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 真岡銃砲店襲撃以降、世間が大騒ぎし、次々と指名手配される中、メンバーは札幌に潜伏していた。
 潜伏中の様子をまとめておく。


■北海道への逃避行

 奪取した銃は群馬県館林市のアジトに運ばれたが、大捜査網が敷かれ、さらに2人が逮捕されたため、すぐにアジトを移らなければならなくなった。いったん捜査網外の新潟県長岡市に移動したが、すぐに永田の知人を頼って北海道に渡り、札幌にアジトを構えた。


 そもそも2月17日に銃を奪った目的は、20日に川島の裁判があり、拘置所から移動する際に、銃を使って川島を奪還するためであった。札幌にアジトを構えたときにはすでに3月上旬であり、川島奪還どころではなくなっていた。


 そのアパートは全く日が射さず、隣の部屋とはベニヤ板で隔てられ、隣の様子がつつぬけだった。床も畳ではなくボロボロでビニールが敷いてあり、しかも平らではなく、傾斜しており、手洗いは外にあり共同だった。・・・しかし、こういうアパートでも落ち着くことができてうれしかった。
(「十六の墓標(上)」)


 ぼろアパートで、女1人(永田洋子)と男5人(坂口弘、寺岡恒一、吉野雅邦、雪野健作、瀬木政児)の共同生活が始まった。着替えも布団もなく寒さにこごえ、資金不足でまともな食事もできない。隣に聞こえないようにひそひそ話すしかなく、指名手配のポスターがはってあるので銭湯にも行けず、トイレはそれぞれ行くわけにも行かず、洗面器ですませて汚物をすてに外の共同便所にいくあり様だった。


 しかし永田の著作からは悲壮感は感じられない。むしろ楽しかった思い出を懐かしむように筆を走らせているのが印象的だ。札幌には3月3日ごろから4月20日まで滞在した。


■銃の質論

 永田は「銃の質」を主張したが、永田の説明はわかりにくい。坂口の説明を拝借すると「永田さんが言わんとしたことは、銃を握りしめた現段階においては、権力と24時間対峙しなければならず、ちょっとした思想上の問題でも命取りにつながるた故、今こそ思想問題の解決が問われ、かつ解決されるのだ」ということであった。


 坂口によると、「思想問題」というのは、主に川島が永田に性行為を強要したことを指すらしい。永田はこのことがずっと心にひっかかっていた。永田がそれを問題提起したいのを知っていた坂口は目で永田を制した。坂口は川島の信奉者であり、川島が批判されることを好まなかったのである。


 「銃を握り締めた地平こそ思想問題を解決できるカギであると思い感激した」永田は繰り返し熱弁をふるったが、メンバーにはピンとこなかったようだ。


 坂口もさして関心はなかったが「現在から考えると、この主張は、永田さんが川島氏に対して精神的優位を得るという点で、大きな役割を果たしたと考えられる」と述べている。


■獄中の川島が機関誌を批判

 永田が書いた機関誌の内容を、獄中の川島が厳しく批判した手紙が届けられた。メンバーは動揺し、永田を頼りなく感じたようだ。


 川島氏の批判は、最初、私たちを混乱させた。吉野氏は、
「今までは永田さんや坂口さんに振り回された。今後は僕が指導してゆかねばならない」
といって、一時つっけんどんな態度をとった。寺岡氏も同様な思いをもったようだった。これらは2・17闘争を通して武装闘争にたいして一定の確信をもった彼らが、私の指導に不十分さや不満を感じていたからであろう。しかし、吉野氏は、討論の過程で、この思いを誤ったものと思ったらしく態度を改めた。寺岡氏も、討論が終わり、17号の冒頭文を書き終えた頃には私に向かって、
「やっぱり僕には指導できない。機関誌がかけないからね。今に指導してあげるから・・・」
といった。この発言に、私は、なりたくて指導者になったわけではないので、そうなってくれればありがたいと思った。
(「十六の墓標(上)」)

 永田は川島に対し激しく怒った。


 永田さんは面白くなかった。もともと批判されるのが嫌いな質で、くそみそにけなしてくる川島さんに大いに不満を募らせ、川島さんを批判した。・・・批判の矛先は手紙を手放さない私にも向けられた。・・・だが、怒りで興奮した彼女は手がつけられず、逆に私が彼女に理解を示して宥めなければならなかった。
(「あさま山荘1972(上)」)


