tach談話室

過去ログ

2000年3月17日〜31日

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名 前   :フラニー
時 刻   :03月31日22時51分
アクセス  :1cust237.tnt2.dial.yok1.da.uu.net
メール   :渋谷さんへ

あ、さっきの「ローマンホリデー」の訳の件ですが、
バイロンの詩の事でしたか?
映画のことですよね。バイロンの方なら、わかるんですけど。
念のため。

名 前   :フラニー
時 刻   :03月31日22時48分
アクセス  :1cust237.tnt2.dial.yok1.da.uu.net
メール   :tachさんへ

tachさんへ

ラミ犬さんへのレスで書きましたが、私の目的は実はもう
達成されていたということが今更ながら判ったので、
この件からは退きますが、一応レスを返させて頂きます。
最初から細かい所まで書いてみます。

私が思うに、tachさんと私の間の「対立」の「根元」は、
「作者のモラル」や「著作権」に対する見解の相違では
ないです。無論。私は実際、この二つに強い意見があるわけで
はないです。

それは、一言で言えば、岡崎氏に対する、「思い入れ」
の強さ、です。

tachさんが敬愛する岡崎氏が、これまたtachさんの
愛する大島さんを引用をしたところで、それは嬉しいだけで、
何の痛痒も感じるわけはないと思います。

ちょっと想像してみてはいただけませんか?
もしも、tachさんの大嫌いな作家が岡崎氏をぱくったとしたら、
どうでしょう?
(私が岡崎氏を嫌ってるという意味ではないですよ。念のため。)

>大島弓子自身も、同じようなことをやっている。(もち
>ろん「量」は違いますが)突然、「ハンバーガーならヘ
>ルムート!」と出てきて、ニヤリとさせられたりする。
>しかし、ただそれだけのことで、そこに過剰な「意味」
>を求める気にはなれない。

それはそうですよぉ。
これは単なる、洒落です!意味などあるわけない。
洒落だけど、一ひねりあるでしょう?
そこが違うところだと思うんだけどなぁ。

>岡崎による「バナナブレッド」引用も、その程度のもの
>という印象しか、僕は持ちませんでした。

意味がないなら何故引用をするのでしょうか?
それがわからないですよ。私は。
単に、「何も言わずに、読者に向かって、そっとウィンクだけし
てみせる。」
その為ですか?
そんな底の浅いことなのかなぁ・・・。
ギブソンの引用のことをH.C.さんのレスで言ってらっしゃい
ましたが、ああいう引用法はごく当たり前のやり方ですよね。
勿論、それで作品に深みは出る。でも、岡崎氏特有の引用という
わけではない。しかし、引用の手法、或いはその分量によって、
岡崎氏の作品が独自の世界を作っている、というのであれば、
そこにはとても大きな齟齬が生じる。
底の浅い引用と、よくある引用。
この二つの引用ならば、何の意味があるでしょう?
他に彼女が引用を多用した、或いはしたことによって産まれた
別の意味。それが教えてもらえればなぁ。

岡崎氏のあの台詞が誰にでもわかるのか、それは私には
わかりません。しかし、私は自分が知ってるから、他の人も
知ってるであろうという考え方は、一見謙遜のように見えますが、
実は自分しか知らないだろうと思うのと同様、傲慢なことだと
思っているのです。

そして、オリジナルのように意図する気なら、言い回しを変えた
だろうとおっしゃいますが、あの台詞はどこをどのように
変えてもあの台詞の効果は出ないと思います。
だから、盗用したと言えるかもしれません。
引用とは、常に自分では創造できない人が、創造できないものを
引用するものです。
これははっきり言えると思います。
だからどうだというのではなく、あの台詞は岡崎氏には書けなかった、と。

>どうし てそう思いこんでしまう人のことが気になるのか、そう
>いうことに気が回る、フラニーさんの「心の動き方」が
>僕には不思議でした。

これも、一言、先ほど申し上げたことと同じです。
そういう風に心が動かないのは、tachさんが岡崎氏を
敬愛しているという事実があるからですよ。

>フラニーさん自身が「私は結構『台詞・フレーズ』に惹
>かれるっていうのが大きいんです」とはっきりと書かれ
>ている。つまり、言葉そのもに対する執着がものすごく
>強いのかなぁ、って感じ。

私は、フレーズに惹かれます。それはその作家の感性や、
内面が集約されることが多いからです。
まんがを描くとき、ネームが一番大きな位置を占めるという
のはだからですよね。
勿論、言葉にだけ執着しているわけではありません。
ですから、

>つまり、その「台詞・フレーズ」そのものに感動したと
>いうのは、極端な言い方をすれば「勘違い・思いこみ・
>錯覚」の類であって、本当は作品全体に対する感動がそ
>こに反映されているだけなのではないかという考え方で
>す。

これはtachさんの単なる私に対する思い込みで、私は
台詞、フレーズだけに感動しているわけでも、その面が
作品を鑑賞するにあたって、特別大きな側面であるわけでも
勿論ありませんよ。
tachさんは忘れてらっしゃるようです。
私がこの台詞を引いたのは、ラミ犬さんのレスに対する答え
だということを。

私の大島さんの作品への思い入れには・・・・・。
これは言い出したらキリがないです。
そういう点には誰も踏み入れないと思いますし、勝手な想像は
はっきり言ってとても不愉快です。

それから、言葉は誰のもの、という例の根源に戻った論理ですが、
単語に関してはそうでしょう。
しかし、何文節にも及ぶ文章にまでその論理を当てはめたとしたら、
何のために、誰が小説など書くでしょう?
マンガなど描くでしょう?
バナナブレッドの台詞にしたって、似たような台詞はあるでしょう。
でも、一言一句たがわぬ台詞が出てくるとは思いません。
他の文章にしたってそうです。
だから、盗用しても、それは盗用した人のモノになるという
考え方にはそれこそ気が遠くなるような屈折を感じます。

>ご自分も、岡崎のように、小さい頃から浴びるよう
>にいろんな漫画や本を読んで、似たような環境に育
>ったが、そのために既存の作品をことばのように身
>につけてしまったということは無かったということ
>に関して。

こんなことは一言たりとも言ってませんよ。
私は岡崎氏と似たような環境に育ったから、わかるのだが、
その時代における、岡崎氏の作品を見るに、彼女が浴びるように
本を読み、映画を観、言葉を身につけたということは
考えられない、と言ったのです。
oouiさんがおっしゃったように、「ジオラマ・・・」
以前の彼女の作品を読めば、それがわかると思います。
彼女はすごく努力して、身につけたんでしょうね。
デビュー後にいろんな知識を・・・・。
彼女は努力型。
大島さんは天才型。
努力型だから、天才型に憧れる、これは当然です。
桜沢エリカが大島さんを好きだと言っても私はおかしいとは
思いませんよ。
岡崎氏と桜沢エリカはほんっといっつもつるんでたから。
いつまでかは知りませんが。
少なくともデビュー当時は。
人間の感性が形成されるのはどんなに遅くても18歳までです。
それまでに得られていた才能ならば、デビューの時既に片鱗を見せて当然だと
思います。

しかし、私は岡崎氏が嫌いなわけではありません。
特別好きではありませんが。
ただ、引用どうの、という事に過剰な価値を見出さないだけです。

名 前   :フラニー
時 刻   :03月31日21時39分
アクセス  :1cust237.tnt2.dial.yok1.da.uu.net
メール   :渋谷さんへ

>ところで「ローマンホリデイ」の正しい日本語訳は、
>「ローマ人の休日」ですよね。

なんでですか?
正しい日本語訳が「ローマ人の休日」だという理由は?
教えていただけると嬉しいんですけど。
何か、あの映画に別の背景があるのでしょうか???


名 前   :フラニー
時 刻   :03月31日21時32分
アクセス  :1cust237.tnt2.dial.yok1.da.uu.net
メール   :ラミ犬さんへ

ラミ犬さん。(3/29)のレスです。

おっしゃること、良くわかりました。
私側にも誤解があって、すみません。

>ぼくは論争というものに興味がないので申し上げますが、
>「岡崎的引用は盗用でありアンモラルである」という前提で
>お話をされてもファンとは接点がないと思います。

はい!これは、私の思考(?)が、原点に立ち戻ることが
出来たという意味で非常にありがたいお言葉でした。
思い出したのでした!
・・というのは、本来私がしたかったのは、
oouiさんがまとめて下さった言葉をお借りすると、
「引用という行為が無条件に肯定されている風潮の
中で、引用という行為には倫理的な側面が存在する
ことが忘れられているのではないか?」ということと、
「このような倫理的な問題に対してどのような見識・見解
を岡崎ファンが持っているのか」というのを知ることでした。

なんでoouiさんの言葉を借りなきゃいけないかっていうと、
私が書くと、何かまた誤解を生みそうな気がしたので。

でも、「引用ということの倫理的側面を考えたこと」
があるどころか、皆さんがそれを認めて、引用・事例を
追求しているのであれば、それはそれで全く問題はない
のでした。
「もしかして悪いこと?」って思ったりもせずに
していることかと、何も知らずにここにやって来た
者だったので・・・・。
それが知らぬうちに違う方面に話が行ったもんですから、
ついついそれに応じる形と感情面も手伝って、
議論なんて全くニンに合わぬ事をしてしまったのでした。

ということで、今後この件からは、退きますが、
一応今までのレスにはお答えしたいと思います。

>そこで具体例としてバナナブレッドをあげて
>いただきましたが、これは ストーリーの剽窃
>とか換骨奪胎とは違います。「盗用」といわれても、
>にわかにその土俵で応じることはできません。

揚げ足を取る気はなく、剽窃であったり、換骨奪胎は、
わたしは盗作と呼びます。
寧ろ、台詞ひとつを引く、「盗用」であることが
ひっかかたと言えるでしょう。
いっそ、換骨奪胎だったりしたほうが、潔い気がします。
換骨奪胎の方が余程技量のいることですから。
10年以上前かな。ご存知かとも思いますが、文学界新人賞を
その当時史上最年少で受賞した鷺沢萌の「川べりの道」
という作品があります。短編小説ですが。
これは当時、吉田秋生の「川よりも長くゆるやかに」
の設定をまるまるぱくっている、と物議を醸したものですが、
私はこの作品は確かに設定は吉田秋生とそっくりだと
思いましたが、作品としては、完全に別個のストーリーと
内面世界を描き出して、とても素晴らしい作品だと思いました。
肯定しています。
ですから、私個人としては、議論の方向性から「道徳」に
縛られてるような側に立ってましたが、決してそんなこと
はないんです。
もちろん、岡崎氏を訴訟にかけたいなんて1mmだって
思ってませんよ!

それから、気にしてらっしゃる、という

>盗用がいけないんではないの?考えた方がいいんではないの?
>と思ったひとつのファクターではありますが、
>主要因ではありません。念のため。(どうでもよかった?)

という私の発言ですが、つまり、私の好きな作家が盗用
されている事実で熱くなった、というのは事実ですが、
「盗用がいけないのではないか」
と思ったのは、あくまでも感覚的な問題です。
それが一番の理由ということです。
先ほども言ったように、書き込みの形とその後の方向性から、
「モラル」という点で話を進めていましたが、実際の本当の
所は、言葉では表わしづらい、なんとなく、
「いいのかなぁ。こういうのってありかなぁ」
っていう感じを受けたということなのです。
ですから、ラミ犬さんのおっしゃるように、
岡崎氏のファンの方々とは全く違う感性で
作品を読んでると思われます。
いい、悪いではなくて・・・・。

名 前   :it
時 刻   :03月30日06時57分
アクセス  :tkyca-0515p68.ppp.odn.ad.jp

poohさんへ

「なんで岡崎さんは引用の仕方まで、 ゴダールの真似をするん
だろう」とおっしゃるけど、岡崎がどこらへんで引用の仕方まで
ゴダールの真似をしているのかよくわかりません。
そもそも、岡崎の引用の仕方にもいろいろなレヴェルがあるのだ
し(単なる他作品の仄めかしから、プロットの拝借まで)ゴダー
ルの引用にも様々なレヴェルがあります。たとえば『勝手にしや
がれ』でハンフリー・ボガートのポートレイトをだしてみるのと、
『アルファヴィル』が濃厚なフィルムノワールの雰囲気で撮られ
ていること、あるいは『新ドイツ零年』で過去の映画作品がヴィ
デオで直接引用されること、また『カルメンという名の女』『ゴ
ダールのマリア』のように誰もが知っている物語(カルメンある
いは処女懐胎の物語)を反復すること、さらに夥しい文学、哲学
テクストからの引用等々。
岡崎京子の引用の仕方はそのどのレヴェルで似ているのか、いま
いちわかりません。あるいは似通っていたとしても、それが岡崎
京子固有の問題なのでしょうか。大体、漫画界で引用といったら
岡崎以外にもよしもとよしともや山本直樹だってけっこうやって
ると思う。彼らの引用と岡崎とはどのように違うのでしょうか。
あるいはゴダールの引用の仕方とは?
またpoohさんは
「ゴダールが、映画史をしっかりみすえて 引用という技術の可
能性を汲みつくそうとしている」
とおっしゃるけど、ゴダールの引用だってきわめていいかげんで
す。このことは今でてる批評空間の浅田彰と蓮実重彦の対談を読
めばよくわかります。ちなみにその対談ではゴダールはやっぱり
インチキだからすばらしい、というようなことがいわれています
が、実際そのようないいかげんさが新しいものを産みだす力にな
ることはよくあることだと思います(岡崎も含めて)。
あっ、両方ともいいかげんってところが似ているのだろうか。

僕はゴダールと岡崎京子がいなかったら、これまで生き延びてこ
れなかったかもしれない人間なので他にもいいたいことはあるの
ですが、またそのうち。

名 前   :pon
時 刻   :03月30日02時55分
アクセス  :mtmt3ds42.ngn.mesh.ad.jp

初めまして。
難しい言葉でいろいろ議論されているようですね。
場違いなのかしら??
まあいいや!書いちゃおーっと。

わたしなんかは、読後感が『ああ…』ってかんじで好きだ。とか、
そんなんです。
このサイトに初めて来て、
『そういわれてみればそうだ』って改めて思ったりはしたけど、
いちいち立ち止まって『この言葉はさっきのあのセリフを…』
とか思いながら見たことなかったので。

読後感だけじゃ駄目なのかなあ。
そういう人の発言がないので不安に襲われています。
ううむ。
やはり場違いだったのか?

名 前   :渋谷
時 刻   :03月30日01時08分
アクセス  :102.pool15.tokyo.att.ne.jp
メール   :ゴダール

>「なんで岡崎さんは引用の仕方まで、
>ゴダールの真似をするんだろう」


別にそれは、
「引用の仕方を引用した」
ってことでいいのではないでしょうか。ダメですか?

もし「引用<創造」という不等式が成立しているうちは、
「引用の仕方までゴダールの真似」
という批判は成り立つと思いますが、
その不等式すら自明ではない地平においては、
別に問題のあることではないように思いますが。

むしろ、現代において引用をシリアスに考えると、
ゴダールは避けては通れないと思うのですが、
岡崎京子は、そこを避けて通ってないだけだという気がします。

くり返しになりますが、マンガというもの自体が、
手塚治虫がアメリカ映画の手法を取り入れたことで成立したスタイルですから、
岡崎がゴダールの手法を取り入れたとして、
別に今更マンガ界から批判されるいわれはないと思っています。

まあ、僕は岡崎京子先生は、それ以上のものだと思ってますけど。

名 前   :しまん
時 刻   :03月29日23時10分
アクセス  :p84b75b.sng4.ap.so-net.ne.jp

英語の言い回しで
"Today is the tomorrow you worried about yesterday.
「今日は、昨日あなたが心配した明日」っていうのがありますよね。
"but in two days tomorrow will be yesterday.
と続いたり。同じように
"Tomorrow today will be yesterday."
なんていうのもあったと思います。
「バナナブレッド・・・」の「きょうはあしたの・・・」を
読んだとき、私はそういった類のフレーズを作者が遊び心を込めて
変化させ、より洗練された感じにしたのだろうと、思い込んで
いました。


名 前   :pooh
時 刻   :03月29日21時57分
アクセス  :dltk065.micras.ne.jp

いまのところ、岡崎式引用の道徳性について、
もっぱら議論されてるようですが、
より本質的な問題は、「なんで岡崎さんは引用の仕方まで、
ゴダールの真似をするんだろう」って点にあるような気がします。

正直いって、ゴダールが、映画史をしっかりみすえて
引用という技術の可能性を汲みつくそうとしているほどには、
岡崎さんは「創造」していないようにおもえるのです。
(そりゃあたりまえって???)

どなたか、ポジティヴなご意見お持ちじゃありませんか。

このままじゃ、
岡崎は、無知で蛸壺のマンガ界に、ゴダールの手法を
導入した、なんてつまんない考察に終始しそうでいやです。

四方田犬彦に先を越されないうちに(?)、
どなたかしっかり論じてみませんか?

名 前   :ラミ犬
時 刻   :03月29日12時21分
アクセス  :削除
メール   :lami@bakkers.gr.jp
ホームページ:http://bakkers.gr.jp/lami/sfu/

フラニーさん。
失礼があったらすいません。はぐらかしたりしたいわけではありません。

盗用元とその使われ方を質問したことの骨子、というのは、
具体例があがれば「こりゃほんとに盗用だ」というのが出てくるかも
しれないと思ったからです。ひとからげに「盗用」ときめるのはどうも
納得できないので。

そこで具体例としてバナナブレッドをあげていただきましたが、これは
ストーリーの剽窃とか換骨奪胎とは違います。「盗用」といわれても、
にわかにその土俵で応じることはできません。
あした初体験をひかえる少女のセリフとして、ひとりだちの不安をあらわした
バナナブレッドの世界をひっぱってきてみせた。。。と、引用の理由を
説明しろといわれればそうなります。
本歌取りとしてよくできていると思いますよ。

「私の提議は最初から、もっと身近に感じる、違和感とかだったり、
ある種の不快感だったから」とフラニーさんがおっしゃっているということは、
フラニーさんは盗用問題で岡崎を訴訟にかけたい、ということではなくて、
「わたしはこれが嫌い。で、ファンはどうよ?」という意味であろう、
と推測しました。
それが、ぼくの「そのことが確認できてよかったと思ってます」
という発言です。これは勘違いではなかったらいいですが。

しかし、一点気になっていることがあります。
03月21日のフラニーさんの発言からひきます:

>私が腹を立てている、って言ったというのは
>
>>そうなんですよねー。何で熱くなってるかっていうのは、
>>結局、私の愛する人たちの作品なりシーンなりが
>>引用されているからに他ならないんですよ。
>
>この部分ですよね。
>しかし、これはあくまでも「熱くなっている」
>理由ですからね!(笑)
>盗用がいけないんではないの?考えた方がいいんではないの?
>と思ったひとつのファクターではありますが、
>主要因ではありません。念のため。(どうでもよかった?)

