女川町震災復興のあゆみ ~海とともに 皆でともに~
東日本震災の被災から1日も早い復興を目指す「女川の今の姿」をお伝えしていきます。
| <女川町の被害状況> 最大津波高 14.8m:港湾空港技術研究所調査 浸水区域 320 ha:国土交通省被災状況調査 被害区域 240 ha:宮城県発表 人的被害 町 人 口:10,014名(H23.3.11時点) 死 者:553名(H24.10.30現在) 死亡認定者:268名(震災行方不明者で死亡届を受理された者) 行方不明者:6名 住家被害数 総 数:4,411棟 (一般的な家屋) 全 壊:2,924棟(66.3%) 大規模半壊:147棟(3.3%) 半 壊:200棟(4.6%) 一 部 損 壊:663棟(15.0%) 避難状況 最大25ヶ所 5,720名(H23.3.13時点) 二次避難 延べ360名 |
| 2011年3月11日午後2時46分、マグニチュード9.0の巨大地震が発生。そのおよそ30分後、20mもの大津波が女川町を襲い、またたく間に市街地の大部分をのみ込みました。 猛烈な濁流に砕け散る家屋、流される漁船、そして800名を超える尊い町民の生命…。 筆舌に尽くしがたい光景が眼の前に広がりました。人知を超える自然の驚異に、為すすべもありませんでした。 |
| 数回にわたる津波の襲来の後、今やただのガレキと化した家々と、ボロボロになった鉄筋ビルばかりが残る、故郷女川の変わり果てた姿がそこにありました。誰もが言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くすしかありませんでした。 町民には、愛する家族や帰るべき家を失った方も多く、加えて避難所での厳しい環境は、人々から再び立ち上る気力すらをも奪っていきました。 |
| 被災後間もなく、自衛隊や警察、消防などによる救助活動が開始されました。また、ガレキ撤去による陸路の復旧により、国県だけでなく全国各地からも支援物資が次第に届くようになりました。 また、発電機による電気の供給開始や自衛隊による仮設浴場の設置など、劣悪な避難所環境も徐々に改善され、町民の顔にも明るさが戻り始めました。 |
| 被災から間もなく1月という4月7日深夜、震度6強の余震が被災地を揺らし、数日の間電気が止まるなど再び不便な生活を余儀なくされました。 一方で、路線バスなどが運行を開始。ようやく町外との公共交通が確保されます。避難所ではボランティアによる炊き出しや物資配給も頻繁に実施されるようになり、仮設住宅の建設も始まりました。 |
| 5月1日、福島大学名誉教授 鈴木 浩氏を会長とする「第1回女川町復興計画策定委員会」が開催され、女川の復興を防災、産業、住環境を基本テーマとして協議しました。 今後は、8月上旬までに復興計画の素案をまとめる計画です。 〈女川町復興計画策定委員会委員構成〉 町内関係者・・・5名 学識経験者・・・5名 国県関係者・・・2名 アドバイザー・・2名 |
| 7月1日、震災で営業を休止していた女川魚市場が再開し、久しぶりに威勢のよいセリのかけ声が響きました。女川は全国有数の水産業のまちです。市場に賑わいが戻ったことは、町民の心に復興の明かりを灯す第一歩となりました。 また、この日鷲神地区に「コンテナ村商店街」がオープン。この商店街は、震災後町内に初めて開設された商店群で、町民はやっと町内での買物ができるようになりました。 |
| 7月19日、役場仮設庁舎で業務が再開されました。旧役場庁舎が津波で全壊したため、これまで女川第二小学校の教室を間借りしてきましたが、仮設庁舎の完成で役場業務も復旧し、今後は快適な環境のもとで住民皆さまにご利用いただけます。 〈仮設庁舎所在地〉 〒986-2261 宮城県牡鹿郡女川町女川浜字大原316番地 ☎0225-54-3131(代表) |
| 8月1日、女川町復興連絡協議会主催の「がんばっぺ女川盆まつり」が開催。子ども用浴衣300着の無料配布や慰霊風船830個の打ち上げなど、会場内では震災で犠牲となった方々を追悼するとともに、久々のイベント開催ということもあって、多くの町民が集いました。 最後には、慰霊の盆踊りと花火で、暑い夏の1日を締めくくりました。 |
| 8月10日、第5回目となる「女川町復興計画策定委員会」が開催され、鈴木 浩会長から安住宣孝町長へ女川町復興計画の最終答申が手渡されました。 答申の主な内容は、復興期間を復旧期2年、基盤整備期3年、本格復興期3年の計8年とし、「防災」「産業」「住環境」「医療・保健・福祉」「人材育成」の5本柱で復興を成し遂げていくというもので、9月15日の町議会で議決されました。 |