 こうして永田は次第に川島の獄中からの指導に不満を募らせたが、次の機関誌では批判を受け入れ訂正してしまう。


 機関誌の中で銃砲店襲撃について、「2・17闘争は、敵の『武器庫』を襲い、人民の手に、本来の持ち主の手に『取り返した』、ただそれだけのことである」と位置づけた。これは赤軍派の銀行強盗などにも使われる定番理論である。


■「国際根拠地論」から「山岳ベース」へ

 永田は、中国を「国際根拠地」とすることを提案した。日本国内ではもはや銃の訓練をすることもままならないから、中国で銃の訓練しようと考えたのである。これは赤軍派の「国際根拠地論」そのままだ。寺岡、吉野、雪野が反対するものの、討論の末、消極的な同意を得た。


 しかし、公開手配されている身で、厳戒警備の中、どうやって中国に渡るつもりだったのだろうか。仮に首尾よく中国に渡って軍事訓練を行ったとしても、どうやって再び日本に戻るのだろうか。そのあたりを討論した様子はうかがえない。


 後日、中国行きは合法部を説得できず廃案になった。かといって国内では人目につき生活できない。そこで「山岳ベース」というアイデアが浮上した。


 札幌では討論をする時間は十分にあったが、討論ばかりしているわけにはいかなかった。すでに生活資金が枯渇していた。これは早急になんとかしなければならなかった。


1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その1(革命左派)

1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その2(革命左派) 永田・坂口指名手配



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 銃砲店襲撃事件が発生してから、新聞は犯人や銃の所在や、見つかったアジトの様子などを連日報じた。あふれかえる記事の中からピックアップしておく。


■1971年2月17日 「電報です」土足で侵入(朝日・夕刊)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-02-17 朝日 真岡銃砲店襲撃 犯行の手口


 犯行の手口に関する記事。永田も坂口も実行メンバーでないため手記がなく、実行メンバーの行動は新聞の情報に頼るしかない。


■1971年2月17日 尾崎逮捕の様子(朝日・夕刊)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-02-17 朝日 真岡銃砲店襲撃 尾崎逮捕の様子

 尾崎康夫と中島衡平が逮捕されるまでの状況の記事。

 連行されたとき、頭からすっぽりかぶせられた上着をはねのけ、「俺の写真をみんなにとらせる」とは勇ましい。


■1971年2月20日 秘密アジトを小山で発見(朝日)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-02-20 朝日 真岡銃砲店襲撃 小山アジト発見


 永田らは近所にばれないように注意をはらっていたつもりだったが、実際のところバレバレだったようだ。

・・・「西田」と名乗る男は若い女性を1人を伴って現れ、家賃7千円、礼金2万円、敷金1万4千円などを支払い、このアジトに住みこんだ。若夫婦を装って生活を始めたが、近所の人の話では、入居後しばらくしてから5,6人の男たちがひんぱんに出入りするようになり、日中はこれらの男たちと一緒に外出し家をあけたきり。暗くなってから会議を開いているのか議論する声が聞こえた。その異様な雰囲気にみんな首をかしげていた。


 紙面右側に「最高幹部を逮捕」の見出しがあるが、「人民解放軍遊撃隊のかげの指導者」とされている。


 小山のアジトと下館のアジトが発見されたというニュースが流れた。私たちはびっくりし言葉も出なかった。私は手足がガタガタ震え、歯もガチガチとなった。私はこうした闘争に恐怖を感じた。「この長岡のアジトは大丈夫かしらね」と、誰もいわない中でいった。これに、寺岡氏が「車を運転してくれた人が知ってるから、おそらくダメだろう。早くここを出る必要がある」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(上)」)


■1971年2月28日 10日ぶりに銃・実弾発見(朝日)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-02-28 朝日 真岡銃砲店襲撃 銃・実弾発見


 永田らが長岡を出て北海道に向かったのが21日だから、わずか6日後には長岡アジトが発見されていた。すんでのところで逮捕を逃れたが(ここで逮捕されていたほうがよかったのだが)、持ちきれない銃や散弾をあとで取りに来ればいいと考えて、残しておいたのがますかった。指紋照合でメンバーが割れてしまったのである。


 それにしてもなぜ新潟・長岡のアジトまで発見できたのだろうか。警察の捜査力恐るべしである。


■1971年3月1日 発見されたアジト(朝日)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-03-01 朝日 真岡銃砲店襲撃 発見されたアジト


■1971年3月2日 永田・坂口・寺岡・雪野 指名手配(朝日)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-03-02 朝日 永田・坂口・寺岡・雪野手配