ここでの「主要因」ってよくわからなかったんです。
どうでもよくないので、教えて下さい。

ぼくは論争というものに興味がないので申し上げますが、
「岡崎的引用は盗用でありアンモラルである」という前提で
お話をされてもファンとは接点がないと思います。
といって、そもそも芸術なるものは、、、という話でフラニーさんが納得
されるとも、ぼくは思ってません。

フラニーさんが「岡崎のこの作品は好き。だけど。。。」というような
意味で納得されていない・不快感を持っている作品について論じ合うのであれば
よりお話がしやすいのではないでしょうか。
そういうのがあればいいんですけど。

名 前   :渋谷
時 刻   :03月29日01時22分
アクセス  :57.pool15.tokyo.att.ne.jp

>tach氏
や、まったく迷惑などしておりません。
言語の世界の限りにおいては、
僕は「オリジナリティー否定論者」ですので、
みなさんに問題はないです。


ところで「ローマンホリデイ」の正しい日本語訳は、
「ローマ人の休日」ですよね。

名 前   :フラニー
時 刻   :03月29日00時15分
アクセス  :1cust25.tnt2.dial.yok1.da.uu.net
メール   :ラミ犬さんへ

>著作権云々に関する話について、もうちょっと具体的な例に即した >話もしたいと感じてます。

>そもそもここで盗用された作品というのは何だったんでしょうか。 >岡崎のどの部分にどんな風に使われていたのでしょうか。
>ここは聞いておきたいなと思います。

私がラミ犬さんに質問されたのは、岡崎氏の盗用元の
作品と、その使われ方だったと思うのですが、

私のレスの中の
「私の提議は最初から・・・」という一節を引き、

>そのことが確認できてよかったと思ってます。
とありますが。

何だか、階段を2段くらい踏み外した感じです。

この台詞だろうが、どの台詞だろうが、
推測、こじつけ以外に真の答えは岡崎氏にしかありません。
それは当然なのですが、私に、盗用元とその使われ方を
質問された、その骨子はなんだったのでしょうか?
それをおっしゃらないまま、他の部分で納得されても・・・・。


名 前   :河野
時 刻   :03月28日23時35分
アクセス  :gwq.oec-net.or.jp
メール   :kawa@oec-net.or.jp

「ローマン・ホリデー」について。
周知のことかもしれませんが、英語で言う"Roman holiday"とは
「人の犠牲[苦しみ]によって得られる娯楽 《ローマ人が楽しみに闘技場で剣士などを闘わせたことから》」
(『研究社リーダーズ英和辞典』より)という意味です。映画の『ローマの休日』のタイトルにはそういう意味も
込められていると思います。

名 前   :tach
時 刻   :03月28日23時26分
アクセス  :1.pool4.yokohama.att.ne.jp
メール   :tach@iname.com
ホームページ:http://www.freepage.total.co.jp/tach/

渋谷さん

> 実は僕は「オリジナリティー」ってあると思っていて、
> (元から僕は自分の口から「オリジナリティーなん
> てものはない」と言った覚えはないんですが)

すみません。
以前議論したとき以来、渋谷さんは「オリジナリティー
否定論者」なのだと思いこんでいました。余計なことを
言って、ご迷惑をかけてしまったかもしれません。決し
て悪気はなかったのですが…
しかし、渋谷さんは厳格だと思う。(僕がいい加減なの
か?)


oouiさん
「ローマン・ホリデー」の件、快く承知していただいて
ありがとうございました。
次回書き込み、お待ちしてます。


追伸
このところ議論で頭がいっぱいになってしまい、返すべ
きレスを返していません。近々まとめてレスさせてくだ
さい。

名 前   :ooui
時 刻   :03月28日00時58分
アクセス  :tyscc-06p78.ppp.odn.ad.jp
メール   :cbh96360@pop02.odn.ne.jp

>tachさん

引用事例集への転載は、もちろんOKです。
ぼくの見込み違いでなければ良いのですが(笑)

できれば、また週末あたりに書き込ませていただきます。
よろしく。

名 前   :ラミ犬
時 刻   :03月27日13時09分
アクセス  :削除
メール   :lami@bakkers.gr.jp
ホームページ:http://bakkers.gr.jp/lami/sfu/

フラニーさん:
>私の提議は最初から、もっと身近に感じる、違和感とかだったり、
>ある種の不快感だったから。

そのことが確認できてよかったと思っています。
ぼくの場合もtachさん同様、バナナブレッドのセリフを見て
「あ、岡崎って大島弓子好きなんだ、うれしいな」という反応をしました。

「この台詞でなければいけなかった理由」というのは、推測したりこじつけたり
はできるでしょうが、一言では誰も答えられないと思います。
作家の方法論によるものだと思いますし、ストーリーを翻案したというような
パクリとは違います。
それでいうと、「Pink」のワニなんかの方がぼくは気になります。

>岡崎氏の作品にはどうでも いいことには注釈がついてたりしますよね。

これは、単に実用性の問題と思いました。「ファムファタル」は誰でも知っている
かどうかわからない。そして、Velvet Underground & Nicoの曲タイトル、という
注釈はついていない(ついでですが「運命の女」という意味ではなくて「妖婦」
みたいな意味らしいですけど)
ヒスグラは発表誌の性格で、ギャル風俗を解説するマンガだったから、では
ないですか。
全部 (c) をつけたらそれでいいかというと、どうもそうでもないかもしれません。
ヒップホップの世界では、ついにバスドラムの一音といえどもサンプリングしたら
違法ということになってしまったらしいです。許されるのは元音の作成者が許可
したときだけ、と聞きました。

渋谷さん:
>実は僕は「オリジナリティー」ってあると思っていて、

ぼくは岡崎的引用というものの意味がよくわからなくて、なんでこんなにする必要が
あるんだろうと思ってたのですが、これが彼女のスタイルそのものなのだと
超おそまきながら最近感じています。
そして、この「スタイル」というのが、彼女のオリジナリティである。
異様に凡庸ですが、そうとしか言う言葉を知りません。

全部なしでもお話はできるのに、ここまで引用してくるというのは、
その行為自体に意味があるとしか考えられません。
以前のログにあった、「安易に創作に走るのでなく、苦労して引用する方を選んだ」
という発言について、再考しています。

そのことの是非というのは受け取り手により反応が様々でしょうが、
こういうスタイルを持ったマンガ家というのは他にいるのでしょうか。
その人との比較なんかもしてみたいと思いました。
音楽の分野では、ほとんどの人がこの方式をやっているのではないかな。

名 前   :渋谷
時 刻   :03月27日05時32分
アクセス  :146.pool17.tokyo.att.ne.jp

理解。

oouiさん、レスありがとうございます。
僕は理念でしか考えていないですから、
あくまで道徳のレベルで語ろうとしてた人とは話合わないまま、
結局は価値観の違いで空しい終わり、とわりと僕は納得しました。

まあ、僕の信じてる理念をちょこっとだけ言えば、
今更いうのも何ですが、
実は僕は「オリジナリティー」ってあると思っていて、
(元から僕は自分の口から「オリジナリティーなんてものはない」と言った覚えはないんですが)
でも、「じゃあオリジナリティーって何だ?!」と問われると、
僕にはその答えは「わからない」んですね。
わからないけれども、あるとしか言いようがない、
そういうものがオリジナリティーだと思っています。
だから、オリジナリティーというものを言葉で表すのは不可能で、
あえて言えば、「これはオリジナリティーではない」「これも違う」・・・と、
「not」を積み重ねてゆく砂を噛むような空しい作業をくり返してゆく中で、
一瞬輝く光のようなもの、
それがオリジナリティーだと思っています。
それは一瞬ですが、しかし一瞬である限りにおいて永遠である・・・
そういうわけのわからない表現でしか、言語では表すことができない。
だから、我々が言葉を使うときは、オリジナリティーについて語ることはできず、
語り得るのは「引用」についてだけ・・・、
だから僕は一見すると「引用主義者」のような言葉だけをくり返し言っていたわけです。
だからある意味で、僕はここに居る人達の中で、
もっとも「オリジナリティー」を信じている狂信者、であると言えるかもしれません。
(みなさんはオリジナリティーを言語で追及しようとしていますが、
僕ははなからそれを放棄して「あるとしかいいよおうがない」と信じているのですから)

だから、
例えば(C)マークがついていればどうだ、とか、著作権がこうだ、とか、
共同体的な道徳でオリジナリティーを語り得る、という考えは、
まあ、理解できなかった、または、理解したくなかった、ということでしょうか。
そこで主張されているオリジナリティーなんて、
普遍性を装っているようで実はローカルなもの、としか、
僕の理念からは言いようがないものなあ。
でも理念も、道徳だけで物を考える人の前には無意味か。

「ローマンホリデイズ」については、
言われてみればそうか、と思いました。

名 前   :tach
時 刻   :03月27日03時04分
アクセス  :125.pool4.yokohama.att.ne.jp
メール   :tach@iname.com
ホームページ:http://www.freepage.total.co.jp/tach/

oouiさん

渋谷さんへのレスなので、僕が何か言うのは割り込みっ
ていう感じがして少々気が引けるのですが、僕の書き込
みにも触れられているので、弁解・質問等、させてくだ
さい。
それから、ついでと言っては何ですが、お願いも…


● 価値観

> tachさんの感想には、すでに岡崎に対する価値判断が
> 入ってるような気がして

oouiさんのご指摘通り、ここには当然、僕自身の岡崎に
対する価値判断が含まれています。oouiさんが引用され
た原文の直前に僕が明記したように、これは、僕自身の
「心情」の率直な告白のつもりです。
これに対しては、まさに、oouiさんの仰るように、フラ
ニーさん自身が、「不本意なやり方で引用されていて納
得がいかない」なり、「岡崎が大島を引用するのは何か
の間違いではないか?」なり、答えていただければいい
のであって、そこからまた話が始まるのだと考えていま
す。

僕の考え方が素朴過ぎるのかもしれませんが、「超越的
な批判は、最終的に価値観の違いという当たり前の事に
落ちつきそうで、あまり議論においては意義を感じな
い」というご意見には納得が出来ません。

まず、「価値観の違い」というものは、議論を始めた段
階では、必ずしも明白なものではないということです。
むしろ、普通は、議論をして、ようやく、底に潜んでい
た「価値観の違い」があぶり出されてくる。

次に、「価値観の違い」にたどり着いたら、そこですべ
てが終わってしまうのか?
僕は必ずしもそうではないだろうと思います。思いもか
けなかった価値観に出会って視野が広がるということも
あります。或いはそれまで自分自身が疑いを抱かなかっ
た自分自身の価値観が揺らぎ始めたり、時には変わって
しまうということだってあり得る。
それこそが議論をする「意義」であるように、僕には思
えます。

ひょっとしたら、oouiさんは、揺らいだり変わってしま
ったりするようなものは「本当の価値観」では無いとい
う「価値観」の定義に基づいて話しておられるのかもし
れません。
だとしても、少なくともこの掲示板での議論は、まだ、
その「真の価値観」の相違までにはたどり着いていない
ような気がします。


● 岡崎の引用の鼻持ちならないスノビズム
これは正直言って、僕も、「ある」と思います。
前回の書き込みはあくまで「ロシアの山」と「ローマ
ン・ホリデー」における「バナナブレッド」の引用に限
って書いていたので、引用を積極的に肯定する形になっ
ていますが、すべての引用が素晴らしいものであると言
う気は全くありません。
もちろん、oouiさんの仰るように、岡崎のスノビズムや
軽薄さは多分に意識的な面もあって、その屈折した態度
を楽しむことも可能です。
ただ、これがある意味での真面目で良質な(主観的価値
判断?)読者を遠ざけている面があることも確かで、岡
崎自身にとってマイナスなのではないかと危惧していま
す。
そういう「真面目な人」に対しては、岡崎にはそんな欠
点を補ってあまりある美点があるんだと説明しています
が、なかなか分かってもらえないようです。
困ったもんだ…


● 「ローマン・ホリデー」
最後に、お願いです。
僕自身は、妙にインパクトがあるが、今ひとつ分からな
いところがある作品と思っていたので、oouiさんの解釈
を読んで、なるほどと思いました。
引用事例集に是非転載させていただきたいのですが、如
何でしょう?



…と、書いてアップロードしようとしたら、shinさんの
書き込みを見つけたので、

shinさん
はじめまして。
もし、まだ、ご存じでなかったら、下記のURLに行って
是非「投票」してきてください。なんと言ったらいいの
か、「ヘルター・スケルター」の刊行運動みたいのをや
ってます。

http://www.taomi.com

名 前   :shin
時 刻   :03月27日02時53分
アクセス  :g21206.dion.ne.jp
メール   :m_suzuki@d4.dion.ne.jp

初投稿です。
僕が岡崎京子のマンガを初めて見たのは中1の時、雑誌キューティで連載してた「東京ガールズ・ブラボー」で、その後スグにスタートした「リバーズ・エッジ」でファンになり、とりあえず出てるコミックは全て読みました。コミック化されていないものでは「うたかたの日々」は当時のキューティを保存していたため第1回から最終回まで全て切り抜いてファイリングしています。僕が好きな岡崎マンガはネガティブなストーリーの作品です。連載中何度か読んだ「ヘルター・スケルター」なんてその代表といった感じで、読破しなかった事に後悔しています。コミック化される事はないんでしょうか???

名 前   :ooui
時 刻   :03月26日23時52分
アクセス  :tyscc-05p32.ppp.odn.ad.jp
メール   :cbh96360@pop02.odn.ne.jp

渋谷さんへ
レス遅れました。

>そこで更に、ooui氏に質問したいんですけど、
>「超越的」な反論というのは、ダメなんですか?
>だとしたら、先の私の読みも、間違っていたということになると思うので、
>お手数とは思いますが、教えていただければ幸いなのですが。

価値とか理念というものは超越的でしかありえませんし、そして人間が価値観や理念を持たないわけにはいきませんから、最終的に超越的な事柄が出てくるのはやむを得ないでしょうね。
カントに即して言えば、超越的なものが積極的な意義を持つのは実践の領域においてです。
超越的な理念は実践によって実現される目的として、あるいは実践の指針として現実に無いものであるから意味があるという感じかな。
そういう意味では超越的なものは、他人にではなく自分自身に関わる事柄であって直接的には他人に主張することではないです。
渋谷さんに「引用にはオリジナリティがない」といったって、「オリジナリティなんてしるか!」っていうふうになるでしょ。
超越的な批判は、最終的に価値観の違いという当たり前の事に落ちつきそうで、あまり議論においては意義を感じませんね。
ただ、理想と現実のギャップをつくということでは、オリジナリティ主張する凡庸なアーティストに、「おまえにオリジナリティー無いじゃん」といのうは当然アリだと思います。
ただフラニーさんにたしてこの論法を使うのは揚げ足取りとしか感じられません。
もちろん、勝ち負けに拘った議論でしたら揚げ足取りもアリだと思いますが(笑)。

さて、
そういう意味では

>僕からしてみると、どうしてそんなことが気になるのだ
>ろう、と、むしろ不思議に思えてしまいます。そう思い
>こんでしまう人がいても、それはその人の問題であって、
>僕にとってはどうでもイイや、という感じです。どうし
>てそう思いこんでしまう人のことが気になるのか、そう
>いうことに気が回る、フラニーさんの「心の動き方」が
>僕には不思議でした。

というtachさんの感想には、すでに岡崎に対する価値判断が入ってるような気がして、ちょっと不満だな。
素朴に考えて、不本意なやり方で引用されていて納得がいかないとか、「この人がコレを引用するのは何かの間違いではないか?」とかっていう感想を持つことがあるのは、普通にあり得ることだと思うのです。

当然の事ながら岡崎を評価する人もいれば評価しない人もいるわけで、岡崎の引用の仕方に鼻持ちならないスノビズムを感じたり、岡崎自身が言っているようなスチャラカな振る舞いに軽薄さが感じられて、岡崎があまり好きではないという意見は80年代にはけっこうあったんじゃないでしょうか。(僕は軽薄な中高生だったので楽しかったのですが(笑)。)
苦労してきた内田春菊が岡崎京子・桜沢エリカを嫌っているなんていう噂(あくまで噂ですけど)に、当時はそれなりの信憑性を感じたりしたものです。

価値判断を抜かして言えばそれはそれで真っ当な感想で、それに尽きるとは思いませんが岡崎にそういう俗っぽさ(鼻持ちならない軽薄さ)がある(あった)というのは事実だと思いますし、大島弓子という作家がそういった俗っぽさとは対極に位置するという考えはあるような気がします。
岡崎はともかく、桜沢エリカが大島弓子を好きだといったら、僕でもヘンな感じがすると思うな。フラニーさんがどのように思ってらっしゃるか判りませんが。

フラニーさんは岡崎がデビューしたころからご存知だそうですけど、tackさんも『リバーズ・エッジ』は当然のこととして、『PINK』はおろか『ジオラマ・ボーイ、パノラマ・ガール』もまだ描いていない岡崎京子を想像してみいただけるとありがたいのですが。
ちょっと感じ方が変わりません?

あとtachさんがふれていたので読み返してみたのですが
「ローマン・ホリデイズ」は父親の会社のために政略結婚する女の子が、結婚式の前日に最初の恋人、最後の恋人と三人で過ごすという話ですがですが、ピチカート・ファイヴのデビュー・シングル『オードリー・ヘプバーン・コンプレックス』に“あした結婚するのよ”というフレーズがあります。
僕はピチカートのこの曲が、作品の設定のアイデア元になっていると思います(どうですかね>渋谷さん)。
大島弓子の件の台詞が姉の結婚式の前日に言われていることを考え合わせると、引用の必然性はともかくとして遊びとしては気が効いているのではないでしょうか。
そしてピチカートの曲とも大島弓子とも関係なく、理想が理想でしかないような現実、刹那的でしかないような永遠のもの、かけがえのないことのありきたりさ、といったようなとても岡崎的なテーマがそれまでになく簡潔かつ明瞭に描かれているような気がします。
作品としても良い出来であると思いますし、その後の岡崎の歩みを考えると初期岡崎の重要作なのでは。
また「ローマン・ホリデイズ」で女の子が髪を切るのはもちろん映画『ローマの休日』の引用ですが、髪を切ることが『ローマの休日』では王女という身分のしがらみを断って身軽になるという事を意味していたのに対して、ここでは失恋した女性がするような、断念というか思いを断ち切るといったような古典的な意味になっています。
この例は同じ行為が文脈によって意味が変わるという引用ならではの面白さではないでしょうか。
フラニーさん、いかがでしょう?