| 10月2日、「第14回おながわ秋刀魚収獲祭」が開催され、会場内には脂がのったサンマを炭火で焼く香ばしい匂いが漂いました。 震災前、このイベントは町内外から5万人もの来場を記録する秋の一大イベントでした。震災によりサンマの水揚げも制限されるため、規模を縮小せざるを得ませんでしたが、多くのお客さんで賑わいました。来年もぜひご来場ください。 |
| 10月7日、震災で休業を余儀なくされていた「マリンパル女川おさかな市場」が、場所を移転して営業を再開しました。 8日と9日に開催された「復興祭さんま祭り」には、再開を待ち望んでいた多くのお客さんが訪れ、名物のサンマ炭火焼きやすり身汁を味わっていました。 〈おさかな市場移転先〉 女川町浦宿浜字篠浜山2番地 ☎0225-54-4714 |
| 10月30日、女川復興丸が主催する「我歴stock(ストック) in 女川~復興編~」が開催されました。 女川復興丸は、女川の復興を心から願う若者たちが立ち上げた団体で、仕事を終えてから毎晩のように企画を練り上げ、ようやく完成したのが、この音楽イベント「我歴stock」です。 「生まれ変わってゆく故郷女川にふさわしい新たな祭り」として、来年以降も継続していく予定です。 |
| 11月6日、女川町の応急仮設住宅がすべて完成し、12日には音楽家の坂本龍一さんや日本画家の千住 博から寄贈された仮設住宅マーケットのオープニングセレモニーが町民野球場仮設住宅で開催され、多くの町民がその完成を祝いました。 〈女川町応急仮設住宅設置状況〉 町内27か所・石巻市内3か所 計30か所 1,285戸(福祉仮設住宅を除く) |
| 3期12年にわたり女川町長を務めた安住宣孝氏が勇退されることとなり、11月11日に退任式が行われました。 安住町長は、平成11年に初当選以降「小さくてもキラリと光るまちづくり」を掲げ、震災後も自ら陣頭指揮に当たりつついち早く高台移転の必要性を提言し、女川町復興計画をまとめ上げました。 12年間本当にお疲れさまでした。 |
| 11月14日は、復興に向かう女川町にとって大きな節目の日となりました。安住宣孝町長の勇退にともない、須田善明町長が無投票で初当選を果たし、初登庁の新町長を町職員が総出で迎えました。 また、町議会議員選挙の投票も併せて行われ、震災前から定数を2減した議員12名体制として、須田新町政はスタートを切りました。 |
| 3月1日、女川町とUR都市機構が「復興まちづくり推進パートナーシップ協定」に調印し、ともに女川の早期復興を目指すことになりました。 この協定により、URの蓄積されたノウハウの活用や、さらには高台住宅地の造成や災害公営住宅の建築など今後膨大となる復興事業の進行監理が円滑に進むと期待されます。 一日も早い復興へ向け、ともに手を携えてまい進します。 |
| 同じく3月1日、震災で発生したガレキが東京都へ搬出されることとなり、関係者やメディアにもガレキ処理の状況が公開されました。 女川町の震災ガレキは44万トンと推測されていて、そのうち10万トンが東京都23区清掃一部事務組合の清掃工場で受入していただく予定です。 なお、今後は東京都多摩地区への搬出も計画されています。 |
| 震災の発生からちょうど1年となる3月11日、「東日本大震災一周忌追悼式」が行われました。会場には震災で親族や友人を亡くされた関係者約2,300人が参列し、故人を偲びました。 また、式では歌手のさとう宗幸さんが代表を務める「みやぎびっきの会」が女川の代表曲の一つ「潮の唄」で御霊を慰め、最後は参列者全員で献花を行いました。 改めて、震災で犠牲となられた方々のご冥福をお祈りします。 |
| 女川にうれしいニュースがありました。東京で開催されていた「第43回全国ミニバスケットボール大会」で、宮城県代表として出場した「女川フィーバーエンジェルス」が予選リーグを見事突破し、4チームごとの決勝トーナメントブロック進出を果たしました。 昨年も全国大会出場を決めながら、震災で中止に。2年越しの大会出場に会場からは大きな歓声が送られました。 |
| 震災で損壊した女川町地域医療センターの災害復旧・改修工事が完成。4月15日に竣工式が行われ、今回の工事費19億円を全額拠出したスイス国関係者も出席いただきました。 震災直後、1羽の鳩が正面玄関入口に留まって羽を休めていたエピソードから、「誰もが憩える施設となるように」との祈りを込めて、約1,000羽の鳩風船が大空へと放たれました。 これからも、町民の健康な暮らしを支えていきます。 |
