。
「脚本家としては渡辺鶴のペンネームを使っています。渡辺は私の本名で、渡辺が書くという意味ですわ。ちなみに須永は母の旧姓なんですよ」
そして渡辺鶴の処女作が須永さんの一人芝居『カンカン人生』でした。 通天閣の下「新世界」で繰り広げられる泣き笑いの人間模様を、須永さんはのびのびと鮮やかに演じました。
平成二年には、より庶民の生活に密着した〈幸福〉三部作シリーズの上演が始まりました。
「高齢化社会のなかで幸福とは一体何なのかと、このシリーズで問いかけています。年寄りが自分自身で生き抜いていくためには覚悟がいる時代です。このシリーズはいわば老人への応援歌なんですよ」
平成七年一月の阪神・淡路大震災は道化座にも大きな衝撃を与えました。 「JR六甲道駅北にあったスタジオが全焼しました。上階が居宅になっていたんですが、大道具も衣装も何もかも失ってしまいました。
ところが二十日後に大阪で公演が決まっていたんです。とても無理やと思ったのに、公演先の人たちがおおらかに『役者の皆さんがご無事なら、衣装なしでもやってくださいよ』とおっしゃるんです。
そこで仲間や多くの人たちの徹夜の協力を得て、無事公演することができました。感動でした」
震災の年の暮れには、早くも灘区岩屋の現スタジオ「IWAYA」の再建を果たしました。
庶民の暮らしに国境はないというのが長年の須永さんの持論です。
今、須永さんは、中国・韓国などアジア演劇人との交流に、より一層の意欲を燃やしています。
up date 2004/5/8
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