名 前   :tach
時 刻   :03月22日22時43分
アクセス  :30.pool4.yokohama.att.ne.jp
メール   :tach@iname.com
ホームページ:http://www.freepage.total.co.jp/tach/

フラニーさん

まず一つ反省。

話がこじれてきたときは出発点に戻った方がいい。

そんな意味で、ラミ犬さんの指摘は、もっともなものだ
と思いました。

まず、ラミ犬さんが敷いてくれた路線に沿って、フラニ
ーさんが「けしからん」と思った岡崎の具体的な引用例
について話をしてみます。

バナナブレッドのプディング

フラニーさんと僕の間にある「対立」の「根元」は、
「作者のモラル」や「著作権」に対する見解の相違では
ない。
フラニーさんがラミ犬さんに宛てて書いたレスを読んだ
とき、そう思いました。

前にも書きましたが、僕も大島弓子の大変なファンです。
中でも「バナナブレッドのプディング」は最も愛好する、
僕自身に取って特別な作品です。

そんな僕が、「今日が明日の前日だから、だからこわく
てしかたがないんですわ」という台詞を、岡崎の「ロシ
アの山」や「ローマン・ホリデーズ」の中に見つけたと
き、感じたのは、「嬉しさ」でした。

ああ、岡崎京子も大島弓子が好きなんだな、と思った。
「私も大島弓子が好きなんだよ。ねぇ、分かるでしょ
う?」という密かなメッセージを自分がしっかりと受け
取れたという喜びと満足感だけ。

フラニーさんも指摘しているように、作品の中に、本筋
とは関係のなさそうな、「言及」やら「引用」やらをち
りばめるのは、元々、少女漫画の伝統みたいなものです。

大島弓子自身も、同じようなことをやっている。(もち
ろん「量」は違いますが)突然、「ハンバーガーならヘ
ルムート!」と出てきて、ニヤリとさせられたりする。

しかし、ただそれだけのことで、そこに過剰な「意味」
を求める気にはなれない。

岡崎による「バナナブレッド」引用も、その程度のもの
という印象しか、僕は持ちませんでした。

もちろん、「意味」を探そうとすれば不可能なことでは
ないかもしれない。例えば、ひたすらに「性」を恐れて
純潔に留まろうとする三浦衣良と同じ心情が、自ら進ん
で「性」を体験しようとしている女性の中にも潜在して
いることを表現したのだとか…

しかし、僕にとっては、そんなことはどうでもいいこと
でした。大切なことは、大好きな大島弓子を、大好きな
岡崎京子も、好きなんだということです。何という喜ば
しい一致だろう。僕はただ幸せなだけでした。

岡崎が大島弓子の台詞を「盗んだ」というようなことは
全然考えもしなかった。
「今日が明日の前日だから、だからこわくてしかたがな
いんですわ」という台詞が大島弓子のものであることは
あまりにも明白なことのように思われたからです。

そもそも、岡崎自身が、この台詞を、自分のオリジナル
なものだと思わせようと「意図していた」などというこ
とは、あり得ないことのように思えます。ちょっと漫画
を読む人なら、誰でも気づくことです。
本当に読者を欺こうとしているなら、言い回しを変える
とか、もう一工夫ありそうなものです。
それどころか、「バナナブレッド」の引用は、あまりに
も剥き出しで、読者に気づいて欲しいと言わんばかりの
感じがあります。実際そうだったのでしょう。

結局のところ、この「バナナブレッド」を含めて、原典
を明示しない「岡崎式引用」の多くは、そういうものだ
という気がします。
何も言わずに、読者に向かって、そっとウィンクだけし
てみせる。分かる人には分かるが、分からない人には分
からない。分かった人は、ちょっと作者に近づいたよう
な内輪の気分が味わえる。そんな風にして、岡崎は「読
者の心」を盗んだのかもしれません。

フラニーさんが、僕宛のレスの中で、指摘していたよう
に、岡崎には、自分と同じような背景を共有する人だけ
を相手に描いていたような面も確かにあったと思う。分
かる奴にだけ分かればいいという感じ。すべての作品が
そうだとか、ある作品の全体がそうだとか、ということ
ではなく、そういう面があった。それがいいことか悪い
ことかという議論を離れ、岡崎はそういう作家であった
ということです。そこには、可能性と同時に、限界も存
在していたでしょう。

でも、ここで、フラニーさんは言うわけです。
いくら岡崎にその気がなかったとしても、結果として、
その「引用」を岡崎自身のオリジナルだと思いこんでし
まう人がいるでしょう、私はそれが許せない、と。
(フラニーさんはここで「モラル」という言葉を持ち出
しましたが、「本心」としてはこういう言い方の方がフ
ラニーさんの心情の表現としては正確なのではないかと
「推測」しました)

(以下、二つの段落は、あくまで僕の「心情」の説明で
す。フラニーさんが間違っているとか、僕が正しいとか
言う話ではない)

僕からしてみると、どうしてそんなことが気になるのだ
ろう、と、むしろ不思議に思えてしまいます。そう思い
こんでしまう人がいても、それはその人の問題であって、
僕にとってはどうでもイイや、という感じです。どうし
てそう思いこんでしまう人のことが気になるのか、そう
いうことに気が回る、フラニーさんの「心の動き方」が
僕には不思議でした。

そもそもある台詞のオリジナルが誰のものかと言うこと
など、僕には、それほど大きな問題とは思えません。例
えば、「今日が明日の前日だから、だからこわくてしか
たがないんですわ」という台詞が、もし仮に(あくまで
も純粋に仮定の話です)大島弓子のオリジナルでなかっ
たことが明らかになったとしても、僕にとって、「バナ
ナブレッド」という作品の価値が下がることはありませ
ん。「今日が明日の前日だから、だからこわくてしかた
がないんですわ」という台詞の価値も、やはり同じだと
思います。その台詞がどのように使われていたかが問題
なのです。その台詞を輝かせていたものは、その台詞そ
のものではなく、その作品全体の中での「使われ方」な
のではないかと思うのです。


で、どうして、フラニーさんと僕の間に、こんな違いが
生まれてしまったのでしょう?

レスを読んでいる内に気がついたのですが、同じ「バナ
ナブレッド」が好きだといっても、どのように好きかと
いう点がかなり異なっているようです。

フラニーさん自身が「私は結構『台詞・フレーズ』に惹
かれるっていうのが大きいんです」とはっきりと書かれ
ている。つまり、言葉そのもに対する執着がものすごく
強いのかなぁ、って感じ。

それからもう一つ。
その言葉はある「個人」が生み出したものであるという
意識がものすごく強いような気がする。

翻って、僕の場合を考えてみると、作品全体をトータル
なものとして捉えている傾向が強いように思えます。も
ちろん、要素というものはとても大事です。絵と台詞は
とても大切です。僕の場合は絵が嫌いだったら、まず、
だめです。それからシーンもとても大切ですね。でも、
絵・シーン・台詞は、作品そのものではありません。煉
瓦は家ではなく、ゼンマイや歯車は時計ではないという
ことと同じことです。
逆に言うと、絵は好いなと思っても、好きになれない作
品・作家はたくさんいます。それから、先ほど、絵が嫌
いだとまずだめだと言いましたが、例外的に、絵は好き
でなくても作品としては非常にいいなと思える作品もあ
ります。
同じことの繰り返しになりますが、やっぱり、僕は作品
をトータルなものとして捉える傾向が強いと思う。

ただ、こうして考えてくると、フラニーさんも基本的な
ところは同じなんじゃないかなぁ、という気もしてくる。
いくら「台詞・フレーズ」に惹かれると言っても、あく
まで、そういう面が「結構…大きい」というだけのこと
ですよね。
「今日が明日の前日だから、だからこわくてしかたがな
いんですわ」という台詞がいくらすばらしいと思ってい
ると言っても、その台詞が、絵も、ストーリーもなく、
ぽつんと置かれているだけでは、それほどまでに感銘を
受けるはずがない。あの絵・あのシーン・あのストーリ
ーの中のあの位置に置かれていたからこそ、すばらしい
ものだと思えたんじゃないかなぁ…。
そうですよね、やっぱり?

結局、フラニーさんの場合は、作品全体に対する感動が、
どういう訳か、特定の「台詞・フレーズ」に「集約」さ
れていく傾向があるというだけのことではなのかもしれ
ない。
つまり、その「台詞・フレーズ」そのものに感動したと
いうのは、極端な言い方をすれば「勘違い・思いこみ・
錯覚」の類であって、本当は作品全体に対する感動がそ
こに反映されているだけなのではないかという考え方で
す。

ついでに、ちょっと切り口を変えて、「今日が明日の前
日だから、だからこわくてしかたがないんですわ」とい
う台詞が、本当に大島弓子のものかという問題を考えて
みたいと思います。

これと全く同じ言葉を、いつか、どこかで、誰かが既に
言っている可能性はあります。或いは、将来、大島弓子
とは無関係に、どこかで誰かが口にする可能性は十分あ
る。同じ趣旨の言葉なら、まず間違いなく誰かが言って
いるでしょう。可能性の問題です。実際に言ったかどう
か、将来言うかどうかを確かめることは出来ない。でも、
確かめることが出来ないと言うことは、この台詞を初め
て生み出したのが大島弓子であると断言することも出来
ないということです。
この言葉そのものだけを捉えて、これが大島弓子のもの
であるとは言えないということです。

この台詞が、大島弓子のものであると言えるとしたら、
それはあくまで、「バナナブレッド」という作品を通し
てです。あの作品の中に、あの絵とともに、あの位置に
置いたからこそ、あの台詞に独自の価値が生じ、それに
よって、大島弓子のものになったということです。

従って、その台詞だけを取り出して、自分の作品の中に
張り付けたとしても、「盗んだ」ということにはなり得
ないということです。
まず、大島弓子がその台詞に与えた意味を読みとれるの
は、「バナナブレッド」を知っている人です。知ってい
る人を結果として騙すことは出来ないし、その意味では
「盗み」とはなり得ない。
「バナナブレッド」を知らない人にとっては、その台詞
は大島弓子が与えたような意味を持ち得ない。そういう
意味では「大島弓子のもの」を「盗む」ことは出来ない。

ものすごい詭弁に聞こえるかもしれません。
しかしこれは本当のことだと思う。
「今日が明日の前日だから、だからこわくてしかたがな
いんですわ」という台詞は、大島弓子から切り離しても
意味を持ち得ます。非常に巧みな言い回しで、この言葉
自体にある程度の感銘を受ける人はいるかもしれません。
しかし、その台詞の意味自体は大島弓子が生み出したも
のではなく、大島弓子が何らかの権利を主張できるもの
ではないのです。
この台詞に大島弓子を結びつけ、その結びつきを絶対視
するのは間違いです。

納得できない、と言うかもしれない。(間違いなく言う
でしょう…)
実際、「バナナブレッド」を知らず、「ロシアの山」で
初めて「今日が明日の前日だから、だからこわくてしか
たがないんですわ」という台詞に出会って、「岡崎って
凄い」と思う人もいるかもしれない。
しかし、それは、
1. 「言葉は誰のもの」ということに関して誤った概念
にとらわれて凄いと思ったのかもしれない。
2. 岡崎の言語能力に感心したのかもしれない。誤解で
すが、岡崎の言語能力に感心することと、作品に感
心することは別のものです。
3. 「ロシアの山」の中で岡崎がその台詞に与えた意味
に感動したのかもしれない。ならば、その人にとっ
て、その台詞は岡崎のものになったのです。
1と2に関しては、僕にはあまり意味があることだとは
思えないし、3の場合は、文句の言いようがないという
感じがします。

だいたいこんなところです。

作品は全体として作品なのであって、その部分だけを切
り取ってどうこういうのはおかしいということかもしれ
ません。

思いつくままに書き連ねたので、荒っぽいし、無駄なと
ころや、分かりにくいところがあるかもしれませんが、
あしからず。
まぁ、走りすぎたかな、と言う気もします。
批判は甘んじて受けます。
反論なり疑問なりあれば、どうぞ。


------------------------------------------------


あくまで付録ですが、著作権に関する僕の問いかけに対
して直接答えようとしてフラニーさんが書いてくれた答
えについて、思ったことをいくつか書いておきます。

第一に、著作権というものがない時代や地域があるとい
う指摘に対して、それは社会が成熟していないからだと
答えたことに関して。

これについては、フラニーさんのものの見方について、
気の遠くなるような距離を感じてしまいます。
ここに僕が感じるのは、異質な価値観に対する無理解・
無知であり、物事を相対化する視点の欠落です。
日本人は生の魚を食べるから野蛮だとか、どこかの原住
民は服を着ないから野蛮だとか言うのと、本質的に同じ
考え方のような気がします。

次に、「まとまりがなくて自信がない」と僕が言った問
題に対して反論されることは、全く問題がないと考えま
す。自信が無いと言いながらもここで提示したからには、
反論されることは僕自身も覚悟の上でしたし、そうした
反論に答えることを通して、その考えの正否を検討して
ゆきたいと思っています。

ついでに、簡単に各論に行きます。

■ 岡崎が「引用した他人の作品の断片は、いわば単語
のようなものだった」と考えることは、岡崎という
作家の「権威性」を認めたり、「特別視すること」
ではありません。

他人の作品の断片をいわば単語のように使うということ
は、意識しているか否かに関わりなく、ある意味では他
の作家もやっていることだと思うからです。
ただ、岡崎の場合、そのことにきわめて「意識的であっ
た」らしいということです。

こうした「意識的やり方」は別に新しいものでもありま
せん。例えば「本歌取り」を多用した新古今集等。

■ ご自分も、岡崎のように、小さい頃から浴びるよう
にいろんな漫画や本を読んで、似たような環境に育
ったが、そのために既存の作品をことばのように身
につけてしまったということは無かったということ
に関して。

自分の言葉と他人の言葉を区別できないでいるのは、ひ
ょっとするとフラニーさんなのかもしれません。
というか、言葉とは誰ものなのか? そもそも「自分の
言葉」などというものはあるのか? 言葉とはそもそも
すべて他人から学んだものなのではないか?という考え
方もあるということなのですが…
岡崎は、「言葉」というものが「他人の言葉」であるこ
とを意識している人のように思えます。つまり、「他人
の作品の断片」という「単語」が他人のものであること
を明確に意識していたということです。

■ くぼた尚子、その他

これは、具体的のどんなことをしていたの分からないの
で、岡崎と同列に論じることが出来るのか否か、僕には
分かりません。

■ 現行の法が正しく機能していないこともある、岡崎
氏の引用は取りこぼされた部分である

> それは、どうなのかなぁ。
> 引用された側にも意見を聞いてみないといけないと思うん
> ですよね。この法によって守られている人だって大勢いる
> はずですよ。

極論を言えば、その類の「守り」は過剰なのだから、守
られる必要がないのだというのが僕の意見です。「芸
術」のために、自分の作品が「引用」されることを容認
することこそが「作家のモラル」だということもあり得
るだろうと言うこと。
この話はそれこそ「超越論的」になってしいますが、ま
た、場を改めて書いてみたいと思います。

ちょっとのはずが少々長くなりすぎた観があります。
こんなことを書いていても、議論が永遠の平行線をたど
りかねないので、基本的には、ラミ犬さんが敷いてくれた
路線に乗りたいと思います。

それから、

■ 「ピクニックアットハンギングロック」

これは、ありがたく「事例集」に加えさせていただきま
す。

名 前   :渋谷
時 刻   :03月22日03時24分
アクセス  :134.pool15.tokyo.att.ne.jp

H.C.氏の書き込みの中で、

>これに対する私の反論に対し答えていないし

と、私・渋谷が、以前のH.C.氏の書き込みに対して答えることを要求されているのですが、
そのことについて言うと、
H.C.氏が初めて書かれたの書き込みの冒頭には
「通りがかりの一言」
とわざわざ断り書きがあったので、
H.C.氏はもうこの掲示板に来ないものだと思っていましたので、
私はH.C.氏に対して直接に反論するという形はとりませんでした。
もしどうしても反論が必要でしたら、
今からしてもいいのですが、
ただ、本当は私は、
今回の論争については、tach氏とフラニー氏が中心であると思っていて、
今せっかくお2人の論点が噛み合いつつあるような時に、
また掲示板の流れの論点が外れてしまいそうなことをするのも何なので、
今はあまりH.C.氏への反論は、したくないのですけれど、
どうでしょうか?


そもそも今回の論争での私の最初の発言も
「2人のやりとりを、私はこう読んだ」
というのだったし、
あとはつまらない歴史の話と少しだけ論理学的な言い方をちょこっとしただけで、
基本的に自分の意見や考えというのを言わないようにしていました。
(「渋谷ならこういうだろう」と推測されたことはありましたが。)
自分も「私の引用・オリジナリティー論」を書こうかと思っても、
自分の意見なんてどうでもいいし、
掲示板も収拾つかなくなると思ったので。

で、私の最初の書き込みは、
「tachさんの反論は、論旨がずれてるとは、私には読めなかった」
というものだったのですが、
それに対して、ooui氏の「超越的・超越論的」についての説明は、
とてもわかりやすかったです。
ありがとうございました。
そこで更に、ooui氏に質問したいんですけど、
「超越的」な反論というのは、ダメなんですか?
だとしたら、先の私の読みも、間違っていたということになると思うので、
お手数とは思いますが、教えていただければ幸いなのですが。

名 前   :tach
時 刻   :03月21日21時16分
アクセス  :192.pool4.yokohama.att.ne.jp
メール   :tach@iname.com
ホームページ:http://www.freepage.total.co.jp/tach/

H.Cさん

レスありがとうございます。

僕宛の部分と、H.Cさんの意見の部分にレスさせていた
だきます。

● 断定

> 断定するなと言っただけです。何故、そうまで
> 決め付けられるのかなというところがあったので。
> やぎさんの3月17日の意見で述べて頂いているので、
> それ以上書きません。

これ以上書かないと言っているのにレスをつけるのはち
ょっと失礼かもしれませんが、一言だけ。
「断定的な口調」というのもある意味ではその人の正直
な気持ちの表れである場合もあるので、そうした書き方
自体を「するな!」とあたかも命令するかのように書く
ことには同意できません。
「断定的な口調」が気に入らないのであれば、やぎさん
のように「発言をするなと言う気はさらさらありません
が、知ったかぶりのような意見はどうなんですかね?」
ぐらいにきつくたしなめるか、 さもなければ、断定さ
れた内容に対して正面から反論を加えればいいのだと思
います。
「するな」を文字通り「命令」ではなく、「不快感の表
現」として受け取ればいいのかもしれません。でも、H.
Cさんの言い方はあまりにも「迫力」があったので、他
の皆さんが恐れをなして発言しなくなってしまうのでは
ないかと心配して、僕はあえて異を唱えました。
今後も、H.Cさんが、断定する「な」と言い続ける限り、
僕は抗議します。

一言のはずが、長くなってしまいました。
すみません。


● 「引用」の意味

> あまり意味のある引用ではないという印象。
> もっと、意味のあるシーン・言葉が引用されている
> のかと思ったのですが、引用が意味をなしている所は
> 殆ど無いのでは?
> これでは、サロンの会話というか単なる「私ってこんな
> 事知ってるのよ」
> というひけらかしにすぎないようにすら感じます。
> こと、その引用だけをとると、底はちょっと浅いし。

ラミ犬さんが仰っていたように、岡崎の引用はいくつか
のレベルに分けて考えた方がいいと思います。すべての
引用を同じレベルで考えるには無理がある。

H.Cさんの仰るとおり、僕にも、単なるひけらかしだと
しか思えないような引用も存在していることは確かです。
そんなものに過大な意味を持たせることには僕も反対。
でも、以下の二点は保留します。
第一に、それらの全部が本当に単なるひけらかしかどう
か、断定を下すには少し慎重でありたい。
第二に、「下らない引用」であっても、それを集めると
いう遊戯としての楽しさを頭ごなしに否定することは出
来ない。ましてや「道徳を忘れた嘆かわしい姿」などと
言われなければならない筋合いはない。

それから、一方では、作品の内容としっかり結びついた
とても「意味ある引用」も存在していることは確かだと
思います。

例えば、「リバーズ・エッジ」。
読んでいただけましたか?
あの中に引用されているウィリアム・ギブスンの詩の引
用についてはどう思われるでしょう?

