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云うまでも無く「法主本仏論」なるものは、創価学会が作り上げた邪説であり邪論である。
大体、少しでも智慧が回れば、日蓮正宗の御歴代上人が「末法の本仏である」などと云う阿呆な論説
など、思う浮かぶものではない。哀。
そうすると、創価の小者共は、口を揃(そろ)えて言うのである。
「俺たちが言っているのではない。日顕宗が言っているのだ」と。鼻笑。
先ず言って置くが、此の世に「日顕上人の宗教(日顕宗)」なるモノは存在しない。
其れは何故か。其の宗教の根本に於いて、小生が曾(かつ)て創価学会員として学びし富士門教学と、
現在の日蓮正宗教学が、全く以って同一だからである。つまり、破門以前の過去から現在の今日まで、
日蓮正宗は日蓮正宗の儘であり、其れこそは、お前達が「日蓮大聖人直結の御正師」と仰ぐ日寛上人
の御教示を、一寸の乱れなく堅持しているのが日蓮正宗なのである。
其れよりも何よりも、其の「大聖人直結の御正師」の御訓戒に背き、日蓮大聖人の御本仏たるを懐疑
する学者を庇(かば)い、絶対妙の範疇をも超えて、学術研究の目を以って仏法を推し量らんとする、
其のお前らの性根こそを何とか致せ。
小生から言わせれば、其れら謗法容認の体たらくこそが「池田教」の態勢ではないのか。
ったく、其の様な蝙蝠(こうもり)教団が「法主が本仏などと言っている日顕宗は邪宗だ」などと口を
尖らして言っておる。哀笑。
大体、日蓮正宗の御歴代上人が「本仏」とは如何なる事か。云うまでも無く、末法の御本仏たるは
日蓮大聖人、唯御一人である。
しかし、お前らは「法主が御本仏だ、と日顕宗が言っている」と云う。
何処(どこ)だ。何処にそういう教義があるのだ。
まさか、此の事か。
『本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人であります。具体的には、御法主
上人の御指南に随従し、御本尊受持の信行に励むことが肝要です。何故ならば、唯授一人の血脈の当
処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体に在(ま)しますからであります。したがって、この根本の二つに
対する信心は、絶対でなければなりません』(大日連/平成3年9月号87頁)
小笑。
おいおい、一体此の何処に「法主こそは本仏である」と記(しる)されておるのだ。
お主ら、大丈夫か? 頭。
よろしいか。上記の内容とは、唯授一人血脈の当処、つまり、日蓮・日興血脈の次第に於ける一切の
仏法は、其の後の日目上人、そして又、中興の両祖たる日有上人、日寛上人以降の御歴代上人に相伝
されている事を云うのであり、又、其の伝持される御内証を以って、大御本尊を御書写奉る尊行を宣
べているものである。仍って、其の行(御本尊書写)を為す尊体は須らく、戒壇の大御本尊とは不二で
あると説くは、応に当然の理(ことわり)ではないか。
日寛上人、当家法則文抜書を以って申さく『末法の本尊は日蓮聖人にて御坐すなり。然るに日蓮聖人
御入滅有て補処を定む、其次々に仏法を相属して当代の法主の処に本尊の体有るべきなり、此の法主
に値ふは聖人の生れ替りて出世し給ふ故に、生身の聖人に値遇し結縁して師弟相対の題目を声を同く
唱へ奉り』と。(研教9─740頁)
応に師弟は相対にして不二である、という理(ことわり)を領解出来なければ『不二の尊体』の意など
解かろう筈もないのである。小笑。だからこそ、お前らは、大日連に掲載された、所謂「能化文書」
の内容を以って大騒ぎするのである。ったく、而二の上の不二を理解せずにして、一体何の本門教学
であるのか。本当に大丈夫か? お前らの頭。
御本尊七箇之相承に曰く『代々の聖人悉(ことごと)く日蓮なりと申す意なり』と。
うむ。応に御本尊書写に於ける御判形こそが、而二にして不二なる師弟の深義なのである。
而して「代々の聖人悉(ことごと)く日蓮なり」とは、応に日蓮大聖人をして宣示されたものであり、
又、だからこそ、御自らと同じくして、つまり、其の悉(ことごと)くに於いて『代々の聖人』と仰せ
になられたのである。しかし、御開基日興上人已来、我が日蓮正宗に於いて『聖人』と呼ばれる御方
は居らず、其の代々の総ては『上人』なのである。
つまり、此れこそが而二にして不二なる、師弟の尊体と領解すべきものなのである。
而して『不二の尊体』とは、其の唯授一人の大義が、戒壇の大御本尊に帰一する事からして、決して
間違った表記ではないのである。
本因妙抄、支吾なき一文にして曰く『又此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相
承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり』と。(新編 1684)
仍って類聚翰集私に曰く『然るに日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む。其の次ぎ其の次ぎに仏法相属