| 4月29日、女川高校のグラウンドに48店舗からなる被災地最大規模の「きぼうのかね商店街」がオープンしました。 震災前、JR女川駅前に設置されていた「からくり時計」の4つの鐘の1つがガレキの中から完全な状態で発見されました。復興のシンボルとして、この鐘の下に多くの人が集ってほしいとの想いから、この商店街は名付けられています。 女川に来た際には、ぜひお立ち寄りください。 |
| 女川魚市場脇に建設を進めていた製氷貯氷施設が完成し、7月10日に関係者へ披露されました。この施設は、1日25トンの製氷能力を持つ機械が2基設置されていて、150トンの氷を貯蔵できます。 氷は漁獲した魚の鮮度を維持するため、漁船には欠かせないもの。港町の女川にとって、施設の有無が漁船の入港に大きく影響します。秋のサンマ漁解禁に向け、一歩前進です。 |
| 7月15日、昨年に続き「我歴stock(ストック) in 女川~奮闘編~」が開催され、全国8組のアーティストや地元団体がイベントを盛り上げました。 震災前、毎年7月には「女川みなと祭り」が開催されていました。そのメインの一つ「海上獅子舞」が見事に復活。地域の伝統芸能を受け継いでいくことも「心の復興」には欠かせません。いつの日か、多くの観客を前に披露できる日を信じて。 |
| 7月19日、女川町とUR都市機構による「復興まちづくり事業協定調印式」が行われました。 今回の協定は、3月に締結した「復興まちづくりパートナーシップ協定」に基づき、復興事業を本格的にスタートさせるというものです。 式では、保育所児童が描いた「希望をつなぐ女川の未来予想図」が贈呈され、新たな故郷への想いを強くしました。 |
| 9月3日、今年初のサンマの水揚げがありました。北海道沖で漁獲・水揚げされたサンマ55トンは、すぐに入札にかけられ、キロ当たり210~260円の値がつけられました。 女川港は全国有数のサンマの産地で、サンマの水揚げが女川に秋の到来を告げる、まさに季節の使者です。今年は昨年の2倍にあたる1日400トンまで受け入れを増やしました。 「サンマのまち」復活へ向けて、着実に歩を進めています。 |
| 9月23日、「おながわ秋刀魚収獲祭2012」が開催されました。今年はサンマ炭火焼き5,000尾、すり身汁3,000尾を用意したほか、超格安での販売も行いました。 会場では、手作り体験や地域の物産販売、ステージではご当地ヒーロー「リアスの戦士イーガー」や「破牙神ライザー龍」も登場し、多くの家族連れで賑わいました。 悪天候がちょっと残念。来年は晴天でお待ちしています。 |
| 9月29日、平野復興大臣や安住財務大臣など多数のご来賓に参列いただき「女川町復興まちづくり事業着工式」が行われました。 女川町では、年内にも先行実施エリアとして荒立・内山地区の高台住宅地や陸上競技場の災害公営住宅、石浜~宮ヶ崎地区の水産加工用地の造成が本格的にスタートします。 今後も、官民学一体で更なるスピードアップを目指します。 |
| カタール国から20億円の支援を受けて石浜工業用地に建設中だった冷凍冷蔵施設が完成。10月13日カタール国行政監督庁長官をはじめ、関係者出席のもと記念式典が行われました。 この施設は、被災地域に建設された女川初の本格建築物で、津波の圧力を受け流して建物を守る構造となっています。冷蔵6,000トン、冷凍50トンの貯蔵能力があり、カタールの伝統漁法にちなんで「マスカー」と名付けられました。 |
| 10月17日、震災で倒壊した女川湾口防波堤の災害復旧工事着工式が行われました。 旧防波堤は、津波襲来時に土台部分の基礎流出が原因で倒壊したため、新防波堤は基礎の強化や2つの防波堤の間を10m縮めて140mにするなどして、津波の侵入を減少させます。 防波堤倒壊後、女川港内の波は高くなり、船の係留にも支障が出ています。平成27年度の完成が待たれます。 |
| 10月20日、「おながわ秋刀魚収獲祭 in 日比谷公園」が開催。20万人を超える皆さまにご来場いただきました。 今回のイベントは、東京都が女川町から受け入れ予定の震災ガレキ60,000トンにちなんで女川のサンマ60,000尾を用意し、女川町民の感謝の気持ちを伝えようと企画されたものです。 ガレキは処理量の問題だけでなく、町民の大きな心の負担でした。心から御礼申し上げます。「ありがとうございました」 |