 指紋照合でメンツが割れ、ついに永田洋子・坂口弘・寺岡恒一・雪野健作の4人が公開手配された。


■1971年3月2日 幹部奪還を計画(朝日・夕刊)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-03-02 朝日 真岡銃砲店襲撃  幹部奪還を計画

 捜査が入ることを警戒してすぐさま長岡アジトを去ったのはよかったが、幹部奪還計画のメモや、川島のいる横浜拘置所の周辺を撮影したネガが残されていたのはいったいどうしたことだろうか。


■1971年3月6日 吉野雅邦指名手配(朝日・夕刊)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-03-06 朝日 真岡銃砲店襲撃 吉野雅邦手配

 「新潟県長岡のアジトから指紋が見つかり、タマを運んだとみられるリュックに『吉野』と名前が書いてあった」とは、なんとも情けない。


■1971年3月12日 瀬木政児指名手配(朝日)
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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-03-12 朝日 真岡銃砲店襲撃 瀬木を手配

 これで真岡銃砲店襲撃に関係した残りの6名が全員指名手配された。


■1971年3月14日 京浜安保と赤軍派 危険な共闘の背景(朝日)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-03-14 朝日 危険な共闘 京浜安保と赤軍派

■1971年3月17日 中島・尾崎全容自供(朝日)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-03-17 朝日 真岡銃砲店襲撃 中島・尾崎自供


 記事中の実行メンバーとリーダーは誤り。


 中島君と尾崎君の自供と謝罪が新聞で報じられた。実行前の中島君の言動から、ありうることだったが、私(坂口)は他の諸君と一緒に、これを否定した。その中で寺岡君だけが、「いや、自供はあり得る」と言って、事態を正確に認識した。われわれが「そんなことはない」というと、彼は「永田さんは逮捕されれば自供するのではないか。体が弱いから、自白剤の注射でも打たれれば一発ではないか」と言った。永田さんは気分を害して、強く反論した。これは印象に残る出来事だった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(上)」)


 世間が大騒ぎしている中、メンバーは北海道に渡り、札幌のアパートに潜伏していた。

 女1人(永田洋子)と男5人(坂口弘、寺岡恒一、吉野雅邦、雪野健作、瀬木政児)で共同生活をしながら次の展開を考えていた。


1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その1(革命左派)

1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その3(革命左派) 逃避行



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■1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件(朝日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-02-17 朝日 真岡銃砲店襲撃



 17日午前二時ごろ栃木県真岡(もうか)市の銃砲店に来るまで乗りつけた学生風の男3人が押し入り、一家4人をしばりあげ、散弾銃10丁、空気銃1丁、散弾500発を奪って逃走した。栃木県警は猟銃強盗傷人事件として捜査本部を置き、隣接各都県に緊急手配していたが、同朝4時過ぎ、東京都北区岩淵の国道でライトバンに乗った男2人が検問を突破して逃走、同8時過ぎ検問所近くにひそんでいるところをつかまった。1人はさきに羽田空港突入事件を起こした過激派集団「京浜安保共闘」の活動家である横浜国大生で、車は前夜茨城県笠間市内で盗まれたものとわかったが、奪われた銃と弾丸はなかった。同日午後襲われた銃砲店主が捕まった2人と対面したところ「似ている」と証言した。警視庁公安部では、各種の情報から猟銃奪取事件を過激派集団による犯行とほぼ断定、関東一円で7千人以上の大捜査網をしき、残る1人と猟銃の行方を捜している。

 上赤塚交番襲撃に失敗した彼らは、直ちに銃砲店からの銃奪取に取り組んだのではない。まず赤軍派に銃の要請をしたがあいまいな回答で拒否され、ついで寺岡がヤクザと交渉したが断られてしまった。ハンターの猟銃を狙ってみたが猟犬がいるのであきらめ、それでしかたなく民間の小さな銃砲店を襲撃することに決定したのである。


 これは「人民のものは針1本、糸一筋もとらない」という毛沢東思想に反する。中島衡平が疑問を呈するが、坂口は「銃砲店は警察権力と一体化しているので、その末端機関とみなすべきだ」と押し切っている。犯行に使う車も盗品なのだが・・・。


 奪取したのは猟銃10丁、空気銃1丁、散弾2300発であった。この銃はあさま山荘の銃撃戦で使われることになる。実行メンバーは、寺岡恒一、吉野雅邦、雪野健作、瀬木政児、尾崎康夫、中島衡平の6名。坂口が実行メンバーに入っていないのには理由があった。


 決行の2,3日前に永田さんが私(坂口)に、「あなたが実行メンバーになって万が一逮捕されたときには、私と中島さんの2人しか残らないことになる。彼と一緒ではとてもやっていけない」と言い出した。寺尾君にも同じ趣旨の話をすると、彼の提案で私は中島君と交代することになった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(上)」)

