空の軌跡エヴァハルヒ短編集
第六十話 2012年 妊婦さんの日記念LAS小説短編 〜シンジとアスカのキズナ〜


2028年、第三新東京市のとある病院にて――。
分娩待機室では、シンジが身を固くして待っていた。
隣の分娩室からはアスカの苦しそうな声が聞こえて来る。
14年前の使徒との戦いで、シンジはエントリープラグの通信を介して何度もアスカの悲鳴を聞いて来たが、それに勝るかもしれない壮絶なものだった。

(アスカ、頑張れ――!)

シンジは自分の手を握り締め、心の中でアスカを応援した。
アスカの手を直接握って応援したい気持ちもあった。
しかしシンジが慌ててしまうと、アスカの気を散らせて迷惑になってしまうかもしれないので、立ち会い出産は断念したのだ。
そしてアスカが母親になるための戦いは、分娩室に入ってから数時間続いた。
男であるシンジにはアスカの痛みや苦しみなどはどのくらいのものか想像が付かなかった。
今まで一番痛い思いをしたのは使徒のビーム攻撃を受けた時だろうか。
だがあの時、シンジの意識は10秒しか持たなかった。
陣痛に何度も耐えているアスカを見て、シンジは母親とは強い者だと思い知った。
分娩室から元気な赤ちゃんの泣き声が聞こえて来ると、シンジも肩の荷が下りたように体の力が抜けた。
出産に立ち会った女性看護師がシンジを呼びにやって来たが、シンジはすぐに立ち上がる事は出来なかった。
少しよろめきながら分娩室へ入って来たシンジの姿を見て、アスカは「情けないわね」と苦笑した。
表情に疲れが出ているが、無事なアスカを目にすると、シンジは安心した。
そして、ベッドに横たわるアスカの側に居る赤ちゃんの姿が目に入ると、シンジは感激のあまり目に涙を浮かべる。

「さあシンジ、抱いてあげて」
「……うん」

アスカに促されて、シンジは赤ちゃんを腕の中に抱いた。
こうして赤ちゃんを抱いているだけで、シンジは嬉し涙が止まらない。
この世に生を受けた新しい命。
その赤ちゃんは、シンジとアスカの新たなキズナだった。

「アスカ、ありがとう」
「シンジ、相手が違うわよ」

アスカに指摘されて、シンジは抱いている赤ちゃんに向かって穏やかな笑顔で話し掛ける。

「僕達の所に生まれて来てくれて、ありがとう」

生まれて来た赤ちゃんは、元気な男の子だった。
体重も標準的で、目立った身体的な特徴も無い。
アスカが入院している間、シンジは休みを取って出来るだけアスカの病室に居るようにした。
そしてアスカの病室を、嬉しそうな表情をしたマヤが訪れる。

「こんにちはアスカ、シンジ君。元気な男の赤ちゃんが生まれたって聞いて、飛んで来ちゃったわ」
「マヤ……!」

マヤの姿を見たアスカの顔が、パッと明るく輝いた。
アスカとシンジにとって、マヤはミサトに続く第2の姉となっていた。

「冬月所長も自分に孫が出来たようだって喜んでいたわよ」
「本当、冬月さんにもマヤさんにも感謝してます、僕の育児休暇も認めて下さったし……」
「ううん、私が産休を取った時、アスカもシンジ君もフォローしてくれたんだから、当然の事よ」

シンジが頭を下げると、マヤは首を横に振った。

「アスカ、無理しちゃダメよ。こうして側にシンジ君も付いているんだからね」
「ええ」

アスカはマヤの言葉にしっかりとうなずいた。
マヤとシンジは、アスカの妊娠が分かってから、アスカが完璧な母親にならなければならないと、自分を追い詰めてしまわないか心配だった。
だからマヤはシンジにしっかりと育児休暇を取らせてあげる事にしたのだ。
シンジとアスカは、冬月が所長を務める『人類サルベージセンター』で働いている。
人類サルベージセンターとは、ゼーレやゲンドウが居なくなった後、特務機関ネルフを再編し、冬月元副司令を所長として結成された研究機関だ。
日本のネルフ本部と世界各地の支部の中にできた“紅い海”へと還ってしまった人々の現実世界へのサルベージを目的としている。
そう、『人類補完計画』は目的を果たし、サードインパクトは起こってしまったのだ。



人類補完計画。
それはニンゲンの不完全な部分を補い、完璧なヒトを創ろうとする神をも畏れぬ仕業だった。
この恐るべき計画は、豊富な財力と大きな権力を持っていた組織ゼーレと碇ゲンドウにより推進され、神と同等の存在となったエヴァ初号機によって遂行された。
だが補完されたはずのヒトは再び群体としてのニンゲンとして生きる事を選んだ。
補完を拒んだヒトは独りでは生きられない、だから再びニンゲンとして生きる道を歩き出した。
どうしてヒトはそのような結論を導き出したのか、ここでは初号機パイロット、碇シンジを例に挙げる事にする。
ニンゲンからヒトへと変化し、現実世界から切り離され、真っ白な精神世界でのみ生きる事になったシンジは、何度も生きる意味について自問自答を繰り返した。
シンジ自身の肉体や空間的な概念はすべて取り払われ、考える時間は無限にあった。
そしてシンジの内面世界に煙の様に浮かび上がって来たのは、アスカ、ミサト、レイ、そしてゲンドウと言った、今まで現実世界で出会った人々のイメージだった。

