HOME □Cablog □サイト説明etc... □夜明け前の時 □夏への扉 □ゼロ時間へ □雑談室

98式イングラムが見た80年代の終わり

Rendezvous with Caba(HOME) > 夜明け前の時 > 98式イングラムが見た80年代の終わり

別稿で1980年代の象徴として岡崎京子をとりあげたわけだが、私の好きなマンガで、もう一つの80年代とその終わりを物語るものとして『機動警察パトレイバー』について触れたい。『少年サンデー』で時代的にはバブル絶頂期から崩壊後にかけての1988年〜1994年に連載されたこの作品は、リンク先の作者(ゆうきまさみ)の弁にもあるように当初からメディアミックス企画として始められたロボットマンガであった。

前作『究極超人あ〜る』でオタク的ギャグが持ち芸だったゆうきまさみだが、彼は本作品で大化けに化けた。後年のテレビドラマ『踊る大捜査線』に影響を与えたという、警察官僚組織と末端警官とが引き起こすコミカルかつシリアスなドラマ、人間模様。「レイバー」呼ばれる大型ロボットのデザインの秀逸さ(メカデザインは出渕裕)、そして物語中でのそのリアルな運用方法……等々、ヒットした要因、要素は色々とある。

しかしなんと言ってもこのマンガで最も印象深いのは、主人公(泉野明)達の属する特車2課と敵役内海(多国籍企業シャフトエンタープライズジャパン企画7課課長。別名リチャード・王)との対決、対比だろう。「笑いながら爆弾を投げつける」「子供のような大人」と作中で語られる内海は、超危険人物であるがどこか憎めない「両義的なキャラ」として振る舞う。彼は軽いノリで次々と特車2課に挑戦を仕掛け、作品中での目立ち方はダントツ。それに対し「お巡りさん」である主人公達はいつも受け身一方の振り回され役。冴えないこと、冴えないこと。

が、(ネタバレではあるが)物語の最後に到り内海は敗北する。この事情を岡田斗司夫はNHKの『BSマンガ夜話』の中で、80年代の体現者である内海が「その化けの皮を一枚一枚はがされていく」ストーリーだと語っている(こちらのページも参照)。いつまでも戯れていてはいけない、脱オタク、脱80年代がテーマだったと。実は当のゆうき自身(あくまでも推測であるが)がとあるインターネットの掲示板にこんなことを書いている。

と、遅ればせながらリングに上がってみましたが、年齢が年齢だけに結構しんどいです。

えーと、マンガ夜話に関してですが、自作の解説はやろうと思うといくらでも長くなって、仕事が進まなくなるので勘弁して下さい。

ただ一点、「脱オタク」を目指すというほどの意識は当時なかったと思いますが、内海は明らかに自分の中から出てきたキャラクターですから、これに一本釘を打ち込んでおくのは、社会の中で生きて行く自分のためでもあるかと。結果的に岡田氏が言うような作品になったということです。
−−http://www.bea.hi-ho.ne.jp/~kyamasit/rkeiji/list7.shtmlに引用されたものより孫引き。

バブルの崩壊後しばらくたって、浮かれた80年代を否定する言説は巷にあふれることになった。そして、それらの少なくないものが保守的な色彩を帯びていることも明らかだ。それは全てが壊れていた80年代に換わって「国家」や「ほんとうの歴史」あるいは「世間」という物語を提供しようとする。例えば小林よしのりの『戦争論』(1998)などは典型だろう。

この『パトレイバー』も主人公達警察官(つまりは国家権力の一部)が秩序を守る戦いに勝利する、という点においてこれらの流れと無関係とは言えない。むしろ(論壇に先んじて)少年マンガの世界でいち早く脱80年代の価値観を健全な面白さとして提示してみせたことは、その後の凡百の保守論壇言説よりも鋭く、かつ優れていると感じる。

さてしかし、それでは実際の90年代半ば以降は『パトレイバー』の示した「健全で明るい」世界であったろうか? あるいは、保守論壇が主張する価値観が意味をもちつつあるだろうか? どうやらそうではないらしい。90年代は「大きな物語を語らなければいけないという小さな物語」(東浩紀)が氾濫しただけであり、80年代的なるものは実は形を変えてさらに進行していると私は思う。キャバクラという存在が現在も隆盛な理由の一端はここにあると考えるが、では具体的に何が進行し、それとキャバクラがどういう関係にあると考えるのかについては稿を改めたい(……なーんて大げさに書いていいのか?)。



Rendezvous with Caba(HOME) > 夜明け前の時 > 98式イングラムが見た80年代の終わり
(c)2002 元歌@SMMD right eye