メカAG 別件で昔某所に書いたログを発掘したので再掲。ずいぶん前(2003年頃か?)に書いた文章なので、現在俺がasksに書いてる文体と若干違うのはご愛嬌(笑)。多少整形したが。一応背景をかいつまんで書くと、神とサタンがヨブを使って賭けをしている。サタンは神の黙認の下でヨブにさまざまな試練を与え、それでもヨブが神を信じ続けるか試しているのだ。このためヨブは次々に理不尽な不幸に見舞われ、のたうち苦しむ。それでもヨブは健気に神を信じ続けるが、ある時ついに耐えかねて、せめて自分に訪れる不幸の理由が知りたいと考える。そのヨブの前に神が満を持して現れるのだが、神は「天地を創造した自分(神)に、人間ごときが何を問うのか」とあくまで冷酷な態度を示す。以下の山本の主張というのは、正確には山本の小説「神は沈黙せず」の登場人物の主張だが、両者をイコールとみなすことには山本自身も異存ないだろう。 * * *ヨブ記は誤訳か山本弘はジャック・マイルズの「GOD 神の伝記」の記述を鵜呑みにしてヨブ記を誤訳だとする。通常 | あなたのことを耳にしておりました。 | しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。 | それゆえ、私は塵と灰の上に伏し | 自分を退け、悔い改めます。と訳される部分の後半は | 私は(あなたに創造された)この死すべき肉体を嫌悪し | 遺憾に思います。が正しい訳だという。まずこの部分は古来から聖書の研究者の間でも解釈の分かれる部分であり、なにもジャック・マイルズが今まで誰も気づかなかった定説を覆す解釈を行ったわけではない。またこの部分に限らず聖書には意味が不明な箇所が少なからずある。それは長い歳月の間に言葉の意味が分からなくなってしまったためであり、仕方のないことなのである。山本弘は「塵と灰」を「やがて塵と灰になるもの=人間の肉体」としているが、これは正しくない。神はヨブに試練を与えるためにサタンを使ってヨブを皮膚病にかからせた。これは象皮病といわれている。 | ヨブ記2章7節 | サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。 | ヨブ記2章8節 | ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。 | ヨブ記7章15節 | 肉は蛆虫とかさぶたに覆われ、皮膚は割れ、うみが出ている。 | ヨブ記19章20節 | 骨は皮膚と肉とにすがりつき、皮膚と歯ばかりになって、わたしは生き延びている。神の試練はすさまじい。ともあれ「塵と灰」はこの「灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった」に対応している。またこの部分に至る話の流れを無視してはならない。ヨブは神の与えた様々な苦難にさいなまれ、ついに神に問いかける。自分は如何なる罪によってこのような境遇に晒されなければならないのか、せめて知りたいと。それに応えて神はついにヨブの前に現われる。 | これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経験を暗くするとは。 | 男らしく腰に帯せよ。わたしはおまえに尋ねる。わたしに答えてみよ 。 | わたしが大地を据えたとき、おまえはどこにいたのか。ヨブの前に現われた神はあくまで威圧的である。圧倒的な力の差を見せつけられてついにヨブは悟る。 | あなたは全能であり御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。 | そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。この後に件の部分は続く。一連の流れを素直に読めば、神の力と人間の力はあまりにもかけ離れており、神の考えは人間には理解不可能であること、(自分にひどい仕打ちをした)神の意図を神に問う行為自体が自分に神の考えが理解できると考えた無謀な行いであることをヨブは悟ったと解釈するのが妥当であろう。山本弘は「ヨブは悔い改めてなどいなかった」と述べているが、それでは前段の部分との齟齬が大きくなる。古代ヘブライ語は不明な部分が多い。単語の意味は時代とともに変わるし、変わった時期も諸説紛糾している。聖書の文言も書写を繰り返すうちに誤記や欠落があると考えられる。またヨブ記の最終章は散文と韻文が混在している。ジャック・マイルズは細かな文法や用語法を駆使して独自の解釈を試みているが、詩的な文章に対してことこまかに厳密な文法を当てはめることにどれほどの意味があるのか。なにより山本弘の「ヨブは悔い改めていない」という解釈では全体的な流れから浮いてしまっている。どのような解釈をしても何かしらおかしな部分が残るのであれば、全体的な整合性を優先するのが妥当であり、細かな文法的な整合性を偏重せんがために全体的な流れを犠牲にしてしまっては本末転倒といわねばならない。現在の定説となっている解釈がなぜ定説となっているかの考慮が欠けている。 * * *ヨブ記と神は沈黙せずのテーマは違うのか山本弘は聖書の既存のヨブ記の解釈を否定した上で独自の神と人間の関係を語っている。少なくとも本人はそのつもりのようだ。しかしはたしてヨブ記と神は沈黙せずのテーマは違うのだろうか。「神の思考は人間には理解できない」という点ではヨブ記も神は沈黙せずも同じである。山本弘がいうほどテーマに差異があるとは思えない。あえて違いを捜せば神は沈黙せずでは「神もまた人間の思考を理解できない」としている点だろうか。しかし神の思考は所詮人間には理解できないものである。神が人間を理解しているのかしていないのか、人間にとって重要なのだろうか。この違いが人間にとって如何なる生き方の違いをもたらすというのだろうか。山本弘はヨブ記の結末が不条理だという。しかし現在一般的とされているヨブ記の解釈は次のようなものである。先ず第一に神はヨブを信心厚いものとして評価していた。ここからすべてが始まる。信心深い人間であったからこそ様々な試練に堪えたのであって、不信心なものではこの後の物語は続かない。またうわべだけの心で神を信仰していたのでもない。彼の3人の友人は形だけのきれい事によってヨブに芽生えた神への疑問と絶望を取り除こうとするが、それはなんの救いにもならない。ヨブの神への疑問は神への信仰が本物であったからこそ芽生えたものであったからである。いわば信心深いものだからこそ抱く疑問であり、それを乗り越えることこそ神がヨブに与えた試練の成果なのである。「神の考えは人間である自分には理解できないのだから疑問に思ってはならない」これがこの試練によって得た悟りである。かくして神の試練を乗り越えたヨブには最後に幸福が与えられる。それでは神はなぜひたすら自分に対する信仰を人間に求めるのか?「神の考えを疑ってはならない」というともすれば思考停止の強制ともとれることをなぜ人間に要求するのだろうか。それは不虞な運命に打ちひしがれている人間には、時にはこうした思考停止もまた心の安全弁として必要だからである。宗教とは人間のこうした側面を担うものなのである。どこまでも考え続けひたすら真実を追究するのも人間なら、思考停止によって自分の心を守るのもまた人間なのである。ところが山本弘はオカルトを通してしか宗教を知らないので、宗教をまるでそこから逃れなければならない呪縛のように考えているのであろう。山本弘にとっては神を否定することが心の平穏のようである。しかし、科学にも宗教にもそれぞれ利点と欠点がある。欠点を憎むあまり科学を丸ごと否定してしまうことが愚かなように、宗教の長所を無視して丸ごと神を否定してしまう行為も愚かなことなのである。