僕には、あれはとても「意味ある引用」のように思われ
ます。
あの引用があることによって、あの作品の舞台が、「資
本主義」が暴走していった後の「荒野」であることが明
らかにされ、作品の世界がぐっと広がった、と僕には思
えるのです。


● 微妙な立場

僕宛レスへのレスの最後として、聞かれてもいないこと
を、余談として付け加えておきます。
僕自身の「微妙な立場」のことです。

僕自身は、岡崎京子を、「引用」中心に読み解いてゆく
ことを積極的に推進する立場にはありません。
僕自身は、むしろ、「資本主義」を描いた作家として岡
崎を読み解いてゆくことに、興味の中心があります。

渋谷さんが自らお書きになったように、かつて、この掲
示板で、「渋谷さん一派」と僕との間で、かなり激しい
論争があって、その「副産物」として「岡崎京子による
引用・言及事例集」が生まれたのです。

僕自身は、「引用」という岡崎の一面には元々はあまり
興味を持っていなかった。でも、渋谷さんたちの列挙す
る「引用の事例」は、そんな僕に取ってさえ、あまりに
も面白かった。これを掲示板のログとしてこのまま流し
てしまうのはもったいない、まとめてインターネット上
に公開することによって、岡崎を読む人々の共有財産に
するべきではないか? そういう思いではじめたのがこ
の「事例集」です。
(こうしたいきさつは、この掲示板のログを最初から読
んでいただければ分かると思いますが、ログ自体があま
りにも長大なのでここに書かせてもらいました)

瓢箪から駒で始まった「事例集」ですが、これが、僕自
身が作ったコンテンツより、みんなに受けてしまい、雪
だるま式に膨れあがって、今日に至っています。
こんな状況に、僕自身は、ある意味では当惑してます。
本当は、「資本主義を描く作家」としての岡崎京子にス
ポットを当てたページが作りたかったのに、こんなこと
でいいのか?←自分。

でも、この「事例集」のおかげで、このページは恐ろし
く「インタラクティブ」なものになってしまいました。
僕自身にとっても「ものすごい勉強」になった。それに
何より、いろいろな人がやってきて、いろいろな意見を
述べてゆく場に身を置くことは、それ自体がとても大き
な喜びです。
というわけで、誰にも頼まれないのに、こうした「場」
の運営役を自ら引き受けてしまった以上は、最後までそ
の立場を全うしたいと思っています。

ですから、本当のことを言うと、個人的には、岡崎の
「コラージュ作家」としての側面を最も重要視している
というわけではないのですが、それでも、そうした側面
を頭ごなしに否定する見解には、自分が正しいと考える
限りは、異議を唱えることになるでしょう。

こんなことを何故長々とここに書くのかというと、今後、
議論がどんどん進んでいったときに、「岡崎は、書いて
いる内容の方が、引用なんかより大切なんだ」と叫び出
しかねない自分がここにいることを意識しているからで
す。そうなったときに、「日和見した」とか「裏切っ
た」とか「転向した」とかは言われたくない。


…と、言いつつ、やっぱりよけいな「アリバイ作り」に
終始してしまったかも。あまり毅然としていないし、格
好良くない。でも、仕方がない。これが事実です。


● H.Cさんの意見について

よけいな「アリバイ作り」などしてしまったもので、一
番大切なH.Cさんの意見について思うところを述べる余
力が無くなってしまいました。この点については、また
改めてきちんとコメントさせてください。

ただ、このままですますのも、あんまりなので、各ポイ
ントについて、ちょっと一言だけ。

○ オリジナリティー

> 1)まず、コラージュであろうと、何であろうと
>  オリジナリティーは存在する。これは、先日述べた、特許と、
>  組み合わせの特許の例の通り。

ここは元々異論ありません。
ただ、著作権と特許を一緒にするのは問題だと思う。
著作権には、報酬を社会的に保証するという側面だけで
はなく、特許権とは異なる「作者」の個人としての人格
に対する「敬意」の側面が含まれているような気がする。
…と言っても、分かってもらえないかもしれなので、改
めます。


○ コラージュにおけるイマジネーション

> マジネーションが必要である。しかし、そのプロット
> が確立した場合、コラージュの場合は、プロットで考
> えた引用元から持ってきて置くだけ、あまりイマジネ
> ーションは必要ない。これは、ちょっと頭にいれて欲
> しい。

コラージュだから必要とされるイマジネーションは少な
いという論法は少しおかしいように思えます。
場合によっては「コラージュ」から「創造」する方がイ
マジネーションを必要とするかもしれない。
H.Cさん自身、切り張りをしたことがあると仰っていま
す。しかし、労力を省くためのコラージュと、「創作そ
のものを目指したコラージュ(ううん、良い言い方が思
いつけない)」とでは少々違うような気がする。
岡崎の出世作「pink」には「吉野ハルヲ」君という
「コラージュ作家」が出てきて「桜桃文学賞」を取って
しまいます。
そうした点から見ると、岡崎はコラージュと言うことに、
一言あるというか、少なくとも「意識的」ではあったよ
うに思えます。


○ 所有権

> 3)次に、知的所有権の話に戻ります。餌の奪い合い
> を防ぐため、所有権の概念が形作られ、やがてその為
> の法律が整備されて来た。それに対し、異を唱える
> 「共産主義」という思想も生じたが、大勢にはならず、
> むしろ後退している。知的所有権においても、同じよ
> うに形作られ、法律が整備されつつある。従って、過
> 去にその概念が無いとか、現在のデジタル社会におい
> て、危機を叫ばれていても、否定された訳ではなく、
> 間違いなく、法律上、倫理上尊重されるべきものであ
> る。

これについてはその一言一言に言いたいことが山ほどあ
って、とても一言ではすまないのですが、あえて一言に
すれば、ベースになっている考え方が、僕は嫌いなので
す。
乱暴な言い方をすれば、既成事実がこうなっている、だ
からこれが一番正しいのだという考え方のように見えま
す。既成のものをあえて疑おうとはせず、無批判に自ら
の裏付けとするのは、居直りであり、はっきり言って
「オヤジ」の思考法だと思う。ここら辺は、フラニーさ
んの論の建て方とも共通する「臭い」を感じて、僕は、
そのことに一番反撥を覚え腹を立ててるのかもしれませ
ん。


○ 岡崎の立場

> 4)岡崎京子の漫画の中、(c)表示があるもの、無い
> ものがある。 この事は非常に欺瞞に満ちていると思
> う。
> すべて有るか無いか。このどちらかで有れば、主義・
> 主張を感じるが、そうでは無い以上、非常に汚いもの
> を感じる。また、奥付にははっきりと(c)Kyoko Okaza
> kiと記している。
> いくらtachさんが著作権という現行法で彼女を裁
> くのは 正しいのか?
> とおっしゃったところで、彼女自身は自らの著作権を
> 主張 しているのだから。自ら主張しているものを他
> 人には主張 してはいけないというのは矛盾。これは
> 先に述べた通り。
> このことをどのようにお考えでしょうか?

これは、問題の建て方が歪んでいます。
まず、今、ここで「現在の著作権の概念には限界があ
る」と主張しているのは岡崎ではなく、僕です。僕は岡
崎ではありません。
次に、「現在の著作権の概念には限界がある」という主
張と、「著作権という現行法で彼女を裁くのは正しいの
か?」という議論は微妙に食い違ってます。

最後に、もし、仮にですが、岡崎が、原典明記無しの
「岡崎式引用」によって、意図的に「著作権」を挑発し
ているのだとしたら、それは、oouiさんの言葉を借りれ
ば、「超越論的」な芸術家としての既成社会秩序への攻
撃であり、それが結果として、既成の法の理論の枠内で
論理的に破綻していても、「知ったことか!」にしかな
りえない、と僕は思う。岡崎は法律家ではないし、法に
忠実な市民を演じているわけでもない。「ゲージツ」し
てるのです。その意味で、既成の法の枠内で岡崎が有罪
になるのは当然であって、やぎさん流に言えば、それこ
そ「法律なんて所詮人間の決めた「社会を円滑にしてい
くための約束ごと」位にしか思っていないので、そんな
もので裁かれたとしても何とも思わないんです。 」と
いうことになってしまう。それはそれで筋は通る。

だけど僕はこんな風に芸術の次元と法の次元が断絶して
いることに、どうしても疑問を感じてしまうのです。
もっとも、この断絶がなければ、芸術なんて成立しない
のかもしれませんが…

というわけで、最後は駆け足で分かり難くなったかもし
れませんが、また改めます。時間がかかるし、表現の仕
方もまた違ったものになってしまうかもしれませんが…



フラニーさん
…と書いて、アップロードしようとしたらフラニーさん
の書き込みを見つけたという、例のパターンが。
すみません。これから読ませてください。

名 前   :フラニー
時 刻   :03月21日19時04分
アクセス  :1cust12.tnt1.dial.yok1.da.uu.net
メール   :tachさんへ

tachさん

えー、まず、ご指摘の通り、最初に示して頂いた通り、
過去ログを読まなかったのは私の怠慢でありました。
お詫び申し上げます。
随分膨大な議論をなされたようで、感嘆いたしました。
その上でなお、まだ私のような者を相手にしてくださるとは、
ありがたいことです。

 ただ、論じている内容は私の提議した内容とは実質、根本を異にして
いると思うので、良いのかな、とも考えております。

もう一点、お詫びですが、渋谷氏との意見を混同して話しを進めて
しまったのは申し訳ありませんでした。
それぞれのご意見をコピーして、ご質問に答え、反論すべきはして・・・
という具合にやってはいたのですが、言い訳ではありませんが、
(言い訳か?)
何分にもitさんを含めると3人の方から同方向の議論を
お聞かせ頂いたので、きちんと確認しきれなかったのは事実です。
すみませーん!

それで、遅くなりましたが、17日のtachさんの
ご意見に対するレスです。

「著作権」についてtachさんは、

■「ある特定の時代のある特定の社会の中だけで通用している
社会的虚構だということです。
だから、過去に遡ってゆくと「著作権」という概念そのものが
存在していなかったりします」

とおっしゃっていますが、これはおかしいと思います。
社会が「著作権」という概念を持つまでに成熟していなかったから、
過去に「著作権」というものが無かったのであって、
その逆の論理は成り立たないと思います。

その先「一般論」を論じたいと思っているわけではない、
とおっしゃっていますよね。
これは私も大いに賛成です。
そして、「著作権というものにもっと疑いの心を持ち、
現行法で岡崎氏を裁くことが何故正しいのか、論じて欲しい」と。

 私は岡崎氏の作品を「著作権侵害」でもって裁きたいなんて
これーっぽっちも思っていません。
これは判って下さいね。
ただ、不思議だなぁ、と思うのは、岡崎氏の作品にはどうでも
いいことには注釈がついてたりしますよね。
ファムファタル=運命の人
ヒスグラ=ヒステリックグラマー等々。
コミカルな作品にいたっては、欄外に自筆で書き込み
までしてある。
このように、説明を加える、加えないという線引きを
彼女はどこでしたのでしょうか?
また(C)がついているものと、そうでないものと。
何かにつけるならば、すべてに注釈を附けたって、問題ない
でしょうに?
「なんとなくクリスタル」みたいに。
そうすれば、著作権の問題なんて考える必要もないのに・・・・?

ここで、tachさんがご自身で、まとまりがなくて自信がない、
とおっしゃっていることに反論すべきなのかどうかは
わかりませんが、

■「引用した他人の作品の断片は、いわば単語のようなもの
だったのではないか、ということです」

に至っては、岡崎氏という「作家の権威性」を認め、あるいは
「特別視」することを認めるという岡崎教信者以外の何者でも
ないではないですかー。
最後にあった、岡崎氏を裁くような法はその法律の方がおかしい・・・・
とかになってしまうと何をかいわんや!

■岡崎氏が小さい頃から浴びるようにいろんな漫画や本を読み、
そのために既存の作品をことばのように身につけてしまったの
ではないかと・・・・。

私は実は岡崎氏と同じ年の生まれです。(この間気がついた)
そして同じ様に都内の私立の女子高に通ったという似かよった
環境で育ったと思います。
初期の作品で言及されているようことはすべて言外の意味も
含めてわかります。

私のようなパンピー(死語?)ですら、彼女の作品を読んで、
これって何?
って思うようなものはものはないんですよねー。
つまり際立っている、先見てるー、って
ものって。改めて読み返してみるとよっくわかります。
私たちの年代からすると、彼女が言及しているものって、
当時特別先行しているものでは決してなかった。
(跡見じゃしょーはないか・・って思いっきり差別的)
しかし、ちょっとお洒落で、スノッブが喰いつくってもの。
(彼女がスノッブであると言ってるのではなく、そういう物を
チョイスしている、ということです)
その、さほど、凡庸の域を出ない彼女が浴びるほど、本を読んで
そのために自分の言葉と区別がつかないほど、他作品が身体に
染み込んだとはちょっと想定しづらいのです。
これは同じ時代を東京で生きた皮膚感覚で、わかる、という
程度のことですが。

(ですから、不肖わたくしがすべてわかるから、読者全が判る
という前提で描いていたか、というのはまた別物です。
同じ時代を同じ都市で生きた、となると限定されますからね。
思いっきり。それに私も頭悪いですけど、普通より物を
知らないってわけでもないから。)

 同じ頃、くぼた尚子さんという作家がいました。(今もいる?)
彼女もよく引用(盗用と呼びたい)言及をするひとで、
彼女の場合は私と読書傾向が似てたんだか、わかりませんが、
どの本のどこの台詞をぱくった、というのが一発でわかっちゃって、
笑えるほどでしたけど。
でも、その頃私もガキだったんで、本人と編集に聞いちゃった
んですよね。「これっていーの?」って。
編集からは「以後注意します」とか来たし、
本人からも手紙が来たりしましたけどね。反省はしてなかったと思う。(笑)
サキとかからコ洒落た台詞なんか引いてきたり、場面そっくり
頂きだったり。
そういうのが段々OKになった時代だったのは確かかも。
作家の意識としてですが。

もっとも、大昔にいたっては、前に書き込みがあったようですが、
水野英子が「麗しのサブリナ」を「すてきなコーラ」
「ジェニーの肖像」を「セシリア」と漫画化し、
何もキャプションがなかったので、
子供心に「?????」とは思いました。許されるの?って。
(でも、映画よりずっとよかったなぁ。彼女の漫画化したのは。
すごい作家だと思う。)

あと、倉田江美が平気で、サローヤンをまんまぱくったり、
やはりサキをぱくったり、枚挙に暇がないのですが・・・。

何か話が飛んだかな。えっと・・・。
だからといって、盗用(ここでは私はそう呼びます)はどーなのかしら?
ということですね。
言及の方はいっくらでもいいと思いますよ。
台詞の中に出てくる、実在の店とか、作家とか、
本のタイトルとかね。
そういうのはごく当たり前のことだし、好きな作家が
何を好きか知りたくて、その本を探し、共鳴するなんていうのは
マンガ、純文問わずの醍醐味ですからね。

しかし、ここで改めて、いいたい。
ラミ犬さんにお答えしましたが、彼女が使った、
「バナナブレッドのプディング」の台詞。
この台詞をこの場面で何故使わなければならなかったのか。
具体例ですから、答えて頂きやすいと思います。
この台詞でなければいけなかった理由。
彼女のオリジナルの台詞ではいけなかった理由です。
是非、tachさんのお考え、お答えいただきたいのですが。

■それからさっき触れた、現行の法が正しく機能して
いないこともある、岡崎氏の引用は「取りこぼされた部分である」
という部分ですが。

それは、どうなのかなぁ。
引用された側にも意見を聞いてみないといけないと思うん
ですよね。この法によって守られている人だって大勢いる
はずですよ。
繰り返しですが、岡崎氏が引用をどうしても必要としたならば、ただ
(C)をつければすむことなんですから。
ほかに附けてて、わかりにくいところに附いていない。
これがちょっと不思議なわけです。
引用なんてバンバンしていいじゃん!と仮に彼女が考えてたとした
なら、一切の(C)は無いはずですしね。


それから!協力しちゃいますと、
言及の映画のとこに載ってなかったような気がするんですけど。
載ってたら、ごめんなさい。
「唇から散弾銃」のP170かな。
「ピクニックアットハンギングロック」。
これはオーストラリアの監督ピーター・ウィアーの作品です。
衣装がビクトリア王朝風で可愛いのは有名。
「乙女の祈り」などの作品があります。

名 前   :フラニー
時 刻   :03月21日15時53分
アクセス  :1cust110.tnt1.dial.yok1.da.uu.net
メール   :ラミ犬さんへ

ラミ犬さんへ

私が腹を立てている、って言ったというのは

>そうなんですよねー。何で熱くなってるかっていうのは、
>結局、私の愛する人たちの作品なりシーンなりが
>引用されているからに他ならないんですよ。

この部分ですよね。
しかし、これはあくまでも「熱くなっている」
理由ですからね!(笑)
盗用がいけないんではないの?考えた方がいいんではないの?
と思ったひとつのファクターではありますが、
主要因ではありません。念のため。(どうでもよかった?)