 逃走中、尾崎康夫、中島衡平が事故を起こしてしまい車を捨てて逃げたが、警察犬に発見されてしまい逮捕された。尾崎の免許証から、革命左派の犯行であることが判明した。


 当然ながら、この事件で、関東一円に大捜査網が敷かれ、アパートローラー作戦も展開された。東京だけで、パトカー460台、捜査員7700名が動員された。


 これが逃避行の始まりだった。銃奪取には成功したものの、はたしてこの闘争は勝利といえるのだろうか。この事件から革命左派は敗走に敗走を重ねることになる。それはあさま山荘まで続くのであった。



1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その2(革命左派) 永田・坂口指名手配

1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その3(革命左派) 逃避行



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■1971年1月26日 赤軍派と京浜安保共闘 黒覆面で統一集会


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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-01-26 毎日 赤軍派と京浜安保共闘 合同集会


赤軍派と革命左派は何度か幹部が会合を行ったものの、理論面で話はかみ合わなかった。しかしながら、共同政治集会を開催することについては互いに異議はなかった。そこで赤軍派と革命左派の初めての共闘となる「1・25蜂起戦争、武装闘争勝利政治集会」が開催された。


この会合は、今後、革命戦争派として支持・支援していこうということで終わった。・・・1月25日の集会については、革命左派と赤軍派の革命的支持・支援を獲ち取ったという報告を受けた。今、報告として記憶に残っていることは、この集会の前のポスター張りで杉崎さんが逮捕されたが、集会の当日釈放され集会の途中から参加したこと、救対として宮川明子さんも挨拶したこと。挨拶した人はすべてストッキングをかぶって行ったこと位である。
(「十六の墓標(上)」)


1・25集会には、私は参加する予定はなかったが、25日の午後になって、小山氏から集会の司会をやるよう支持され、あわてて集会場の九段会館へ行った。・・・司会は、革命戦線、京浜安保共闘それぞれから1名ずつ出すことになっていた。京浜安保共闘の司会が岩田平治氏であったことをずっと後に知った。・・・集会の開会の挨拶を私がすることになり、何も準備していなかった私は大いにあせった。それでも、赤軍派の主張に片よらないように、毛沢東の著作の言葉を適当に引用しながら、なんとかかんとか挨拶できたときは、ほっとした。
(「兵士たちの連合赤軍」)

■中絶強制の廃止
このころ、金子みちよ(後の山岳ベースで死亡)が吉野雅邦の子を中絶している。当時、活動家の女性は妊娠したら中絶するのが常識だった。


1970年6月に坂口の子を中絶したことのある永田はそれがずっと心にひっかかっていたが、坂口が「今後、子供を生もうではないか」といったのにうれしくなり、「子供の籍や学校のことを考える時代ではなくなったのよ」と中絶を強制しないことを提案し、皆の賛同を得た。


この決定によって、後に再び妊娠した金子は、吉野の子を宿したまま山岳ベースに入ることになる。


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■1970年12月18日 京浜安保が交番襲撃(朝日・夕刊)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1970-12-18 朝日 [革左] 京浜安保が交番襲撃


同日午前1時半ごろ、板橋区の上赤塚派出所に3人の若い男が「自動車が故障したので、迎えが来るまで待たせてほしい」といって入ってきた。いい終わるなり3人は、見張り中の高橋孝志巡査(20)にむかって、それぞれ長さ30センチほどのビニールホースに仕込んだ鉛の棒をふりかぶってなぐりかかった。


奥の休憩室にいた安部貞司巡査長(42)が、物音に気づいて同室の戸をあけたとたん、1人が休憩室に入り込み飛びかかった。阿部巡査長は手首をなぐられながらも、そばの短銃保管庫からピストルを取り出し、1人にむかって前から2発発射した。弾丸は2発とも胸に命中し、犯人はその場に倒れた。


(死傷者)
柴野春彦(24・横浜国大)胸に2発の銃弾を受け死亡。
渡辺正則(23・横浜国大)右上腕部に銃弾を受け全治2週間。
少年S(18・川崎市内の定時制高校)腹部に銃弾を受け全治不明の重傷。
高橋孝志巡査 流れ弾に当たり腰背部に貫通銃創。右目上部挫創。頭部打撲。全治5週間。
安部貞司巡査長 右上腕に打撲。全治1週間。