「アスカ、ミサトさん、綾波、みんな……!」

シンジは笑顔になって青空の中を、アスカ達の方に飛んで行った。
アスカ達も笑顔でシンジを迎え入れる。
シンジが声を掛けると、アスカ達はシンジの望むままの言葉を答えた。
その心地良さに、シンジは自分が幸福で満たされるような感覚を覚えた。
だが望む物を手に入れたはずのシンジの精神世界にぽっかりと黒い穴が空いた。
その穴は大きくなり、晴れ渡った青空を侵食し、シンジを吸い込もうとする。

「助けて、アスカ、ミサトさん、綾波……!」

シンジは近くに居るアスカ達に助けを求めた。
しかし青空に浮かぶアスカ達の姿は突然無表情のシンジの姿に変化する。
そう、シンジは浮かび上がって来たアスカ達は自分の願望が産み出した都合の良いイメージだった事に気づいてしまったのだ。
与えられただけの、幻が造り上げた幸福。
虚しさに包まれたシンジの目に飛び込んで来たのは、暗闇の中から伸びて来た金色の光る糸だった。
自分の世界を壊そうとする穴の中にどうしてそのような物があるのか、シンジには理解できなかった。
だがシンジは希望を求めて、闇に光る糸へと手を伸ばす。
するとシンジの体は暗い穴の中に吸い込まれる。
そしてその中は暴風が吹き荒れる世界だった。
シンジの体も強風にあおられ、木の葉の様に飛ばされてしまいそうになる。
そんなシンジの体を引き止めたのは、シンジの手に巻き付いたあの光る金色の糸だった。
シンジと誰かを繋ぎ止めたその糸は、決して太い物ではないが、どんなに強い風が吹いてもシンジの手に結び付き、ほどけたり、切れたりはしなかった。
そしてシンジが気が付くと、手に巻き付いた糸以外にも、何本もの金色に光る糸が自分と誰かを繋いで居るのが見えた。
嵐が強くなり、さらに激しく体を揺さぶられたシンジは目を回しそうになる。
意識を失ってしまう直前、シンジは自分と金色の糸で繋がっているアスカの姿を見た気がした……。



その後シンジが意識を取り戻したのは、人類サルベージセンターの施設建物内の病室のベッドの上だった。
シンジが目を覚ますと、すぐにマヤがやって来て、所長室へとシンジを連れて行った。
そして所長の冬月から、最後の使徒、渚カヲルが倒された翌日にゲンドウによってサードインパクトが引き起こされた事を聞かされた。
サードインパクトの直前、ミサトとリツコがゲンドウを阻止しようとしたが、返り討ちにあってしまったようで、2人が撃たれて死んでいるのが見つかったと冬月が続けて言うと、シンジはショックを受けた。
どうして、父がそんな凶行に走ったのかシンジが尋ねると、冬月はゼーレが動き出す前に自分の手でサードインパクトを起こし、初号機の中に眠るユイと会いたかったのでは、と答えた。

「僕は今まで、何のためにエヴァに乗って、使徒と戦って来たんですか……」

次々と明かされた衝撃的な事実に、シンジは打ちのめされそうになった。
だがシンジには大きな光が残されていた。
アスカもシンジと同様に紅い海からサルベージされ、センターに収容されたのだ。
しかしアスカはサードインパクトの前から身体の衰弱が激しかったので、特別病室に入れられている。
シンジは自分の精神世界の中で、自分が誰よりも一番強く求めていたのはアスカだと気付かされた。
まだアスカは目を覚ましていない、だけどシンジはアスカの側に居たいと思った。
アスカは自分の事を受け入れてくれるとは限らない事は解っていた。
でもアスカから逃げて後悔してしまいたくはなかったのだ。

「手を握るくらいなら、大丈夫だよね」

シンジがアスカの手を握りしめると、アスカの温もりが伝わって来る。
ああ、自分はまたアスカに再会する事が出来たのだと実感が湧いた。
すると、眠っていたアスカの目がぱちりと開く。

「アタシが寝ている間に、何をしているのよ」
「ご、ごめん!」

シンジはあわててアスカの手を離そうとした。
しかし、アスカはシンジの手を弱々しく握り返す。

「謝るぐらいなら、ずっとそのままアタシの手を握っててよ。……その方が安心できるから」
「うん……」

アスカに拒絶されなかった事に、シンジも安心してアスカの手を握り続けた。
やはり体力が落ちていたのか、その後アスカはすぐに眠りに就いた。
アスカが日常生活を送れるようになるには入院を続けてリハビリが必要だとマヤに告げられたシンジは、献身的にアスカのリハビリに付き合った。
そして迎えたアスカの退院の時、マヤが保護者となりたいと申し出ると、シンジとアスカは受け入れた。