私、まだちゃんとお返ししなければいけないレスもあったり
するんですが、こちらの方がよりシンプルなので、
先にお答えしてしまいます。

引用・事例集にありますが。

「バナナブレッドのプディング」その4

(冒頭の三浦衣良の台詞「今日が明日の前日だから、
だからこわくてしかたがないんですわ」)

あと、これも事例に出てますが、「私は貴兄のおもちゃなの」
のP142の「その他昼間は・・・・」
この辺りが顕著なのかな?
台詞マルパクリっていうのでは。

言及・事例集の中に含まれる、「もしかしたら、そうかもね」とか
「なんとなく、似てる」なんていうのはいいの。別に。

私は結構「台詞・フレーズ」に惹かれるっていうのが大きいんです。
だから「今日が明日の前日だから、だからこわくてしかたが
ないんですわ」
っていうフレーズも初めて読んだとき、「すっごい感性だな。」
「さすが、大島弓子、ただものでねーだよ」とか思ったです。はい。

そのフレーズがふっとさりげに使われちゃってるのは・・
ちと、痛い。
具体的に言えるのはこれくらいですね。

私、手元に岡崎氏の作品、5冊くらいだし。

勿論、UNTITLEDの恋愛依存症2話のしょっぱな、
見開き2ページは山崎涼子(字、違うけど、簡単に出ないので
見逃して)の「バンシー(泣き女)」じゃないの、とか、
設定が四月怪談だよ、(P184の電柱に乗ってるシーン、特に。)
とか、(ヴェンダースとまぁ、言いたい人はいるかも)
言おうとすれば、いえるけどね。そういう事に私は言及
していないの。
なんとなく似てるかもーっていうものに対しては。

台詞のまるパクリは
全部ひっくり返して精読すれば、大島さんの作品といわず、
おそらく山のように出てくるだろうとも察せられます。
「ロシアの山」の冒頭「私は私が私であるがゆえ、
私は私が嫌いなんです」
っていう台詞も恐らく引用だと思います。

「バナナブレッド」の台詞は完全に暗記してたから
すぐここからの引用ってわかるけど、
そうでないものもあるんだろうな。

言葉なんて所詮組み合わせだから、っていう極論まで
持ってってしまうとこの意見も詮無いことになるのですが、
私の提議は最初から、もっと身近に感じる、違和感とかだったり、
ある種の不快感だったから。
自分が感動したものを他の人が読んだとき、その原典を
知らない可能性を思うと、「何かおかしいんではないの?」
って率直に思っただけなんです。
更に引用された人に考え及んだりね。
無い頭を絞って、議論に加わってはいますが・・・・・・。
本来はもっと身近に引き寄せて、論じたかった。
オリジナリティーとか、歴史的背景とかじゃなくてね。
あと、もうひとつ言えるのは、そうやって、引用とか
バシバシ入ってると、すごくいいな、と思う台詞とかあっても、
これも引用なんだな。
って思っちゃうってこと。
人それぞれだから、そんなこと作品に関係ないもーん、
って思う人もいるかもしれないけど、私は先ほど言ったように、
フレーズに惚れることが多いので、そうすると、作品全体を
色眼鏡で見てしまうっていうのはどうしても起こってしまう。
引用だらけでも、岡崎氏の作品として確立しているのだから、
いいのだ!
と、言ってしまうのは本当にそれだけでいいのかなぁ?
作品を構成するのは台詞であったりシーンであったりするわけで、
それを抜きにしては語れないから・・・・。
もっと詳しいことはtachさん宛てのレスにて・・・・・。




「バナナブレッドのプディング」その4(冒頭の三浦衣良の台詞「今日が明日の前日だから、だからこわくてしかたがないんですわ」)
1.「ロシアの山」(短編集「UNTITLED」224ページ)ボーイフレンドとの初体験を放課後に控えた主人公がダンテの「神曲」を手に心の中でつぶやく。(tach)


名 前   :ラミ犬
時 刻   :03月21日12時09分
アクセス  :削除
メール   :lami@bakkers.gr.jp
ホームページ:http://bakkers.gr.jp/lami/sfu/

著作権云々に関する話について、もうちょっと具体的な例に即した
話もしたいと感じてます。

フラニーさんは最初、岡崎の「盗用」を「引用」だといって喜んでいる読者の
モラルは嘆かわしいと問題提起されましたが、その後、実は、ご自分の好きな
作家の作品が岡崎に「盗用」された、そのことに腹を立てている、とおっしゃ
っていましたよね。

そもそもここで盗用された作品というのは何だったんでしょうか。
岡崎のどの部分にどんな風に使われていたのでしょうか。

原理原則論をすると「マンガとはなにか」「ゲージツとはなにか」「著作権と
はなにか」という話に至るべきものだとは思いますが、ここは聞いておきたい
なと思います。

名 前   :H.C
時 刻   :03月21日10時08分
アクセス  :cs14n21.ppp.infoweb.ne.jp
メール   :それ以上に・・・。

何やってんだか。
書き込みミスどころか、2度登録しちゃってますね。
すみません。場所無意味に取っちゃって。
改行してる時ミスったみたいです。
どーでもいいけど、削除キーあるとありがたいかも・・・。

名 前   :H.C
時 刻   :03月21日10時01分
アクセス  :cs14n21.ppp.infoweb.ne.jp
メール   :ミスが〜!

下記の書き込みにミスがあります。ま、どーでも
いいようなことだけど。
渋谷さんに対するレスで、
「自己完結してますよ。論理が・・・」
という部分。引用符を打って、渋谷さんの引用と一緒に
なってしまいました。
すんません。
わかりづらかったよね。

名 前   :H.C
時 刻   :03月21日09時49分
アクセス  :cs14n21.ppp.infoweb.ne.jp
メール   :レス遅れました。

レスまで時間がかかってすみません。岡崎京子の作品を
買いに走ったりしてたもんで。

1)Tach賛江

>読んでいて一 番気になったのは、いくらH.Cさんがプロ
>の実作者であったとしても、一人で、すべての実作者を
>代表すること は出来ないだろうということです。実作者の
>中にもいろいろな考え方をする人がいるはずだし、H.Cさん
>の考え方がすべてではない。

誰も物を作ってる人が参加していないかのように
思えたからです。物を作っている人の意見が取り
入れられていると思えれば、あのような言い方はしません。

>これは非道い、暴力的だ、と僕は思いました。
>H.Cさんは、いったいどんな権利があって、人に発言を
>禁止すること出来るのでしょうか

断定するなと言っただけです。何故、そうまで
決め付けられるのかなというところがあったので。
やぎさんの3月17日の意見で述べて頂いているので、
それ以上書きません。

>でも、実際には「岡崎式引用」を巡って議論しているの
>です。
>それが分かっていないのに顔を突っ込んでくるのは、少
>なくとも、マナーとしてはよくない。
>でも、もう顔を突っ込んでる。
>かくなる上は、作品の二・三冊も読んで、更にこのサイ
>トの「岡崎京子の引用事例集」に目を通していただけれ
>ば、と思います。

確かにそのとおりだと思い、数冊読みましたが・・・・。
あまり意味のある引用ではないという印象。
もっと、意味のあるシーン・言葉が引用されている
のかと思ったのですが、引用が意味をなしている所は
殆ど無いのでは?
これでは、サロンの会話というか単なる「私ってこんな
事知ってるのよ」
というひけらかしにすぎないようにすら感じます。
こと、その引用だけをとると、底はちょっと浅いし。

itさん江

>「この世では全てのものは書き尽くされてしまった、
>言い尽くさ れてしまった。ゆえにわれわれは引用する
>ほかないのだ」というようなことを書いていた方が
>いらっしゃったけれども、僕はそのような立場を
>とりません。

私には皆さんがそういう立場をとっていると
見えたのです・・・・。
みなさんが、一致してフラニーさんを攻撃しているようで、
考え方の違いがあるように思わなかったので、
混同していたようです。

>天声です! 
  いいですね。(笑)

>H.Cさんは実学以外の人文諸科学 全てを否定している
>ようにみえるけど(スゲエ、田舎の財界の保守オヤジみたい)
>あなたが普遍的真理だと思っている著作権等だって
>その正当性はカントやヘーゲルに端を発する倫理学や法学に
>支えられてるんだよ。つまり著作権だって、所詮理論的な
>「実証 されていない」哲学的思考に裏づけられてるわけですよ。

実学という言葉を使った事は反省してます。実学の反対語は
虚学ですもんね。最近、経済誌を読む頻度が高いもんだから、
そういう言い方をしてしまいました。
この件は、議論とは全く関係ない事項ですが、
一応僕の考え方を言わせて貰います。

1) 哲学については、全く否定するつもりはありません。
  人類にとって未知の世界がある限り、哲学的思索は絶対
  必要だと思っています。哲学が不要になる時というのは、
  人間の感情とかもDNAやシナプスの分析で判ってしま
  い、宇宙の生成がすべて解き明かされる時代になるまで
  は有り得ない。
その未知の世界を否定せずに思索することは絶対に
  必要であり、それがなければ、人類は進歩しないと思います。

2)しかし、哲学(そして、倫理学・法学等の社会のあり方を
  考察する思想を含め)はあくまでも仮説を提示する学問です。
  実証できるような内容を扱っていないわけですから。

渋谷さんへ

>アーティストは、作品を作っている限りにおいてのみ、
>アーティストです。
>アーティストが言葉で論理を語り出したとしたら、
>たとえその論理のテーマが「アート」であったとしても、
>アーティストの言う論理だからといって、それが正当化
>されることもないし、 アーティストでない人が言う論理だから、
>その論理は間違っているということもない。
>ましてや、物を作ってメシを食っていない人は、
>創造に関して断定的な言い方はできない、ということも
>ありません。
>アーティストであれば、すべては作品で語るべきだし、
>もしも言葉で語るなら、アーティストという肩書き自体は、
>その言葉の正当性に対して何の意味も持ちません。

これは、僕の言っている事に対して、反論になっていません。
アーティストがどうのこうのとは言っていない。
実体験・経験を問うたわけです。
例えば、材木屋と大工が豆腐の作る際の、にがりを入れる
タイミングを論じているのを、本職の豆腐屋が聞いたら、
「何言ってんだてめえら」という事になるでしょ?
でも、大工が趣味で最近豆腐作りにはまっているという
事であれば、意見もきくかもしれないよね。
次に歴史の話は、とても懐かしかったのですが、

>例えば教会の宗教画を描いた画家は、その作品の
>オリジナリティーを主張などしなかったでしょうし、
>これは違うと思います。知的所有権というものが
>何故必要となったか。
>それは、どこかに絵を描いた人間がいて、それを
>別の人間が俺が描いたといい、喧嘩や人殺しが
>何度も起こった。これではいけないということになり、
>それをはっきりさせる為に、物権である所有権の考え方が、
>著作・発明・意匠といったソフトに広げられた・・・と、
>「推察」します。非常に自然な考えでしょ?知的所有権が
>現在確立している経緯を考えれば、「俺が描いた、真似すんな」
>という主張が当時無かったとするほうが、無理があると
>思いますが.。
>「芸術にはオリジナリティーは無くてはならないが、
>意見にはオリジナリティーなんか無くてもいい」
>というような、自分達にはなし得ない高い倫理性を、
>芸術家だけには要求する、
>ということも無かったでしょう。
>くりかえしますが、「アーティスト」を、我々とは違った
>特別な存在として認識するのは、たかだかここ
>2〜3百年「近代人」にしか通用しない「歴史的」な見方
>であって、決して普遍的なものではありません。
>自己完結してますよ、論理が。
>誰もそのような主張はしていないように見受けられます。

1)根本は渋谷さんの要約すると“「オリジナリーティー!」
と騒いでいる意見そのものにはオリジナリティーがないので、
あなた達の主張する「芸術にはオリジナリティーが必要だ」
という意見は論理的に破綻している”という発言に
起因しています。これに対する私の反論に対し答えていないし、
相変わらずこの事を論拠に意見を展開しています。
つまり、「オリジナリティーを主張する人間が意見を
言う場合は、絶対に他人と同じ事を言ってはいけない」
ものなのかどうか、もし、そうならば、その理由は何なのか
をお答えください。

2)「アーティストは特別だ」という事も誰も言っていません。
  今時そんな事思っているやつは代官山にもいないと思うし。

さて、反論に対する答えだけで、ここまで来てしまって、
肝心の意見を云うのが遅くなってしまった。

1)まず、コラージュであろうと、何であろうと
 オリジナリティーは存在する。これは、先日述べた、特許と、
 組み合わせの特許の例の通り。

2)しかし、次に、ここで、オリジナリティーという言葉を捨て、
 イマジネーションという言葉に置き換えて考えてみて欲しい。
 その場合、コラージュとそうではない場合に決定的な
 違いがある。プロット(広い意味。シナリオ、構想)を考えるに
 おいては、コラージュもそうではない作品も同様の
 イマジネーションが必要である。しかし、そのプロットが
 確立した場合、コラージュの場合は、プロットで考えた
 引用元から持ってきて置くだけ、あまりイマジネーションは必要な  い。これは、ちょっと頭にいれて欲しい。

3)次に、知的所有権の話に戻ります。餌の奪い合いを
  防ぐため、所有権の概念が形作られ、やがてその為の
  法律が整備されて来た。それに対し、異を唱える
  「共産主義」という思想も生じたが、大勢にはならず、
  むしろ後退している。知的所有権においても、同じように
  形作られ、法律が整備されつつある。従って、過去にその
  概念が無いとか、現在のデジタル社会において、
  危機を叫ばれていても、否定された訳ではなく、間違いなく、
  法律上、倫理上尊重されるべきものである。

4)岡崎京子の漫画の中、©表示があるもの、無いものがある。
 この事は非常に欺瞞に満ちていると思う。
 すべて有るか無いか。このどちらかで有れば、主義・主張を感じる  が、そうでは無い以上、非常に汚いものを感じる。
 また、奥付にははっきりと©Kyoko Okazakiと記している。

 いくらtachさんが著作権という現行法で彼女を裁くのは
正しいのか?
とおっしゃったところで、彼女自身は自らの著作権を主張
しているのだから。自ら主張しているものを他人には主張
してはいけないというのは矛盾。これは先に述べた通り。

 このことをどのようにお考えでしょうか?


名 前   :H.C.
時 刻   :03月21日09時05分
アクセス  :cs14n36.ppp.infoweb.ne.jp
メール   :レス遅れました。

レスまで時間がかかってすみません。岡崎京子の
作品を買いに走ったりしてたもんで。


1)Tach賛江

>読んでいて一 番気になったのは、いくらH.Cさんが
>プロの実作者であったとしても、一人で、すべての実作者を
>代表すること は出来ないだろうということです。実作者の
>中にもいろいろな考え方をする人がいるはずだし、H.Cさん
>の考え方がすべてではない。

誰も物を作ってる人が参加していないかのように
思えたからです。物を作っている人の意見が取り入れられ
ていると思えれば、あのような言い方はしません。

>これは非道い、暴力的だ、と僕は思いました。
>H.Cさんは、いったいどんな権利があって、人に発言を
>禁止すること出来るのでしょうか

断定するなと言っただけです。何故、そうまで決め付け
られるのかなというところがあったので。やぎさんの
3月17日の意見で述べて頂いているので、それ以上書きません。

>でも、実際には「岡崎式引用」を巡って議論しているの
>です。
>それが分かっていないのに顔を突っ込んでくるのは、少
>なくとも、マナーとしてはよくない。

>でも、もう顔を突っ込んでる。
>かくなる上は、作品の二・三冊も読んで、更にこのサイ
>トの「岡崎京子の引用事例集」に目を通していただけれ
>ば、と思います。

確かにそのとおりだと思い、数冊読みましたが・・・・。
あまり意味のある引用ではないという印象。
もっと、意味のあるシーン・言葉が引用されているのかと
思ったのですが、引用が意味をなしている所は殆ど無いのでは?
これでは、サロンの会話というか単なる
「私ってこんな事知ってるのよ」
というひけらかしにすぎないようにすら感じます。
こと、その引用だけをとると、底はちょっと浅いし。

itさん江

>「この世では全てのものは書き尽くされてしまった、
>言い尽くさ れてしまった。ゆえにわれわれは引用
>するほかないのだ」というようなことを書いていた
>方がいらっしゃったけれども、僕はそのような立場
>をとりません。

私には皆さんがそういう立場をとっていると
見えたのです・・・・。
みなさんが、一致してフラニーさんを攻撃して
いるようで、考え方の違いがあるように思わなかったので、
混同していたようです。スミマセン。

>天声です! 
いいですね。(笑)

>H.Cさんは実学以外の人文諸科学 全てを否定している
>ようにみえるけど(スゲエ、田舎の財界の保守オヤジみたい)
>あなたが普遍真理だと思っている著作権等だってその正当性は
>カントやヘーゲルに端を発する倫理学や法学に支えられてるんだよ。>つまり著作権だって、所詮理論的な「実証されていない」
>哲学的思考に裏づけられてるわけですよ。

実学という言葉を使った事は反省してます。
実学の反対語は虚学ですもんね。
最近、経済誌を読む頻度が高いもんだから、そういう言い方を
してしまいました。この件は、議論とは全く関係ない事項ですが、
一応僕の考え方を言わせて貰います。

1) 哲学については、全く否定するつもりはありません。
人類にとって未知の世界がある限り、哲学的思索は絶対必要だと
思っています。哲学が不要になる時というのは、人間の感情
とかもDNAやシナプスの分析で判ってしまい、宇宙の生成が
すべて解き明かされる時代になるまでは有り得ない。
その未知の世界を否定せずに思索することは絶対に必要であり、
それがなければ、人類は進歩しないと思います。
2) しかし、哲学(そして、倫理学・法学等の社会の
   あり方を考察する思想を含め)はあくまでも仮説
   を提示する学問です。実証できるような内容を扱
   っていないわけですから。

渋谷さんへ
>アーティストは、作品を作っている限りにおいてのみ、
>アーティストです。
>アーティストが言葉で論理を語り出したとしたら、
>たとえその論理のテーマが「アート」であったとしても、
>アーティストの言う論理だからといって、それが正当化
>されることもないし、 アーティストでない人が言う
>論理だから、その論理は間違っているということもない。
>ましてや、物を作ってメシを食っていない人は、
>創造に関して断定的な言い方はできない、ということも
>ありません。
>アーティストであれば、すべては作品で語るべきだし、
>もしも言葉で語るなら、アーティストという肩書き自体は、
>その言葉の正当性に対して何の意味も持ちません。