交番襲撃は川島奪還のための銃奪取が目的であった。


刃物を使わず「長さ30センチほどのビニールホースに仕込んだ鉛の棒」だけで警官から銃を強奪しようというのは、ずいぶん甘い見積りだ。逮捕された場合の罪の重さを考えてのことだろうか。


■尾崎充男が日和る


当初、メンバーに尾崎充男(山岳ベースで死亡)が入っていたが、柴野との作戦会議に現れることはなかった。


まず、尾崎充男氏を遊撃隊に入れることにし、川島陽子さんを通して尾崎氏と会う手はずをとった。尾崎氏は遊撃隊に入ることを了解したが、柴野氏との会合の場所にはこなかった。そこで、柴野氏は、渡辺正則氏か若林功子さんのどちらかを遊撃隊に入れることにした。
(「十六の墓標(上)」)



会議が一段落したところで、柴野君が若林さんを遊撃隊に誘った。若林さんは「とんでもない」という感じで、必死になって断った。・・・それで彼女の代わりに渡辺正則君を誘った。彼は積極的ではなかったものの承諾した。
(「あさま山荘1972(上)」)


尾崎充男が「総括」されたのはこの一件である。交番襲撃を日和ったため、後の山岳ベースで森に「日和見主義は敗北主義、投降主義に転じる」と糾弾された。そして体力に勝る坂口を阿部巡査長にみたてて、えんえんと決闘をやらされる。尾崎はふらふらになっても戦い、いったん森は「よくやった」とねぎらう。しかし、尾崎が大槻節子に「チリ紙とって」と言ったことから森は激怒し、過酷な暴力へ進展していく。


ちなみに、決闘の最中、小嶋和子が尾崎を励ますために「殺せ!殺せ!」と言ったこと、金子みちよが「あんなことをしても尾崎君が立ち直るはずがない」と言ったことが問題視され、2人が「総括」される一因となった。

■赤軍派との運命の出会い

銃奪取には失敗したものの、柴野の死によって革命左派の評判は一気に上昇した。これまで爆弾闘争ばかりで、それほどインパクトがなかったのだが、各セクトから断固支持の声が上がった。


そのひとつは当時獄中にいた赤軍派の花園紀男氏であり、彼は、
「赤軍兵士は、そして日本の全プロレタリアートは、柴野春彦兄の旗を、3人の英雄の旗を握るであろう。なんという大胆、なんという勇気、ただ獄中の赤軍兵士は身震いし感激している。蜂火はあがった。全国津々浦々まで勝利か死かの巨大な叫び声があがるであろう」とアピールしてきた。
(「十六の墓標(上)」)

そして、日比谷の野外音楽堂に3千人が結集して「人民葬」が行われた。


人民葬が終わったあと、野外音楽堂の外で、京浜安保共闘と赤軍派の革命戦線の共同集会が行われた。これが、革命左派と赤軍派の共闘のはじまりだった。・・・赤軍派は12・18闘争後、すぐ接触してきた。赤軍派は、当初、人民葬に参加しようとしていたが、赤軍派と内ゲバ状態にあったブンドの戦旗派が赤軍派の参加に反対したため、参加できなかった。それで、人民葬のあと、京浜安保共闘と赤軍派の大衆組織である革命戦線との共同集会を開くことになったのである。共同集会のあと、赤軍派が革命左派の指導部と接触を求めてきた。
(「十六の墓標(上)」)

ついに12月31日に、革命左派の永田洋子・坂口弘・寺岡恒一の3人と赤軍派の森恒夫・坂東国男の2人が初会合を行った。この会合では、お互いの立場、闘争方針などを理解しあうだけで、具体的な共闘の話にはならなかったようである。


この会合は、今後、革命戦争派として支持・支援していこうということで終わった。のちの新党(連合赤軍)で、森氏は、この会合に触れ「あの時、永田さん、坂口君、寺岡君の3人の位置関係がどうなっているのか、とりわけ誰が最高指導者なのかと思ってしきりに見たがわからなかった」といっていた。
(「十六の墓標(上)」)

この会合で、永田は森の論理に圧倒されたり、感激したりすると同時に、次第に森に傾倒していく。


永田は、この頃から喋り方や立ち居振る舞いがまるで森そのものという感じになっていきます。聞きかじりの関西弁で話し、話すときの身振り手振りまでが森恒夫そっくりという感じだったといわれています。
(「語られざる連合赤軍」)