「アスカはドイツに家族が居るのに、帰らなくて良いの?」
「シンジはアタシにドイツへ帰って欲しいの?」
「いや、僕はアスカにドイツへ帰って欲しくない……あっ」

慌ててアスカの質問に答えてしまったシンジは、告白同然の言葉を発してしまった事に気が付いて顔を赤くした。
そんなシンジを見て、アスカはニヤリと笑う。

「へえ、シンジはアタシの事が好きになったんだ」
「う、うん、僕はアスカが好きだよ!」

シンジが素直に認めてそう叫ぶと、アスカも穏やかな笑顔になってシンジに優しく語りかける。

「アタシもよ」

アスカはそう言うと、シンジに近づいてキスをした。
不意をつかれて驚いたシンジだったが、今度はアスカを離さないようにしっかりと抱きしめた。

(やっとアタシを抱き締めてくれたわね、ありがとう)

まだ照れ臭かったアスカは心の中でシンジに感謝の言葉を述べた。



それからシンジとアスカは葛城家で暮らしていた時の様に、伊吹家で同居しながら高校に通う事になった。
以前と違って、陽気に振る舞ってくれるミサトは居ない。
マヤも仕事が忙しく、休日にも家に居てあげられる事は少なかった。
しかし、エヴァンゲリオンと言う呪縛から解き放たれたシンジ達の性格は明るくなっていた。
穏やかな日常生活はシンジとアスカの距離を緩やかに縮めて行く。
そして高校を卒業した2人は、人類サルベージセンターで働く事を希望した。
別に自分達と同じ道を歩まなくても良いと諭すマヤだったが、自分達もネルフに関わった者として同じキズナで繋がれていると答えた。
それは、知らなかったとは言え、人類補完計画に加担してしまった事への罪の意識だった。
さらにシンジは自分が勇気を出して戦っていたらトウジを救う事が出来たかもしれない、アスカは自分がエヴァに対して心を閉じなければシンジだけに辛い思いをさせずに済んだかもしれない、と個人的な後悔を抱えていた。
シンジ達はサードインパクトの被害者となってしまった人々を紅い海からサルベージする仕事を手伝う事によって、償いをしようと考えたのだ。
現実世界に戻って来た人達の中には、まだ紅い海の中に居る人に会いたいと願っている人達が居て、センターに出資や支援をしてくれている。
そしてシンジも、ゲンドウを紅い海から呼び戻したいと思っていた。
ゲンドウが強い意志で人類補完計画をやり遂げたのも、根底には自分の母親であるユイとの固いキズナがあったからなのだろう。
でもシンジも、父と母とのキズナによって生まれた命だった。
シンジは冬月から、生前のユイについての様々な話を聞く事は出来たが、ゲンドウの口からも直接ユイについて聞きたかった。
そしてゲンドウは自分の目的のために、多くの人達を不幸な運命へと巻き込んでしまった。
その償いを少しでもさせてやりたいと思うのは自分の思い上がりだろうか、とシンジは考えたりもしたが、シンジはゲンドウをサルベージするため、ゲンドウが溶けてしまった紅い海へと呼び掛けた。
紅い海に溶け込んで居た自分が見たあの金色の糸がゲンドウの元へ届き、いつか手に取って欲しいとシンジは願っていた。
シンジとアスカがセンターでの仕事に慣れて来た頃に、マヤがネルフのオペレータの同僚だった青葉シゲルと婚約した。
アスカはシゲルがマヤと遊びで付き合っているのではないかと疑っていたが、シゲルが本気で結婚を考えて付き合っているのだと知ると、笑顔で祝福した。
マヤとシゲルの婚約を契機に、シンジとアスカはマヤの家から独立して、2人暮らしを始めた。
仕事に集中していたシンジとアスカだったが、マヤとシゲルの間に赤ちゃんが生まれたのを見て、自分達の新しいキズナを求めたシンジとアスカは、初めて体を重ねた。
アスカは妊娠すると、女性ホルモンのバランスが崩れてしまったからか、精神的に不安定になってシンジに当たり散らしてしまう事もあった。
しかし出産の辛さを知ったシンジは、せめてアスカの苦しみを分かち合おうと、14年前と同じく入院したアスカを側で支えた。
優しく手を握られたアスカもあの時と同じように安心して、出産の日を迎えたのだった。

「ねえシンジ、アタシ達の赤ちゃんの名前、どうしようか?」
「うーん、いろいろ候補を考えていたのに、迷っちゃうわね」
「僕達と赤ちゃんとの最初のキズナだからね」

アスカと一緒に自分の赤ちゃんの名前を考えるのに悩みながら、シンジは思った。
あのまま紅い海の中に居れば、完全なヒトとして安らぎを得られたかもしれない。
しかしこうして現実世界へ戻って、ニンゲンとして生きなければ、得られなかった幸福が今ここにある。
精神世界の中で嵐が吹き荒れたように、これからも現実世界で辛い事が待っているかもしれない。
だけど自分は独りで生きているわけじゃない。
誰かとキズナで繋がっているから、生きていけるのだと、シンジは思うのだった。


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