これは、僕の言っている事に対して、反論になっていません。
アーティストがどうのこうのとは言っていない。
実体験・経験を問うたわけです。例えば、材木屋と
大工が豆腐の作る際の、にがりを入れるタイミングを
論じているのを、本職の豆腐屋が聞いたら、
「何言ってんだてめえら」という事になるでしょ?
でも、大工が趣味で最近豆腐作りにはまっていると
いう事であれば、意見もきくかもしれないよね。
次に歴史の話は、とても懐かしかったのですが、

>例えば教会の宗教画を描いた画家は、その作品の
>オリジナリティーを主張などしなかったでしょうし、

これは違うと思います。知的所有権というものが
何故必要となったか。それは、どこかに絵を描いた
人間がいて、それを別の人間が俺が描いたといい、
喧嘩や人殺しが何度も起こった。これではいけない
ということになり、それをはっきりさせる為に、
物権である所有権の考え方が、著作・発明・意匠と
いったソフトに広げられた・・・
と、「推察」します。非常に自然な考えでしょ?
知的所有権が現在確立している経緯を考えれば、
「俺が描いた、真似すんな」という主張が当時
無かったとするほうが、無理があると思いますが.。

>「芸術にはオリジナリティーは無くてはならないが、
>意見にはオリジナリティーなんか無くてもいい」
>というような、自分達にはなし得ない高い倫理性を、
>芸術家だけには要求する、 ということも無かったでしょう。
>くりかえしますが、「アーティスト」を、我々とは
>違った特別な存在として認識するのは、
>たかだかここ2〜3百年「近代人」にしか通用しない
>「歴史的」な見方であって、 決して普遍的なもの
>ではありません。 自己完結してますよ、論理が。
>誰もそのような主張はしていないように見受けられます。

1)根本は渋谷さんの要約すると“「オリジナリーティー!」
  と騒いでいる意見そのものにはオリジナリティー
  がないので、あなた達の主張する「芸術にはオリジナリティー
  が必要だ」という意見は論理的に破綻している”
  という発言に起因しています。これに対する私の反論に
  対し答えていないし、相変わらずこの事を論拠に意見を
  展開しています。つまり、「オリジナリティーを主張する
  人間が意見を言う場合は、絶対に他人と同じ事を言っては
  いけない」ものなのかどうか、もし、そうならば、
  その理由は何なのかをお答えください。
2)「アーティストは特別だ」という事も誰も言っていません。
  今時そんな事思っているやつは代官山にもいないと思うし。
  さて、反論に対する答えだけで、ここまで来てしまって、
  肝心の意見を云うのが遅くなってしまった。

1)まず、コラージュであろうと、何であろうと
  オリジナリティーは存在する。これは、先日
  述べた、特許と、組み合わせの特許の例の通り。

2)しかし、次に、ここで、オリジナリティーという
  言葉を捨て、イマジネーションという言葉に置き換えて
  考えてみて欲しい。その場合、コラージュとそうでは
  ない場合に決定的な違いがある。
  プロット(広い意味。シナリオ、構想)を考えるにおいては、
  コラージュもそうではない作品も同様のイマジネーションが
  必要である。しかし、そのプロットが確立した場合、
  コラージュの場合は、プロットで考えた引用元から
  持ってきて置くだけ、あまりイマジネーションは必要ない。
  これは、ちょっと頭にいれて欲しい。

3)次に、知的所有権の話に戻ります。餌の奪い合いを
  防ぐため、所有権の概念が形作られ、やがてその為
  の法律が整備されて来た。それに対し、異を唱える
 「共産主義」という思想も生じたが、大勢にはならず、
  むしろ後退している。知的所有権においても、
  同じように形作られ、法律が整備されつつある。
  従って、過去にその概念が無いとか、現在のデジタル
  社会において、危機を叫ばれていても、否定された
  訳ではなく、間違いなく、法律上、倫理上尊重される
  べきものである。

4)岡崎京子の漫画の中、©表示があるもの、無いものがある。
  この事は非常に欺瞞に満ちていると思う。
  すべて有るか無いか。このどちらかで有れば、
  主義・主張を感じるが、そうでは無い以上、
  非常に汚いものを感じる。
  また、奥付にははっきりと©Kyoko Okazakiと
  記している。

いくらtachさんが著作権という現行法で彼女を裁くの
は正しいのか?
とおっしゃったところで、彼女自身は自らの著作権を
主張しているのだから。自ら主張しているものを他人には
主張してはいけないというのは矛盾。これは先に述べた通り。

 このことをどのようにお考えでしょうか?

名 前   :まさよ
時 刻   :03月21日00時53分
アクセス  :ctk111ds50.tk1.mesh.ad.jp
メール   :akio77@mte.biglobe.ne.jp

こんにちわ
 私は、岡崎京子さんの本を読むようになってから、早3年ぐらいになります。友達から‘リバーズエッジ’を借りて衝撃を受けました。
 それ以上の漫画はありません。はやく新しい岡崎京子さんの漫画が読みたいです。ゆっくりと静養して復帰してほしいです。

名 前   :tach
時 刻   :03月19日23時48分
アクセス  :62.pool4.yokohama.att.ne.jp
メール   :tach@iname.com
ホームページ:http://www.freepage.total.co.jp/tach/

ほしのさん、こんばんは
色々調べていただいてありがとうございます。
後ほどまとめて事例集の方へ追加させていただきますので、少々お時間ください。

他にも、いろいろと事例をお寄せいただいている皆さん
後ほどまとめてレスさせていただきますので、少々お待
ちください。

「引用」と「モラル」問題で、まだ、頭がいっぱいなも
んで…


oouiさん
レスありがとうございます。
私も、「モラル」の問題にはもう少ししっかり答えない
といけないと思って私なりの回答を書いているところで
す。しかし、私も遅筆なので、少々お時間をくださるよ
うお願いします。

名 前   :ooui
時 刻   :03月19日23時34分
アクセス  :tyscc-04p79.ppp.odn.ad.jp
メール   :cbh96360@pop02.odn.ne.jp

tachさんへ

レス遅くなりました。
はじめにお断りしておきますが、もとより、一連の議論の流れに不満を持ったために前回の書き込みをしたまでで、僕が必ずしもフラニーさんと意見を同じくしているわけではありません。(もしかして僕はあなたの敵かもしれませんよ(笑)>フラニーさん)
そして同時に、フラニーさんの主張への僕の見解に誤解が含まれている可能性があることを申し付け加えておきます。一応念のため。

前回の僕の書き込みが判りにくかったようで、そのためかtachさんの僕への質問に接して、やはり話が噛合って無い印象を受けました。
もちろんご理解いただけなかったのは、衒学的な言葉遣いをした僕の方に非があり、説明が不親切であったと反省しております。
というわけでtachさんの質問に即してお答えすることはできませんが、前回の書き込みで判りにくかった部分を説明すること、僕なりに考えた議論のポイントを示すこと、そしてtachさんらの意見に僕が持った疑問を表明させていただくことで、tachさんのご質問の答えに代えさせていただきます。


超越論的な批判とは要するに、ある対象について価値観を持ちこまないで、その対象に即して、その対象の事実(前提・条件・制約)から、その対象を吟味するということです。

超越的な批判は、いわゆる普通の意味での批判と考えていただいてよいと思います。

「引用はオリジナリティがないからダメである」という言明は、オリジナリティという、引用にとって外在的あるいは超越的な価値観を持ちこんでいるので超越的です。
(いわゆる偉そうな批判)

しかし「引用には、引用する者と引用される者という非対称的な立場が存在する」という言明には、外在的な価値観は存在しないし、引用という行為それ自身の内に(内在的)必然的に具わる前提を表しているので超越論的です。

そして「引用元を知らない人はどうなるの? そのとき引用された人はどうなるの?」
という問題も、オリジナリティー云々といった事を介在させる必要がない、引用という行為自体が必然的に持つ、超越論的な問題です。

この「引用元を知らない人はどうなるの? そのとき引用された人はどうなるの?」という問題が意味しているのは、引用という行為自体に他者との関わりを持つ契機が内在する以上、そこには倫理的な位相が生じるのもまた必然的であるということです。
この倫理的な位相は、引用という行為の持つ本質から要請されたものであり、オリジナリティの歴史性といった議論とまったく無関係であり、また引用の必然性、現代性といった議論で解消できる事ではありません。

僕の理解する限り、「引用という行為が無条件に肯定されている風潮の中で、引用という行為には倫理的な側面が存在することが忘れられているのではないか?」というのがフラニーさんの問題提議の本質であると考えており、またその限りで妥当な主張であると思います。

そして、フラニーさんが求めいていることは、このような倫理的な問題に対してどのような見識・見解を岡崎ファンが持っているのか、ということであると考えております。

このような問題提議に対して、引用の必然性、現代性といった議論を持ち出すことは、そのような議論がいかに正当であろうとも、倫理的な位相が忘却されている事の合理化にしかならないように思えますし、またそのことでこの問題を無視できるとお考えなのでしたら、tachさんらの立脚する現代性というものが、とても超越的な(つまり偉そうな)立場のように思えます。

以上、どう思われるでしょうか?

なお僕の書き込みに対してのご意見・ご質問には、なるべく答えていきたいと思っていますが、なにぶん度外れた遅筆のためレスは気長にお待ちいただけるようご了承お願いします。

名 前   :ほしの
時 刻   :03月19日21時20分
アクセス  :csaa122.ppp.infoweb.ne.jp
メール   :jin@star.email.ne.jp
ホームページ:http://www.asahi-net.or.jp/~aq4j-hsn/okazaki/

引用情報二件

1件め

『ジオラマボーイ★パノラマガール』の第21章のタイトル「パン屋襲撃」は、同名の自主製作映画が山川直人監督で
1982年に作られています。原作はやはり村上春樹です。岡崎さんは、手塚真との交流や「最低8ミリ〜」等、自主映画の
分野にも近かったので、映画の方を見ている可能性もあると思います。

2件め

『死ぬにはいい日だ』ブルース・ウィリアムズ、新評論、1990
私の持っているのはこれらしいですが、全然関係ない気がします。

『今日は死ぬにはもってこいの日』
1995年9月刊なので、時期的にはぴったり。当時音楽業界でインディアン(native American)ものが流行ってたから、
岡崎さんが読んでる可能性はあり。でもこの引用じゃない気がする。
ちなみにこのタイトルは「いい天気ですね」くらいの挨拶だそうです。

宮本輝
多作な人なので原典不明。でも芸風がかなり違うので、岡崎さんが宮本輝を読んでいる可能性は低いと思う。

名 前   :やぎ
時 刻   :03月18日02時32分
アクセス  :proxyhard.idirect.com

一つ訂正。
でもフラニーさんの言っている事も、勘違いかもしれないけど・・・

でもフラニーさんの言っている事も、私の勘違いかもしれないけど・・・
要は自分に読解能力がないということを言いたかったわけです。

名 前   :やぎ
時 刻   :03月18日02時22分
アクセス  :proxyhard.idirect.com

tachさんへ
再度失礼致します。議論されている内容と関係のない私の質問に答えていただいて嬉しいです。
tachさんと同じように私も岡崎の作品は立派な「創作」だと思いますよ。もっといってしまえば人が生み出したものはすべてそうだと思います。
たとえそれがコラージュであろうと、ああいった作風、描き方は岡崎にしか出来ないことだと思いますし。(抽象的で申し訳ありません)
でもフラニーさんの言っている事も、勘違いかもしれないけどとてもよく解るんですけどね。
あと岡崎がもし有罪になったとしても、私は別に嫌ではないんです。言葉が乱暴ですけど、法律なんて所詮人間の決めた「社会を円滑にしていくための約束ごと」位にしか思っていないので、そんなもので裁かれたとしても何とも思わないんです。
いやあ、でも守らないといけないものなんですけどね。最低限社会で生きていく上では。矛盾してますけど。
もし岡崎が法で裁かれて有罪になったとしても、彼女の作品を評価する人はたくさんいるだろうし、私的にはそれで満足なんです。それで作品の価値が変わるとも思えないですし。
最後に。
ここの掲示板は友人に教えてもらって見に来たのですが、今回の議論は自分がこれから創作していく上で大変興味深いこととして拝見させて頂いています。
自分はROMに戻りますが、みなさんの意見を参考にしつつ自分なりにもっと考察してみたいと思います。
それでは失礼致しました。

名 前   :tach
時 刻   :03月17日23時50分
アクセス  :29.pool3.yokohama.att.ne.jp
メール   :tach@iname.com
ホームページ:http://www.freepage.total.co.jp/tach/

「僕モード」続行します。

フラニーさん

フラニーさんの書き込み(03月16日22時53分)の流れを
追いながら、順次、僕の考え方を説明してゆくことにし
ます。

> 私が「前提」としている事とは、
> 「作家にはオリジナリティーや、知的所有権があり、
> それはむやみに犯すべきではない。」
> tachさんはそう解釈していらっしゃる、
> ここは間違いないですか?

OKです。
フラニーさんはそう考えているのだろうと思ってました。

> で、tachさんは、「オリジナリティーや知的所有権
> なんていうものは過去の遺物でしかなく、それに拘泥する
> のは古典的立場である」というご意見。
> これもこれでよろしいですか

ここには誤解があります。

僕は、オリジナリティーと知的所有権を分けて考えてい
ます。

まず、オリジナリティーについて。
簡単に言っておくと、僕は、オリジナリティーというも
のの存在を信じてます。それは、「過去」も「現在」も
変わることなく存在していると。

この点で渋谷さんとは意見が違います。
渋谷さんはオリジナリティーそのものの存在を否定して
います。僕がオリジナリティーと呼ぶものは、引用の
「やり方」であって、オリジナリティーの名に値しない
と言うのが渋谷さんの意見です。(これはあくまで僕の
「まとめ」であって、渋谷さんは同意しないかもしれな
い)

今回、ややこしかったのは、期せずして渋谷さんと僕の
論調が歩みを揃えてしまったということです。
このため、二人が同じ意見であるような印象を多くの方
に与えてしまったようです。
僕の最初の書き込み(03月10日23時27分)で紹介してお
いた過去ログのリンク(http://www.freepage.total.c
o.jp/tach/tach談話室log00.html#tach_ori)を読んで
いただいていれば、そんな誤解は起こらなかったはずだ
と思うのですが…仕方がない、誤解は起こってしまった。
ですから、ここで誤解を解いておきます。
僕はオリジナリティーというものの存在を信じている。

次に、知的所有権。
知的所有権というと著作権の他に特許権とか工業所有権
とか余計なものまで含まれてしまいます。こうしたもの
は著作権とは少し性格が違うような気がするので、以下
の話では除外します。著作権という言葉を使わせてくだ
さい。
この著作権は「歴史的存在」だと僕は思う。
ただ、歴史的存在だということは、「過去の遺物」だと
いうことではありません。
ある特定の時代のある特定の社会の中だけで通用してい
る「社会的虚構」だということです。だから、過去に遡
ってゆくと「著作権」という概念そのものが存在してい
なかったりします。

以上、まとめると、僕の意見は、正しくは次のようにな
ります。

「著作権というものは歴史的存在である。状況が変われ
ばその有効性は損なわれてしまう。それが無条件に有効
であるという前提に立って岡崎作品を判断すると、岡崎
作品の存在そのものが『著作権』に突きつけてくる問題
提起が理解できなくなったり、岡崎作品そのもを否定せ
ざるを得なくなりますよ。現在の著作権というものに対
して、もっと疑いの心を持ってみるべきだ」

ということです。

僕としては、中心にあるのは「岡崎作品」の問題なので
す。歴史と著作権の話に入り込まざるを得なくなること
もありますが、その一般論を論じたいと思っているわけ
ではありません。

次に行きましょう。

> で、私の「前提」の「作家にはオリジナリティーがある」
> という前提が何故正しいのか論じろ、ということですね?

残念ながら、ここで決定的にズレが生じています。
別にフラニーさんが悪いといっているのではありません。
二人の間で意志の疎通がうまくいっていないということ
です。
「作家にはオリジナリティーがある」という前提が正し
いことを、僕に対して証明していただく必要はありませ
ん。僕も作家にはオリジナリティーがあると思ってます。

(話がややこしいのは、相手が渋谷さんだったら、証明
しろと言うでしょうね。うううん、難しいなぁ、いろい
ろな人がこの議論に参加しているからなぁ…)

僕が論じて欲しかったのは「現在の著作権の概念をその
まま受け入れて岡崎作品を裁くことが何故正しいのか」
ということです。

僕は正しいとは思わないのです。
岡崎の作品を前にした場合、むしろ現在の著作権の方が
そのあり方を変えなければならないのではないかとすら
思ってしまう。
具体的にどう変えたらいいのか? などということは、
分かりませんよ、もちろん。
でも、少なくとも、岡崎作品を前に、現在の著作権の概
念はその限界を露呈しているような気がする。

> tachさん、渋谷さん、itさんらは、
> どんどん人の作品でも何でも勝手に盗用していいと
> 考えていらっしゃるのですね?

僕はそんな言い方はしていません。
原典を明示しない「岡崎式引用」を「盗用」と決めつけ
て、それだけで本当にいいんだろうか?ということです。

> で、痛みが生じるから、楽な道を選ぶ(H.Cさんの言
> によれば)のは正しいことで、岡崎氏も、楽をしたい
> ために、 創作の痛みを避けるために、盗用を行って
> いた、 とおっしゃるのですね?

これも明らかな誤解です。
誰もそんなことは言っていないと思います。

岡崎が何故引用をするのかということについては、僕な
りに思い当たる節もあります。
ただし、思い当たるだけで、あんまりまとまってもいな
いし、我ながら説得力に欠けるような気もする。気が引
けるのですが、でも、話の流れとしてはいい機会なので
書いてみます。

岡崎にとって、「引用」した他人の作品の断片は、いわ
ば「単語」のようなものだったのではないかということ
です。

昔の書き込み(http://www.freepage.total.co.jp/tach
/tach談話室log00.html#tach_ori)の繰り返しになりま
すが、言葉というものは、語彙があらかじめ決められて
います。(時代によって語彙は変化しますけど、それは
おいておきます)その限られた語彙の中から、単語を選
んで組み合わせることによって、いわば無限の新しい文
章が生み出されてくる。そんな風にして、岡崎も作品を
描いたんじゃないかなぁって…

おそらく岡崎は、小さい頃から、それこそ浴びるように
いろいろな漫画や本を読み、音楽を聴いて育ってきた人
なのではないかと思うのです。そういう類のあふれかえ
るような豊かさの中で、既存の様々な作品を、いわばこ
とばのように身につけてしまったのではないかと…

そういう状況って、少なくとも、今の日本の社会の中で
育った「作者」たちにとって、共通の背景になりうるか
もしれない。
もしそうであるなら、確かまめさんが言ってましたよね、
言葉は誰のもの?って。(03月10日04時29分)極論を言
えば、言葉の一つ一つに(c)マークをつけるべきでしょ
うか?