■最初のスパイ粛清計画

新聞報道ではないが、交番襲撃と同じ時期に、スパイ粛清計画が進行していたので紹介しておく。


寺岡恒一(後の山岳ベースで死刑)は人民葬で暴動を起こすことを提案し、永田・坂口らの承認を得る。ところが合法部の女性メンバーKの猛反対にあう。Kに違和感を持った幹部たちは、彼女をスパイと決めつけ、処刑の方針を打ち出し、寺岡、吉野、尾崎の3人は埋葬地まで探している。


永田は適当な埋葬地が見つからないという報告を受けると、「処刑をやめ、スパイから組織を防衛することを考えよう」といって、Kと連絡を断ち切ることで収めた。


後に革命左派単独で、向山秀樹、早岐やす子の2人を殺害しているのだから、永田の処刑中止提案は整合性がないように思われる。しかしこのとき永田は、処刑そのものに反対していたわけでなかった。



私は処刑に消極的だったのであるが、スパイという決め付けに反対だったわけではない。ただ、処刑しなくても組織を防衛できるのではないかと思ったに過ぎない。だから、そこには、組織を防衛できなければ処刑するという考えがあった。のちに、向山秀樹氏、早岐やす子さんを処刑したのはその考えによる。
(「十六の墓標(上)」)

当時、合法部の大槻節子(後の山岳ベースで死亡)は、そんな組織防衛体質を批判的に日記に綴っていた。1986年に出版された遺稿集で、これを読んだ坂口は「その鋭い感覚に驚いた」そうだ。


1971年2月27日
あるいは1人の戦士を疑惑によって抹消したかもしれない。そのことの恐怖を抱くがよい。
私自身確かめることもかなわず、云われた疑惑をきっぱりと否定する確信も持てずに、忙殺の中に埋没させてきてしまった。
常に異質的位置にあった人、しかし、もっとも独自に闘いに燃え頑強だった人、その人の問題を指摘し批判するのは当然しなければならない。しかし、正当な評価、そして長所を伸ばし、我ら自身吸収することのもう一面の重要な作業を十分にしえていたのか。
1人の人間をつぶしてしまったかもしれない、ということ。それは実に恐ろしいことだ、実に。
(「連合赤軍女性兵士の日記・優しさをください」)


ところが大槻は、半年後には向山を摘発し、殺害にも積極的に加担してしまうのである。組織防衛のためであった。


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川島逮捕以来の革命左派の動向をまとめておく。


1970年2月、大槻節子が活動再開。かなり張り切って伊藤和子をメンバーにオルグする。


1970年3月、革命左派の最高指導者・川島は獄中において「もう活動はしない」といいだした。永田は驚いて組織の将来が不安になるが、坂口はすぐ保釈のための偽装転向と見破った。とはいえ、偽装転向とはいかがなものだろうか。永田、坂口、若林、柴野、中島の5人が協議するが、積極的に支持したのは坂口だけで、他の4人は、川島がいなければ組織が機能しないとの理由でしぶしぶ了解することになった。


1970年5月末か6月初旬ごろ、川島は面会の坂口に対し、暗に「自分を奪還しろ」と指令を出す。これを受けて永田らは奪還計画をたてる。彼らは、要人誘拐による人質交換を考えたものの、うまい方法が見当たらず、やっていることはあいかわらずの爆弾闘争だった。


同時期に永田と坂口は川崎のアパートで共同生活を開始する。川島の面会に行く永田には露骨な尾行がつきまとうようになる。


1970年6月から9月にかけて、向山茂樹、岩田平治、伊藤和子、中村愛子、早岐やす子、宮田明子、瀬木政児らが、新たに革命左派関係者になった。


1970年9月の常任委員会では、5名の投票により永田が委員長に選出される。永田に投票したのは、柴野、坂口、寺岡の男性3名、坂口に投票したのは、永田、若林の女性2名だった。



■1970年6月1日 立川基地でマイト爆発(毎日)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1970-06-01 毎日 [革命左派] 立川基地爆破

■1970年6月9日 これが「京浜安保共闘」(読売・夕刊)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1970-06-09 読売 [革命左派] これが京浜安保共闘

 新聞では「京浜安保共闘」と表記されるが、これは事件にかかわった「革命左派」の公然組織の総称である。ただ後の山岳ベースのころになると、公然組織も地下組織も、合法部隊も非合法部隊も渾然一体になってしまうので、明確な区分ではなくなってしまう。


■1970年9月2日 相模原市米軍基地2ヶ所爆破(読売・夕刊)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1970-09-02 読売 [革命左派] 相模原市米軍基地爆破

 なお、5月26日に横田米軍基地爆破、6月24日に大和田米軍基地爆破を決行しているはずだが、新聞記事になっていない。当時、安保、反戦などの闘争が多く、爆弾が1つや2つ爆発したくらいではニュースにならなかったようだ。


