この美しい国を焼け野原にしないよう日本のなかで変えていくべきこと、変えてはいけないこと
田口義隆氏
さて、ここからのセッションについては二部構成で進めていきたいと考えております。第一部は「誇りある日本」。日本の良さや誇りある日本人とは何かということについてご意見をいただきます。そして第二部は、誇りある日本を守っていくため我々がいかに行動すべきか。櫻井先生からものちほど、どのように伝えていくかということについてお話をいただきたいと思っています。
日本の良さとは多様性を自分たちのなかにとり入れるということでもあります。ですから本セッションも会場の皆さまとインタラクティブに進めていけたらと思っております。なお、こちらでの発言はTwitter等で発信されることもありますこと、あらかじめご了承ください。では早速でございますが、安倍先生に日本の良さ、そして誇りある日本人像といったお話を10分程度いただきたいと思っております。よろしくお願い致します。
戦後65年、私たちが価値の基準を損得に置いてきてしまった(安倍)
安倍晋三氏
さて、今日この2月12日ですが、今からちょうど65年前となる昭和21年の2月1日、当時の幣原喜重郎内閣で作成されていた憲法試案がスクープされるという出来事がありました。当時は松本烝治という人物が担当大臣で、草案は甲案乙案二つ作成されていた。その一方の案が毎日新聞によってスクープされました。政府が起草しているものをスクープするぐらいですから当時の毎日新聞はすごかったのですが、この記事を読んだダグラス・マッカーサーが激怒します。マッカーサーは当時、日本に対して戦争放棄を含めた3原則を提示していました。その3原則はたしかに踏まえていたのですが、それでも日本の憲法試案は彼にとってはまったく不十分だった訳です。そこで彼はひとつの決断をする。「もう日本人には任しておけない」という決断です。
そこでコートニー・ホイットニーという当時の民生局長を呼んで、ただちに憲法草案をGHQでつくるよう指示します。そして2月4日、ホイットニーはチャールズ・ケーディスという次長を呼んで指示をしました。ここから急遽ケーディス以下25名が集まり憲法を作成していきます。ただ、もちろんそのなかに憲法の専門家はいません。GHQのメンバーから適当に選んだだけですから。まあ弁護士が3名いたのですが、憲法や国際法の専門家はひとりもいませんでした。
ホイットニーはこのように命じました。2月12日…、65年前の今日ですね。「2月12日までに草案をつくれ」と命じた。「もうたった4日しかないじゃないか」と、皆びっくりします。「だいたいどうして2月12日なのですか?」と聞きましたところ、ホイットニーは「私が尊敬している大統領はリンカーン大統領である」と。「リンカーン大統領の誕生日が2月12日だ。良い誕生日プレゼントじゃないか」という話でありました。まあ、たしかに素晴らしい大統領でありますが、日本の憲法には関係ない訳ですよね。しかし実際、2月12日までに出来たものが憲法原案になったということであります。以来65年間、私たちはその憲法に指一本触れてこなかった。そんな歴史があります。
一方、時計の針をもう少し戻しますが、昭和21年の1月に、皇居では歌会始が開かれることになりました。「敗戦の翌年であるし、歌会始を開くのはどうか」ということで色々と議論もあったのですが、長らく続いてきた歴史がありますので最終的には開かれた。そこで昭和天皇がつくられた御製を改めてご紹介させてください。ちょうどその日は今日と同じように大変寒い日で、雪がしんしんと降っていた訳でありますが、昭和天皇の御製はこういうものでありました。
降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ
松ぞ 雄々しき 人もかくあれ
「今日は雪がしんしんと降っている。この雪の冷たさと重たさに耐え、松は青々とした美しさを失わない。日本も戦いに敗れ今は占領下にあるけれども、日本人として、日本の素晴らしさ、美しさは失いたくないものだ」。そのような思いを歌に込められたのであろうと思う訳です。果たしてこの65年間、日本人はそういった日本の素晴らしさや美しさを失わなかったのかどうか。これがまさに今日の課題ではないでしょうか。
これは本セッションのテーマである誇りという部分にも繋がってくるものですが、私は戦後65年にわたる問題点のひとつとして、私たちが価値の基準を損得に置いてきてしまったという点を挙げたいと思っております。損得を超える価値を認めないどころか貶めてきたのではないだろうかと思います。「損得を超える価値なんて本当にあるのだろうか」と疑問にすら思う人がいるかもしれません。しかし、たくさんありますよね。家族ですとか、自分が生まれ育った地域をもっと良くしていきたいという気持ち。あるいは自分が生まれ育ってきた国のために尽くそうという気持ち。ときにはそこで命をかけるという行為。これはまさに損得を大きく超えたものであろうと思います。しかし学校現場ではそれが尊い行為であり、そして損得を超える価値があるということを戦後の65年間、決して教えてこなかったのだろうなと思います。