だいたいそんな感じ。
あんまりまとまってないし、説得力もなさそうなので、
ご参考までに、というところです。


最後に、もう一つ、フラニーさんの書き込みで気になっ
ている部分が残っているので、触れておきます。

> 私は「盗用」というのはいけないことだと、信じき
> っていましたので、(いけなくないなら裁判になぞな
> りませんよね) (03月15日02時01分)

確かに「盗用」は現行法では「罪」です。
岡崎京子の数多くの「引用」の中にも、ひょっとしたら、
「違法状態」にある「引用」も含まれているかもしれな
い。分からないですけど、誰かが訴えれば、勝ってしま
うということも、ひょっとしたら、あるかもしれない。
(itさんは心配するなと言うけれど、やっぱり僕は心配
です)

でも、法に触れることが、即、「悪いこと」だとは限り
ません。
まず、「悪いこと」があって、それを正すために法律が
あります。逆ではありません。法律に触れているからそ
れが「悪いこと」だというのは倒錯です。残念なことに
法律は常に正しく機能するとは限りません。たいていは
どこかに必ずのように取りこぼされる部分が出てしまい
ます。時代が動き、それにつれて「正しいとされるこ
と」と「悪いとされること」の範疇が微妙に揺らぐとき、
その取りこぼされた部分は尚のこと大きくなりがちです。
著作権法上における岡崎京子の「引用」も、そうした
「取りこぼされた部分」に位置しているのではないかと、
僕は考えています。


以上です。

疑問点なり、反論なりがありましたら、どうぞ。
うまくいけば、これで議論が望ましい方向に進みはじめ
るかな?
そうなればいいんですけど…




やぎさん

指名されたので、答えておきます。

> あとtachさんが言う「創作の正しさ」って何ですか?
> 創作に正しいも間違いもあるのかなぁ。2次元論すぎます?

正確には

岡崎作品の「創作としての正しさ」を直観的に信じてる

と言いました。
心の赴くままに変な表現をしてしまいましたが、ちゃん
とした創作物だと思うということです。既成の断片をつ
なぎ合わせたコラージュかもしれないけど、それでも立
派な「創作物」だって。


ついでなので言っておきます。

> フラニーさんが言うように岡崎の作品は盗用なのかも
> しれませんが、でもそれでもいいんです。まさにファ
> ンってそういうものだと、それでいいんじゃないかと
> 思います。

でも、万が一、裁判になって、岡崎が有罪になったらい
やですよね? 岡崎を有罪にするような世の中が間違っ
てる!と思いませんか? 僕はそういうことを考えてい
ます。

名 前   :フラニー
時 刻   :03月17日19時04分
アクセス  :1cust49.tnt1.dial.yok1.da.uu.net
メール   :りえこさんへ

りえこさん。
とても丁寧なレスをありがとうございました。
心が和みました・・・・。
私の方も、かなり攻撃的な文章であったと思います。
反省し、お詫びしたいと思います。

名 前   :ほい
時 刻   :03月17日18時51分
アクセス  :210.238.31.41.tcn-catv.ne.jp

 始めまして。引用、盗用議論、興味深く拝見させてもらいました。
私は数ヶ月前、或る人物を検索エンジンで検索した時にここの引用集
に引っ掛かった為に岡崎さんを知り、リバーズ・エッジだけを読んだ
という人間で、およそファンとは呼べない者です。
引用、盗作問題に、私が思った事を断片的に書かせていただきます。
■引用か盗用かは知りませんが、この作業によって岡崎さんの作品や
岡崎さんの思想が読者に理解され易くなった事、また、読者に興味深
く迎えられる事となったのは事実だと思われます。
■よくよく考えて見れば、これ程までに現代思想を引用か盗作かは解
りませんが、作品中に利用してきた岡崎さんに対し、現代思想家達か
ら一言も「これは盗用」である、と言われなかった事は、著作権の厳
しい某国から見てみれば、やはり奇妙な事なのかもしれません。
■作品で最も大切な固有価値は、媒体たる物語や絵なのでしょうか。
それら媒体が伝える思想こそ最大の固有価値ではないでしょうか。
■私は映画や文学にも然して興味が無い、すなわちそれらに対する知
識が無いので、フラニーさんの指摘する様に岡崎さんの引用した物が
岡崎さんのオリジナルに見えた事は否定しがたい事実です。
■これが、岡崎さん本人だけが読んで楽しむ物ならば良かったのでし
ょう。しかし、社会で販売される以上、引用か盗用か否かについては
もっと考える必要があるのでは無いでしょうか。
■引用集や過去のログデータを見た以上、岡崎さんの引用ないし盗用
という作業が、様々な娯楽性(謎解き、ファン心理の欲情、)を持って、ファンに受け入れられている事が解ります。
■引用や盗用が、岡崎さんの神格性を醸成している事は事実ではない
でしょうか。
■私はリバーズエッジしか読んでいないのでよく解りませんが、リバ
ーズエッジに於ける引用ないし盗用は限りなく自然に作品へと溶け込
んでおり、少なくともリバーズエッジに関しては或る特定の引用を除
いて岡崎さんは無意識的に無意識的に引用していたのでは、と思って
います。でも、その引用が意識的な物であったとしたら、うまいうま
すぎる((C)十万石ふくさや)としか言いようが無いです。

とてもファンと言える存在でも無いのに、うだうだ言って申し訳あり
ませんでした。

名 前   :it
時 刻   :03月17日08時37分
アクセス  :tkyca-0516p133.ppp.odn.ad.jp

しまった! 大事なことを書き忘れていた。

「この世では全てのものは書き尽くされてしまった、言い尽くさ
れたしまった。ゆえにわれわれは引用するほかないのだ」という
ようなことを書いていた方がいらっしゃったけれども、僕はその
ような立場をとりません。そもそもそのようの諦念は歴史的に何
度も言われてきたことであって(たとえばフローベールやボード
レールもそのような認識をもっていた)、なにも現代的な問題で
はありません。しかも、そのように言うことはひとが引用せずに
オリジナルのなにかをつくりうる時代があったと想定することに
なる。僕はもちろん下で述べたように「引用」一元論者(!)な
ので、つねにすでにオリジナルより引用が先行しているという立
場です。
だからといって、引用しかない以上、なにも新しいものは生まれ
ないとは思わない。当たり前だけど時代が変われば新しいものは
生まれるわけです。フローベールやボードレール以後に実際、ジ
ョイスもマラルメもプルーストもべケットもいたわけです。
むしろ、問題は全てはやり尽くさてしまったという諦念がアリバ
イとして機能して、なにか現実あるいは歴史とのかかわりをオミ
ットして、引用の戯れに耽ることが正当化されることです。先の
カキコミの「退屈ごっこ」とはそのことです。しかし、そのよう
な非歴史的な空間はかならず現実あるいは歴史の回帰によって、
破られる。たとえばそれは底なしの不況でも、従軍慰安婦問題で
もそうでしょう。岡崎京子が優れているとしたら、そのような現
実、歴史の問題と共振する次元においてではないでしょうか(も
ちろんそうばかりとは言い切れない)。
とはいっても、作品の外の現実を安易に作品に投影するのはよく
ないし、まずは作品それ自体を自律的なものとして読むべきです
けど(作品外の現実はとおりあえずカッコにいれて)。

うーむ、ほんとは僕はこういう教条的ないい方は好きではないの
ですが。

名 前   :it
時 刻   :03月17日07時25分
アクセス  :tkyca-0516p03.ppp.odn.ad.jp

下の補足

著作権、あるいは創作者の権威なるものが歴史的かつローカルな
ものでしかないということについての実証的な批判は渋谷さんの
基本的に言うとおりだと思います。
やはり僕のいうことは抽象的すぎるかもしれない(だからといっ
て間違ってるとも思わない)。

名 前   :it
時 刻   :03月17日06時57分
アクセス  :tkyca-0515p83.ppp.odn.ad.jp

以前の発言に付けくわえることはほとんどないのですが少しだけ。

oouiさんへ「引用する人間とされる人間、引用元が判る人間と判
らない人間、という非対称性」とおっしゃるけど僕の言っている
ことは、その両者の間に原理的な線引きができないということで
すよ。そもそも「引用元」のまったくわからない読者だって論理
的には想定可能でしょ。
もちろん「引用・盗用」の間にも原理的には線引き不可能です。

「フラニーさんは、引用という行為が現実で付随せざるを得ない
非対称という事柄に即しての(カント‐ドゥルーズ風にいえば
「内在からの超越論的な」)批判をしたのであって、それはオリ
ジナリティーを至上とする立場からする超越的な批判とはまった
く違うものなのでは。」
僕には哲学的な教養がないので「内在からの超越論的な」といわ
れてもよくわかりませんが、僕の立場はオリジナル/コピーの、
あるいは「古典的オリジナリティ」と「現代的引用」の二項対立
を二次的な派生物として産出する、いわば「原引用」があると、
少なくとも権利上はあるといっているのです(などと言う僕の方
がはるかに超越論的な気もしますが)。

さて以上述べたように、僕は「引用」という言葉に本来ならば、
ありえない意味上の負荷をかけて使いました。しかしそれは、
しかたなかった気もします。すでに議論の文脈のうえでそのよう
な意味上の逸脱が見られたからです。おそらく岡崎における引用
について問うときそれは不可避でしょう。そのことをわかってい
るからこそtachさんは「引用事例集」ではなく「引用・言及事例
集」というのでしょう。たとえば『リバーズ・エッジ』の死体を
『スタンド・バイ・ミー』からの引用と言う方がいたけど、作品の
なかで作中人物の心理に回収されない物として死体が登場するの
は他の数多の物語においても見い出しうるわけです。たとえば最近
だったらキューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』。
つまり、ある種の主題上における紋切方です。僕は引用という言
葉をそのようなことも含めて使ったわけです。

などと原理論的なことを書いたせいかH.Cさんにこんなことを言
われました。
「itさんのおっしゃるような世の中の記号論等で云われている事は、
哲学と見なされていて、実証されていない以上実学では無いという
事はご存知だと思います。それを真理かの様に論じるのはライフスペ
ースの定説と同じでは無いのでしょうか?
更に、「あらゆるものが引用であり、反復である以上」とは誰が決めたんですか?
itさんの「定説」ですか?引用ですか? 」
天声です! というのは嘘ですよ。これはもう反論の必要もない
ような暴論だけどひとつだけ。H.Cさんは実学以外の人文諸科学
全てを否定しているようにみえるけど(スゲエ、田舎の財界の保
守オヤジみたい)あなたが普遍的真理だと思っている著作権等だ
ってその正当性はカントやヘーゲルに端を発する倫理学や法学に
支えられてるんだよ。つまり著作権だって、所詮理論的な「実証
されていない」哲学的思考に裏づけられてるわけですよ。

これ以上は先のカキコミで言うことは尽きているのでなにも言う
気になりません。

まあ、他に引用元のインデックスをつくるこによって、引用先を
特権的にわかっているファンの閉鎖的な共同体がつくられはしな
いかという問題がありうるでしょうが、ここではさしあたって措
いておきましょう。

そうそう、tachさん、H.Cさん裁判なら心配いらない。そんなこと
したら渋谷さんの言うとうり、漫画界はむちゃくちゃなことにな
る。特に、同人誌つくっている連中なんて大打撃うけることにな
ります。マーケットがそんなお客さんを敵にまわすようなことは
しません。

それにしても僕としては『リバーズ・エッジ』の死体と現実につ
いての議論の方がしたかったです。まあ別にたいした話じゃない
けど。

名 前   :渋谷
時 刻   :03月17日03時53分
アクセス  :61.pool17.tokyo.att.ne.jp

●アーティストは、作品を作っている限りにおいてのみ、アーティストです。
アーティストが言葉で論理を語り出したとしたら、
たとえその論理のテーマが「アート」であったとしても、
アーティストの言う論理だからといって、それが正当化されることもないし、
アーティストでない人が言う論理だから、その論理は間違っているということもない。
ましてや、物を作ってメシを食っていない人は、創造に関して断定的な言い方はできない、ということもありません。
アーティストであれば、すべては作品で語るべきだし、
もしも言葉で語るなら、アーティストという肩書き自体は、
その言葉の正当性に対して何の意味も持ちません。

●歴史の話をします。
元来、西欧キリスト教社会において、「芸術」とは、神の再現でした。
非西欧社会においても、古代の芸術や文化は、
その共同体の持つ呪術的・祝祭的・宗教的なものと不可分であると言えます。
すなわち、本来「芸術家」が持っていた社会的役割とは、
目に見えない神を、目に見える形に再現して、社会的に還元する、
ということでした。
つまり、大切なのは「神」であり、
芸術家とはその神を現出させる専門的な技術を持った、ある種の職人に過ぎなかったのです。
その意味で、芸術家と村の鍛冶屋は、同じものであったでしょう。
今「アーティスト」というときの元になる「art」が「芸術」という意味として使われるようになったのは、
17世紀以降のことで、
それまでは「art」という言葉の意味は「技術・技芸」であり「学問・学術」でした。
(今でも、例えば「industrial arts」といえば「工芸」だし、
「the liberal arts」といえば「教養科目」であって、
「art」という言葉のそうした意味は生きていることは、御存じかと思います。)
また「作品」の意味の英語は「works」、すなわち「仕事」です。
そして、西洋キリスト社会のロゴス中心主義の世界観においては、
「芸術」と「哲学」「科学」とは、3つとも、
「神・ロゴス・真理」という唯一絶体なものを追及する、
3つの相互補完的な営みだと考えられていました。
つまり、今日のように「芸術」がその他の仕事と区別されて語られるようになったのは、
ここ2〜3百年のことであって、
すなわちこれも「歴史的」なことに過ぎないのです。
芸術の発生の原初において、
芸術も哲学も科学者も職人も、区別はされていませんでした。
その世界では、
例えば教会の宗教画を描いた画家は、その作品のオリジナリティーを主張などしなかったでしょうし、
「芸術にはオリジナリティーは無くてはならないが、意見にはオリジナリティーなんか無くてもいい」
というような、自分達にはなし得ない高い倫理性を、芸術家だけには要求する、
ということも無かったでしょう。
くりかえしますが、「アーティスト」を、我々とは違った特別な存在として認識するのは、
たかだかここ2〜3百年「近代人」にしか通用しない「歴史的」な見方であって、
決して普遍的なものではありません。
●「近代」の話をふまえて、「現代」の話をしますと、
(tachさんがフラニーさんへの最初のレスでリンクを貼っていた、
てるやす氏の文を参照していただければ分かりやすいと思いますが)
現代の芸術は、資本制社会と無関係には語れないと思います。
現代のアーティストと言われる人達の多くは、
自らの作品を、パッケージソフトとして流通し量を売ることで、生活しています。
しかし、芸術家がそのようにして生計をたてるようになったのは、
20世紀の資本制・工業化時代になって、マスプロダクトが可能になってからのことです。
それまでの芸術家は、例えばパトロンという名の貴族に養われていたり、
いろいろな形を取っていましたが、
量を売ることはしていなかったでしょう。
そこで、現代のアーティストと言われる人たちが持つ
「食うためには、労力なんか使ってやっていられない」
という悩みは、
例えば15世紀の芸術家の持っていた悩みよりも、
20世紀の日本のサラリーマンの持っている悩みの方に、より近いと思います。
つまり現代において私は、
アーティストが、その他の人と違う特別な存在であるとは、
考えていません。
だから、「アーティストは発言できるが、その他の人は発言する権利がない」
という意見にも同意しないし、
「アーティストにはオリジナリティーが必要だが、私の意見にはオリジナリティーがなくてもいい」
という意見にも同意しません。
アーティストを特別な存在として隔離する考え方は、
17世紀以降にしか通用しない「歴史的」な見方でしかなく、
しかもそれは、20世紀の資本制の現代においては、
その歴史的正当性すら失っているからです。

●この論争の中で何人かの方が、サンプリング・ミュージックについて言及されています。
しかし本来は、引用論において、
サンプリング・ミュージックだけが問題になるのではないでしょう。
例えばギターを使っているアーティストは、
ギターを発明した人に対して、どのような態度を取るべきでしょうか。
12音階を用いて作曲している人は、
12音階の発明に対して、どのような態度をとるべきでしょうか。
ギターを使って12音階で作曲した曲は、本当にその人のオリジナルと言えるのでしょうか。
これは極論ではなく、
「自分で発明した楽器で演奏しなくては、本当に自分のオリジナルな音楽といえない」
と、本気で新楽器の発明に没入していった音楽家もいますし、
12音階への疑問から、非西洋世界の音楽への研究やノイズ・ミュージックなども発展しました。
そして「音」そのものへの疑問から、「4分33秒」の間なにも弾かず無音を作り出し、それを「音楽」だ、
と言った有名な音楽家もいます。
「オリジナリティー」ということを本気で追及しだしたら、そこまで行くことも決して不思議ではない。
そうして多くの芸術家が発狂してゆきました。
例えば「引用元が明示してあればOK」とか
「使用料払っていればOK」といった考え方は、
法治国家・資本制社会の枠組みの中では確かにそれなりの正当性を持つとは思いますが、
そのとき、発狂していった芸術家たちはどうなるのだろう?
と、私などは考えてしまいます。
もしも、ギターを発明した人が、12音階を発明した人が、
著作権・知的所有権を主張していたら、
音楽はどうなっていたのだろう、とか。

●そして、最終的なことを言ってしまうと、
現在の日本におけるすべてのマンガは、
手塚治虫の弛まぬ努力と痛みによる発明の上に、成り立っています。
アメリカ映画の手法をマンガに取り入れることで、
手塚は、マンガにおけるストーリー性からコマ割りまで、
現代のマンガにまで通じるあらゆることを発明しました。
(このことは、マンガ評論の世界では、基本的に共通認識であると思います。)
もしも手塚治虫が、自分のマンガ手法について、知的所有権を主張していたとしたら、
現在の日本に存在するすべてのマンガ家は、手塚に膨大な使用料を払わなければならないでしょう。
そうしたら、日本においてこれだけマンガが発展することは出来たでしょうか?
幸い、手塚は知的所有権などというものには、基本的に無頓着な人であったので、
マンガは発展することができたというだけです。
(例えば知的所有権に無頓着な手塚は、
初期のアニメーション制作をテレビ局から、法外に低い制作料で引き受け、
それが現在でも、アニメーターの制作現場の貧困につながっているし、
また最近では「ライオンキング」だって、手塚のプロダクションは許してしまいました。)
言ってしまえば、
オリジナリティーを主張できるようなオリジナリティーなんて、所詮その程度の小さなオリジナリティーなんです。
手塚が発明したのは、「マンガ」そのものだった。
そしてその発明があまりにも大きいものだったから、そこでオリジナリティーなんか主張のしようがなかった。
そうしたことを問題にしないままに、
「この手塚のキャラクターの名前の引用は、誰もが知っていることだからOK」
などと議論することに、どれほどの本質的な意味があるのだろう、
と思います。
(でも、本質的ではないことを自覚のうえで「引用集」を作ることには、意味が無いとは思いません)