■土浦会議

 さて、1970年9月になると、獄中の川島は苛立ち「なにをぐずぐずしているのか。本当にやる気があるのか」と続けざまに恫喝的な手紙をだす。


 これを受けて、要人誘拐の方針から、銃による直接奪還へ方針を転換する。そして11月に土浦で開かれた党会議で永田洋子が奪還計画を公式に発表する。


 土浦の党会議には、柴野氏、坂口氏、中島氏、尾崎氏、前沢氏、牧田氏、私(永田)のほか、大阪の若林さん、渡辺正則氏、名古屋の雪野氏も参加した。この会議では、ゲリラ闘争の開始についての意思一致が行われた。・・・会議が終わったあと、坂口氏と柴野氏は、
「この土浦会議は、日本の革命運動史上、歴史的なものになるんだ」
といっていた。(「十六の墓標(上)」)


 まさに日本の革命運動史上、歴史的な悲劇の始まりだった。1970年12月、川島奪還計画の実行で、まず銃を奪取しようと上赤塚の交番を襲撃するが失敗し、横浜国大生・柴野春彦が射殺されてしまうのである。


この川島奪還計画を起点に連合赤軍事件へ一直線につながっていくのだった。


川島奪還計画
→銃奪取計画
→上赤塚交番襲撃(柴野が射殺され失敗に終わるが赤軍派がその勇気を絶賛)
→真岡銃砲店襲撃(銃奪取に成功)
→当局による革命左派弾圧
→山岳ベースへ逃避

→逃走資金枯渇のため赤軍派と接触
→山岳ベースで赤軍派と合流
→連合赤軍結成



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■1970年6月4日 獄中の塩見孝也が転向(毎日)
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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1970-0604 塩見孝也が転向(赤軍派)


 塩見転向のニュースは毎日だけが取り上げた。当時においては「転向」することが判決に影響したし、保釈にも有利に働いていた。そのため偽装転向する活動家が多かったから、いかにもありそうな話なのだが、本人に言わせるとこうなる。


 そんなとき「僕が転向した」というデマがパーっと流れたことがあったんです。
 この問題については、これは自己批判になるけれど、僕は取調べで、一時とにかく弁解したんです。「自分は"よど号"の起こる2週間前に逮捕されている。だから、俺をそういうので起訴するとか、取り調べるのもおかしい」。まあそういうことをしゃべったんです。「完全黙秘」という原則からいくと、これは全くナンセンスで弁解の余地のない対応なんだけど、それをもって「塩見はしゃべった、転向した」という話がバンバン出てしまった。その後弁護士が来たりして、また僕は「完全黙秘」という形をとった。
(「赤軍派始末記」)



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■1970年9月11日 美女アラブゲリラ ライラ・カリド パレスチナ解放の象徴(朝日)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1970-09-11 朝日ライラ・カリド

 「ライラ」という名前に聞き覚えのある人は多いだろう。ライラ・カリドという女性ゲリラは、新左翼の人たちが尊敬していた人物でよく名前が登場する。連合赤軍の山本夫妻(夫はリンチで死亡)の子供もライラにちなんで「頼良」と名づけた(事件後改名している)。


 1970年9月はPFLP(パレスチナ人民解放戦線)による4機同時ハイジャック事件がおきたのだが、これはそのときの記事。ライラは不覚にも逮捕されてしまった。しかし他のハイジャック機の犯人たちが、ライラ釈放を人質解放の条件とし、英国政府はやむなくライラ釈放したのだった。


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よど号事件について金日成が語っている記事を2本紹介します。


■1970年7月5日 処置に困る赤軍派(朝日)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1970-07-05 朝日 [よど号] 金日成会談

 出版社「未来社」社長西谷龍雄、同「雄山閣」社長長坂一雄の両氏が6月2日から7月1日まで北朝鮮を訪問し、金日成首相と会見したときの様子を語っている。両者は「金日成伝」の日本語版と英語版を出版し、北朝鮮から招待を受けた。金日成首相はよど号メンバーについては以下のように語った。


 彼らは招かれざる客でわが国としても実は処置に困っている。日本に返せば、逮捕と刑務所入りが待っているので、われわれは人道的立場から、そういうことはできない。彼らにも親があるだろうから、こっそり返してやりたいが、それもできない。外国に送ることも考えていたが、外交上、条約上、いろいろ難しいことがある。といって、わが国には彼らを働かせるほど労働力は不足していない。まったく迷惑な話だが、関係当局で一番いい方法を考えたい。