して当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり』と。(富要第二巻・308)
仍って日寛上人は、其の正義たる文意を以って当家法則文抜書に御記文せしむ。
曰く『末法の本尊は日蓮聖人にて御坐すなり。然るに日蓮聖人御入滅有て補処を定む、其次々に仏法
を相属して当代の法主の処に本尊の体有るべきなり』と。
尚又、日寛上人の御誕生より遡(さかのぼ)ること二十三年前、細草壇林を開壇せしむ法詔寺日感師が
申さく、
『大石寺は金口の相承と申す事候て、是の相承を受く人は学不学に寄らず生身の釈迦日蓮と信する信
の一途を以て末代の衆生に仏種を植えしむる』と。(聖典765)
はてさて、此れらの御文証を以て、一体、どの御文が『法主こそが本仏である』と説かれておるのか。
お前らは、能く能く心読すべきである。
いや、お主らの其の、蝙蝠(こうもり)の様な二心で、更には蜻蛉(トンボ)の様な複眼で、何(いか)に
上記の御文証を拝読しようとも『法主は本仏なのだー!』としか読めないのであろう。鼻笑。
応に『馬鹿』とは、此の事をして云うのである。哀笑。
恩師が云く『血脈相承といって、我々の御法主様に法水の容器は違うが、その内容は一滴も漏らさず
に来ているのです。だから御法主様だけが、御本尊様をしたためることのできる仏様なのです』と。
仍って恩師が申さく『有り難くも、本日は、御本山の猊下(日昇上人)のお出ましを願い、畑毛の猊下
(御隠尊日亨上人)のお出ましを願って、我らとしては、これ以上の名誉はない。来年の今日までの間
に、本当に功徳をつかむ覚悟で、自分の悩みの心に、大御本尊を目の前に浮かべ、両猊下を拝もうで
はありませんか。それでは、私が導師となります。南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経』
(昭和29年5月3日、創価学会第十回総会)
はてさて、此等恩師の指導をして、一体、どこが『法主は本仏なのだー!』と宣べられておるのか。
実に恩師の上記に於ける指導は、全く以って、御本尊七箇之相承の御文に一致し、そして左京阿闍梨
日教師の御文にも一致し、其れこそは、お前らが文句する「能化文書」の内容にも一致するのである。
応に、御法主上人を日蓮大聖人としてお仕(つか)えしたるは、恩師の大信心たる証拠であり、而して、
其の事を以って「法主は末法の御本仏だー!」などと云う馬鹿な解釈をするは、今やお前ら残留会員
のみなのである。
哀笑。ったく、お前らの脳髄は、本当に腐っておるのか。呆。
『新猊下(日淳上人)を大聖人としてお仕(つか)え申し上げ、広布への大折伏にまっすぐ進んでいく』
との恩師の御信条こそは、応に唯授一人血脈相承と本門戒壇の大御本尊との不二なる尊体を以って、
成り立っていたのである。
さても、以下の文言は、一体誰の文言であるのか。
『遣使遣告であられる御法主上人猊下は、日蓮大聖人様であります!』
『御本仏日蓮大聖人の遣使還告であられる、血脈付法の御法主日顕上人猊下云云』と。
果たして一体、是れはどういう事であるか。お前らからして「永遠の指導者」たる三代会長、つまり
自分の事をして『庶民の王者』と自慢している池田太作が、上記のように宣言していた事は、実に今
『法主本仏論』なる造語を以って富士大石寺に投石する現創価の矛盾を示すものではないのか。呆。
つたく、日蓮正宗の御歴代上人に於いて『この私こそが御本仏であり、釈迦日蓮である』などと宣言
された上人が居られるのか。云うまでも無く、富士大石寺に於いては、古今に於いて一度たりとも
『法主の私こそが大聖人様だ』などと、時の猊下が言われた事などないのである。
果たして小学会員よ。もし、そういう御歴代上人が居るというならば此に即答してみせよ!
『法主本仏論』
応に此れこそは、創価学会の造語であり、其の貧弱なる読解力によって『不二の尊体』の深意を理解
出来なかった珍釈なのである。
小笑。何とも、笑える話ではないか。
云く、
「本宗における厳粛なる法水瀉瓶唯授一人の血脈は、法灯連綿と、代々の御法主上人に受け継がれて、
今日に至っております。あくまでも、御本仏は、日蓮大聖人様であらせられ、唯我与我の御法主上人
のご内証を、大聖人と拝すべきなのであります」と。(聖教新聞 昭和五十四年五月四日付)
お前らは、今一度、上記の正釈を学びなさい。
そして、『「法主は本仏なのだー!」と日顕宗が言っている』などと云う、出鱈目(デタラメ)な文句
などは、即刻にやめなさい。観ていて、とても恥ずかしい。其の蝙蝠(こうもり)と不二の痴体が実に
実に恥かしい。呆。
東大学者・松岡某に云く、
『「法主信仰」を日興上人以来の大石寺の伝統に仕立て上げたのは、法詔寺日感である』云々。
小笑。
ったく、この様な戯れ言を信じて、博士は素晴らしいと感嘆する、小会員の信心こそが哀れである。
『法主本仏論』
さても馬鹿に付ける薬は最早ない、と云う事か。呆。
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