ここでもうひとつお話を紹介したいのですが、昭和21年にひとりの日系アメリカ人がGHQの一員として日本にやってきました。ジョージ・アリヨシさんという方で、彼はのちにハワイ州知事となります。たまたま私の父親も私も大変親しくしておりまして、昨年も一緒に食事を致しました。彼はGHQの一員としてお堀端の郵船ビルと和光ビル、ふたつのビルで勤務をしておりました。当時、郵船ビルの前では何人か、靴磨きの仕事をしている少年がおりました。そのうちのひとりと彼は親しくなった。その少年は当時7歳だったそうですが、もう見るからにみすぼらしい格好でいつもお腹をすかしていました。しかしとても礼儀正しく、仕事も真面目にやっていたそうです。彼はその少年にいたく同情して、昼に食堂でパンを2枚貰いバターとジャムをたっぷり塗って、サンドウィッチにしてナプキンに包んだ。そしてお昼どきにそのサンドウィッチを少年に渡して、「食べなさい。お腹減っているんでしょ」と言いました。
するとその少年はペコリと頭を下げて、貰ったサンドウィッチを道具箱に大切そうにしまったそうです。アリヨシさんは不思議に思って「今はお昼なんだから恥ずかしがらなくていいよ。食べなさい」と言ったら、少年はこう答えました。「僕には3歳の妹がいます。家族は妹しかいません。いただいたサンドウィッチは持って帰って妹とふたりで食べます。ありがとうございます」と、もういちど深々と、礼儀ただしくおじぎをしたということです。
実はアリヨシさん自身も複雑な思いで敗戦を迎えていました。彼はアメリカ人です。ところが自分にとって祖の地である日本は戦いに敗れ、そして今はみじめに食うや食わずとなってしまった。彼は普段、ハワイの町を歩いていて前から白人や黒人が歩いてくると、思わず劣等感に駆られて目を下に伏せていたりしたそうです。しかし彼はこの少年の姿を見て誇りに思った。身なりこそ少々みすぼらしいけれども、妹への優しさと、そして強さを持った凛々しい少年の姿を見て「自分にも同じ日本人の血が流れていることを誇りに思った」ということを、のちのち私に語ってくれました。
私はこの少年たちこそが、戦後の日本をつくりあげたのだと思いますし、彼らを育んだのはやはり教育なのだろうと思います。日本人として誇りを持つ。これは決して傲慢になるという意味ではありません。誇りある日本人とは何か。たとえば「海外に出かけて行ったら恥ずかしいことは出来ないな」と思いますよね。あるいは「もし困っている人を見かけたらその人たちのために何か役に立つことが出来る人間になりたい」と願う気持ち。そのような思いを持つことが日本人としての誇りであり、真の国際人の姿でもあると私は思う訳です。ですからやはり、初等教育や中等教育において日本人としての誇りを持てるような教育をしていくことは非常に大切であると私は考えています。
田口:どうもありがとうございました。今、安倍先生から損得を超えた心が戦後の日本を支えてきたというお話をいただきました。では櫻井先生のほうから、「誇り」あるいは大切にすべきこととしてお考えになっていらっしゃる点が何かあればコメントをお願いしたいと思います。
“公の気持ち”を個々人が持つことの重要性(櫻井)
しかしご両親はアメリカに戻ってからひどい人種差別を受けた。日本が真珠湾を攻撃した際は収容所へ入れられます。もともと馬小屋であった収容所で彼らは本当に信じ難い扱いを受けた。お父様は「誇りある日本人としてアメリカでもきちんと暮らそう」と思っていました。「アメリカ国民として日本に恥ずかしくないような人間になろう」と思っていた。それにも関わらずひどい扱いを受けたことで、彼はもうアメリカ国籍を捨てて日本に帰ると言い出します。
その後、彼らはさらに厳しい条件の収容所へ入れられることとなります。しかしそのあいだもアメリカの日系人を支え続けていたのは、「国籍はどうであれ日本人として立派に生きたい」という日本人としての価値観でした。それがアメリカ国籍を持っている人々をも支えていた。日本にいる日本人だけではなくて、国際社会でも日本の価値がたくさんの人を支えていたのだという素晴らしい事実を、私はやはり皆で共有することが大事なのではないかと思っています。その後、さつきさんのご両親は戦後になってもアメリカに留まり、良きアメリカ国民となっていく訳です。
私がこのような戦前の日本人が持つひとつの特徴として感じている点があります。個人的にどれほどつらい境遇に堕ちても、それを国への恨みや他者への恨みに転換しないということ。それをすべて自分で消化していく前向きな価値観を持っていた。そして、「自分は自分の身内を養っていかなければいけない。けれども、そのためだけに自分がいるのではない」と。公のためにも自分は存在するという、いわゆる“公の気持ち”を持っているところがひとつの特徴だったという風に思っています。
あまりにも有名な事例ですが、会津出身の柴五郎さん。彼は賊軍と見なされ悶え死ぬような苦しみを明治新政府のもとで味わいます。しかし軍人となって中国へ行った彼を支えたのは何であったか。国家のため、日本のため、日本の誇りある民族として振る舞っていこうという気持ちでした。それまで日本人は世界から、遅れた国の人間と見なされ、人種差別のただなかに置かれていた訳です。しかし彼はそうした偏見や差別を見事に振るい払うような働きをしてみせました。そこにあったのは「明治政府からひどい目に遭ったからここでなんとかしよう」という気持ちではありません。「自分は日本国の一員なんだから頑張る」という、そういう気持ちだったと、私は思います。
現代に生きる戦後の日本人と少し比べてみるといかがでしょうか。自分の面倒は政府が看て当然だと。自分の人生がうまくいかなければ裁判などでよく使われる「社会の責任」という言葉が飛び出します。私も社会がまったく関係ないとは言いません。ただ、やはり自分の人生や自分の国は自分が切り拓き、そして守る。他者のために何が出来るかという公の気持ちをもう一度深く意識しながら取り戻していく。そんな価値観が世の中を明るくして、可能性を育ててくれるのではないかと考えております。