●世の中の「盗作」裁判や論争が難しいのは、
この問題には基本的に「証拠」がないからです。
例えば「小林亜星の曲を聞きながら、服部克久が作曲しているところが録音されているテープ」とか、
存在し得ないでしょう。
(唯一証拠があるとしたら、盗作した本人の「パクりました」という自白だけです。)
つまり盗作論争は、お互いの作品と作品同士を唯物的に比較することでしかあり得ない。
そこで、引用や盗用について、動機や感情的なこと、
例えば「リスペクトがあればOK」「再解釈がされていればOK」または「読者の多くが知っていればOK」というのは、
私にはあまり意味のあるものとは思えないです。

●今回の展開において、私の最初の発言で、
「私とtachさんとは、根本的なところで考え方は違う」
と記しました。
それは、今回の議論が、
「岡崎ファンからのヒステリックな反応」とか
「掲示板の常連による異分子排除」
といったレベルで受け取って欲しくなかったからです。
今から半年以上前でしょうか、
やはりこの掲示板で、tachさんと私ども数人のあいだで、引用について論議がありました。
それは、今回以上に激しいものだったかもしれません。
しかし、現在このHPにある「引用・言及集」は、そのやりとりの中で生まれたものです。
そういう意味では、ある種、前の論争は生産的であったのかな、とも思います。
最後に少しだけ感情的な発言を許していただくなら、
今回の論争は、今後何も生み出しそうにないところが、少々空しく疲れるところかもしれません。

名 前   :りえこ
時 刻   :03月17日03時48分
アクセス  :nghm0124.ppp.infoweb.ne.jp

フラニーさんへ。

早速にレスを頂いて、ありがとうございます。
いえ、その前に幾つか謝りたいことがあります。
まず、16日付けのフラニーさんの書き込みを読まずして、
私は下の文章をアップしてしまいました。
きちんと答えておられる方に対して、結果的にとても失礼な物言いだと
深く反省しています。確認するべきでした。
また、私はなるべくフラニーさんのここまでの書き込みの流れを大切にしようと
過去ログから何度も読み返した上で意見を述べたのですが、
御指摘の通りその視点が若干斜であり、故必要以上に攻撃的な文体だったと、今、自覚しています。
ごめんなさい。気を悪くされるのは当然かと思います。

でも、心からお詫びをした上で、私が書いたことは無駄ではなかったと(個人的に、かもしれませんが)
思っています。
勿論それはフラニーさんが丁寧にレスを返して下さったからこそ言えることなので、
改めて、ありがとうございます。
大筋において納得がいきました。
非常に率直な意見であるとも思います。
ただ幾つか確認したいことがあるのと、より先へ進みたいと思っているのとで、
明日にでも具体的なレスを返します。
オリジナリティーに関してはやはり誤解があると(16日付けのレスを拝見して)感じたので。
では。

名 前   :やぎ
時 刻   :03月17日03時28分
アクセス  :proxyhard.idirect.com

はじめまして。論点ズレまくりの不粋な書き込みだとは思うのですが失礼致します。
自分もH.Cさんと同じようにクリエイターとして現場にいる者ですが、やはり「創造」についてあまりにも断定的な意見が多すぎるように思います。
発言をするなと言う気はさらさらありませんが、知ったかぶりのような意見はどうなんですかね?
「創造には痛みを伴う」ということを大変なことのように書かれた方がいらっしゃいましたが、それってそんなに美しくて素晴らしいことなんですかね?
好きでやってんだから当然でしょ。
「誰かの手によって存在していたもの」に直面した時の絶望ははかり知れないという意見も、絶望した時点で創造なんて出来なくなってしまうのではないかと思いますが。
ものを作っている人間って想像以上にタフですよ。

あとtachさんが言う「創作の正しさ」って何ですか?
創作に正しいも間違いもあるのかなぁ。2次元論すぎます?
それは受け取る側の主観でいいんじゃないかしらん。
もちろん今回の「引用」「盗用」ということに関しても。
ちなみに私も岡崎京子は大好きです。フラニーさんが言うように岡崎の作品は盗用なのかもしれませんが、でもそれでもいいんです。まさにファンってそういうものだと、それでいいんじゃないかと思います。
それでは横から失礼致しました。

名 前   :フラニー
時 刻   :03月17日02時39分
アクセス  :cs14f45.ppp.infoweb.ne.jp
メール   :りえこさんへ・・・・

あの・・・。これから一応レスを返す形になるのですが、
りえこさんは私の意見を最初から読んで下さっているの
でしょうか・・・・・?

>フラニーさんが、引用を巡る先人たちの試みや
>議論の繰り返し、そしてその先としての今、
>そのすべてを引っ括めた上で、
>引用の乱用を嘆き、「それは盗用と呼ぶべきなんじゃないの」
>とおっしゃるのなら、
>私はその姿勢には個人的に共感します

では、共感してください。私は古典の引用、ゼラズニィの
実験的作品等、引用を用いた作品の肯定を踏まえた上で、
多用される、「引用」を「盗用」と呼んでいます。

>でも「次元がまったく違う」「論旨がずれている」との
>ことなので、 恐らく違うのでしょう。

違いません。論旨がずれている、と言ったのは、「盗用」
というもの自体が「オリジナリティー」の存在が無い現在
は有り得ない という前提で反論されたことを指してます。
「盗用」を論じたいのに。

>そこで私の疑問は生まれる。
>なぜ今、岡崎作品とその愛読者を捕まえて「嘆かわしい」
>とおっしゃるのか、 何が「嘆かわしい」のか、

岡崎氏を嘆かわしいとも、その読者全体をして、嘆かわしい
とも一度も言っていません。
「盗用」という事を一顧だにすることなく、引用当て
にうちこうじる様が嘆かわしい、と言ったのです。

>例えばウォーホルの方法論なども「嘆かわしい」
>と思われているのか。

思っていません。これも先に書きましたが、
引用や(ウォーホールに関しては肖像権等ですが)
それが引用、使用した際に新たな一面を呈し、
実際作品を構成する中で必要なものであるなら、
是、であると言っているのです。

>「オリジナリティー」という言葉を、フラニーさんが
>どのような 意味合いのもと使われているのか。

作家が持つべき、一番の矜持だと書きました。
オリジナリティーのある作品を作りたい、と
どの作家でも思うだろうという意味合いです。

>また、フラニーさんが前提とされている
>(oouiさん言うところの)「引用という行為じたいが
>持つ条件・制約」とは 具体的に何なのか。

oouiさんのおっしゃる事に私が答えるのも僭越ですが、
読者が知っているであろうという前提のもとで、他者の作品を
引用する場合と、知らないだろうという前提で使用する場合です。

>一線を引くことができると言うならばその根拠と、
>一線を越えてしまった場合にはなぜ「作家のモラル」
>を犯し得るのか。

その根拠を立証するのは難しいと言えるかもしれませんが、
通常考えられるのは、さきにあげたような誰でも知っている
と言う社会通念のある古典やあまりにも有名な作品から
引いてくる場合、一定の人しか知らないと思われる作品から
引いてくる場合です。一線を引くとしたら。
それはそうではないですか?
誰もが知っているなら、「あぁ、これはあの作品のことなんだな」
という共通概念から、引用した側の創造とは思われないのが
普通ですが、一部の人しか知らないような作品から引用すれば、
知らない人はその引用を創作したのも引用者だと思うからです。
作家のモラルが問われるのは、他の作者の創作を無断で使用
する場合です。もっとも、岡崎氏も(C)をつけたりしている
わけですから、他者の創作を無断で使用して良いと思っていた
わけではないと思われます。

質問の形式を取っている限り、それにお答えして私の率直な意見
とするのはいけませんか?
これでは率直な意見になっていませんか?

>先に挙げたウォーホル同様、岡崎京子は引用という
>ことにとても意識的な 人だと私は思います。
>手法としての引用には非常に意識的だったと。

勿論そうです。無意識にできるわけがありません。
知らずにした、なんて思ってもいません。
しかし、ウォーホールと違うのは上記の通り、
ミッキーマウスなり、マリリンなり、万人が知る
物をコラージュしたわけではない、という点です。
そこがさっき言った一線なのです。
彼女の場合それこそありとあらゆるところから引っ張って
来ており、だからこそ、引用集ができるわけですが、
それが調べて初めて判る、という引用が多い、という
点を問題としているわけです。

>だからかつてフラニーさんが、ささやななえ氏や
>逢坂剛氏を引き合いに出されたのは
>少し見当違いかなと感じました。
>彼等は引用や事実の焼き直しをしようだなんて
>さらさら思っていなかったにも拘わらず、
>結果的にそうなってしまった。
>意図しなかったから恐れ、嘆いた。

これは揚げ足を取ってるわけではなく、重要な点なので
指摘します。彼らは、「していない」。
引用も、既に既存した事件を取り上げることも
回避した、と言ってるのです。
そして、もし、「していたとしたら、冷や汗ものだった」
と言っているのです。
そして、彼らに関して言っているのは、彼らが他者の
(逢坂剛氏の例は別の話で書いているので本来併記できませんが)
作品を「無断」で自分の物として書いてしまうことを
恐れた、と言っているのです。勿論、意図していないから
です。そして意図しない事が彼らの作家としての矜持である、
と言っているのです。

岡崎氏の手法は何も今に始まったものではないし、
彼女が始めたものでもありません。
ただ、確かに時代を見つめ、時代がサンプリング
などを可とする方向性となったことを見据えて
そういう作風を創ったというのは確かだと
思います。それ自体を非という気はさらさらありません。

>数ある引用をカテゴライズする前に(その行為に先行きが
>あるかどうかは 私には分かりませんが)、彼女は莫大な引用を
>必要としたのか、 必要としたならばそれはなぜなのか、
>その意義を問うことから始めなければ
>ならないと思います。

私もその通りだと思います。
何故、彼女が引用を必要としたのか?
それが知りたいのです。引用の必要性を
問うているのです。
私は渋谷氏に既に伺いました。そして、渋谷氏の
お答えも頂きました。下記の通り。

>そこで、素直にお伺いしたいのですが、岡崎氏の作品で、
>引用が彼女の作品を構成するに絶対的に必要であった
>としたら、 どの作品のどのシーンですか?

すべてのシーンだと思います。
あらゆる可能性の中で、現在ある形に選び取られたのは、
すべてそこに絶対的な必要性があったからです。

以上ですが、「コアなファンである限り・・・」
云々は言い過ぎだったと思います。
しかし、実際、りえこさんご自身、気づいておられないかも
しれませんが、その論調はとても攻撃的であり、
私の意見をきちんと読んでもいて下さっていない。
他の方々もしかりです。攻撃的になっていたり、
かなりシニカルな調子になっているのは事実です。
それはやはり、みなさんが岡崎氏の「コア」な
ファンであり、私がそれに「難癖をつけた」と潜在的に
かもしれませんが思っているからではないでしょうか?
ayaさんが言ってましたね。私が「気に食わない作家を
擁護する人に八つ当たりをしている」のだと。
そう思ってしまうのが、ファン心理というものであり、別段
悪いこととも思いません。ただ、私は岡崎氏が気に食わない
わけでも、ましてや、八つ当たりなどする必要など、どこにも
ないのです。それこそ、ただの八つ当たりなら、
いちいち反論にレスを返す必要もないし、二度と訪れなければ
済むことです。しかし、一石を投じた以上、その結果を見なければ
いけない、と思っているから、こうしてレスを
お返ししているんです。
私は論争に勝とうとか、負けるのがイヤだとか、これっぽっちも
思っていません。そもそも論争になろうなんて思ってもいなかった
のですから。







名 前   :tach
時 刻   :03月17日01時58分
アクセス  :186.pool3.yokohama.att.ne.jp
メール   :tach@iname.com
ホームページ:http://www.freepage.total.co.jp/tach/

僕も「僕モード」で行くことにします。
「私」というのがだんだん辛くなってきた。
僕は元々「僕」だったのだし、こんな場だけで「私」を
使ってると、窮屈になってくる。



H.Cさんへ

書き込み、世の実作者の実感として、大変興味深く読ま
せていただきました。
読んでいて気がついたこと、感じたことなどを、順不同
で書かせてもらいます。

まずネガティブなところから行きますが、読んでいて一
番気になったのは、いくらH.Cさんがプロの実作者であ
ったとしても、一人で、すべての実作者を代表すること
は出来ないだろうということです。実作者の中にもいろ
いろな考え方をする人がいるはずだし、H.Cさんの考え
方がすべてではない。

次に、

> 1)あなた達の中で、実際に物を作ってメシを食って
> いる方はいらっしゃいますか?但し、評論・エッセイ
> 等の類は除きます。それらは、引用をベースにしなけ
> ればなりたちませんから。で、そういった経験に基づ
> いていない方は、創造に関して断定的な言い方はしな
> いで下さい。

これは非道い、暴力的だ、と僕は思いました。
H.Cさんは、いったいどんな権利があって、人に発言を
禁止すること出来るのでしょうか?

実作の経験もない人間が偉そうに創作についてピーチク
パーチクがなり立てるのは不愉快だ、というのは分かり
ます。どれだけ不愉快か、どれだけ観念的な思いこみに
過ぎないのか、どれだけ実体とかけ離れているのか、ど
れだけ滑稽なのか、といったことなら、いくらでも聞か
せていただきたいと思います。
ただ、「不愉快だ、黙れ!」だけは無いだろうと思う。
議論の場で「黙れ!」と叫んでしまったら、そこでお終
いです。

抗議をいくつか。

> 生産的議論を求めている、とおっしゃりつつ、異分子
> は排除したい、という論調にはからずも陥っていたり

生産的議論を求めていると繰り返し発言していたのは僕
なので、一言。
それは僕の意図するところではありません。
「という論調にはからずも陥っていたり」という言い回
しはあざとい。「自分はそんなつもりじゃなかったけど、
第三者から見るとそう見えたのかな」という気持ちにな
ってしまう。フラニーさんのものの言い方につい腹を立
て、敵対的な調子の書き込みをしてしまったことは事実
です。しかしそれは不愉快な対応に対する怒りであって、
決して異分子排除の意志ではありません。
僕自身は、この掲示板で、いろいろな方にいろいろな意
見を表明してもらいたいと思ってます。もちろん、その
意見がどうしても間違ってると思うときは、僕にも意見
を言わせて欲しいのですけど…


次に、

> 議論の大元の岡崎京子さんの事はあまり良く知りませ
> ん。すみません。
> (だったら言うなっていわれそうですけど、でも、議
> 論の進み方を見ると関係ないところで話が進んでいる
> ので、混ぜっ返してます。)

それはまさに岡崎京子のことを余りよく知らないための
誤解です。
ここで問題になっているのは、引用元を明示しない「岡
崎式引用」の可否です。
この岡崎式引用のことをよく知らない人が、ここの議論
を偶々読んだら、あまりにも抽象的で、岡崎の具体的な
創作技法(岡崎式引用、フラニーさんはそれを「盗用」
と呼んでます)を巡る議論だとは、思わないかもしれな
い。
でも、実際には「岡崎式引用」を巡って議論しているの
です。
それが分かっていないのに顔を突っ込んでくるのは、少
なくとも、マナーとしてはよくない。

でも、もう顔を突っ込んでる。
かくなる上は、作品の二・三冊も読んで、更にこのサイ
トの「岡崎京子の引用事例集」に目を通していただけれ
ば、と思います。

> でも、このitさんのおっしゃる通りなら欄外にマルシ
> ーぐらいつけとかないと引用元が裁判起こしたら10
> 0%負けますね。

まさにそれが、僕の心配していることです。「岡崎式引
用」のいくつかは、訴えられたら本当に負けてしまうの
ではないかと思ってる。
だけど、僕は、岡崎作品の「創作としての正しさ」を直
観的に信じてるのです。
でも「僕は信じてる」だけでは世間に通用しない。
自分はどうして岡崎作品の「創作としての正しさ」を信
じられるのだろう?、どうしたらその正しさを他の人に
も納得がゆく形で説明が出来るのだろう?、と、一生懸
命、自分なりに考えているのです。

> ただ、誰かの受け売り、推理に頼っての論議が続いて
> いて、

だから、この言い方は失礼だと思います。
ここにはいろいろな人が来て書き込みをしています。
自分なりの方法で一生懸命考えている人もいる。中には
受け売りをしている人がいるかもしれません。しかし、
他人の言葉の中にまさに自分が考えていることと同じこ
とがもっと巧みに表現されていると思ったのであれば、
それを受け売りすることは罪でしょうか? 推理? 何
故悪いのです?


次に、

> (他の方々の意見はどちらかというと、引用・盗用は
> オリジナルを超えるとの事ですので・・・)

誤解です。誰も、そんなことは言っていないと思う。


…と、言うようなことばかり言っていると、まるで、僕
がH.Cさんの書き込みを全面否定しているような印象を
持たれてしまうので、断っておきますが、そんなことは
ないです。

例えば次の部分には、共感しています。

> 例え、全てが切り貼りであっても、その貼り方とかに
> いくばくかのオリジナリティーは存在します。(フラ
> ニーさん、それは否定しないで下さい。)

誤解を受けているようなので、明言しておくと、僕は、
オリジナリティーというものの存在を信じています。

実作者の実感を聞くのも好きだし、実際、H.Cさんの書
き込みは参考になりました。

ただ、間違っていると思うことがあったら、僕にも発言
させてください。実作者の体験を根拠に、H.Cさんに議
論の上での特権を認めることは、僕に出来ません。

以上。




…と、書いて、掲示板にアップロードしようとしたら、
他の方の書き込みを見つけました。


フラニーさん
回答ありがとうございます。
ざっと読ませてもらいましたが、フラニーさんが明らか
に誤解されていると思った部分もあれば、フラニーさん
が間違っていると思う部分もあるし、フラニーさんが正
しい・自分と同じ意見だと思う部分もありました。
詳しくはまた改めて書かせてください。
今日は疲れたので、もう休みたい。

たくさんの人にレスをつけているフラニーさんの苦労は
分かります。


Korosukeさん
ども。
具体例でやれとのこと、全くその通りだと思います。以
降の議論ではそうなるよう、努力します。


りえこさん
共感を覚えます。
是非またいらしてください。

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