■1970年9月2日 金日成主席との3時間(朝日・夕刊)
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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1970-09-02 朝日 [よど号] 金日成主席との3時間

 社会党代表団の一行が8月22日に金日成と会談したときの記事だが、よど号事件についての内容は7月5日の記事とまったく同じであり、目新しいものはない。


 当事よど号メンバーは、北朝鮮当局による「学習」をさせられていた。まだ転向にはいたっていなくて「過渡期世界論」防衛のため、指導員にたびたび議論をしかけていたようだ。



「講義の先生にふっかけても正面きって反対するでもなし、賛成するでもなし、軽くいなされてしまう。『勝手にあんたたちでやってください』といった調子だ。過渡期世界論、国際根拠地論でオルグしようと意気込んでも肩透かしを食わされ、実にふがいない。これではラチがあかん。だんだん欲求不満が昂じてくる」(若林盛享)(「宿命」)


 よど号メンバーの希望していた軍事訓練は「考えてみましょう」といわれただけで、1度も実現しなかったようである。


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■1970年6月8日 最高幹部・高原浩之逮捕(朝日)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1970-06-08 朝日 [赤軍] 高原浩之逮捕


 よど号事件以来、残党を指揮していた高原浩之が逮捕された。高原は遠山美枝子(連合赤軍リンチで死亡)の夫である。


 遠山美枝子は「最高幹部の妻」の地位があったため赤軍メンバーから特別扱いを受けていた。後の連合赤軍の山岳ベースにおいて、遠山が永田洋子から「なんで山に来たの?」を糾弾されるくだりがある。



永田「あなた、なんで山に来たの?」
遠山「なんだって、軍事訓練に来ました」
永田「違うのよ。あなた自身どんな気持ちできたかということよ」
遠山「私は革命戦争をさらに前進するために、自ら軍人になり、革命戦士になる必要性を理解したから。世界革命戦争の持久的対峙段階においては、先進国における革命戦争の発展が必要であること・・・」
永田「あなた自身、どのような気持ちで山に来たの?あなたは自分自身のことをちっとも語っていないじゃないの。なんで山に来たの?」
遠山「何を言えばいいの?」

(「赤軍ドキュメント」)



 遠山はなにを聞かれているのかさっぱり理解できなかったが、 このとき永田は、「遠山は最高幹部の妻の地位を得るために高原と結婚し、高原が逮捕されるや今度は森恒夫にのりかえ、連合赤軍に合流した」と決め付け、そう言わせようとしていたと思われる。


 リンチを受けた後にも繰り返し追求され、遠山が質問の意図に気づいたとき、なげやりに「オヤジさん(森)が好きだったの」と迎合してしまう。迎合すれば厳しく批判されるのだが、迎合の心理はリンチを受けた他のメンバーにもたびたびみられた。おそらく冤罪事件で刑事の厳しい追及にウソの自白をしてしまう被疑者と同じ心理なのだろう。


 だいぶ話が横道にそれてしまったが、高原浩之の逮捕により、赤軍派はついに森恒夫が最高指導者になったのである。


■主な逮捕者

 このころ毎日のように赤軍派メンバーが逮捕されている。主な逮捕者は以下のとおり。


1970年5月5日 赤軍派東北地区責任者・梅内恒夫公開手配
1970年6月8日 赤軍派最高幹部・高原浩之逮捕
1970年6月8日 赤軍派幹部・佐藤公彦逮捕
1970年6月10日 赤軍派最高幹部・物江克男逮捕
1970年6月30日 赤軍派幹部・上原敦男逮捕
1970年6月30日 保釈中の松田久を収監


 梅内恒夫は植垣康弘に爆弾製造を伝授した師匠である。後の浅間山荘事件のとき警察は梅内が立てこもっていると信じていた。2010年現在もなお消息は不明で、海外逃亡説、死亡説などがささやかれている。


■1970年7月30日 ゲバ棒去って興信所儲かる(毎日)
 このころ紙面をにぎわせていたのは、赤軍派や革命左派だけではない。第二次安保闘争、内ゲバ、大学紛争、反戦教師、高校学園紛争、反戦自衛官、沖縄米軍内反戦組織、裁判紛糾運動・・・毎日てんこもりなのである。こうしためちゃくちゃな時代に急成長した産業が興信所であった。現在では興信所といえば浮気調査と相場が決まっているが、当時、企業にとって、学生の活動暦の調査が内定の重要なポイントになっていた。それをあてこんで「にわか探偵」が急増したそうだ。

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