5月6日、浜岡の長い一日が始まった。
官邸4階で原子力災害対策本部会議が終わった正午前。経済産業相の海江田万里(63)が首相の菅直人(65)に耳打ちした。「総理、お時間ありますか」。
総理執務室は、5階の南西側。屋根の採光窓から差し込む日差しを受けながら、180センチを超える海江田がさっそうと入った。保安院審議官の黒木慎一(54)や大臣官房総務課長の柳瀬唯夫(50)が続いた。時計は午後1時を指そうとしていた。
20畳ほどの執務室。菅はいつもの椅子に座った。海江田は三人掛けのソファの菅に一番近い場所。長方形のテーブルを挟んだ向かいに官房長官の枝野幸男(47)や副長官の福山哲郎(50)が並んだ。
「昨日、浜岡に行ってきました」。海江田は、単刀直入に切りだした。「中央防災会議でも示されたように、浜岡は危険です。法的な権限はないが、運転を止めたいと思う」
菅は定期点検中の3号機の再稼働を見送る意味に受け取った。「3号機か」と問い返すと、海江田は「いや、全部です」。
「本当か。全部で、平気なのか」と念を押す菅。運転中の4、5号機まで止めることを考えていなかった。
原発を推進する経産省が、なぜ「全面停止」を決断したのか。菅は腹に落ちなかったが、それがかえって「海江田はやるじゃないか」という気持ちに変わった。
「よしわかった」。意を決した菅。だが、決裁の判はつかなかった。
「災害確率は、どのデータに基づいているのか」
「法律で何とかできないのか」
菅は議論を促し、細かい説明を求めた。
「早く了承を取り付けて、次の手続きに入ろう」。そう考えていた経産省側の計算が狂い始めた。
弁護士出身の枝野は分厚い六法全書を持ち出した。原子炉等規制法、電気事業法、原子力災害対策特別措置法…。破れんばかりの勢いでページを繰った。だが、いくら目を凝らしても政府の権限で原発を止める法律はなかった。
「権限がないなら、要請という形をとるしかないんじゃないか」
「中電に拒否されたらどうするんだ」
意見や疑問が飛び交った。今度は「誰が会見するのか」でもめた。枝野と福山は「こんな大事な会見は総理がやった方がいい」と主張した。菅内閣の支持率がじりじりと低下していた。当時官邸にいた誰も認めないが、あわよくば「脱原発」で政権を浮揚させたいという期待は隠しようがなかった。
官邸と経産省の思惑が交錯し、結論が出ないまま1時間以上が過ぎた。夕方に再び協議することになり、経産省が描いた午後4時の海江田会見は中止に追い込まれた。
「また捕まったな」。海江田は部下に申し訳なさそうにつぶやき、いったん官邸を離れた。